第42号(2007年1月)

◆目次◆
(クリックすると各項目へとジャンプします)
1.2007年をむかえて
−「宗主国・日本、植民地・沖縄」の構造を直視するところからスタートしよう。

2.12月18日(月)、「金城 実講演会−沖縄から靖国を問う」

3.12月23日(土)、「イラク人医師 シャキルさん @大阪行動講演会」が開かれる。

4.次回の大江・岩波沖縄戦裁判は、2007年1月19日(金)
夜には、VTR上映と朴壽南(パク スナム)さんの報告などの学習会

5.辺野古大阪行動 2006年は52回(第74回〜125回)取り組まれた。
2007年1月22日(月)に平良夏芽さん講演会。多数の参集を。


1.2007年をむかえて
−「宗主国・日本、植民地・沖縄」の構造を直視するところからスタートしよう。

 今までぼくは、やや控えめに沖縄を「日米安保植民地」とか「植民地的な状況にある」とか言ってきましたが、2003年3月から2005年12月まで沖縄に約3年間暮らして、今ははっきりと「沖縄は日本の植民地である」ということができます。日本は宗主国なのです。韓国のある大学教授は「日本は韓国を植民地にすることに失敗したが、沖縄を植民地にすることには成功した」と言っています。植民地を辞書で調べると「ある国からの移住者によって経済的に開発され、その国の新領土となって本国に従属する地域。(また)武力によって獲得された領土についてもいう」とあります。
  植民地だからこそ、在日米軍基地の75%を沖縄に押し付けておいても、宗主国に住むヤマトンチュは平気でいられるのです。奈良県に米軍基地が全く存在しないのは、沖縄に米軍基地を押し付けているからなのです。
 次のような経過を経て、米軍基地は沖縄に集中しました。1952年旧安保条約の成立から1960年安保改定の頃までに、日本の米軍基地は4分の1に減少しましたが、沖縄の米軍基地は約2倍に増えました。1972年沖縄返還を挟む数年で、日本の米軍基地はそのまた約3分の1に減少しましたが、沖縄の米軍基地は数%しか減りませんでした。このように沖縄に基地を集中させるかたちで、日本全体の米軍基地の整理統合がなされたのです。
 1609年 ― あと2年で400年になります ―、琉球王国は薩摩の侵略を受けます。1879年、琉球藩が廃止され日本の沖縄県となりました。1952年、サンフランシスコ講和条約の発効により日本は独立しますが、沖縄はアメリカの支配下に入ります。そして1972年、沖縄県として再度日本に併合されます。こうした歴史的事実を見ただけでも「沖縄は日本の植民地である」ことが容易に分かります。
 さて、ここでぼくが日本という時、その背後に日本キリスト教団が隠れている、沖縄という時、その背後に日本キリスト教団沖縄教区が、もっと言えば合同前の沖縄キリスト教団が隠れていると思って下さい。
 宗主国が植民地を統治する時には、その権力の中枢は宗主国が握り、植民地には与えません。1879年、琉球藩が廃止され日本の沖縄県となって以降も、その主要なポストは鹿児島県人、廃藩置県前の薩摩藩が握っていました。
 今の沖縄も、県警本部長や那覇地方裁判所所長、沖縄大使などには必ずヤマトンチュが赴任して来ます。そもそも植民地でなかったら大使など置く必要はないのです。『沖縄通信』2005年1月号でも触れましたが、辞書によると、大使とは「(特命全権大使の略)最上級の外交使節。条約国に駐在し、自国を代表して外交事務を担当する役人」とありますから、ヤマトゥから見ると沖縄は日本ではなくまぎれもなく植民地なのです。
 この沖縄大使を政府は、2001年6月14日の「第151回国会、衆議院安全保障委員会」で次のように説明しています。  
 「沖縄大使は外務省沖縄事務所を総括し − 植民地だから管轄は外務省なのです −、@沖縄の米軍、日米安保体制について沖縄県の自治体、議会、民間団体からの意見、要望を聞く、A那覇のアメリカ総領事館、在沖縄米軍との間で連絡調整を行う、B政府の立場を沖縄県の自治体、議会、民間団体に説明し、それを外務省本省に報告する、ことを職務としている」と。  
 結局、沖縄大使の仕事は地元の意見を政府に伝えるのではなく、米軍と一緒になって政府の考えを地元に押し付けることなのです。 一方、選挙という民意で選ぶ知事には必ずウチナーンチュが選ばれます。今までヤマトンチュが立候補したことはありません。仮に立候補したとしても当選できないでしょう。
 ですから、私たちは「沖縄は植民地であり、日本は宗主国である」という事実をはっきりと認識して、宗主国・日本に住む私たちヤマトンチュは、植民地である沖縄のウチナーンチュとどのように連帯していかなければならないのかを考えねばなりません。
 ご承知のように、2002年10月の第33回(合同後第18回)日本キリスト教団総会で、合同関連議案が審議未了、時間切れ、廃案とされました。これに抗議して沖縄教区は日本キリスト教団と「しばらくの間距離を置く」ことを決めました。そして、2004年10月と2006年10月の2回の教団総会に沖縄教区から議員を派遣しませんでした。
 考えてもみましょう。宗主国のこうした扱いに対し植民地側が抗議し、宗主国の総会に議員を送らなかったのです。植民地で暮らす人々 − ウチナーンチュです −、彼らと連帯しなければならないと本当に心底から考えるのなら、このような状況では総会は開けないハズです。その前に対話を、植民地で暮らす人々の意見を尊重すべきなのです。
 又聞きですので正確でないかも知れませんが、2004年10月の第34回(第19回)教団総会の冒頭、性差別特別委員会を廃止したことに対する抗議はあったが、沖縄教区の議員がいない中での総会開催に抗議する議員は誰一人としていなかったとのことです。たとえは適切ではありませんが、中・四国教区でも奥羽教区でも中部教区でもいいのです、ヤマトゥのどこかの教区からの議員が不参加であるというのと事情は全く異なるのです。
 そして、2006年春に開かれた各教区の総会に送られた日本キリスト教団議長のあいさつ文は、「悪いのは沖縄教区側である」かのような文面だったのです。
 米軍再編による辺野古へのV字型滑走路を持つ基地建設について、防衛庁長官(法改悪で防衛大臣になるのですネェ)や防衛施設庁長官などが頻繁に沖縄に来て、あるいは霞ヶ関に呼び付けて話をしますが、これは対話ではありません。既定案の単なる通告、押し付けに過ぎません。今度、在沖米軍は嘉手納基地と嘉手納弾薬庫内に24基の地対空誘導弾パトリオット(PAC3)を配備し、運用を開始しました。敵のミサイルを上空で撃ち落す兵器です。アメリカ・テキサス州フォート・ブリス陸軍基地から約600人の兵士と家族約900人が移転し、装備が搬入されました。このことを防衛施設庁長官が知事と面談して明らかにしましたが、県民の頭越しの決定です。
 日本キリスト教団の手法は、日本政府のこうしたやり方とどこが異なるのでしょう。大同小異といえるものだとぼくには思えてなりません。

 さて、ここでサムエル記下12章の1節から7節を見ましょう。
 @主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。 「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。
 A豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。
 B貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに 何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い 小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて 彼の皿から食べ、彼の椀から飲み 彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。
 Cある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに 自分の羊や牛を惜しみ 貧しい男の小羊を取り上げて 自分の客に振る舞った。」  
 Dダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。
 E小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」
 Fナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる、『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、…』

 2節の「豊かな男」とはヤマトゥ・日本と読め、3節の「貧しい男」とはウチナー・沖縄と読めます。そして4節の「一人の客」とは米軍です。ここまではすぐに分かることです。
 ところが5節で、ダビデがその男に激怒して「そんなことをした男は死罪だ」といったのに対して、7節で、預言書ナタンはダビデに向かって「その男はあなただ」といっています。そうなのです、私たちこそがその男なのです。このことに気付かねばなりません。
 ですから、宗主国・日本に住む私たちヤマトンチュは、ヤマトンチュのキリスト者は、現代の植民地主義を打ち破るために、植民地である沖縄のウチナーンチュと、ウチナーンチュのキリスト者と徹底して共に歩んでいかなければなりません。そのためには「宗主国・日本、植民地・沖縄」の構造を直視するところからスタートすることが必要なのです。
 (この項は、米海兵隊のCH53D大型輸送ヘリコプターが沖縄国際大学に墜落・炎上して、ちょうど2年目の2006年8月13日に西大和教会でおこなった信徒説教での証を加筆・修正したものです)


2.12月18日(月)、「金城 実講演会−沖縄から靖国を問う」

 奈良県女性解放共闘と奈良 − 沖縄連帯委員会の主催による「金城 実講演会− 沖縄から靖国を問う」が2006年12月18日(月)午後6時半より、奈良地域労働文化センターで開かれました。  


主催者挨拶をする奈良 − 沖縄連帯委員会代表の崎浜盛喜さん

 金城 実さんは沖縄靖国訴訟原告団団長(事務局長はうるま伝道所の西尾市郎牧師)として、この裁判に関わってこられました。この日は靖国裁判の意義や、そこから見えてきたことなどについて話されました。
 沖縄靖国訴訟は、その重要性から『沖縄通信』でも2004年3月、6月、12月、2005年2月の各号などで取り上げてきました。
 金城 実さんのお話は次のようなものでした。

  ○なぜ靖国裁判をおこしたのか。
  私にとって靖国裁判は沖縄が初めてではない。1985年8月15日、当時中曽根総理が靖国に公式参拝した時に裁判を起こした。大阪に住んでいる時で、原告は6人だった。一審が門前払いで、憲法判断を示していない。7年間にわたる控訴審では違憲の疑いがあるとして裁判は終わった。靖国問題は私にとって難問だった。
  沖縄に帰ってまさか再び靖国裁判に関わろうとは思っていなかった。偶然大阪に行く仕事があり、その大阪でも小泉首相の靖国参拝を違憲とする裁判が始まっていた。その夜の集会の席で、酔った勢いもあって「沖縄でも裁判を起こす!」と宣言してしまった。
 沖縄では「ひめゆり学徒」、「鉄血勤皇隊」といわれた生存者たちが原告になってくれる、また沖縄戦の悲劇をなめ尽くした県民が原告に参加してくれると思い込んでいた。しかし彼らは原告に参加してくれないという大変な困難にぶち当たった。日本キリスト教団の牧師20人や真宗大谷派のお坊さんらが参加してくれた。
 最初は沖縄の弁護士もほとんど関心を示さなかったが、裁判を進めていくうちにマスメディアも熱心に取り上げてくれた。  


講演中の金城 実さん

○沖縄の死生観と靖国  
  沖縄の人はどのように生まれ、どのように死んでいくのか。沖縄靖国裁判で私はこの沖縄の文化論から攻めた。裁判官がそれに無知であることは百も承知の上だった。
 沖縄では今でも、正月よりも賑やかな行事がある。「清明(シーミー)祭」である。文字どおり命を清める行事である。先祖の墓の前で、生前のエピソードや時には悪口も語りながら宴会をする。三味線に合わせて踊りだす者もいる。そして隣の人々と交流する。しかし一つだけタブーがある。自殺した死者のことは語ってはならない、という。なぜなら自ら命を絶つものは親の恥だから…。
 沖縄では生まれる時潮が満ち、死んでいく時は潮が引くという。死後は祖霊に抱かれ、母の子宮に造形化された建築的美学でもある墓に入れられる。死者が子宮に回帰することの論理は、子宮という宇宙観に裏付けられたものである。骨を入れる沖縄独特の壷は骨壷といわれ、ティーダ(太陽)と同じ表現、それに位牌はトートーメ(お月さま)と同じ表現。以前は洗骨というものがあったが、子どもを宿している女性は洗骨に行けない。また1年に2人が死亡した時、最初に亡くなった人しか入れない。2人目の死者は仮墓に入れておく。
 自殺者は墓に入れてくれないどころか、葬式は昼間にしない。夜中に行われる。棺(ガン)とかコーに遺体を入れ、死者の自宅の戸をはずして、これに乗せる。霊柩車は使わない。その戸を8人で担ぐ。普通は太陽が上がっている昼間に行うが、自殺者は夜中、松明の灯りで行い自殺者を美化しない。つまり生きることが美徳で、「命どぅ宝」なのである。  
 ところが、靖国では死は賛美される。靖国とそこに関連付けられた死者については沖縄の死生観とは相容れない。靖国や天皇制と対立するのは沖縄だけではない。中国、朝鮮、韓国の死生観もそうである。  


講演に熱が入り、背広を脱いだ金城さん 

○犬死した父と87歳の母  
 お袋は18歳で結婚し、19歳で私を生み、私が2歳の時、父は南太平洋ブーゲンビルで戦死した。有名な軍人の大田実・海軍中将から私の「実」という名前をつけたという。
 大阪の靖国裁判にお袋が傍聴に来た時、私が「父は犬死だった」と法廷で述べた。これを聴いてお袋はやっと靖国思想が何たるかを理解したようだ。お袋はこう言った。「父は靖国神社で安らかに寝ていると思ったが、国のエライさんが触れてしまった。眠りから起こしてしまった。ガヤガヤ、ヤカマシク沖縄の仏壇の上で、うろうろしているだろうよ。靖国神社とはこんなものか。おやじを戦場に喜んで送り出したのは間違いだった。もう後悔しても遅いな、実」と。
 お袋はもう87歳。認知症になる前に小泉参拝の裁判の原告にもなった。お袋は私一人を生んで再婚しなかった。
 沖縄での靖国裁判の特徴は本土とは異なる「援護法」との関係である。住民が地上戦に巻き込まれた沖縄に適用された「援護法」では、軍人でなかった犠牲者までもが準軍属扱いで、勝手に靖国神社に合祀されている。
 沖縄の靖国裁判で、全国で初めて裁判官が沖縄戦の現場を視察した。しかし、これは現場検証ではなく進行協議としてなされた。ここに落とし穴があった。現場検証なら証拠に残るが、進行協議では残らないのである。判決文では「沖縄戦で肉親を失った原告らについて個別の事情を考慮しても、特別に扱うべき理由はない」(『沖縄通信』2005年2月号参照)と切り捨てた。裁判は福岡高裁(那覇支部)でも敗訴し、先日最高裁へ上告した。

 このように語って、最後に金城 実さんは「私が彫刻家として『人間と戦争』を考え、また靖国裁判に関わることになるのは、やはり沖縄に生まれた宿命ではなかったかと思う」とまとめられました。  


3.12月23日(土)、「イラク人医師 シャキルさん @大阪行動講演会」が開かれる。

 12月23日(土)第124回の辺野古大阪行動を終えて、午後6時半より「イラク人医師 シャキルさん @大阪行動講演会」が北区民センターで開かれました。
 1976年生のモハメッド・ヌーリ・シャキル(Mohammed Noori Shaker)さんはバクダットで医師をしていましたが、死の脅迫を受け生命の安全を確保するためヨルダンに逃れ、現在、大阪大学大学院の研究生です。

 
モハメッド・ヌーリ・シャキルさん

 この日、『イラクの医療事情から見た経済制裁、戦争、占領』と題して、映像をもとにシャキルさんは次のように話されました。

 ○1980年、イラン・イラク戦争
 イラクは長期にわたって戦争と経済制裁を経験してきたために、生命にかかわる分野において多くの問題を抱えてきた。1980年、隣国・イランとの間で、いわゆる「イラン・イラク戦争」が始まった。この戦争は8年にもおよび、多くの人びとが犠牲となった。

 ○1991年の湾岸戦争とそれ以降
 1991年、アメリカ軍を中心とする多国籍軍がイラクに併合されたクウェートを解放するという名目で、イラクへの軍事攻撃を開始したことにより湾岸戦争が勃発した。湾岸戦争のあとには国連がイラクに対し厳しい経済制裁を課し、それは2003年3月に始まったイラク攻撃まで12年間続いた。これは"核兵器を開発しているから"との理由で経済制裁を正当化したものだった。
 この間、イラクの人びとは完全に外界から切り離され、また医療に必要な物資をイラクに輸出することが著しく禁止されたために、過酷な生活を強いられることになった。

 ○劣化ウラン弾による被害
 国際法で使用が禁止されているにもかかわらず、1991年の湾岸戦争時にアメリカ軍はイラクを攻撃するのに300トンもの劣化ウラン弾を用いた。
 劣化ウラン弾は使用時に多くの人びとを殺傷する能力を持つ恐ろしい兵器だが、放射性物質で大地を汚染するという点から使用後にも人体に大きな影響を及ぼす危険なものである。たとえば、汚染された地域に住んでいる人びとは、放射性物質の影響を受けたと思われる病気に苦しむようになった。白血病の発生数は、湾岸戦争前に比べると10倍から12倍にも増加した。また、腫瘍に苦しむ人びとの数も増加し、専門医ですら今まで症例を見たことがないような新種のものが多く、治療は困難を極めた。  


劣化ウラン弾の被害を受けた新生児(右側の写真)  

 内臓に障害を持って生まれてくる新生児の数も増加し、それだけでなく妊娠中の女性が遺伝子の異常から、子宮で胎児を成長させることができず、流産するというケースも頻繁に見られるようになった。

 ○1991年からの経済制裁
 経済制裁とは物理的に特定の国に対する輸出入を禁止する政策をいい、経済制裁を課せられた側の人びとは、医療品や食料などの生活必需品不足に苦しむことになる。国連により世界規模で経済制裁を課せられたイラクでは、多くの子どもたちが栄養失調になった。0歳から5歳までの子どもの死亡率は、湾岸戦争前までは1,000人に対して85人だったものが、戦争と経済制裁が始まると、1,000人に対して200人となった。乳児や子どもに必要なミルクが手に入らなくなったことが原因だと考えられる。
 また、今までイラクでは発生例があまりなかった感染症が見られるようになった。たとえば、イラクの北部においてマラリアの発生数が増加したが、これは化学兵器の製造に使われるという疑いをかけられて、イラクへの殺虫剤の輸出が禁止されたために起きたものである。水を浄化するものも、透析に必要なものも"核に転化されるので"と、すべての化学物質が輸入禁止となり状況はさらに悪くなった。
 病院では医薬品や重病患者を診察するのに必要なCTスキャンやMRIのような器具が不足し、十分な治療を提供できなくなるなどの被害が起きてきた。

 ○2003年以後の状況:新たなる戦争と占領下に生きるイラク人
 2003年3月に開始されたイラクに対する軍事攻撃、およびその後の占領は、イラクの人びとに甚大な苦痛と被害を与えてきた。状況は経済制裁下以上に深刻なものとなった。
 効果的な政策を行うことのできる政府が存在しなくなったため、医療現場での問題が続出することになった。たとえば、占領軍として駐留するアメリカ軍は検問所を設置して人びとの移動の自由を奪ってきたが、病院に搬送される必要のある病人や負傷者が検問所で止められ、病院へのアクセスが難しくなるという問題が生じた。その結果、搬送が遅れ命を落とす患者も出てきた。
 一方、軍事攻撃や軍事占領下においては、人命を救うために医療関係者が何よりも必要なのに、医師や学者などの有識者が何者かに命を狙われるという事件が多発するようになった。多くの医師がクリニックや職場に向かう途中で殺害されたり、身代金目当てや明確な目的が分からないまま誘拐されるという事態が発生している。これはイラク社会から知識人を排除しようというキャンペーンだと考えられ、その責任はアメリカにあると思う。なぜなら2003年以前にはこうしたことはなかったからである。
 私自身もその一人だが、医師の中にはこのままイラクで医師業に従事していると暗殺するという脅迫を受け、イラク国外に避難せざるを得なくなっている。

 ○2006年:状況は悪化の一途をたどっている。
 今日、民兵の活動が活発ですべての政党が民兵を持っている。イラクの治安の悪化には民兵の存在がある。その一つのマフディ軍はシーア派指導者サドル師によって作られた戦闘的な組織で、2006年にシーア派の廟が爆破されて以降、マフディ軍の攻撃はより活発化している。
 こうした民兵の活動には内務省や警察の車が提供されており、捜査も隠蔽している。過去3ヶ月知識人の多くが誘拐されており、スンニ派が攻撃されている。
 2003年3月のイラクに対する軍事攻撃以降、50万人以上が殺された。66万5,000人とも言われている。そして人口2,800万人のイラクにおいて300万人以上が避難している。占領軍がおればイラクはよくならないので、占領軍は早く去ってほしい。
 ぼくは『沖縄通信』2004年1月号で、平和市民連絡会の集めた3万800jで医薬品などを調達し、2003年10月24日から12月6日まで、イラク国内6ヶ所の病院などで抗がん剤や抗生剤、注射針や車いすなどを提供して支援してきた白井耕祐さんの話を報告しています。
 白井さんは「サマワの人たちは日本を金持ち立国で、頼めば何でもしてくれると思っている。サマワはシーア派の強い地域だ。スンニ派は米軍と対決している。敵の敵は味方論でシーア派はスンニ派と対抗するためにアメリカOKと言っているに過ぎない」。「アメリカのNGO団体『クリスチャン・ピース・ティーム』の人から『アメリカの考えはイラクを低開発国のままに置いておくことだ』と直接聞いた。だからアメリカはイラクを早くイラク人の手に返すべきだ」と語られたのですが、シャキルさんの話と白井さんの話が実に符合していることが分かります。この間、3年間が経過して事態はより一層深刻になっていることが読み取れます。

 ○医療NGO「マーシー・ハンズ(Mercy Hands)」の活動
 状況は悪化する一方で、政治状況が安定していない現在、医療分野においては多くの国際医療NGOなどが活躍している。私自身はイラクの医療NGOである「マーシー・ハンズ(Mercy Hands:寛容の手)」の活動に関わっている。  
 「Mercy Hands」は2004年のファルージャ虐殺以後、大きな働きを成し遂げてきた。我々は宗派に関係なく援助する。そして、宗派の違いを超えて平和に生きようと活動している。  
 もう一度声を大にして言うが、平和のうちに生きられるように占領軍は去ってほしい。


4.次回の大江・岩波沖縄戦裁判は、2007年1月19日(金)
夜には、VTR上映と朴壽南(パク スナム)さんの報告などの学習会

  次回公判は2007年1月19日(金)午後1時半より開かれます。次回公判で原告・被告双方の主張の提示が終わり、次々回(3月30日予定)からは証人尋問に入る見通しです。当日は午後1時から傍聴券の抽選がありますので、遅くともそれまでに大阪地裁裏庭に集合して下さい。  
 また、同日午後6時半より、エルおおさかにて学習会を開きます。今回は2本のVTRの上映と報告です。  
 太平洋戦争の末期、祖国から日本唯一の地上戦となった沖縄へ連行された朝鮮・韓国人の元「軍夫」・「慰安婦」の証言を紡いだ記録映画『アリランのうた − オキナワからの証言』(1991年製作)から16年、朴壽南さんは再び"オキナワ"を主題に、現在3作目となる『命果報(ぬちがふぅ)−玉砕場からの証言』(仮題)を製作中です。『アリランのうた − オキナワからの証言』は、『沖縄通信』第36号(2006年6月)で取り上げています。  
 『命果報(ぬちがふぅ)』は、2006年2月からの現地ロケも11月に完了し、現在240時間におよぶ映像の編集作業中ですが、そこに収録されている宮村幸延さんの証言場面を上映し、朴壽南さんから「宮村証言の意味するもの」との報告をいただきます。もう一本のVTRは、1フィート運動『沖縄戦の証言』から「集団死」生存者の証言を上映し、小牧事務局長が裁判の争点を整理して報告します。
 裁判の傍聴とともに、是非学習会にも多数ご参加下さい。

 尚、「大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会」のホームページができました。アクセスして下さい。

http://www.sakai.zaq.ne.jp/okinawasen/ です。


5.辺野古大阪行動 2006年は52回(第74回〜125回)取り組まれた。
 2007年1月22日(月)に平良夏芽さん講演会。多数の参集を。

 2004年8月7日(土)から始まった「辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動」の大阪駅前での毎週土曜日の署名・カンパ活動は、2006年1年間で52回(第74回〜125回)取り組まれました。100回目を7月8日(土)に迎えました。
  『沖縄通信』37号(2006年7月)でお知らせしましたが、ぼくは2005年12月半ばにヤマトゥに戻ってきてから2006年2月24日(金)の大学院の合格発表までは自重していましたが、52回の内ちょうど半分にあたる26回行動に参加しました。辺野古の基地建設を阻止するまで、2007年も可能な限り参加するつもりです。  


12月30日(土)、125回目の辺野古大阪行動の筆者
   
 さて、2007年1月22日(月)午後6時より、平良夏芽さん(日本キリスト教団うふざと伝道所牧師)をお招きし「辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動」の主催で「平良夏芽さん講演会 〜 沖縄・辺野古の闘い 平和へのメッセージ 〜」を開くことが決まりました。会場は梅田東学習ルームE会議室です。ここは元梅田東小学校跡で、大阪市北区茶屋町1−40、阪急側からヤンマービルと三番街シネマの間の道に入り50m先右側にあります。
 是非、多数ご参集下さい。

<参考文献>
『沖縄から靖国を問う』 金城 実 宇多出版企画 2006年。
『イラクの医療事情からみた経済制裁、戦争、占領の実態』 モハメッド・ヌーリ・シャキル 『総合政策研究 No.22』(関西学院大総合政策学部研究会)に所収 2006年。

 

沖縄通信に戻る

 

 

inserted by FC2 system