第45号(2007年4〜5月)

2007年3月に起きたことを4月に発信すべきところ、大学院の論文作成に頭がいっぱいで、もう5月に入りました。
でも4月の出来事は第46号として発信しますので、この第45号は、さしずめ2007年4−5月とでも呼ぶことにします。

 ◆ 目 次 ◆

1.渡嘉敷島調査研修の旅(3月24〜25日)

2.座間味島調査研修の旅(3月25日)

3.3月26日(月)、沖縄島で交流・学習会。
目取真 俊さんが大江・岩波沖縄戦裁判を語る。

4.金城重明牧師から集団死の証言を聞く。

5.3月30日(金)に、大江・岩波沖縄戦裁判第8回公判が開かれる。

 

1.渡嘉敷島調査研修の旅(3月24〜25日)

 「大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会」は、3月24日(土)から26日(月)にかけて総勢13名で「渡嘉敷・座間味島強制集団死調査の旅」を実施し、ぼくも参加してきました。
  一行は、那覇・泊港で「沖縄戦の歴史わい曲を許さず、沖縄から平和教育をすすめる会」(以下、「すすめる会」と略す)事務局長の山口剛史琉球大学准教授と「沖縄平和ネットワーク」の久保田 誠さんと合流しました。
 翌3月25日(日)、渡嘉敷村教育委員長・吉川嘉勝さんのガイドで、まず戦友会が建てた「戦跡碑」を訪れました。後述する「5.3月30日(金)に、大江・岩波沖縄戦裁判第8回公判が開かれる」の項で報告しているように、曽野綾子が寄せた碑文を原告側が引用し、準備書面で「…命令によって強制されたものではなく愛によって選択された」と述べている、その「戦跡碑」です。  


集団自決跡地で説明する石川氏

 雨脚が強まる中、「集団自決跡地」碑の前で、吉川さんは「あの時もバケツをひっくり返したような雨が降っていた」と振り返ります。今年68歳の吉川さんは集団自決の生き残りです。吉川さん一家に渡った手りゅう弾も不発でした。当時、現場はパニック状態となりましたが、「死ぬのはいつでもできる。人間は生きられるまで生きるものだ」と言う母親の言葉で、一家は自決現場を脱出したといいます。  


アリランの碑(朴壽南さんの詩)

 戦場に連行された女性たちを悼む「アリラン 慰霊のモニュメント」は10年前の1997年に建立されました。慶良間諸島ではあわせて21人の「慰安婦」が兵士たちの性の相手を強いられていました。  
 渡嘉敷島にいた7人の「慰安婦」の中に朴ハルモニ(韓国名ペ・ポンギさん。1914年生)もいました。彼女は戦後(朝鮮解放後)も母国に帰らず(帰れず)、水商売をしながら沖縄に残りました。1979年まで佐敷町(現・南城市)のサトウキビ畑の2畳の小屋に住み、その後在沖朝鮮人会の世話で那覇市のアパートに移りましたが、そこで誰にも看取られずに死亡し、5日後に発見されました。この出来事をきっかけに「アリラン 慰霊のモニュメント」が建立されたのです。  


アリラン 慰霊のモニュメント

 朝鮮人男性も軍夫として特攻艇の秘匿壕掘りなどの重労働をさせられていました。吉川さんの案内で唯一残る秘匿壕跡も巡りました。  


特攻艇秘匿壕内

 特攻艇秘匿壕(村指定戦争遺跡)の説明文には次のように記されています。  


特攻艇秘匿壕の説明文

 「この洞窟は沖縄戦における旧日本軍『海上特攻艇』の秘匿格納壕である。この壕は、黒色千枚岩の堅い岩石をくりぬいて構築されているが、壕の掘削には主に朝鮮人軍夫があたり、島の女子青年が協力をしたと伝えられている。
 特攻艇は『マルレ』と呼ばれ、ベニヤ板製で船幅1.8米、艇長5.6米、重量1,200kgの半滑走型ボートで120kgの爆雷2個を登載し、米軍艦艇を特攻攻撃するための秘密兵器であった。
 当時、渡嘉敷島には赤松嘉次大尉率いる『海上挺進戦隊第三戦隊』(特攻艇100隻、人員540人余)が配備されていた」と。

 

2.座間味島調査研修の旅(3月25日)

 3月25日(日)午後、座間味島へと向かいました。渡嘉敷・座間味両島間には定期便がないので、チャーター船で慶良間海峡を渡りました。座間味港では「沖縄平和ネットワーク」の外間明美さんら沖縄島からの参加者が待っていました。外間さんは1月19日(金)に開かれた大江・岩波沖縄戦裁判の第7回公判にも傍聴に来られ、『沖縄通信』第43号(2007年2月)でも触れています。  


村長、助役、収入役以下59名集団自決之地

 外間さんの案内で、村三役やその家族ら全員が死亡した産業組合壕跡や平和之塔、そして「玉砕」の場と指定された「忠魂碑」などを回りました。  


平和之塔

 座間味村では紀元2600年(1940年)の記念事業の一環として「忠魂碑」の建立が計画されました。紀元2600年とは神武天皇の建国以来2600年目にあたる年ということです。忠魂碑は天皇に忠節・忠義を尽くして戦死した者の忠君愛国の魂を慰め、その事跡を顕彰するために建立する慰霊碑で、靖国神社と密接なつながりを持ち、日本の軍国主義思想のシンボルといっていいものです。ですから、座間味村の「忠魂碑」も題字は当時の帝国在郷軍人会会長で陸軍大将の井上幾太郎の書になり、正面には陸軍大佐松田元治書の"海行かば"の歌詞が刻まれています。  


忠魂碑

 座間味島では宮村 肇さんも同行して下さいました。宮村 肇さんの父親の宮村幸延さんは昨年亡くなりましたが、幸延さんは大江・岩波沖縄戦裁判で重要な鍵を握っている方なのです。

 

3.3月26日(月)、沖縄島で交流・学習会。
目取真 俊さんが大江・岩波沖縄戦裁判を語る。

 翌日3月26日(月)は沖縄島に戻り、午後から古島にある教育福祉会館で、私たち「強制集団死調査の旅」のメンバーと「すすめる会」との学習・交流会が持たれました。会場に到着してから急に「司会をしてくれ」と頼まれ、そんな大役をと、難儀し緊張もしました。  
 この日、芥川賞作家の目取真 俊さんが一参加者として見えており、せっかくの機会なのでトイレ休憩時に発言を頼みました。快諾をいただき、目取真さんは次のように話されました。  



発言する目取真俊さん(右側:筆者)

 大江・岩波沖縄戦裁判は歴史認識の問題である、と同時に沖縄の位置づけが変わってきたということがある。台湾海峡の紛争や中国の台頭を想定し南西諸島を防衛ラインとして拠点化しようとの動きがある。領土防衛というのは総力戦だから、住民の協力が必要となる。だから、いつまでも反日本軍感情があれば困るのだ。沖縄の民衆の中に反日本軍感情・反自衛隊感情を作ってきたものが集団自決であり住民虐殺の問題だ。  
 若い世代はあまり本も読まないし新聞も読まない。だがネットは見ている。「集団自決」を検索すれば、自由主義史観グループのホームページやブログが占拠している状況だ。「うそも百遍つけば真実になる」とのヒットラー的手法でやられると、「そっちの方が本当かなぁ」と若い世代は思ってしまう流れがある。そのことに危機感を持っている。  
 この20年間で日本全体が大きく変わった。沖縄も変わった。沖縄の学生は圧倒的に無関心だし、沖縄戦の歴史に関する認識がどんどん弱くなっている。その中で自由主義史観グループや小林よしのりらのようにメディアを巧みに利用しながら若い世代にターゲットを当てて独自の歴史認識を宣伝された時、果たしてそれに勝てるのか?仮に彼らのでっち上げであっても、それが10年後には事実として定着してしまうのではないかという大きな分かれ目に来ているのだと思う。そのことからもこの裁判は非常に大きな意味を持っている。  
 この裁判で被告になっているのは大江健三郎、岩波書店だが、ターゲットになっているのは沖縄だ。沖縄を新たに戦争の拠点にしていくための歴史のつくり変えだと思う。  
 私の父も14歳で鉄血勤皇隊に参加し、命からがら生き延びる体験をした。今帰仁で育った私も子どもの頃から住民虐殺の話もたくさん聞いてきた。いかに日本軍が怖かったかをずっと聞いてきた。これらを根本からひっくり返して、国の名誉とか、軍隊があたかも住民を救ったかのような発言をのうのうとすること自体許せない。  
 この裁判が報道されて以降、ずっと関心を持ってきた。こういった運動が少しずつ広がっているのは、何か足掛かりができたような思いがある。大阪のみなさんと協力し取り組みを広げていく必要を感じている。

 

4.金城重明牧師から集団死の証言を聞く。

 次に那覇中央教会牧師の金城重明先生から証言をいただきました。金城先生は次のように話されました。  



証言する金城重明先生(右側:筆者)

 米軍は1945年3月26日座間味島に上陸し、座間味島と慶留間島の住民はその日に集団死を遂げました。翌27日私の住む渡嘉敷島に上陸、その翌日に329名が犠牲になりました。
 誰一人として死にたくて死んだ人はいないし、一人として自殺したいと思って自殺したのではない。あったのは「生き残る」ことが恐怖だということです。それは<殺意なき虐殺>といえるものです。集団死は日本軍が駐留した島でしか起こっていない。だから日本軍が関与していないことはありえません。沖縄戦のキーワードは「軍官民共生共死」です。いざという時は軍と運命を共にするという気構えが与えられていました。
 集団死に到るプロセスとして、まず米軍上陸の1週間ほど前に兵器軍曹が青年たちに手りゅう弾を2個ずつ配り、「敵軍に遭遇すれば1発を敵に投げ、残る1発で自決せよ!」と命令しています。
 渡嘉敷島に米軍が上陸した3月27日の晩、私たちは軍の陣地近くに移動させられました。そこには6〜700名は居ただろうと思います。村長のもとで軍の命令を待つという状態です。「軍の命令が出た」と聞かされました。どんな命令か中味は分からない。そして村長が「天皇陛下万歳」を三唱しました。 手りゅう弾を住民に配ったということは、住民に死を強制したということです。天皇から授かった武器ですから、日本軍が鉄砲の弾一発たりとも住民に手渡すようなことはないのです。それを配ったということです。
 家族や親戚が輪をつくり、手りゅう弾の栓を抜きました。しかしほとんどが不発でした。手りゅう弾による集団死はある意味失敗したのです。その後は混乱状態に陥りました。どうしていいのかなす術もなく、私は大人がやることを見ていました。どれほど時間がたったか分かりません。そこに同じ集落の区長の恐ろしい光景が飛び込んできました。一本の木の枝を折り、妻子をめった打ちに殴り殺しているのです。やっぱり自分たちもこうすべきだと、手本を彼が示してくれたのです。 家族に手をかける主役は父親ですが、父はいませんでした。2つ年上の兄と全く会話はありません。以心伝心です。最初に母親に手をかけました。石で母の頭を打ちながら号泣しました。16歳と1ヶ月の時でした。妹、弟にも手をかけました。父は別の所で死にました。
 以心伝心何百人という人が死んでいった。こうした地獄絵が何時間続いたのか分かりません。当時軍国少年の私は「殺してくれ」と言う人に手を貸すことが同情でした。しかし手加減もしました。しかし家族は確実に死ぬかたちで殺しました。殺害の重さ・大きさは愛情の深さを示している、それも不条理な…。
 兄と一緒に死のうという時、1人の少年が駆け込んできました。「ここで死ぬくらいなら米軍に斬り込んで1人でも敵兵を殺してから死のう」と。躊躇しましたがそこを出ました。2人の小学生もついて来ました。
 ところが私たちが最初に出会ったのは米軍ではなく全滅したはずの日本軍でした。大きな衝撃を受けました。「何故自分たちだけがこんな目に!」と、友軍に対する不信感と憤りとが腹の底からこみ上げてきました。共生共死ではなかったのです。裏切られたとの思いでした。
 渡嘉敷島は皮肉にも、沖縄戦で住民がいち早く非業の死を遂げ、軍隊は組織的に最後まで生き延びた唯一の地となりました。

 

5.3月30日(金)に、大江・岩波沖縄戦裁判第8回公判が開かれる。

  第8回口頭弁論が開かれた3月30日(金)当日は、公判に先がけて「すすめる会」が取り組んだ公正審理を要求する1,391筆の署名を大阪地裁第9民事部に提出し、午前11時から記者会見をしました。これには「すすめる会」より共同代表の高嶋伸欣・琉球大学教授、事務局長の山口剛史同大学准教授、「大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会」から小牧 薫事務局長らが出席しました。この日の午後6時に教科書検定の結果報告報道が解禁になるとかで、マスコミの関心も高く10名以上の新聞記者が取材にあらわれ、質問もそれに集まりました。高嶋教授を中心に、@現在審理中で証人調べにも入っていないにもかかわらず、裁判が提訴されたことを理由に修正意見を付した、A1982年以来文科省は「日本軍による住民虐殺だけでなく集団自決も書け」と指示してきたにもかかわらず、今回はその「集団自決」について日本軍の関与を書かせないなど、検定基準や現在の研究状況の水準から見ても不当な処分であると見解を述べました。  


記者会見(左より小牧、高嶋、山口の各氏)

 午前中にこのような行動をしたので、傍聴券の抽選には誰よりも早く並びました。しかし早く並ぶことと抽選に当たることは別問題で、この日もドキドキしながら抽選結果の発表を待ちました。あたかも大学入試の合格発表を見るかのように…。この日の傍聴は原告側より私たちの方が多かったとの印象を持ちました。 幸いにも抽選に当たって、いざ法廷へ。
 まず、被告・岩波側が『準備書面(9)』に基づいて主張を展開しました。原告側が軍命がなかった根拠の一つにする「『集団自決』は(親兄弟の)愛によって行われた」との曽野綾子の碑文が記された渡嘉敷島の戦跡碑について、「碑の後ろに『海上挺身第三戦隊』とあるように戦跡碑は部隊関係者が建て、碑文は隊員から頼まれて曽野氏が書いたもの」と指摘しました。  


「海上挺身第三戦隊 海上挺身第三基地大隊建立」とある。

 碑文の内容が記された渡嘉敷村教育委員会編さんの『わたしたちの渡嘉敷島』には「かねて指示されていたとおりに集団を組んで自決した」との記載があり、軍命があったと主張しました。
 また、座間味島の「集団自決」の際、村民に防衛隊員らから手りゅう弾が渡されたと指摘し、「手りゅう弾は貴重な武器で、軍(隊長)の承認なしに村民に渡されることはないと考えられる」と強調しました。
 一方、原告側は、被告『準備書面(7)』に対する反論をおこないました。沖縄戦時下の慶良間諸島で日本兵が住民に「集団自決」を命令したことを示す『米軍戦況報告書』がアメリカ公文書で見つかったとの『沖縄タイムス』の報道に反論し、「文書は座間味でも渡嘉敷でもない慶留間島のものだ」と述べ、今回の訴訟とは無関係だと主張しました。
 また、「一般的に『命令』を示す英語の動詞は『command』、『order』などだが、文書にはより軽い意味の『tell』が使われている」と翻訳への疑問を提示し、証拠としての根拠が薄弱だと批判しました。
 「座間味島民は手りゅう弾で自決しようとしたが不発弾が多くて死にきれなかった。これは軍が操作方法を教えなかったからで、軍が命令していなかった証拠だ」とも述べました。ここまでくれば、"こじつけでもいい、でたらめでもいい何か言っておけ"とばかりで、弁論の論理性のカケラもない代物です。この何とも強引で且つ非科学的な三段論法には傍聴席から失笑をかいました。
 公判では、更に重要な"事件"が起こりました。原告側・徳永弁護士は、前述したようにこの日午後6時に報道解禁という約束を破り、「今回の教科書検定で軍命はなかったと修正されたことは我々の主張が取り入れられた結果であり、大変喜ばしいことである」と発言したのです。ルールを無視したこの発言は決して許されるものではなく、今回の検定が文科省と原告側との緊密な連携のもとにおこなわれていることを示しているものだといえます。そのことは、文科省が参考にした集団自決に関する主な著作等の中に「沖縄集団自決冤罪訴訟」があり、この用語は原告側だけが使っているものであるところからも見て取ることができるのです。
 こうして、波乱に満ちたこの日の裁判は終わりました。 @裁判が提訴されたことを理由に文科省が修正意見を付し、⇒A教科書が書きかえられ、⇒B教科書にも書いてあるのだから軍命はなかったと、判決理由にされたものでは堪ったものではありません。このような「できレース」を許さない取り組みを一層強めていかねばと、この日気持ちを新たにしたのでした。  

 この日の夜にはエルおおさかで学習会が開かれ、「渡嘉敷・座間味島強制集団死調査の旅」の報告をあわせて行いました。  


学習会風景

 次回公判は5月25日(金)午後1時半より大阪地裁で開かれます。当日は午後1時から傍聴券の抽選がありますので、遅くともそれまでに大阪地裁裏庭に集合して下さい。  
 今までは裁判のあった夜に学習会を持ってきましたが、裁判も教科書検定も重要な段階をむかえていますので、次回は規模を拡大し、裁判の前夜5月24日(木)午後6時半よりエルおおさかで「シンポジウム 沖縄戦集団死の書きかえ許さない−教科書検定と大江・岩波裁判−」を開催します。多くのみなさまのご参集を心から呼びかけます。

<参考文献>
『沖縄大百科事典』事典刊行事務局編 沖縄タイムス社 1983年。
『「集団自決」を心に刻んで−沖縄キリスト者の絶望からの精神史』 金城重明 高文研 1995年。
『渡嘉敷島の沖縄戦関連遺跡と祈念碑』吉川嘉勝 私製本 2007年。

 

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