第47号(2007年6月)

 ◆ 目 次 ◆

1.5月25日(金)に、大江・岩波沖縄戦裁判第9回公判が開かれる。
那覇地裁での出張尋問が実現へ。

2.第9回公判が開かれる前日の5月24日(木)、
「シンポジウム 沖縄戦集団死の書きかえ許さない」が開かれる。

3.世論調査では、81.4%が教科書書きかえに反対。
そして、市町村議会で意見書決議が続々と採択されている。

4.5月18日(金)、日本軍(海上自衛隊)が、辺野古に投入される。
その翌日5月19日(土)、金城祐治さんが亡くなる。

5.反基地運動のリーダー・山内徳信さんが7月の参議院選挙に出馬。
5月28日(月)に、山内徳信さんを励ます集いが大阪沖縄会館で開かれる。
 

 

1.5月25日(金)に、大江・岩波沖縄戦裁判第9回公判が開かれる。
那覇地裁での出張尋問が実現へ。

 5月25日(金)午後1時30分より大阪地裁で、大江・岩波沖縄戦裁判第9回公判が開かれました。この日は雨にもかかわらず100名を超える傍聴希望者が並びました。沖縄からも10名近くの方が来られました。わが方(大江・岩波側)が多数を占めていたと思います。前日のシンポジウムに続いて高見敏雄牧師も芥川賞作家・目取真 俊さんも傍聴に見え、幸い抽選に当たりました。
 公判では、まず被告大江・岩波側の秋山弁護士が『準備書面(10)』に基づいて、概ね次のように陳述しました。  


秋山幹男弁護士

 @ 沖縄戦で、日本軍第32軍司令部(球第1616部隊)は「軍官民共生共死の一体化」の方針の下、軍官民一体の総動員作戦を展開していた。
 A 座間味島、渡嘉敷島に進駐した軍は、村の行政組織を指揮下に組み込み、全権を握り、軍への協力を村長、助役、兵事主任、防衛隊長を通じて命令していた。
 B そして、軍は米軍が上陸し、いざという時は玉砕(自決)するよう、日本軍の隊長からあるいは個々の兵士を通じて言渡していた。
 C 梅澤隊長及び赤松隊長は、座間味島及び渡嘉敷島の日本軍の最高司令官であり、日本軍の指示・命令はすべて梅澤隊長又は赤松隊長の指示・命令であった。
 D 慶留間島では海上挺進第2戦隊の野田義彦少佐(戦隊長)が守備隊を指揮していたが、彼は阿嘉国民学校慶留間分教場校庭で「敵ノ上陸ハ必至。敵上陸ノ暁ハ全員玉砕アルノミ」と訓示した。この命令に従い、慶留間島では1945年3月26日米軍が上陸を開始した後、全人口の半数近くが集団自決により死亡した。
 E 原告は、座間味島の集団自決は助役が住民に命令したと主張するが、座間味村助役兼兵事主任兼防衛隊長の宮里盛秀は、1945年3月25日夜、父・宮里盛永に対し「軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するように言われている。国の命令だから、いさぎよく一緒に自決しましょう。今夜11時半に忠魂碑前に集合することになっている」と告げている。
 F 渡嘉敷島では、1945年3月27日、軍が陣地近くに住民を集結させ、軍の部隊である防衛隊員が手榴弾を村民に配布し、軍の自決命令が出たと伝え、集団自決がおこなわれた。
 一方、原告側は、『沖縄ノート』記載の命令を「無慈悲直接隊長命令説」という新造語で表現し、被告側の主張を"争点ぼかし、論点ずらし"だと反論しました。被告らの論点ずらしの手法を@ 手榴弾交付=命令説、A 政治体制命令説、B 広義の強制(命令)説の3つに分類し、@は手榴弾を交付したから「命令」があったというに過ぎず、Bは主体を特定せず、住民らが受け取った言動を「命令があった」と評価したものなどと批判しました。そして、被告らが有力証拠とする『秘録沖縄戦史』の復刻版(著者・山川泰邦の長男一郎が復刻)では「梅澤、赤松による自決命令が削除されている」ことを上げ、それをもって梅澤、赤松命令説は史実の検証に耐えられなくなったと主張しました。
 ところが、この日もまた原告側は準備書面の事前提出を怠り、裁判長が再度原告代理人に注意しました(原告側弁護士は何10人もいるのですが、そこに押されている印はすべて一人の弁護士の代印というものでした)。被告側は事前に提出していた準備書面を陳述しましたが、原告側は当日持参した準備書面の正式な陳述は認められず、事実上口頭でその内容を説明することだけが許可されました。準備書面を事前に提出せず、あまつさえ被告側があらかじめ提出した書面についても反論するので、秋山弁護士は「アンフェアであり、時間も超過している」と異議を述べ、裁判長は原告代理人の発言を中止させ、この日の法廷は終わりました。  

 裁判終了後、原告・被告双方の弁護士を交えた進行協議で、証人尋問の日程が次の通り決まりました。
 @ 7月27日(金)午前10時より午後5時まで
   皆本義博(当時、渡嘉敷島の守備隊中隊長)10時30分〜12時30分
   知念朝睦(同隊副官)1時30分〜2時30分
   宮城晴美(『母の遺したもの』著者)2時30分〜4時30分
 A 9月10日(月)那覇地裁出張尋問 午後1時30分より
  金城重明牧師
 B 11月9日(金)
  梅澤 裕(原告)
  赤松秀一(原告)、です。
 原告らが@ 新崎盛暉氏と沖縄タイムス社を訴えから外し、A 沖縄ではなく大阪地裁に提訴したことなどから、この裁判の性格をぼくは"沖縄外しの沖縄処断裁判である"と当初から訴えてきましたが、金城重明牧師の証人調べを那覇地裁で実現させたことは、私たちのこの間の運動の成果だと思います。  

 次回公判は、7月27日(金)午前10時より大阪地裁で開かれます。丸1日の証人調べです。最大、最高の山場です。多分午前9時半から傍聴券の抽選がありますので、遅くともそれまでに大阪地裁裏庭に集合して下さい。午前9時からとなるかも知れないので、余裕を持って来て下さい。

 

2.第9回公判が開かれる前日の5月24日(木)、
                     「シンポジウム 沖縄戦集団死の書きかえ許さない」が開かれる。

 公判を翌日に控えた5月24日(木)、エルおおさかで「シンポジウム 沖縄戦集団死の書きかえ許さない−教科書検定と大江・岩波裁判−」が開かれ、会場を超満員とする151名が参加しました。高見牧師も見えました。  


参加者で満員となった会場

 それのみならず、沖縄のテレビ局、琉球新報、沖縄タイムスなどマスコミも取材に来ました。高校歴史教科書の沖縄戦記述から「集団自決」への日本軍関与が削除されたことが沖縄でどれほど大きな問題となっているのか、この一事を見ても明らかです。
 まず、秋山幹男弁護士より明日の第9回公判で陳述する『準備書面(10)』に基づき報告がありました。その中で、秋山弁護士は、
 弁護団として調査のため慶良間諸島に赴き、元座間味村村長・與儀九英氏から貴重な証言を得た。政府自身もこの間の国会答弁で「軍命は通説である」と認めている、と述べました。  


パネラーの左から津多、大塚、小牧の各氏

 次に、大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会の世話人である服部良一さんがコーディネーターとなり、大阪歴史教育者協議会委員長・小牧 薫さん(支援連絡会の事務局長でもある)、岩波現代文庫編集長・大塚茂樹さん、沖縄国際大学教員・津多則光さんの3名をパネラーにシンポジウムに移りました。  
 小牧さんは、「高校教科書から全面削除/日本軍による住民殺害/沖縄戦の重要な事実/執筆者の修正案も認めず」と報じた『沖縄タイムス』1982年7月4日付の記事と、教科書書きかえ攻撃を沖縄を始め多くの民衆の力でくい止めたことを伝える「来年度検定で復活/文相表明/沖縄の虐殺記述」との『朝日新聞』 1983年9月17日付の記事を示し、今回起こっている教科書の書きかえを許さない闘いと大江・岩波沖縄戦裁判の勝利を車の両輪のように取り組もう、と発言しました。  


腕組みして聞き入る筆者

 大塚さんは安倍政権と歴史修正主義をテーマに語られ、今でもヤマトゥが沖縄を差別している現実を直視せねばならないと強調しました。  
 津多さんは、この日と前日の『沖縄タイムス』に掲載された自身執筆の「沖縄戦における『軍命』の存在(上)(下)」に基づき、沖縄県民総スパイ視は、長年にわたる沖縄差別観を底流にして沖縄戦で噴出し、終局的には処刑=住民虐殺、玉砕=集団自決命令へと至った、と述べました。
 会場からの発言に移り、この日のために沖縄から見えた目取真 俊さんがマイクを握りました。  


会場から発言する目取真 俊さん

 目取真 俊さんは、「軍命はなかった」というように教科書を書きかえることに、最近これほど怒りに燃えたことはない。自分が住んでいる今帰仁でも多くの人が自決している。自分の父は14歳で鉄血勤皇隊に行っている。生まれた時から15年戦争が始まっており、軍国主義教育を叩き込まれた。そして日本軍とともに戦闘に参加するが散々ひどい目にあって、スパイ視され日本兵から殺されかける体験もした。自分は死ぬまで「軍命はあった」のだと書き続けていく。それで訴えるのなら訴えればいい。梅澤、赤松の名前は沖縄では忘れかけられていたが、この裁判によって記憶を呼び起こされた。今、沖縄が対中国の南西領土の防衛拠点になろうとしている。この裁判や教科書の書きかえの背景には自衛隊の強化がある。辺野古には海上自衛隊の掃海艇「ぶんご」が投入された。単なる歴史認識の問題だけではなく、戦争の危機を感じる、と力を込めて訴えました。
 参加者はその発言を重く受け止めたのでした。  


沖縄高教組・松田委員長

 沖縄高教組・松田委員長は、米軍再編特措法が成立した。"アメとムチ"のこの法律で「ならば交付金を拒否すれば基地は何処かに持って行ってくれるのか」という話も出ている。私たちは現在57団体が集まって実行委員会を作り、6月9日に「沖縄戦の歴史歪曲を許さない沖縄県民大会」を準備している、とアピールしました。
 シンポジウムでは、明日の公判に結集し、大江・岩波沖縄戦裁判の勝利とともに、教科書の書きかえを許さないとの決意を参加者全員で確認しました。

 

3.世論調査では、81.4%が教科書書きかえに反対。
               そして、市町村議会で意見書決議が続々と採択されている。

 教科書書きかえについての『沖縄タイムス』の世論調査では、「反対」が81.4%に達し、「分からない」10.6%、「賛成」8.0%を大きく上回りました。反対の理由は「沖縄戦の歴史をわい曲するから」52.4%、「『集団自決』の現実を伝えていないから」37.0%、「日本軍の関与が明確だから」9.5%の順に多くなっています(『沖縄タイムス』2007年5月13日付)。  
 また、市町村議会の意見書も続々と上がっています。検定意見を撤回する意見書を5月15日に可決した那覇市議会のそれは、「沖縄戦における『集団自決』が、日本軍による命令・強制・誘導などなしに起こり得なかったことは紛れもない事実」だと指摘し、「(事実)がゆがめられることは、悲惨な地上戦を体験し、筆舌に尽くし難い犠牲を強いられてきた沖縄県民にとって、到底容認できるものではない」と断定した上で、「歴史を正しく伝え、悲惨な戦争が再び起こることがないようにするためにも、今回の検定意見が速やかに撤回されるよう強く要請する」としています。  
 意見書は、5月14日の@ 豊見城市議会を皮切りに、A 那覇市議会、B 糸満市議会、C 浦添市議会(以上、同15日)、D 北谷町議会(同17日)、E 南風原町議会(同21日)、F 与那原町議会(同24日)、G 恩納村議会(同25日)、H 渡名喜村議会、I うるま市議会、J 沖縄市議会(以上、同28日)、K 座間味村議会、L 今帰仁村議会(以上、同29日)、M 宜野座村議会(同31日)、N 久米島町議会、O 宮古島市議会、P 南城市議会(以上、6月4日)、Q 中城村議会(同5日)というように次々と採択されています。このほか、名護市など15市町村議会が臨時会や6月定例会での意見書の提案が決まっていたり、提案の方向で議論が進んでいます。  
 そして、6月9日(土)には午後2時より、県民広場において5,000名規模の「沖縄戦の歴史歪曲を許さない沖縄県民大会」が開かれます。

 

4.5月18日(金)、日本軍(海上自衛隊)が、辺野古に投入される。
その翌日5月19日(土)、金城祐治さんが亡くなる。
 

 「1960年、安保闘争で全学連が国会に突入した時、何日分かの米俵を国会に持ち込んでいた自民党の議員が『革命だ!革命だ!自衛隊を出動させて鎮圧せよ!』と絶叫したんだ」と、ぼくは学生時代に先輩から聞いたことがあります。しかし、自衛隊の出動は見合されました。戦後、今日まで民衆運動弾圧のために自衛隊が出動したことは皆無なのです。  
 その自衛隊がついに非暴力を貫く辺野古の民衆の前に現れました。戦後初めて、ということは建軍以来初めて、日本軍(海上自衛隊)が投入された場所は、ヤマトゥではなく沖縄だったのです。国に刃向かえば、"沖縄戦の時のようにウチナーンチュをまた殺すぞ!"という脅しなのでしょうか。2007年5月18日(金)のことです。この日にちは絶対忘れないようにしましょう。米軍の新基地建設に抵抗する住民に対して、「(以前の案が反対派に阻止された)苦い思いを二度と繰り返したくない」(久間防衛相)ので、「安全で円滑に(建設を)実施していく必要」から。(大砲を備えた全長141mの)掃海母艦はその「バックアップのためにその場にいた」(安倍首相)のだ、と。  
 自衛隊が投入された翌日の5月19日(金)午前6時59分、「命を守る会」代表の金城祐治さんが亡くなりました。72歳でした。この悲しみは何と表現すればよいのでしょう。金城祐治さんは1999年から「命を守る会」の代表を務め、一貫して新基地建設阻止闘争の先頭に立ってこられたのでした。  
 下の写真は、辺野古座り込み100日目にあたる2004年7月27日のものです。  


今は亡き金城祐治さんと(座り込み100日目の2004年7月27日)。
 

 2005年4月21日、三度スパット台船がやって来るとの情報があり、ぼくは辺野古へ行きました。座り込み368日目です。  
 この日、単管やぐらに乗ったのが120名ほど、陸上の座り込みが140名ほど、わが方の漁船は19隻。人数が少ない時は一つの単管やぐらを3人で防衛するという日もありましたが、この日は一つのやぐらに20名前後が登ったので、全く那覇防衛施設局は手を出すことができず、この日わが方は完勝したのですが、下の写真は、テント前で緊急の記者会見を持った時のものです。  


記者会見する左から二人目が金城祐治さん、三人目が山内徳信さん
(座り込み368日目の2005年4月21日)。

 こうした写真を見るたびに涙が出ます。金城祐治さんが逝ったあと、ぼくたちが遺志を引き継ぎ絶対に新基地建設を阻止しましょう。
 金城祐治さんは心に残る名語録の数々を残しています。そのいくつかを見てみましょう(その多くは『辺野古浜通信』に負うています)。
 ◎印は、ぼくが辺野古で実際に聞いたものです。
◎ 基地ができれば世界のどこの紛争にも即戦力となり、殺りくの道具になる。そんな沖縄に、日本にしたくない。
◎ 4カ月も座りこみを続ける状況はまさに地獄の沙汰。力を合わせて沖縄から基地をなくそう。
◎ 夜でもここで赤々と電気をつけてネ、「頑張ってるヨ」というところを見せたいと深夜10時ごろまでオバァたちが座ってましたけど、痛々しくてね…。
◎ お湯沸かすんですヨ。はよ起きた人がやるんです。そして水筒に入れて単管に上る人のお湯を持たさんといかんから。
◎ 気持ちが高ぶってほとんど眠れなかった。カヌー隊の海上抗議は歴史の一ページになるだろう。無謀なことをしてまで阻止しなければならない気持ちを全国の人にも考えてもらいたい。
◎ ここは辺野古だ!!私は辺野古の人間だ!!防衛施設局員よ!!私に説明する責任があるだろう、説明しなさい。
◎ 日本の課題をなぜ小さな島に背負わせるのか。それが日本の民主主義か!
○ 辺野古の海を守って次の世代に引き継ぐことは最大の使命だ。これ以上の自然破壊を許すことはできない。自然を守ることイコール、平和を守ることであると主張したい。
○ なぜ、この8年間、10年になろうとしている厳しい闘いを継続して頑張ってこられたのかということは、自分たちの夫、子供を先の大戦で亡くしているからであります。その想いが平和になったとはいえ未だにそのしがらみを背負わされている現在であります。 もしも今世紀、第3次世界大戦が行われたとすれば一発で何十万人という人々の生命が失われてしまうかも知れない。そういう世の中にしないために、自分たちの子供、孫をそれに巻き込ませないために、世界の未来永劫の平和を作っていきましょう。
◎ 今やらなければいつやるのか!!今がその時だ!!共にがんばっていきましょう。
◎ 過酷な闘いはまだ続くだろうが、今へこたれたら、沖縄に後はない。厳しい現状は最大のチャンスでもある。
○ 市民投票の民意が踏みにじられて今日まできた。平和は守るものではなく育て、つくり出していくものだと市民や国民が気付き、展望を開かなければならない。
◎ 私を殺してからいけ!!ここで!!今すぐ!!
○ 国内外で基地建設に疑問の声がある中、日本政府は国際自然保護連合(IUCN)が二度も勧告を出しているにもかかわらず、無視を続けている。これでいいのかと問いたい。
◎ 新たな基地建設は自然を破壊し、戦争につながる行為だ。今回、新しい基地を造れば、沖縄は21世紀も基地との共存を迫られる。
◎ 仮に日米安保体制がそれほど重要であるなら、沖縄だけに過重負担を押し付けるのではなく、日本全国で均等に負担すべきだ。
○ 平和は空気と違う。無気力・無関心では平和を守っていけない。
◎ 貧乏人には貧乏人なりの闘い方がある。  

  再度確認しよう、金城祐治さんが逝ったあと、金城祐治さんの遺志をぼくたちが引き継ぎ、絶対に新基地建設を阻止しょう、と。

 

5.反基地運動のリーダー・山内徳信さんが7月の参議院選挙に出馬。
       5月28日(月)に、山内徳信さんを励ます集いが大阪沖縄会館で開かれる。

 7月におこなわれる参議院選挙に、山内徳信さんが大田昌秀さんの後継者として比例区(社民党)から立候補されることになりました。山内徳信さんは1974年、39歳の若さで読谷村長に当選し、以降6期、23年半にわたり平和憲法を実践する村政を展開、強力な自治体外交で米軍基地読谷飛行場の返還を勝ち取りました。
 1998年には当時の大田昌秀知事に請われて県出納長に就任しましたが、3選を目指した大田知事が稲嶺候補に敗れたため、9ヶ月程度の在任に終ってしまいました。
 琉球朝日放送制作のドキュメント『海にすわる− 沖縄・辺野古 反基地600日の闘い』をご覧になられた方も多いと思います。冒頭、那覇防衛施設局との交渉で「沖縄の海も山もクニ(ヤマトゥ)のものかっ!!」と喝破しているのが山内徳信さんです。
 その山内徳信さんを励ます集いが、5月28日(月)大阪沖縄会館で持たれました。  


決意を述べる山内徳信さん

 前の写真からも分かるように、「基地の県内移設に反対する県民会議」共同代表として山内徳信さんは、常に辺野古の座り込み闘争に参加されてきた反基地闘争のリーダーです。  
 この夜は、楽しい沖縄舞踊も披露され、大いに盛り上がりました。

 
沖縄舞踊も登場

 山内徳信さんを励ます集いには、大阪選挙区から立候補する服部良一さんも駆けつけました。

 
山内徳信さんが服部良一さんを激励

 

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