第50号(2007年9月)

 ◆ 目 次 ◆

1.8月15日(水)、「平和のための市民の集い」で三宮へ。
2.8月19日(日)に、「現在そして未来・沖縄2007」が開かれる。
3.「対馬丸」の悲劇〜国家による殺人
4.8月28日(火)に靖国合祀取り消し訴訟の第5回口頭弁論が開かれる。

1.8月15日(水)、「平和のための市民の集い」で三宮へ。

 8月15日(水)午後1時30分より、三宮の神戸市勤労会館で「8/15 平和のための市民の集い」が開かれました。わざわざどうして神戸の集会に参加したのかといえば、山内徳信さんが講演にお見えで、集会終了後、山内徳信さん当選の祝勝会が持たれることになっていたからです。
 「平和のための市民の集い」で、山内さんは次のように話されました。
選挙期間中、北は北海道から南は与那国島まで回った。そこで大勢の方々と交流できた。私は“辺野古に基地は作らせない。人生のすべてをかけている”と訴えてきた。  
 “海は命の母”なら、“山は命の父”と言ってもいい。V字型滑走路の建設のためには山を崩さなければならない。そうすれば知念半島の海まで赤土で汚染されることになるだろう。核や生物兵器が貯蔵されているといわれる辺野古弾薬庫と隣接してV字型滑走路が建設されるというのは、大浦湾に原子力空母や原潜が寄港できるということだ。このように建設は自然を破壊するのだから人間を破壊することなど簡単なことだ。
 1850年代のペルー提督の時代から、アメリカは沖縄の何処かに自由に使用できる基地をほしいと思ってきた。今それが実現されようとしている。嘉手納が極東最大の基地なら、作られようとする辺野古の基地はアジア一、世界一となるだろう。
 だから、どうしても権力に騙されない自立した市民の誕生が必要なのだ、と。

 参加者から多くの質問や意見が出され、大変盛り上がった集会となりました。ぼくは大江・岩波沖縄戦裁判の報告とアピールをしました。
次の写真は祝勝会で山内徳信さんと一緒にいる時のものです。携帯電話で撮ったものなので上手く写っていませんが…。

 
挨拶する山内徳信さん(左が筆者)

2.8月19日(日)に、「現在そして未来・沖縄2007」が開かれる。

 8月19日(日)午後1時30分よりならまちセンターにおいて、「てぃだ花会」主催(後援 奈良沖縄県人会)で「現在そして未来・沖縄2007」が開かれ、連れ合いと一緒に行きました。主催した「てぃだ花会」は2004年に奈良・新大宮の琉球酒菜「てぃーだぬ屋」で結成された沖縄三線同好会です。三線を通じて互いに交流を深め、沖縄の文化や歴史を学ぶためのイベントもおこなっており、現在約20名の会員で構成されています。
 当日のプログラムは、
@古典舞踊「かぎやで風節」
A 映画「対馬丸」上映
B 古典舞踊「上り口説」
C 琉球國祭り太鼓(奈良支部)
D 踊り「ユイユイ」
E 池田 卓ライブ
と、実に盛り沢山で中味も充実したものでした。

 @の「かぎやで風節」は、王の前で唄われたので「御前(ぐじん)風」ともいわれます。この歌は国頭(くにがみ)按司(あじ)の初代奥間カンジャーが、鍛冶職の功により按司に任命された時の喜びをうたいあげたものと伝えられています。

 
かぎやで風節

 Aの「対馬丸」は大城立裕原作のアニメ映画です。
「対馬丸」については別に項を起こしました。

 
琉球國祭り太鼓

 Cの「琉球國祭り太鼓」は、25年前に沖縄市で結成され、以来全国各地、またアメリカ、ブラジル、アルゼンチン等にも支部を設け総勢2,000名となる一大太鼓集団です。奈良支部は2003年に関西支部より独立し、奈良県内外で幅広く活躍しています。

 
琉球國祭り太鼓(子どもたちも)

 Dの踊り「ユイユイ」は、“ユイユイ、ユイユイ、ユイマール”という歌詞の踊りです。

 
踊り「ユイユイ」

 メインはEの池田 卓ライブです。
池田 卓さんは、1979年に西表島の人口42人の船浮(ふなうき)で生まれたシンガーソングライターです。中学・高校は野球に没頭し、沖縄水産高校の投手として活躍しました。19歳の夏、島の芸能祭に参加したのをきっかけに本格的に音楽活動を開始し、2000年10月、「島の人よ」でCDデビューします。この曲が天気予報のBGMに起用され脚光を浴び、2005年には「心色」で全国デビューを果たしました。八重山民謡を含め、これまで7枚のCDを発表しています。
 2006年には映画「えんどうの花」で主役を演じました。この映画は、音楽教師として勤めながら数々の名曲を残した宮良長包(1883〜1939)を描いたものです。宮良長包はタイトルにもなっている「えんどうの花」のほか「安里屋ユンタ」や「なんた浜」などを作曲し、現在も歌い継がれています。『沖縄通信』40号(2006年11月)で報告した「第4回世界のウチナーンチュ大会」で沖縄を訪れた時、ぼくはこの映画を沖縄で観ました。


池田 卓ライブ

 そして、最後は恒例のカチャーシーです。出演者全員が池田 卓さんの三線で踊りました。

 
出演者全員でカチャーシー

 実は、この日の公演終了後、「てぃーだぬ屋」で打ち上げ会があり、その席で池田 卓さんとの記念写真を撮りました。

 
池田 卓さんとのツーショット

 

3.「対馬丸」の悲劇〜国家による殺人

 1944年8月22日、沖縄から九州へ向かう学童疎開船「対馬丸」が悪石島(あくせきとう)で米軍に撃沈されました。学童約800人を含む乗客1,788人のうち、死亡者数は学童775人を含む1,418人です(名前が判明している者のみ)。 「対馬丸」は6,754t、長さ135.64m、幅17.68m、深さ10.36mの元貨物船で、8月15日に出航した潜水母艦につぐ学童疎開第2陣として、8月21日、「和浦(わうら)丸」、「暁空(ぎょうくう)丸」とともに出航しました。
 3隻の船は、中支派遣軍から沖縄防衛軍強化のために配備される兵士を満載して、上海から東シナ海を渡り、2日前の8月19日に那覇港に着いたところでした。3隻とも6千t級の似たような型の貨物船ですが、外航船でこれ以下の性能の船は見当たらないといってもよい老朽船ばかりで、特に1914年12月22日竣工の「対馬丸」は公称12ノットといいますが、船団速力7ノットに対して満足について行くことさえ覚束ないものでした。
 「対馬丸」が船出した海は、アメリカ潜水艦によって既に17隻が沈められていました。というのは1942年3月25日公布の「戦時海運管理令」によって民間の船も軍に徴用されるようになり、それにともない米軍は日本の補給路を絶つために軍民の区別なく日本の艦船を攻撃したからです。
 そして、「対馬丸」は8月22日午後10時12分、北緯29度33分、東経129度30分、奄美大島十島(としま)村悪石島の西北方約12.5kmの海上で、アメリカの潜水艦「ボーフィン号」の魚雷3発を受け11分後に沈没しました。生存者は学童59人、一般168人でした。全長約95mの「ボーフィン号」(BOWFIN)は1942年12月7日の進水なので、「対馬丸」との性能の差は歴然としています。進水が真珠湾攻撃のちょうど1年後だったところから“真珠湾の復讐者”と名乗っていました。「ボーフィン号」は、「対馬丸」が上海を出発し那覇港に入る直前から攻撃の対象としてとらえ、この日も早朝から追跡を再開していました。
 疎開の理由は、1944年7月7日にサイパン島が陥落し、米軍はサイパン島からB29を出撃させ、無着陸で北海道・東北北部を除く日本のほぼ全土を空襲できるようになったことから、政府より沖縄県知事宛“本土決戦に備え、非戦闘員である老人や婦女・児童計10万人を本土に8万人、台湾に2万人疎開させよ”との命令が通達されたことによります。要は沖縄に駐留する軍隊のために大量の食料や居住地が必要となるので「民間人は足手まといになるから出て行け!」ということです。
 「対馬丸」の生還者には、箝口令が敷かれました。本当に理不尽な形で殺された子どもたちについて、戦後になってようやく「対馬丸」の話が拡がっていきました。


対馬丸の船体が悪石島沖合の海底で発見された。

 日本政府は、1997年12月12日、海底に沈む「対馬丸」を確認しましたが、引き揚げは不可能だとしています。
 実は、「対馬丸」の犠牲者は先の戦争で犠牲になったということで靖国神社に合祀されているのです。疎開中に亡くなったという理由ではありません。非常に恣意的な合祀基準で、ここにも靖国の影が登場するのです。
 今年も8月22日がめぐってくるので、8月17日付『沖縄タイムス』の「論壇」に友寄賢吉さんが『平和問う2つの記念館 63年目の「対馬丸」を前に』と題する文章を載せています。60回目の命日にあたる2004年8月22日に那覇市若狭に対馬丸記念館が開館しましたが、73歳の友寄さんは対馬丸記念館語り部です。

 
対馬丸記念館

 友寄さんは次のように書かれています。
 「私は、当時、垣花国民学校の5年生、父が家族での疎開を考えていたので、運よく『対馬丸』に乗船しないですんだ。垣花国民学校は、犠牲者の数が那覇・甲辰に次いで3番目に多い102人で、その内18人が同期生である。…那覇10・10空襲の後、熊本県に家族疎開し、そこで終戦を迎え、焦土と化した沖縄に帰った。(中略)
 主に、県内外の来館者を対象に講話をしているが、…私が特に講話の中で強調するのは、2つの記念館の存在とその違いについてである。(中略)
 一般的に知られていない部分である『対馬丸』をわずか10数分で撃沈した米国海軍潜水艦『ボーフィン号』とその記念館について述べておきたい。『ボーフィン号』は1942年に建造された当時の新鋭潜水艦であり、そのトレードマークは獰猛な魚が弓に魚雷の矢を構え、獲物を狙う図である。そして『ボーフィン号』には『真珠湾の復讐者』としての異名と使命が課せられ、日本の艦船を徹底的に撃沈せよとの任務があった。
 ハワイのボーフィン号記念館の展示資料によると日本の艦船49隻を撃沈した戦果を「日の丸」の数で潜水艦に図示してある。これからも分かるが、『ボーフィン号』は米国海軍の象徴的ヒーローとして、現在もハワイ・パールハーバーのボーフィンパークに63年前の雄姿をたたえ係留されている。(中略)
 一方の『対馬丸記念館』は870メートルの深海に今なお、4発の魚雷を受けたまま…遺骨を抱いて沈んでいる状態の『疎開船対馬丸』が映像等で表現されている。(中略)
 展示内容・目的が全く異なる『ボーフィン号記念館』と『対馬丸記念館』の2つの記念館が、今を生きるわれわれに戦争と平和を問い掛けている。(後略)」
このように友寄さんは書かれています。

 
小桜の塔

 「対馬丸」で犠牲になった学童たちを慰霊するため那覇市の護国寺に「小桜の塔」が建てられ、1953年5月5日のこどもの日に除幕式がおこなわれました(59年に改築、那覇市若狭旭が丘公園に移された。対馬丸記念館も旭が丘公園にある)。
 1982年に芥川賞作家・大城立裕の原作『対馬丸』が出版され、それをもとに75分のアニメーション映画が製作され、8月19日(日)はこの映画を鑑賞したのでした。
 この映画を観て4日後の8月23日付『沖縄タイムス』「茶のみ話」欄に、今度は「和浦丸」について神山英一さん(72歳)が『悲惨な学童疎開』と題して次のように書かれているのを見つけました。
 「対馬丸と船団を組んだ和浦丸に乗船していたので、私の命は助かったが、熊本の日奈久町(ひなぐ。現在の八代市にある。引用者:注)に学童たちは集団疎開して、そこで寒さと飢えと、しらみの攻勢に悩まされ、特にひどかったのが、足に霜焼けができて歩行困難になりながらも、日奈久国民学校に通学した…。
 餓死同然の環境に置かれて私たち学童は現地の農家の食い物を盗んで食べては、農家から引率の先生に抗議が来て、沖縄学童は皆、泥棒だとさげすまれ…。南国育ちの学童たちにとって、何よりもつらかったのは寒さだったが、なお、シラミの大群に生き血を吸われながら、凍りつく寒さの中で毎朝の朝礼には全員集合させられ、…軍歌を大きな声で次々に歌わされる。…ひもじさで腹がぐうぐう鳴っているのに、声を張り上げろと先生に注意されて、仕方なくやったが、国家から食料も減らされ、皆、栄養不良でふらふら学童たちは極度にやせていった。
 あれから63年の月日が経過するが、安倍晋三首相は憲法9条を改正しようと、躍起となっているが、断固反対である。未来の子どもたちに私たちの体験した悲惨で苦しい思いをさせないためにも」と。
対馬丸の悲劇には慟哭を禁じ得ませんが、神山さんの文章を読むと、本土に疎開できた学童たちもまた過酷な日々を経験したのだということが分かるのです。

 

4.8月28日(火)に靖国合祀取り消し訴訟の第5回口頭弁論が開かれる。

 8月28日(火)午前11時より大阪地裁で靖国合祀取り消し訴訟の第5回口頭弁論が開かれましたが、ぼくは学会で報告する論文作成の追い込み中で、公判には出ず午後1時からの「裁判報告・交流・学習集会」にだけ出席しました。
 加島 宏弁護士が「新編靖国問題資料」に基づき、国会の委員会での質疑がどのようになされてきたのかを説明しました。

 
加島弁護士

 1952年7月30日の「海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会」で与党議員が「独立し、関係方面の干渉もなくなった今日でありまするから靖国神社の合祀の問題について伺いたい」と質問し、政府委員は「合祀が済んでおるのは27万7,950。宗教の分離という憲法の原則により、国から金を出すということが禁止されておりまするから、これをいかにしてうまくやるかということにつきまして、目下研究をいたしております」と答えている。
 同年4月28日の独立(沖縄の切り捨て)、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)からの干渉がなくなるのを待っていましたとばかりに7月には上のような応答が与党・政府間でなされている。
 1955年7月23日の同委員会では、参考人の靖國神社権宮司が「上奏簿は、これは陛下のお手元に差し上げるもの」「終戦から一年くらいの間に、各復員局にございました戦没者の資料を全部神社にいただいておりますが、その資料が不完全でありますので各府県の世話課にもう一度調査をしていただくということにしている」と。与党委員の「その費用は神社が各府県に出すやに聞いておる」との発言に対し、「今のような非常に窮屈な予算でございますから、神社から費用は出せません」と答え、参考人の靖國神社奉賛会理事長は「何とか政府の方でも世話課あたりに何かお手当てが願えたらという希望は持っておる」と催促している。
 天皇に上奏簿を渡すのを廃止したという資料は見当たらないので、今でも続いていると考えられる。
 国からの援助をとの要望に応える形で一時予算計上したが、憲法違反ということで次のような対応を取ることにしたとの応答が、1955年12月8日の同委員会での質疑に見られる。
 与党委員の「靖国神社へ合祀促進のために、2,800万円だけ一時予算の中に計上したのが憲法違反になるというようなことで、予備費の中に入ってしまった。この金がやみからやみに今消えてしまいそうな状態になっている」との質問に対し、政府委員は「これまでも、合祀のために靖国神社から厚生省に対して経歴等の照会がございました。これに対しましては、復員業務の一環といたしまして調査の上、回答を行っておったのでございます」と答えている。“復員業務の一環”という言い訳をしているが、この用語がこれ以降使われ、定着することになる。また、小林国務大臣は「3年計画を実施して、本年は英霊の数の3分の2を各都道府県の世話課と連絡をとりまして、これをお祭り(ママ)をすることにして、今後2年の間のうちには、全部それを靖国神社にお祭り(ママ)をしようと考えておる」と答弁している。
 この議事録からも靖国神社と国が一体となって合祀事務をおこなっていたことが明らかになっている。

 
井上弁護士

 続いて井上二郎弁護士からは、この日提出し陳述した「第14準備書面」について報告がありました。
 井上弁護士は、被告の国は「国家無答責」論を展開するが、これは政策であって法ではない。また除斥期間を国は主張するが、靖国神社はずーっと祀っているのだから20年の起点は来ていないのだと、国の主張に反論しました。

 次回第6回口頭弁論は10月16日(火)午前11時より大阪地裁202大法廷で開かれます。当日は午前10時までに地裁正門前に集合して下さい。また裁判終了後、午後1時より中之島中央公会堂地下大会議室にて「裁判かみ砕き報告・学習集会」が開かれます。こちらにも多くの参集をお願いします。

 

<参考文献>
『沖縄大百科事典』 沖縄タイムス社 1982年。
『つしま丸のそうなん』 金沢嘉市 あすなろ書房 1985年。
『対馬丸 さようなら沖縄』 大城立裕 理論社 1987年。
『ケーイ 命がおしえてくれたもの − つしま丸・沖縄戦』
金城明美 沖縄タイムス社 2000年。
『対馬丸』 大城立裕 理論社 2005年。

 

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