第53号(2007年12月)

 2003年5月より発信している『沖縄通信』は、ぼくが沖縄在住中の2005年12月まで(1号〜32号)は“沖縄からの通信”でしたが、ヤマトゥに戻った2006年から今日まで(33号〜52号)は“沖縄についての通信”となりました。
 ぼくは11月に初めて奄美諸島を訪問しましたので、この53号は差し詰め“琉球弧についての通信”とでも称するものです。しかし奄美諸島を訪れて、奄美の方が琉球弧や琉球という単語に違和感を持っていることが分かった以上は、“沖縄・奄美についての通信”とした方が良いのかも知れません。
 奄美大島は周囲約405km、面積約719?、沖縄島、佐渡島につぐ規模です。島の中心・奄美市(筆者注:2006年3月20日、名瀬市と住用(すみよう)村、笠利(かさり)村が合併して誕生)は人口48,945人(2007年10月末現在)で、那覇港から323km、鹿児島港から383kmの地点にあります。

◆  目次  ◆

1.11月17日(土)から、ゆいまーる「琉球の自治」の集いで、初めて奄美大島を訪れる。

2.「男はつらいよ」のロケ地・加計呂麻島へ。

3.奄美まで来たのだからと、沖縄島へ。

4.11月9日(金)、大江・岩波沖縄戦裁判に693人が並ぶ。

5.夜には、220名を越える参加で報告集会を開催。

6.目取真 俊さんからのご指摘について。

 

1.11月17日(土)から、ゆいまーる「琉球の自治」の集いで、初めて奄美大島を訪れる

 東海大学の松島泰勝先生が主宰する“ゆいまーる「琉球の自治」−万人(うまんちゅ)のもあい−”が、11月17日(土)から19日(月)まで奄美大島の宇検村(うけんそん。鹿児島県大島郡宇検村。2007年8月末現在の人口2,055人)平田(へだ)で開かれ、参加してきました。松島先生については『沖縄通信』46号でも取り上げています。

 
会場の平田公民館

 “ゆいまーる「琉球の自治」”の会合は今回が第2回です。第1回は今年3月に久高島で開かれましたが、ぼくは1回目の催しを知りませんでした。で、これには参加したいと思っていて、奄美大島を初めて訪れたのでした。
ちなみに、“ゆいまーる「琉球の自治」−万人(うまんちゅ)のもあい−”の「趣意書」は次のとおりです。

 かつて、琉球王国は独立国であった。1609年に薩摩藩は琉球の島々に侵攻し、奄美諸島を直轄領として直接統治し、沖縄島以南には納税の義務を課して間接統治をしいた。廃藩置県以後は奄美諸島は鹿児島県に、また「琉球処分」によって沖縄島以南は沖縄県に分断されることになった。その後、アメリカに統治された期間もあるが、1953年に奄美諸島が、1972年に沖縄島以南が日本へ「復帰」した。その間じつに400年、日本の支配によって琉球弧の南北の分断は続いている。
 われわれは今、分断された琉球文化圏をわれわれの手でなんとか取り戻したいと考える。奄美諸島から沖縄島、八重山諸島にいたる琉球文化圏はひと続きに連なっているものである。この分断された琉球文化圏を、いかにしてひと続きのものとして取り戻すことができるだろうか。
 今日、日本における米軍基地の大部分が集中する沖縄島では、基地反対闘争が活発に展開されている。しかし一方、経済開発はますます日々積極的に進められている。(中略)
 われわれの生活のあり方から「開発」や「観光」のあり方を問うことなしに、真の「平和」は実現できない。そのためには、これまで琉球弧の中で先人たちによって培われてきた文化や風土を大切に守り育てていくことである。これこそが「自治」である。
 インド独立運動の父、マハトマ・ガンジーは「自治」について次のように語る。「私たちが私たち自身を治めることこそが自治であり、その自治は私たちの手中にある」と。
「自治」なしには「平和」は実現できないのである。ガンジーはまた、次のようにも語る。「インド(琉球)が自給・自立して誘惑や搾取をゆるさなくなったとき、西洋や東洋のいかなる国家権力にとっても、インド(琉球)は貪欲な誘惑の対象ではなくなるだろう」と。
 日本国の敗戦から六十余年たった現在も、琉球弧には「戦後」はない。われわれはいま、分断された琉球弧の中に在るが、いまこそ、それぞれの島における「自治」を大切にしながら、島と島とを結び合うネットワークをつくり上げていく時ではないか。そして、アジアから世界へとそのネットワークをつなぎ、拡がっていこうではないか。

 11月17日(土)の午後、「本処 あまみ庵」に集合したぼくたち一行は「宇検村生涯学習センター・元気の出る館」を訪れ、村教育委員会の元田信有さんから村の歴史、文化を説明していただきました。


宇検村教育委員会の元田信有さん

 17日(土)、夜の交流会には平田の方のほか、国馬(くにば)和範・宇検村村長も見え、「ゆいわく(相互扶助)」の心で地域の自治を実現していくと話されました。そして平田の方々と黒糖焼酎を呑み交わしました。


沖永良部郷土研究会・前利 潔さん

 翌18日(日)は松島先生の問題提起と提案を受け、沖永良部郷土研究会の前利 潔さんと南方新社代表取締役の向原祥隆(むこはらよしたか)さんから奄美諸島の歴史を聞きました。

 
南方新社・向原祥隆さん

 向原さんは「奄美はだいたい沖縄の10分の1と考えるといい。しかし、10分の1でないものがある。沖縄で出版される書籍は年間500冊程度であるのに対し、奄美では100冊程だ。日本のキリスト教人口は1%、沖縄では3%、ところが奄美では5〜6%で、カトリックが多い」と話されました。
 午後は4人の方から報告を受けました。@「@やっちゃば」の前田 守さんが「奄美の経済−物産販売を中心に」、A奄美のトラさんを自認する花井恒三さんが「奄美の自治論」、B環境ネットワーク奄美代表の薗 博明さんが「奄美の環境」、CあまみFM局をNPOで運営している麓(ふもと)憲吾さんが「奄美の文化」について、それぞれ発表されました。

 
前田 守さん。左は松島先生

 @前田さんはITを活用した奄美物産の販売、「奄美王国」の取り組み等、自立経済のための実践について、A花井さんは「スロー自治論」、奄美諸島と沖縄との違い、B薗さんは環境と生活・文化との関係、奄美における開発の現状について、C麓さんはコミュニティー・ラジオによって「奄美を知り、奄美を誇りに思う」ための自らの実践についてそれぞれ報告されたのですが、これらは一つ一つを2時間も3時間もかけてお聞きすべきテーマです。それが時間の関係上、各20分での報告となり、その点がとても残念でした。

 
奄美のトラさん・花井恒三さん

 しかし、奄美を訪れて初めて奄美の歴史や現状について少しは学ぶことができました。ぼくは琉球大学大学院在学中、琉球の歴史を学びましたが、それは首里王府が奄美を版図に加えたというもので、これは全くの琉球、沖縄中心史観だったことが今回痛いほど分かりました。奄美からすれば、首里王府の侵略以外の何物でもないのです。


琉球が攻めてきた、と。

 「宇検村生涯学習センター・元気の出る館」に掲示されている年表にもはっきりとそのことが記載されています。
 1538 琉球軍が攻めてきて、與湾大親が滅ぼされ自殺する。
      (筆者注:1537年が正しいようです)
 1556 琉球軍船が二度目の征討にきた。名柄八丸が滅ぼされた。
 1571 琉球軍が三度目の征討にきた。(糠中城も参戦?)
 とあります。
 『沖縄大百科事典』によると、與湾大親(よわんウフヤ)は次のような人物です。「生没年未詳。尚清王代の奄美大島の酋長の一人。人となりは忠孝であったが、同僚の酋長が奸佞(かんねい。心が曲がっていて悪賢いこと)で、中山に入貢したとき、與湾に叛意ありと告げ、速やかに討たなければ大事にいたるであろう、と中傷した。王はこれを信じ、大兵を発して與湾を討たせた。中山軍が奄美大島に上陸したとき、與湾は天を仰いで<我罪なくして死す、我を知る者は天だけである>と縊死(いし。首つり)した。中山軍は與湾の子糠中城(ぬかなかぐすく)を捕虜として、戦利品をもち帰った」と。


参加者たち

 奄美諸島は沖縄と同様、戦後日本から行政分離され、米軍の直接統治下に入りますが、沖縄に先がけること19年、1953年12月25日に日本に「復帰」します(筆者注:当時、ダレス米国務長官のクリスマスプレゼントと言われた)。そのため、この日をもって琉球大学大島分校が廃止されました。
 前述した前利 潔さんは奄美の位置について次のように記しています。「奄美諸島の帰属をめぐる主張はいくつもあった。初期の奄美共産党の奄美人民共和国樹立論、アナーキストの奄美独立論、宮崎県帰属論、兵庫県帰属論、東京都帰属論などである。鹿児島に対する根強い反発があったからだ。しかし、鹿児島に対する反発があったとしても、日本『復帰』を達成するために現実的なものは、『元鹿児島県大島郡』として復活することであった」「ここで注目してもらいたいのは、沖縄帰属論がなかったことである。ないどころか、奄美諸島の住民は琉球諸島の住民とは別個の存在であり、『日本人』であることを声高に主張していた」「奄美諸島は『日本』という国家と、『琉球王国』という国家の境界にできた<無国籍地帯>といっていいかもしれない」(『無国籍の奄美』)。奄美人は「日本では『非日本人』として、沖縄では『非沖縄人』として差別された経験を持っている」「日本や沖縄への帰属を正当化するための、これまでの歴史認識はのりこえられなければならない。その意味からすると、琉球王国という『国籍』をもっている沖縄人よりも、私たちのほうが自由であるかもしれない」(『無国籍の「奄美」』)。


奄美大島日本復帰協議会の看板

 座談会「大島の“シマンチュ”が語る復帰と現在」(『季刊けーし風』第41号)で、ぼくたち一行の集合場所だった「本処 あまみ庵」の森本眞一郎さんは「『一度行ってみたい』という程度が沖縄人の奄美観なわけ。奄美の人は沖縄のことをよく知っている。…沖縄は、奄美を通り越して、ヤマトとアメリカしか見ていない。沖縄独立論者の話でも、奄美・宮古・八重山に州を作って、首都は沖縄に置いて、という発想しか出てこない。これは琉球王朝の発想から一歩も出てないということなんですよ。それほどまでに奄美と沖縄では、もう精神的な位相が違う。復帰の本質を問うという点では沖縄の方がはるかに先行しているが、それが現実に反映されていない」と問い、前述の薗 博明さんは「復帰以前ここ(奄美)には仕事がなくて、沖縄にたくさん流れて行ってます。2万人とも4万人とも言われていますが。そして沖縄に行った人たちが、大変ひどい目に遭ってますよね。アメリカの基地で働くときも、フィリピン人・日本人・沖縄人よりも安い賃金で、そして雨漏りのする部屋に押し込められていた」「明治に入って、1888年から52年間、鹿児島県議会の決定で、県予算から奄美を切り捨てていくんです。52年間、自分たちで食っていかなければならない時代が続く」と語っています。同じ座談会で、郷土誌『しまがたれ』主宰の義 富弘さんは「反逆ということで言うと、1440年代に奄美大島は沖縄に攻め取られるんだけれど、その後3回も反乱を起こしている。奄美大島が沖縄の完全な勢力圏に入ったのは、1570年代なんですよ。それから1609年(島津の侵攻)まで、たった30数年間しかない。完全に屈服したのは」と言います。

 
奄美大島の地図をかざして発言中の筆者

 こうした発言を読むにつけ、琉球弧という広がりで物事を考える時、琉球、沖縄中心史観を越えなければならないと自戒します。
 “ゆいまーる「琉球の自治」−万人(うまんちゅ)のもあい−”に参加していた朝日新聞の論説委員・高成田 享さんは2007年11月28日(水)の夕刊「窓 論説委員室から」の欄で『なきゃわきゃまーじん』と題して次の記事を載せています。
 「沖縄ほどには開発の波が押し寄せていない奄美は、まだまだ美しい自然が残されている。しかし、島の主産業で、織り機のある農家の生計を助けてきた大島紬の需要が減り、それに代わる黒糖焼酎やマグロの畜養だけでは、若者を島につなぎとめることが難しくなっている。どの地域も過疎と高齢化の悩みを抱えている」
 「『なきゃわきゃまーじん、きばりんしょうろ』。こんな言葉が会場から出た。あなたも私も一緒に、気張りましょう、という意味だという。
 奄美や沖縄のユイマールと呼ぶ相互扶助の精神は健在だ」と。


2.「男はつらいよ」のロケ地・加計呂麻島へ。

 “ゆいまーる「琉球の自治」−万人(うまんちゅ)のもあい−”が終了してから、ぼくたちは「男はつらいよ」の第48作「寅次郎紅の花」のロケ地である加計呂麻島に行きました。奄美のトラさん・花井恒三さんが案内してくださいました。この48作が寅さんシリーズの最後となりました。
 山田洋次監督による「寅さんは、今」の碑が建てられています。

 
寅さんは、今

 1995年の秋、ぼくたちはこの地で寅さんシリーズ第48作のロケーションをおこなった。
 寅さんの数あるマドンナのなかでも最愛のひとというべきリリーさん(浅丘ルリ子)がこの島にひっそりと暮らしている。彼女を訪ねてきた寅さんは、暖かい気候と穏やかな人情がすっかり気にいって長滞在、遠く東京は葛飾区柴又の故郷に暮らす妹のさくらたちをやきもきさせるというストーリーである。
 その翌年、即ち96年8月、寅さんこと渥美 清さんはこの世を去り、27年にわたったこのシリーズは日本中のファンに惜しまれつつ終りをつげることになった。…と、山田洋次監督が記しています。

 
リリーの家の記念碑

 「リリーの家」の記念碑にはシナリオの一部が書かれています。
 寅さん(渥美 清)とリリー(浅丘ルリ子)が一緒に暮らしていた家
 この家の表で満男(吉岡秀隆)と寅さんが劇的な再会をはたした
満男 「じゃ、お姉さんは一人で暮らしてるんですか?」
リリー 「ひとり居候がいるけどね。その人もあんたみたいに文無しなの。でも遠慮はいらないのよ、気楽な人だから。あ、いたいた。ねえ、寅さん 寅さん!」
 ギョッとしてリリーが声をかけた方を見る満男。
 石垣越しに寅がのんびり顔を出す
寅 「おう、帰ったか」
リリー 「お客さん連れてきたわよ。この人」
寅 「誰だい?」
 満男たまりかねて大声を出す。
満男 「誰じゃないよ。俺だよ、おじさん!」
 寅、ハッと身を起こす。
寅 「おう、満男か!」
 と書かれています。

 
リリーさんの家の前で。松島先生と藤原書店社長と。

 リリーさんの家の前では記念写真を撮りました。

 

3.奄美まで来たのだからと、沖縄島へ。

 せっかく奄美まで来たのだからと沖縄島に寄りました。実はこの考え方が素人なのです。伊丹⇔那覇が15,300円であるのに対し、奄美⇔那覇は17,050円掛かるのです。これも伊波普猷が言うところの「離島苦」なのでしょう。
 沖縄では11月1日(木)にオープンしたばかりの「沖縄県立博物館・美術館」を見学しました。

 
沖縄県立博物館・美術館

沖縄には首里城の近くに博物館がありましたが、県立の美術館はありませんでした。今回、新都心のおもろまちに約215億円の事業費をかけて新設されました。
美術館の基本理念は「『人間復興』の最前線/現代を見つめ、未来への展望を切り開く場/地域性と国際性」です。博物館は「沖縄の自然・歴史・文化の発信/琉球王朝文化の体系化と人類学研究の拠点づくり/見て、触れて、愛される、動く博物館づくり」を掲げています。
沖縄に行かれた時には是非見学されることを薦めます。

4.11月9日(金)、大江・岩波沖縄戦裁判に693人が並ぶ。

 11月9日(金)午前10時30分より、ぼくが“最大、最高かつ最後の山場”と強調してきた大江・岩波沖縄戦裁判の本人尋問が大阪地裁で開かれました。多分傍聴希望者が殺到するから抽選に外れるだろうと覚悟していましたが、仮に当たれば傍聴券は遠く沖縄から来られた方に回してあげようと決めていました。
 9時には大阪地裁に着きましたが、普段と異なり周辺は騒然としています。“何事か?”と見れば、原告側支援者が気勢を上げているのです。「大江健三郎は人権侵害を止めよ」との横断幕をかざして、「戦隊長による軍命はなかった」などのビラを配っています。

 
「岩波書店と大江の人権侵害を許すな!」と。

 「9月29日の県民大会にはケラマ諸島からの参加者はいなかった」とか「渡嘉敷、座間味の住民に日本軍を恨んでいる人はいない」など、明らかに事実に反するデマをハンドマイクでがなり立てています。「見よ!朝日の捏造を暴く拡大写真を(実数18,179人を何と11万人と報道!)」と書いた模造紙も掲げています。こうした行動はすべての沖縄民衆から反感を買い、沖縄民衆を敵に回すことになると彼らは気付かないのでしょうか。あの日9月29日(土)、まだ暑さ厳しい中、宜野湾海浜公園に居た人なら、このでたらめさに唖然とするでしょう。
 この日のために配備された多くの裁判所職員の一人に、ぼくは「公判に差し障るから、マイクでの演説を止めさせよ」と申し入れたところ、「責任者でないので」との返事だったので、「それなら責任者に伝えよ」と言うと、判断を仰いできたのでしょうか、「裁判所構内でないので…」との返答でした。公道だから静止させるのは警察の役目だということなのでしょう。その警察は誰もいないのですから、好き放題に彼らはわめいていました。

 
傍聴希望者であふれた地裁裏庭

 一方、「被告側には沖縄などからも支援者が駆けつけ、静かに開廷を待った」と『沖縄タイムス』は11月9日(金)の夕刊で報じました。ここに宝塚教会の大森悦子さんの話しが載っています。「兵庫県宝塚市から訪れた大森悦子さんは『沖縄の体験者のおじいさん、おばあさんたちが話していることが、なぜ(原告側に)分からないのか。人間の気持ちに立ち戻り、素直に考えてほしい』と話した」と。
 65の傍聴席を求めて693人が並びましたから、ぼくは当然落選となりました。


65席に693人が並ぶ。10倍以上の競争率

 法廷に入れなかったぼくは、1日中裁判所にいて、大江健三郎さんの入廷を激励したりしていました。
 実は、11月9日(金)の公判を前にした11月5日(月)に、日本キリスト教団兵庫教区沖縄交流委員会主催の「大江・岩波沖縄戦裁判」公開学習会が兵庫教区クリスチャンセンターで開かれ、ぼくが講師を務めました。

 
兵庫教区で講演中の筆者

 それで、11月9日(金)当日にも兵庫教区から多くの方が傍聴にみえました(残念ながら全員落選の憂き目をみましたが…)。前述した大森悦子さんもその一人で、上の写真は息子さんの大森成樹さんの撮影によるものです。

 

5.夜には、220名を越える参加で報告集会を開催。

 この日午後6時半から、エルおおさか南館ホールで「沖縄戦裁判本人尋問報告集会」を開きました。220名を越える参加があり会場は超満員になりました。ぼくと同じように傍聴できなかった方が公判の様子を少しでも詳細に知りたいとの思いで出席されたのでしょう。

 
超満員の会場

 集会では「梅澤・大江氏は何を語ったか」と題して弁護団より公判報告を詳しく受けました。
近藤卓史弁護士は、梅澤・赤松両氏の反対尋問の報告をしました。

 
近藤弁護士

 「座間味島住民に『日本兵から手榴弾を渡され、いざとなったら自決せよと言われていた』という証言は元々ある。さらに教科書問題以降、座間味島住民でそれを裏付ける証言をされた人もいる。梅澤さん本人は、(宮城)初枝がそういうふうに自決しなさいと言われていたという事実は知っていたがそれ以外は知らないと主張。しかし、手榴弾は重要な武器だから自分の許可なしに住民に渡すことはないと認めた。日本軍兵士から住民がこれで自決せよと手榴弾を渡された事実は知らないと言ったが、自分の許可なしに配られることはないということは認めた。本人は最高指揮官だから、日本軍の強制・責任・命令したことを間接的に認めたと言ってもいい。梅澤さん本人は、主尋問では自分には全く責任がないと主張。自分は宮城さんが来た時に自決するなと言ったんだから、全く責任がないと言っていた。しかし本人は1980年に宮城晴美さんに手紙に書いている。それを自分が書いたことを認めた。そこには、座間味の集団自決について軍の責任があると書いている。それを示されると、梅澤さんは「一番悪いのはアメリカ軍だ」と言ったが、1980年当時書いていることは間違いないとし、集団自決が軍に関係がないとは言えないと認めた。『沖縄ノート』を読んだのは昨年2006年ということ。『沖縄ノート』にはあなたが自決命令を出したと書いてありますかと聞いたら、ありませんと答えた。なぜ訴えたのかという意図が明らかになったと思う」
 「赤松さんの弟さんはそもそも赤松隊長から具体的に集団自決については聞いていないと確認された。具体的なことを聞いていない、知らないまま提訴している状況がはっきりした。『沖縄ノート』については兄のことを書いてあるところをパラパラ読んだだけ。敬愛追慕の情が侵害されているという主張について、果たしてそういうものがあるのかと思わせる証言だった」。

 
『沖縄ノート』をかざして、秋山弁護士

 続いて、秋山幹男弁護士が大江さんの尋問について報告しました。
 「『沖縄ノート』は大江氏を含む日本人としての自己批判の書である。守備隊長の名前を挙げてないが、それは日本人の一般的な沖縄に対するあり方を批判することが目的であって、隊長個人を非難するつもりではないからだと大江氏は述べた。『あまりに巨きな罪の巨塊』と書いたことについて、曽野綾子氏は大江氏が赤松隊長を大悪人であると非難していると『ある神話の背景』で書き、それを原告が訴訟で引用しているが、全くの誤読である。集団自決により死んだ多数の島民のことを「巨塊」(おおきなかたまり)といっているのであり、隊長のことを「巨魁」(悪人)といったのではない。『沖縄ノート』は『日本軍の自決命令』としており、『隊長の自決命令』とは書いていない。『鉄の暴風』などの文献には隊長命令があったと書いてあったが、日本国−日本軍−沖縄の第32軍−慶良間の各守備隊のタテの構造が住民に自決を強いたことが本質であったので、『日本軍の自決命令』とした。軍官民共生共死の一体化という第32軍の牛島司令官が出した方針に基づいて、軍が自決を命じたという構造がはっきりある、手榴弾が配られたということが動かぬ証拠になると大江氏は述べた。曽野綾子氏が『美しい心で死んだ人たちのことを命令で強制されたとするのは清らかな死を貶める』との富野元少尉の言葉を引用しているが、このようなとらえ方は全くの間違いだと述べた。大江氏は反対尋問に対しては、堂々と冷静に対応し、証言が崩れることは全くなかった」。
 更に、秋山弁護士は「教科書検定問題以降、新たな証言が出るなど、立証を重ねてきた。座間味島でも日本軍が住民に対して手榴弾を渡したという証言がたくさんでている。日本軍の強制はかなり立証されている。助役が命令したのではないということも、生き残った妹さんの証言で分かった。この裁判を受けて教科書検定の問題が起きた。この裁判の勝敗だけでなく、教科書検定は間違っているということははっきりとさせたい。軍の命令・強制に関しては絶対勝たないといけないと考え、一生懸命主張、立証を行ってきた」と述べました。

 次回公判は12月21日(金)午後1時15分から開かれます。この日で結審します。遅くとも午後0時30分までに大阪地裁前に集合して下さい。
 この日12月21日(金)午後6時半から、エルおおさか(606号室)で「沖縄戦裁判報告集会」を開きます。集会では、弁護団報告とともに、高校歴史教科書の執筆者である坂本昇さんより講演を受けます。
この集会にも多くの方々が参集されますよう呼びかけます。

 

6.目取真 俊さんからのご指摘について。

 11月9日(金)、沖縄から傍聴のために来られていた目取真 俊さんから、次のご指摘を受けました。
 ぼくは『沖縄通信』47号(2007年6月)で、
 「目取真 俊さんは、『軍命はなかった』というように教科書を書きかえることに、最近これほど怒りに燃えたことはない。自分が住んでいる今帰仁でも多くの人が自決している。自分の父は14歳で鉄血勤皇隊に行っている。生まれた時から15年戦争が始まっており、軍国主義教育を叩き込まれた。そして日本軍とともに戦闘に参加するが散々ひどい目にあって、スパイ視され日本兵から殺されかける体験もした。自分は死ぬまで『軍命はあった』のだと書き続けていく。(以下、略)」と書いています。
 しかし、今帰仁であったのは「自決」ではなく「住民虐殺」なのでした。目取真 俊さんからのご指摘を受け、そのように訂正します。ご指摘くださったことに心から感謝します。

 

<参考文献>
『無国籍の奄美』 前利 潔
『論座』通巻99号(特集 南島への想像力 奄美復帰50年)
(朝日新聞社)に所収 2003年8月。
『無国籍の「奄美」』 前利 潔
『季刊けーし風』第37号(特集 沖縄(研究)の歴史認識を考える)
(新沖縄フォーラム刊行会議)に所収 2002年12月。
『沖縄大百科事典』 沖縄タイムス社 1982年。
『季刊けーし風』第41号(特集 復帰から50年の奄美〜それぞれの場所から〜)
新沖縄フォーラム刊行会議 2003年12月。
『環』第30号(特集 今こそ、「琉球の自治」を)藤原書店 2007年7月。

 

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