第54号(2008年1月)

 12月26日(水)、文部科学省は教科書出版社から提出されていた再訂正申請の審議結果を発表しました。それは9・29県民大会決議である「検定意見の撤回」を拒否し、訂正申請を強制的に修正させたものでした。
 3月30日の教科書検定の発表以降、今まで口を閉ざしていた沖縄戦体験者が語った強制集団死(集団自決)とは、「日本軍により強制された死」であり、強制・命令・誘導等がなければ愛する家族を死に追いやることはないという、事実の再びみたびの確認でした。
 しかし文科省は検定意見の誤りを認めようとせず、教科書会社に「複合的な背景・要因によって住民が集団自決に追い込まれた」と記述の修正を強要し「集団自決」の本質を曖昧にしました。このような記述では、沖縄戦の実相から生まれた「軍隊は住民を守らない」という教訓を学び取ることはできません。
 検定意見を撤回しなければ問題は解決しないということを今回の結果は示しています。文科省が検定意見に固執する限り、沖縄戦の真実は教科書に書かれることはありません。
 文科省との攻防が最終局面をむかえた12月初旬、ぼくは居ても立っても居られず、文科省交渉に参加するため上京しました。

◆  目次  ◆
1.12月3日(月)、「沖縄戦 教科書検定意見撤回を求める全国集会」が開かれる。
その前段に有楽町・マリオン前で宣伝行動。

2.12月4日(火)は、文科省交渉⇒文科省前抗議行動⇒院内集会⇒記者会見と。

3.12月21日(金)の夜、「沖縄戦裁判報告集会」が開かれる。
「訂正申請を終えてー執筆者の思い」を坂本 昇さん(都立高校教員)から受ける。

4.12月21日(金)、大江・岩波沖縄戦裁判が結審す。
判決は2008年3月28日(金)午前10時。奇しくも渡嘉敷島強制集団死の日。

 

1.12月3日(月)、「沖縄戦 教科書検定意見撤回を求める全国集会」が開かれる。
その前段に有楽町・マリオン前で宣伝行動。

 12月3日(月)に東京・九段会館で「沖縄戦 教科書検定意見撤回を求める全国集会」が開かれ、この集会をメインに、3日(月)午後4時からは有楽町・マリオン前で宣伝行動、翌4日(火)には午前11時30分より文科省交渉、昼休み時間帯に文科省抗議行動、午後1時30分から院内集会、午後3時記者会見と、たてつづけに行動が組まれ、ぼくはこれらすべてに参加しました。
 ところで、辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動を初め、全国で辺野古新基地建設の撤回と、普天間基地の撤去を求める請願署名に取り組み、10月23日(火)に国会に署名を提出した(『沖縄通信』52号参照)際に、上京したメンバーも所も同じこの有楽町・マリオン前で宣伝行動を行っています。

 
有楽町・マリオン前での宣伝行動

 ところが、ぼくは東京でビラ撒きをして本当に驚きました。途行く殆どの人がビラを受け取らないのです。大阪駅前での毎週土曜日のビラ撒きに比べると、同じ枚数をさばくのに倍以上の時間を要します。寒さも加わり疲れてしまいましたが、夜、九段会館での「沖縄戦 教科書検定意見撤回を求める全国集会」には1,000名が集まり、とてもいい内容で充実したものでした。

 
九段会館に1,000名が集まる。

 冒頭、主催団体(の一つ)である東京沖縄県人会会長・川平朝清さんが「私はキリスト者です。沖縄にいた時、首里教会で、今日お見えの金城重明牧師に大変お世話になりました。県人会に『青少年の育成』という規約があり、それが『正しい歴史を教えること』という理解で参加している」と挨拶されました。

 
東京沖縄県人会会長・川平朝清さん

 ここにも平和を実現しようとするキリスト者がいるとぼくは嬉しい気持ちになりました。
 ○ 沖縄戦体験者の証言 金城重明牧師
 ○ 沖縄からの発言 高嶋伸欣さん(琉球大教授)
 ○ 発言
    @ 坂本 昇さん(教科書執筆者)
    A 暉峻淑子さん(埼玉大学名誉教授)
    B 水島朝穂さん(早稲田大学教授)
 というプログラムで、なかでも文部省(当時)に検定意見の誤りを認めさせた暉峻さんと、強制集団死にかかわる総括を防衛庁(当時)はどう書いているかを紹介した水島さんの発言はとても興味深く、参考になるものでした。


暉峻淑子さん

 暉峻さんの著書『豊かさとは何か』(岩波新書)から引用された教科書のコラムに、1991年度検定で「事実関係に誤りがあるとみられる」、「生活保護行政に対する見方が一面的である」との意見が付されました。驚いた暉峻さんが調べると、その根拠は1988年11月の厚生省(当時)の国会答弁にありました。
 1988年当時、東京都荒川区の老女が福祉事務所を非難する遺書を残し、自殺したというニュースが世間を騒がせていました。それに対し、厚生省の社会局長が国会で「遺書は迷惑をかけたことへのお詫びとお世話になったことに対する謝意につきており、直接の死因は環状動脈硬化症による病死と推定される」と答弁していました。一方、検定提出本には、老女が「福祉事務所に抗議の手紙を残して」、「無理に生活保護を辞退させられて自殺した」と記述されていました。文部省は国会答弁を唯一の根拠に上記意見を付け、コラムを削除させたのでした。事の真相は、暉峻さんの論文にありました。
 その後4年にわたる抗議行動の結果、1996年度に文部省、厚生省の謝罪を勝ち得た暉峻さんは自身の経験から「孤独な闘いだったが、私が引き下がれば日本の民主主義と科学的な真実が後退すると思った。文部省の課長に抗議して『外に雨がザーザー降っていても局長が晴れと言えばその通りか』と聞くと『ハイ、そうです』と言われた」。「同じことは何度も起こっている。文科省は、国は悪いことをしない、間違いはしないと、子どもたちに教えたいだけだ」と検定意見に固執する国の姿勢を批判しました。また、「今回の問題で、9・29県民大会のようにこれだけの人々が声を上げることには希望がある。後ろに下がらない行動をすることが大事だ」と述べ、訴え続けることの重要性を強調されました。


水島朝穂さん

 次に水島さんは、1987年、防衛研修所作成の部内資料『国土防衛における住民避難−太平洋戦争に見るその実態』を紹介し、次のように話されました。
 1944年6月25日から7月7日まで、大本営ではサイパン残留邦人24,000人の「措置」をめぐって議論が続く。陸軍省医事課長・大塚文郎大佐の『備忘録』には次の記載がある。
 「7月2日 臨時会報
軍務局長 大臣より次の事を徹底せしめよ。サイパンの居留民の仕末…」
“居留民の仕末”とはすごい。漢字では「始末」だろう。更に、大塚大佐の『備忘録』から引用すると、
 「陸軍内部にも意見あり。特に参本(参謀本部)では、女子供玉砕してもらい度しとの考えが良いとの意見があり。之を全部玉砕せしむ如く指導するについては、将来離島は勿論、戦禍が本土に及ぶ場合の前例ともなるので、大和民族の指導上重要で、事務的の処理でなく政府連絡会議のお決めを願度して上奏し、大御心の如何にして副うかを考えたしと、連絡会議で意見も出すが、自分は今迄の研究の結果は、女子供自発的意志において皇軍とともに戦い生死苦楽を共にするになれば、誠に大和民族の気魂は世界及び歴史に示されることが願わしいが、之を政府特に命令において死ねと言うのは如何なるものか。死ねと言っても心身疲労し、此大人数ができるか。皇軍の手にかけねばならぬ。…この事に関しては、直接の課員までとす。政府と大本営との連絡会議で以上の如く決定したるも、個人又は軍の意見の如く流布するは不可。…」と。
 軍の議論の仕方は、女子供が自発的に自害するように指導したいが、本土決戦になった時の前例になるので慎重に扱う。命令で死ねといっても大人数なので難しいが、軍が手にかけるのもまずい。自害してくれればよいが、敵の手に落ちるのも已むを得まい。こういう発想である。だが“大和民族の気魂”を強調していることからも明らかなように、住民は敵の手に落ちるよりは死を選ぶことを内心は期待していることが十分うかがえる。ただ“個人又は軍の意見の如く流布するは不可”とあるように、この動きはすべて秘密にされていた。
 実は軍の強制性については、10年前の第3次家永教科書訴訟の最高裁判所判決で明確に認定されている(1997年8月29日、判時1623号49頁)。「集団自決」について、次のように述べている。
 「原審(東京高裁)が認定したところによれば、本件検定当時の学界では、沖縄戦は住民を全面的に巻き込んだ戦闘であって、軍人の犠牲を上回る多大の住民犠牲を出したが、沖縄戦において死亡した沖縄県民の中には、日本軍によりスパイの嫌疑をかけられて処刑された者、日本軍あるいは日本軍将兵によって避難壕から追い出され攻撃軍の砲撃にさらされて死亡した者、日本軍の命令によりあるいは追い詰められた戦況の中で集団自決に追いやられた者がそれぞれ多数に上ることについてはおおむね異論がなく…、右事実に照らすと、本件検定当時の学界においては、…日本軍によって多数の県民が死に追いやられ、また、集団自決によって多数の県民が死亡したという特異な事象があり、これをもって沖縄戦の大きな特徴とするのが一般的な見解であったということができる」と。最高裁は、はっきりと「日本軍の命令により…集団自決に追いやられた」と認定している。
 それに対し、防衛庁はサイパン、沖縄戦を教訓にした議論をしているが、あのような悲劇を再び起こさせないようにするのが憲法9条である。また、検定制度には制度違憲、運用違憲、裁量権の乱用の3つがある。それぞれの面で戦い抜くことが大事だ。
 水島さんは概略このように話されました。


2.12月4日(火)は、文科省交渉⇒文科省前抗議行動⇒院内集会⇒記者会見と。

 翌12月4日(火)、午前11時30分より文科省交渉に臨みました。前日の集会に参加していた大阪のメンバーも仕事の関係で一足先に帰ったので、大阪からこの交渉に出たのはぼく一人となりました。沖縄選出の照屋寛徳、赤嶺政賢(衆議院)、山内徳信、糸数慶子(参議院)の各国会議員4名も同席しました。文科省側は、あの布村幸彦大臣官房審議官(初等中等教育局担当)です。

 
文科省交渉
(左より赤嶺、糸数、山内、照屋の各国会議員。右端が布村審議官)

 布村審議官は「今回の検定意見は最近の学術状況に照らして教科書調査官が原案を作成し、審議会が専門的学問的見地から審議したので全く間違っていなかったと認識している。だから撤回はしない」と述べました。その審議会では意見も出ず素通りでしたが、「何の意見も出なかった審議であっても適正な審議であった」と言う始末でした。一方、「今回の訂正申請の審議が終わり次第、検定制度全体の在り方について検討したい」と制度の見直しに言及しました。


右が布村幸彦審議官

 高嶋伸欣・琉球大教授が、昨日の集会での暉峻淑子さんのケースを上げて「検定意見に誤りがあった場合の是正措置がなされないまま今日に至っているのは、文科省の不作為、怠慢だ」と指摘しましたが、文科省側からは何の返答もありませんでした。
 ぼくたちが納得できる中味は何もなく、「制限時間の30分になったので」とか、「マスコミは冒頭撮影だけで退出して下さい」とか、これが国民の公僕かと思える対応に腹立たしい思いを持って、交渉は終わりました。


文科省前での自由主義史観グループ
(11月9日の大阪地裁前と同じ横断幕を掲げている)

 交渉終了後、昼休み時間帯に文科省前で抗議行動を持ちました。この日は自由主義史観グループが同じ場所、同じ時間帯に宣伝行動を繰り広げており、文科省前は騒然とした雰囲気につつまれました。
 3〜40名の彼らに対しぼくたちは120名ほどで、数では問題になりませんが、彼らの品のない罵声は付近の人たちのひんしゅくをかうようなものでした。文科省との交渉の報告を山内徳信議員がおこないました。


文科省交渉の報告をする山内徳信議員

 ぼくたちの行動には「沖縄戦教科書検定意見の撤回を求める市民の会−東京」のみなさんも参加していたこともあり、若者の姿も多くみられとてもパワフルなものとなりました。


文科省前抗議行動(若者も多い)

 ビラの配布にも工夫が凝らされ、サンタクロースの姿で配る人もいて、抗議行動の中ではデュエット「寿」のミニライブもあり、自由主義史観グループの品性のなさに比べ、ぼくたちの側の行動の素敵さが印象的でした。


ミニライブ
(向こうの道路からマイクで自由主義史観グループが罵声を投げかけている)

 文科省前抗議行動を終えて、今度は午後1時30分から参議院議員会館での院内集会です。お昼ごはんを食べる時間もありません。集会には社民党、共産党から各7名、民主党、無所属から各1名の国会議員を含めて100名を越える参加者がありました。多くの国会議員が最後まで出席し、意を強くしました。


冒頭、挨拶する糸数慶子議員

 集会は金城重明牧師の証言ビデオの上映から始まり、国会議員全員がリレーで挨拶・決意を披露しました。
 最後に、松田 寛・沖縄高教組委員長の「間違っていることをしっかり直していくのが教育者としての使命。何としても問題の責任を問わなければならない。私たちは逃げるわけにはいかない」との団結がんばろうで、締め括られました。
 引き続いて、同一会場で記者会見です。席上、ぼくは「今回の教科書検定意見の出発点となったのは、現在係争中の大江・岩波沖縄戦裁判である。この裁判の2名の原告は大阪在住なので那覇地裁ではなく大阪地裁に提訴するのは違法・脱法な行為ではないが、彼らは何故『鉄の暴風』とその出版社である沖縄タイムス社を、また『沖縄問題二十年』の筆者である那覇在住の新崎盛暉氏を訴えなかったのか。東京都世田谷区在住の大江健三郎氏と千代田区にある岩波書店だけをどうして訴えたのか。これは巧妙に沖縄を外して、ヤマトゥでヤマトンチュがウチナーとウチナーンチュを処断する行為だ」と従来からの主張を述べました(どの新聞も取り上げてくれませんでしたが…)。

 こうして、すべての行動を終えてぼくは東京駅へと向かいました。車中で遅い昼食を取ることになりました。東京は首都だけあって、どこもかしこも警官と機動隊だらけでした。疲れがどっと出ていました。

 

3.12月21日(金)の夜、「沖縄戦裁判報告集会」が開かれる。
「訂正申請を終えてー執筆者の思い」を坂本 昇さん(都立高校教員)から受ける。

 大江・岩波沖縄戦裁判が終わった12月21日(金)の夜、104名が参加しエルおおさかで「沖縄戦裁判報告集会」を開きました。この日のメインは、都立高校教員で教科書執筆者の坂本 昇さんの講演『訂正申請を終えて−執筆者の思い』です。
 坂本さんは次のように話されました。

 
坂本 昇さん

 2007年3月末の高校日本史検定に際して、私が参画している教科書にも「集団自決」に関する日本軍の関与についての意見が付いて修正を余儀なくされた。この記述は過去1994年、1997年、2002年の3回の検定では何ら意見がつかなかったのに…。即ち「…日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民や、集団で『自決』を強いられたものもあった」という記述には過去、検定意見は付かなかった。
 検定意見の通達は2006年12月19日、文科省でおこなわれた。検定意見は今回18ヶ所あり、調査官の説明・質疑応答は1ヶ所につき平均2〜3分程度である。調査官の説明の概要は「最近、集団自決に際して、軍の正式な命令はなかったとほぼ固まりつつあるように考えている。最新の成果といっていい林博史先生の『沖縄戦と民衆』を見ても、軍の命令があったという記述はない。それを踏まえた上で、『集団で自決を強いられたものだ』、何らかの命令もしくはそれに準じた強制力のあるものが軍からあったという、そのあたりを誤解されたら困るということで意見を付けた」というものだった。
 執筆者側の対策討議で、私は「日本軍がいなかった場所では『集団自決』は起こっていない」ということを提起したが、修正には応じざるを得ないだろうと、「『集団自決』においこまれたり、日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民もあった」と修正することにした。しかし、忸怩たる思いが残った。
 帰宅後、林博史さんの『沖縄戦と民衆』を確認した。全体を通読すれば「いずれも日本軍の強制と誘導が大きな役割を果たしており」、「日本軍の存在が決定的な役割を果たしている」(173頁)というのが結論だった。今回の検定意見の欺瞞性・恣意性・誤りの箇所である。忸怩たる思いは無念さに変わった。
 文科省が林さんの研究成果(の一部の「つまみ食い」)を根拠として例示したのだから、歴史学の成果に正しく依拠して闘いを展望すること、金城重明牧師の証言を資料として記載することが歴史教育では大きな武器となる、という2点を私は今後の方針と考えた。
 その後、9月25日に「社会科教科書執筆者懇談会」が再開され、記述の復活・訂正などについて意見交換し、以後3回開催された。
 9月29日の県民大会に私も参加した。それにしても静粛な集会だった。「命どぅ宝」の静かな決意や行政への怒りの「思い」が伝わり、感動して涙が出た。沖縄では「検定意見撤回」の意志が堅い。文科省が「応じる」という部分修正などで安易に妥協してはならないという声があがっている。
 文科省の責任と検定制度の矛盾を追及しなければならないが、高校生に2008年春から良い教科書を届けるために、修正のための準備をしておく必要もあった。ただし、検定制度の新しい「細則」により申請した後の内容の公表が困難になっているので、私は10月末、検討中の案の一部を公表した。検定意見に一旦は屈した執筆者の一人の責務として、また検定の「密室」の風通しを良くする決意でおこなった。

 (筆者注)ここで、坂本さんが「10月末、検討中の案の一部を公表した」と 語っているのは、次のことを指しています。
 高校教諭の坂本昇さん(51)は27日夕、都内で記者会見し、自ら執筆を担当した教科書で「日本軍によって『集団自決』を強いられた」と記述し、軍
強制を明記する方針を明らかにした。(中略)申請前に執筆者が訂正内容を 公表するのは極めて異例だ。
 検定後の記述は「『集団自決』においこまれたり」と、日本軍の強制性が不明りょうになっていた。今回は「日本軍によって『集団自決』を強いられたり」との記述で調整している。
 坂本さんは、本文のほかにも四点の修正を行う方針。「集団自決」の文言に脚注を付け、「これを『強制集団死』とよぶことがある」と加える。引用史料として記載していた「集団自決」体験者の証言には、「軍から命令が出たとの知らせがあり、いよいよ手榴弾による自決が始まりました(略)」との段落を追加し、分量を増やす(後略)。と(『琉球新報』10月28日より)。

 11月1日を皮切りに初旬までに6社8冊の訂正申請が出揃った。いずれも「日本軍の強制」性を書き込んだものだ。11月9日公判での大江健三郎さんの見事な証言にも励まされた。検定意見が付された箇所の修正申請・記述の復活は、極めて困難であるが是非とも実現したい。
 大江・岩波沖縄戦裁判の原告側や自由主義史観グループは、一貫して軍の命令・強制・誘導を否定して歴史をわい曲しようと策動してきた。彼らは「殉国の美」を強調するが、それは日本軍の加害をわい曲することに他ならない。戦争の真実を学ぶとは「死の美学」を知ることではない。「死の実学・戦場の実学」(吉田裕)を知ることが肝要だ。「集団自決」の「戦場の実学」から二度と繰り返さない決意を込めて自らの「生」を語る「生の実学」こそが重い。それは戦争の真実たる「死の実学・戦場の実学」が「生の実学」となって私たちを励ますからである。
 最後に「『明日は見えています』。…昨年12月からの約1年、心労は極に達している。しかし、私たちは『蹉跌と敗北の歴史』をそろそろ閉じようと思う。努力は惜しまない」とまとめられた坂本さんのお話しは、文科省と直対決する困難さとそこでの葛藤を語られ、感動をよばずにはおかないものでした。

 (筆者注)再訂正申請の結果、「日本軍によって『集団自決』AにおいこまれたりB、スパイ容疑で虐殺された一般住民もあった」となり、脚注で、「Aこれを『強制集団死』とよぶことがある。B敵の捕虜になるよりも死を選ぶことを説く日本軍の方針が、一般の住民に対しても教育・指導されていた。」となった。また、「集団自決」体験者の証言である「軍から命令が出たとの知らせがあり、いよいよ手榴弾による自決が始まりました」は削除された。訂正理由は「学習上の支障(集団自決がおこった背景・要因は複合的であるが、なかでも軍の関与が主要な要因であるということが理解しがたい)」とある。

 

4.12月21日(金)、大江・岩波沖縄戦裁判が結審す。
判決は2008年3月28日(金)午前10時。奇しくも渡嘉敷島強制集団死の日。

 大江・岩波沖縄戦裁判最後の公判が、12月21日(金)大阪地裁で開かれました。前回の11月9日ほどではないものの、この日も自由主義史観グループが宣伝活動を地裁西側道路で繰り広げていました。彼らが配っていた、『沖縄通信』ならず『月刊兵庫通信』第51号(2007年12月23日)というチラシを貰いましたが、そこには「判決は3月だが、どうやら裁判所側は『梅沢隊長と赤松隊長に対する謝罪と、今後の内容訂正を大江健三郎に命ずる』という判決になりそうだ」とあります。いやはや何を根拠にこういう文章が書けるのでしょう。
 この公判の前、12月14日(金)にぼくは「大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会」のメンバ−とともに、公正な裁判を求める署名8,192筆を裁判所に提出しました(公判当日に提出したものも含めて累計13,995筆となる)。名誉毀損裁判ではかつてない署名数とのことです。
 公判には傍聴券64枚に178名が並びました。ぼくは外れましたが、傍聴券を譲っていただき入廷することができました。傍聴席はぼくたち被告側が圧倒的でした。
 相も変らず、原告側代理人は「最終準備書面」を当日のそれも開廷時間の午後1時15分に間に合わず2分遅れて持ち込み、提出するありさまでした。
 原告側陳述では、中村弁護士が宮城晴美証言と金城重明証言、徳永弁護士が大江健三郎証言についての“感想”を述べただけでした。中村弁護士は「軍命で家族が殺せるのか、家族よりも軍命が大事なのか」、「慶良間列島で起こった集団自決は、家族を愛するがゆえの無理心中であった」とまで言いました。徳永弁護士も「大江証言は裁判のハイライトだったが『沖縄ノート』のコンメンタールのようなものだった」「曽野綾子氏が誤読している。赤松、梅澤氏も曽野氏の影響で間違った読み方をして、大江氏は怒りを抱いていると言ったが、どこが誤読なのか、私には分からない」という始末。結局、最終弁論なのにこれまでの主張をまとめることができないまま終わりました。
 最後に原告側中村弁護士が「梅澤・赤松両氏の汚名を晴らしたいという悲願を考慮された上で、政治的な圧力に左右されず、公正な判決を」と主張するに至るや開いた口が塞がりません。この裁判を政治的思惑で始め、これを利用して教科書を書き換えさせたのはどっちなんだ!と叫びたくなります。

 
公判報告をする秋山弁護士

 これに対して、被告側代理人の秋山幹男、秋山淳、近藤卓史各弁護士が、「第1 名誉毀損・敬愛追慕の情侵害の不法行為責任の法理、第2 名誉毀損等の不法行為の不成立、第3 『集団自決』の軍命令・隊長命令の真実性・真実相当性、第4 結語」と陳述し、「以上の通り、本訴請求はいずれも理由がないことが明らかであるので、棄却されるべきである」と結びました。理路整然とした中身で、裁判官、傍聴者を納得させるものでした。
 最後に深見裁判長が「判決は3月28日午前10時」と告げ、終了しました。

 判決公判は2008年3月28日(金)午前10時から開かれますので、遅くとも午前9時30分までに大阪地裁前に集合して下さい。
 この日は午前中に裁判が終わるので、当日3月28日(金)午後2時からエルおおさかで「沖縄戦裁判判決報告集会」を開きます。集会では、弁護団報告とともに、沖縄国際大学・安仁屋政昭名誉教授より『判決を聞いて』との講演を受けます。
 この集会にも多くの方々が参集されますよう呼びかけます。

 

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