第57号(2008年4月)

◆  目次  ◆

1.大江・岩波沖縄戦裁判、完全勝訴(3月28日)。
教科書検定意見の根拠はなくなった。文科省はただちに記述を回復せよ。

2.3月31日(月)、辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動が第6次の署名を提出。
3月29日(土)の第190回大阪行動に宜野座映子さん(佐敷教会員)も参加。

3.3月15日(土)から、ゆいまーる「琉球の自治」の集いが伊江島で開かれる。

 

1.大江・岩波沖縄戦裁判、完全勝訴(3月28日)。
教科書検定意見の根拠はなくなった。文科省はただちに記述を回復せよ。

 大江・岩波沖縄戦裁判の判決公判が3月28日(金)午前10時から大阪地裁で開かれました。ぼくは当然(?)抽選に外れました。当選した番号を見たところ倍率は10倍くらいでした。
 裁判所構内で待機していると、10分も経たない内に支援連絡会のメンバーによって「大江・岩波勝訴」の垂れ幕が高々と掲げられました。すると一斉に拍手と歓声が沸き上がりました。


「大江・岩波勝訴」の垂れ幕

判決主文
1 原告らの請求はいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。

  完全勝訴です。原告らの目論見は見事に打ち砕かれたのでした。

 その後、しばらくして手に入った「判決骨子」には次のようにあります。
1 沖縄ノートでは原告梅澤及び赤松大尉の氏名を明示していないが、引用された文献、新聞報道等でその同定は可能である。
2 本件各書籍は、公共の利害に関する事実に係り、もっぱら公益を図る目的で出版されたものと認められる。
3 梅澤命令説及び赤松命令説は、集団自決について援護法の適用を受けるためのねつ造であるとは認められない。
4 座間味島及び渡嘉敷島ではいずれも集団自決に手榴弾が利用されたこと、沖縄に配備された第三二軍が防諜に意を用いていたこと、第一、第三戦隊の装備からして手榴弾は極めて重要な武器であったこと、沖縄での集団自決はいずれも日本軍が駐屯していた島で発生し、日本軍の関与が窺われることなどから原告梅澤及び赤松大尉が集団自決に関与したものと推認できる上、2005年度までの教科書検定の対応、集団自決に関する学説の状況、判示した諸文献の存在とそれらに対する信用性についての認定及び判断、家永三郎及び被告大江の取材状況等を踏まえると、原告梅澤及び赤松大尉が本件各書籍記載の内容のとおりの自決命令を発したことを直ちに真実であると断定できないとしても、その事実については合理的資料若しくは根拠があると評価でき、家永三郎及び被告らが本件各記述が真実であると信じるについて相当の理由があった。
5 沖縄ノートの各記述は、被告大江が赤松大尉に対する個人攻撃をしたなど意見ないし論評の域を逸脱したものとは認められない。

 これで、原告らの提訴を理由にして教科書を書き換えた文科省の検定意見は間違っていたことが白日の下に晒されました。
 午後2時からの「判決報告集会」は、日中であるにもかかわらず、エルおおさか大会議室を超満員にする240名を越す参加者で溢れました。


立ち見も出た立錐の余地もない「判決報告集会

 秋山弁護士は「大勝利だ。国民の関心の盛り上がりが裁判所に影響を及ぼした」と述べた上で、判決内容を説明しました。


秋山弁護士

 岩波書店の『世界』編集長・岡本 厚さんは「証言された体験者の方々に対して感謝と敬意を述べたい。また大阪、東京、沖縄等全国の支援に感謝したい。今日は渡嘉敷島『集団自決』の日だ。この裁判はヌチドゥ宝という沖縄の死生観が狙われたものだ。梅澤陳述によって教科書を書き換えた文科省の責任はどうなるのか」と語り、座間味島の戦隊長が『太平洋戦争』(家永三郎著)の中で、軍命を出したと名指しされ名誉を傷つけられたと訴えたことについて触れて、「『太平洋戦争』は現代史を学ぶ者の古典であり、歴史研究の自由、表現の自由自体が問われた裁判で、勝訴したことの意義は大きい」と挨拶されました。

 
岩波書店・岡本 厚さん

 会場には、赤松戦隊長の戦友だったという方が参加されていました。「裁判は思い留まるようにとの私の説得が力及ばなかったことを反省している。控訴は断念するよう、赤松さんに話を続けていきたい」と会場から発言されたのには正直驚きました。

 報告集会終了後、第2部の「記念レセプション」に移り、ぼくが司会を担当しました。参加者一同勝利を実感し、裏話なども飛び出し、楽しい交わりの時を持ちました。


記念レセプションの司会を担当する筆者

 こうして、長い長い1日は終わりました。
 原告らは性懲りもなく4月2日(水)、大阪高裁に控訴しました。今後も手を緩めることなく、控訴審の勝利と検定意見の撤回をめざして奮闘していかねばならないと決意を新たにしています。

 

2.3月31日(月)、辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動が第6次の署名を提出。
3月29日(土)の第190回大阪行動に宜野座映子さん(佐敷教会員)も参加。

 3月31日(土)、辺野古に基地をつくらせない大阪行動は、約1年ぶりに第6次となる5,944筆の署名を近畿中部防衛局に提出しました(2007年2月16日の第5次署名提出については『沖縄通信』第44号に掲載しています)。これで署名数は、累計で3万1,544筆になりました。この日は、大正伝道所の上地 武牧師、宝塚教会の大森悦子さんも参加されました。

 
署名を提出する松本亜季代表

 質問書は以下の通りです。
1.2月に沖縄で立て続けに発生した女性への性暴力事件、その後もあとをたたない米兵による事件・事故、そして、米軍の演習などから起こる山火事や、米軍車両の学校への進入など、これらの米軍の存在によって引き起こされる事態をどのように受け止めているか。
2.3月23日に行なわれた県民大会で示された沖縄の怒りをどのように受け止めるのか。
3.辺野古の基地建設に向けたアセスメント調査の着工について、これをどのように受け止めるのか。また、この沖縄防衛局の暴挙を止めるためにどのような策を講じるつもりか。
4.今回、大阪行動が提出する第6次分の5,949筆の署名、また累計で3万1,544筆にのぼる基地建設反対の声をどのように受け止めているか。また、この署名をどのように政策に生かすつもりか。

 
近畿中部防衛局との交渉

 交渉では、なぜ沖縄に米軍基地が集中するのか。負担の軽減といいながら、辺野古に新しい基地を作るのはなぜか。米軍による事件・事故が絶えない。2月の少女暴行事件についてどう考えるのか。このような状況を続けるのは沖縄に対する差別政策ではないか、などを追及しました。近畿中部防衛局側は「閣議決定で決まっているから」とか「日米安保があるから」とか「アメリカの核の傘に守られているから」などと具にもつかない答弁を繰り返しますが、これは沖縄に基地が集中して良い理由にはなりません。また負担軽減と称して辺野古に基地を作って良いわけはありません。
 この日の話も平行線だったものの、私たちの論理展開に相手はぐうの音も出なかったといえる、迫力あるものでした。そして、この日提出した署名は、こうした申し入れがあったことも含め、本省に確実に上げること、また、那覇防衛局にも申し入れがあったことを伝えること、と同時に環境アセスの進め方等の事実関係を確認することも約束させました。


交渉終了後、近畿中部防衛局前で。

 近畿中部防衛局との交渉を目前にした3月29日(土)、第190回目の大阪行動に、来阪中の宜野座映子さん(佐敷教会員)が参加されました。

 
大阪駅前でアピールする宜野座英子さん

 宜野座映子さんは、道行く人々に「私は、基地建設を止めるために60歳を過ぎてダイビングを習いに行き、62歳でダイビングをしています」「辺野古では9時間も海に出て、船にしがみついています。“作業を止めてください!”“お願いです。あなたも、私も、ジュゴンも、亀も、さかなも一緒に生きていきましょうよ。基地ができると、みんな死んでしまうよ!”と訴えています」と懸命にアピールされました。

  3月23日(日)、大雨の中にもかかわらず「米兵によるあらゆる事件・事故に抗議する県民大会」には6,000名が集まりました。ぼくは後述するように、その1週間前に沖縄に行ったので今回参加は叶いませんでした。沖縄県知事と自民党は「被害者の心情に配慮する」との理由で、県民大会に参加しませんでした。
 西原教会員の高里鈴代さん(基地・軍隊を許さない行動する女たちの会)は、『季刊 けーし風』第58号(2008年3月)の座談会「性暴力と社会の軍事化に抗して−『良き隣人』を拒否するために」の中で、「知事のコメントが『県民大会に出るとしたら超党派が前提だ』と言っている。『私は出ます。だから超党派でやりましょう』とは言わないわけで、超党派でやるかやらないかが自分が出るか出ないかの基準だみたいに言いながら、その次に『まずは被害者の心情を』と言う。これも大変な逃げというか、ごまかしだと思います。被害者の立場を本当に思うのであれば、いま被害に遭った少女、あるいはこれまでの被害を繰り返さないための方策を具体的に検討していくとかをやって欲しい」と話していますが、まさしくその通りです。

 県民大会の決議は次の通りです。
 「私たちに平和な沖縄を返してください」−1995年、繰り返される米軍の事故・事件に抗議し、日米両政府に訴えた県民大会から13年、その時約束された「再発防止」や「綱紀粛正」はむなしく、米軍犯罪はやむことを知らない。
戦闘機・ヘリコプターなどの墜落事故、殺人的な爆音、環境破壊など、県民は被害を受け続けている。しかも、女性に対する性暴力という凶悪犯罪がいまだ後を絶たない。
 米軍は今回の事件後、夜間外出禁止などの「反省期間」を置いた。しかし事件後も飲酒運転、民間住居不法侵入などを立続けに起こした。日米両政府の言う、地位協定の「運用改善」ではすまされない実態が明らかになっている。
 基地被害により県民の人権が侵害され続けている現状をみれば、日米地位協定の抜本改正を行うことが、私たちの人権を守ることにつながる。
 13年前に約束した基地の整理縮小は一向に進まず、依然として広大な米軍基地の重圧に苦しめられている。私たちはあらためて、海兵隊を含む米軍兵力の削減など具体的な基地の整理縮小を強く求めていかなければならない。
 何ら変わらぬ現状に県民の我慢の限界はすでに超えている。
 日米両政府は、沖縄県民の訴えを、怒りを真摯に受け止め、以下の事項を確実に進めるよう、強く要求する。
    記
一、米軍優先である日米地位協定を抜本改正すること。
一、米軍による県民の人権侵害を根絶するため政府はその責任を明確にし、実効ある行動をおこすこと。
一、米軍人の綱紀粛正策を厳しく打ち出し、実効性ある具体的な再発防止策を示すこと。
一、米軍基地の一層の整理縮小を図るとともに、海兵隊を含む米軍兵力の削減を図ること。

 

3.3月15日(土)から、ゆいまーる「琉球の自治」の集いが伊江島で開かれる。

 東海大学の松島泰勝先生(筆者注:松島先生はこの4月より龍谷大学経済学部国際経済学科の准教授に就任されました)が主宰する“ゆいまーる「琉球の自治」−万人(うまんちゅ)のもあい−”の第3回会合が3月15日(土)から17日(月)まで伊江島で開かれ、参加してきました。大阪からの参加者は金城 馨さんとぼくの二人でした。昨年11月に奄美大島の宇検村で持たれた第2回会合の報告は『沖縄通信』53号に、2003年9月に訪れた伊江島の報告は同6号に、それぞれ載せていますので参考にしてください。
 本部港からフェリーで約30分で伊江島に到着します。伊江島は一島(伊江島)一村(伊江村)で、1908年村になり今年4月1日で村制100周年を迎えました。総面積約23?、人口約5,100人、年間平均気温23度という、温暖で美しい亜熱帯の島です。
 4月1日、村制100周年を祝う記念事業「百人の歌と踊り」(主催:伊江村)では「住民の心のよりどころといわれる伊江島タッチュー(城山)の中腹で、100人の地謡と琴の奏者を集めた『遊庭のかずにすだち出ぢら』。総勢300人の出演者がタッチューを舞台に斉唱や民俗芸能を披露し、参加者が共に祝った。元気な100歳以上の大先輩がくす玉を割るという演出も添えられた」(『沖縄タイムス』4月1日付夕刊「今晩の話題」)とのことです。
 そして、伊江島は阿波根昌鴻さんのヌチドゥタカラの家(反戦平和資料館)で世界的に有名なところなので、今回の会合のテーマの一つは阿波根昌鴻さんの生涯に学ぶというところにもありました。
 3月15日(土)午後遅く現地集合した参加者は、伊江島観光協会会長の山城克己さんの案内で島を約半周、足早に回りました。


ニャーティヤガマ

 まずニャーティヤガマ(千人洞)に行きました。沖縄戦下、1,000人もの住民が避難していましたが、住民の中に海外に移住し英語を話せる人がいて、米軍が住民を殺さないことが分かって「集団自決」に到りませんでした。ここから千人洞という名前もつけられました。


伊江島土地を守る会の看板

 次に基地の前にある団結道場を訪れました。団結道場で住民は互いに励まし合い、米軍と非暴力で話し土地の一部を取り戻することができました。
 湧出(ワジー)、島村屋観光公園と回って、最後に城山(ぐすくやま)に登りました。ぼくは城山には2003年9月に一度登っています。


城山頂上で(左端が筆者)。

 伊江島のほぼ中央部にそびえるのが城山で、地元の人々の信仰の対象となっている、伊江島のシンボルです。海抜172mの頂上からは島全体が見渡せます。この山を「伊江島タッチュー」と呼びますが、それはあくまでも島外の人がいう言い方で、島民はあまり使いません。


城山から見た農地

 城山から見た農地。葉タバコ、サトウキビ、花卉(かき。観賞用に栽培する植物)等の栽培がおこなわれています。島では地下ダム工事が進められています。伊江島には川がなく、溜池の水を使って農業に従事してきました。飲み水は沖縄島からの海底送水で運んでいます。
 2日目の3月16日(日)は、一日中討議でした。目取真 俊さん、海勢頭 豊さん、安里英子さんらも合流されました。


謝花悦子さん

 まず、阿波根昌鴻さんの闘いについて、ヌチドゥタカラの家(反戦平和資料館)館長の謝花悦子さんが約1時間半にわたってお話をしてくださいました。
 目取真 俊さんは、名護市では談合がまかり通っていて、この10年間で自立が遠のいている。基地のない生活のビジョンを示す必要があると発言されました。


目取真 俊さんと海勢頭 豊さん

 中でもぼくが注目したのは山城克己さん(伊江島観光協会会長)の「民泊事業」についての報告でした。山城さんは前日、島を案内してくださった方で、村会議員、伊江村軍用地等地主会会長でもあり、島村屋観光公園の経営もなさっています。


山城克己さん

 「民泊事業」というのは中高校生を民宿で受け入れる事業で、伊江島への年間観光客10万人の内、約3万人の中高校生が民宿を利用しており、滞在期間中は家族の一員として体験学習をします。即ち、2007年は県内の小学校66校、6,697人、ヤマトゥからの中高校306校、2万9,320人が民泊を利用しました。現在、人口5,100名、2,000戸のうち120戸が民泊事業に登録しており、年間2億円の経済効果を挙げています。山城さんは「体験学習をしながら島の歴史と文化、風習などを学んで、生涯思い出に残る修学旅行にしてほしい」と語ります。
 人口50人の鳩間島に里親制度がありヤマトゥの小中学校生を受け入れていますが、伊江島の経験は短縮版里親制度のようです。


海勢頭 豊さんのライブを聴く。

 夜は恒例の交流会で、海勢頭 豊さんのライブに酔いました。
 1970年12月に起こったコザ騒動の歌の演奏になった時、親指を立てて、誰彼となく「ディ」「ディ」と叫び始めました。これは何を言っているのかと聞くと、「あの時はみんなこう言ってコザを目指したのだ」とのことで、安里英子さんなんぞは涙を流して喜んでいました。
 この意味が分からないままヤマトゥに帰って来たのですが、『沖縄タイムス』4月3日付「ちゅくとぅば」Bで大城立裕さんが「ディッカ」について「『いで、行か』というのが語源かと思いますが、『さあ、行こう』よりよほど簡潔だと思いませんか」と書いています。これを読んでこの事を言っていたのではないのかと思いました。ぼくの耳には「ディ」としか聞こえませんでしたが、本当は「ディッカ」と言っていたのではないでしょうか。


交流会で(右端が筆者)。

 最終日の3月17日(月)は、前日のうちに沖縄島に帰った人もいて人数は減りましたが、次回会合を今年の11月、西表島で開催することを確認して3日間の日程を終了しました。


ヌチドゥタカラの家の前で記念撮影

 

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