第58号(2008年5月)

◆  目次  ◆

1.4月24日(木)に沖縄戦検定意見撤回を求める全国集会が開かれる。

2.翌4月25日(金)に文科省と交渉。文科省は検定意見の誤りを頑なに認めず。

3.大江・岩波沖縄戦裁判の第1回控訴審公判が6月25日(水)に決定。
夜には報告集会・支援連絡会第3回総会を開催。

4.4月15日(火)に靖国合祀取消訴訟の第9回口頭弁論が開かれる。
3月19日(水)、沖縄でも合祀取消訴訟が提訴される。

 

1.4月24日(木)に沖縄戦検定意見撤回を求める全国集会が開かれる。

 4月24日(木)、東京・豊島公会堂で「沖縄戦検定意見撤回を求める全国集会−いらない!こんな教科書検定−」が開かれ、参加して来ました。この集会は、ぼくが世話人を務める「大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会」をはじめ「大江・岩波沖縄戦裁判を支援し沖縄の真実を広める首都圏の会」「沖縄戦の歴史歪曲を許さず沖縄から平和教育をすすめる会」など13団体が実行委員会を作って開かれたものです。
 藤岡野上等兵と八木隊長(名前にも皮肉が込められていることに注意を向けてください)の「玉砕命令」を皮肉るコントで始まった集会のプログラムは実に盛りたくさんのものでした。


「玉砕命令」を皮肉るコント

 報告1は、○ 東京から:検定意見撤回と記述回復の取り組み、○ 大阪から:大江・岩波沖縄戦裁判地裁判決報告、○ 沖縄から:基地問題・教科書問題、そして、○ 首都圏在住の沖縄出身大学生からの発言
 報告2は、○ 教科書検定制度の問題点を暴く、○ 理科教科書検定の実態と学界からの批判
 講演は、世界から見た日本の教科書検定−私の経験を通して
というものでした。
 沖縄から、大浜敏夫さん(沖縄県教職員組合委員長)が3・23県民大会の報告に立ち、「19歳から21歳くらいの海兵隊員は毎日殺人訓練が終わると、酒と喧嘩と女性を求めて街へ繰り出す。4月14日(月)、15日(火)の2日間、3・23県民大会より65名が上京し要請行動をおこなった。しかし、副(代理)ではなく正で我々との面談に応じたのは江田五月参議院議長だけだった。沖縄に基地は押し付けないと日米両政府が思うようになるまで、我々は闘う」とアピールしました。


沖縄県教組・大浜委員長

 「教科書検定制度の問題点を暴く」では俵 義文さん(子どもと教科書全国ネット21事務局長)が、「教科書検定によって教育の内容がかえって悪くなり、文学作品などが教材から消され、教科書から真実が覆い隠されてきた」と、次のような事例を紹介しました。
 高校現代社会教科書の扉の、並木道を若い二人の女性が腕を組んで歩いている写真に対して「これはレスビアンではないか」という検定意見で別の写真に変更された。文科省によると、日本では女性同士が腕を組んで歩くのは「非道徳的」で「規範意識に欠ける」ということらしい。
 小学校国語教科書で、鷹の巣を取るために子どもが杉の木に登る話を書いた『たかのす取り』という教材が「木登りのような危険なことは教科書に載せるのは好ましくない」という検定意見で削除された。
 生活科で「しぜんのうごきはうつくしい。あるくのはかちまけのないスポーツだ」と書いたら、「競歩というスポーツがあるので、この記述は間違い」という検定意見を付けて削除させた。「おふろからでて はしったとき とまったとき あるいたとき 同じ足なのに あしあとはかわる」という記述に対して、「しつけに問題がある。お風呂から出たらちゃんと身体をふくはずだから、足あとはつかない」ので、この文章はダメという検定意見を付けた。出版社が小学校一年生ではなく小さな妹の話に修正したら合格した。
 中学校地理で国の名前をいろいろな特徴(「海に面した国」など)によって分類して記述した中で、「赤道直下にある国は?」としたところ、赤道直下という言葉は使ってはいけないという検定意見を付け、教科書調査官は「赤道直下というと、空の上に赤道があるように誤解するおそれがあるから不適当だ」と説明している。
 「ここにあげたような検定が、はたして教育的といえるだろうか。本当に教科書をよくするためというより、きわめて恣意的、ご都合主義的な検定ではないだろうか」と俵さんは報告しました。


俵さん

 講演「世界から見た日本の教科書検定−私の経験を通して」を暉峻淑子さん(埼玉大学名誉教授)から受けました。その内容の多くは昨年12月3日(月)に東京・九段会館での「沖縄戦 教科書検定意見撤回を求める全国集会」で聞いたものと重複します(『沖縄通信』54号参照)ので、ダブらないところを書くと、検定意見は、暉峻さんの場合(高校現代社会)50ページの中にグラフを含めて220ヵ所あったといいます。「なるほど、私が気付かなかったところによい注意をしてもらえた、と喜んで修正に応じたのは数ヵ所に過ぎず、あとはどうでもよいようなところに細かい修正意見が付けられた」と。例えば「恐慌」という言葉を「不況」にせよとか、「開始され」は「はじまり」に直せとか、「単位あたりの労働時間」の「の」をとれとか、「国と地方自治体」は「と」はとって「国・地方自治体」ならよいとか、延々と続く。そして「すべての修正意見に共通するのは、国のしたことを悪く書いてはいけない、日本はいい国だ、と書けという一貫した検定思想である」と強調されました。

 
沖縄高教組・松田委員長

 集会の最後に松田 寛さん(沖縄県高校障害児学校教職員組合委員長)が登壇し、「昨年の9・29県民大会には11万人を越える参加があった。1万数千人しか集まっていないというデマがマスコミを使って流されたが、当日、仕事や用事などのために参加したくてもできなかった人たちがTVやラジオを見、聞いていた。だからTVやラジオの向こう側に20万人も30万人もの人たちが参加していたのだ。沖縄では県教育委員会が読本を作成し、『軍の強制』をきっちりと教えることにしている。今後も記述の回復までがんばろう」とまとめました。
 集会は、次の決議を採択し、翌日の文科省交渉に提出することを確認しました。
(1)(9・29)沖縄県民大会実行委員会が昨年末にあらためて決議したように、沖縄戦記述に対する2006年度の検定意見をただちに撤回し、「集団自決」に軍の強制という記述を復活させること。
(2)教科書検定制度を以下のように抜本的に改革し、検定制度を段階的に廃止すること。
ア、不透明な形で任用されている教科書調査官が検定を主導するのをやめさせ、近い将来に教科書調査官制度を廃止すること。
イ、検定審議会を文科省から独立した機関とし、委員の人選を透明化・公正化すること。
ウ、検定過程の情報を文書化し公開性を高め、市民監視のもとで検定が行われるようにすること。
エ、検定意見の強制力を緩和し、執筆者の見解が尊重されるようにすること。

 今回の集会は13団体が実行委員会をつくっての全国集会であったにもかかわらず、350名の参加者にとどまりました。またテーマが多岐にわたり過ぎ、焦点とすべき軸があいまいになったといえましょう。これは、翌日の交渉で垣間見えた文科省の壁の厚さを映し出しているのかも知れません。

 

2.翌4月25日(金)に文科省と交渉。文科省は検定意見の誤りを頑なに認めず。

 全国集会の翌日4月25日(金)、集会決議を要請書にしたため、文科省との交渉に臨みました。昨年の12月4日(火)と同様、文科省側は布村幸彦大臣官房審議官(初等中等教育局担当)が応対しました(『沖縄通信』54号参照)。

 
俵さんが布村審議官に要請書を渡す。

 「梅澤陳述書を基に文科省は検定意見を付したが、その陳述書は『信用性に疑問がある』との判決が出たのだから、検定意見は撤回すべきだ」との私たちの追及に対し、布村審議官は「梅澤陳述書は契機となったが根拠にしたのではない。それについて違う証言や事実が出てきたとしても、契機となった出来事を見直すことはしない。検定意見撤回は考えていない。裁判によって検定を変えるべきではない」と回答しました。「裁判で出された証言や研究成果をもとに検討し直すべきだ」と糾すと、「検定意見は正しいと思っている」「今後検討することはない」と開き直りとも思える答弁に終始しました。論理をこそ重んじねばならない文科省の、論理のかけらすらない対応に唖然とするばかりでした。そして、布村審議官の部下たちが「もう時間ですので」「時間がオーバーですので」と、うるさくはやし立てる言動を目にすると、これが私たちの税金で食っている公僕かと情けなくなりました。
 松田 寛・沖縄県高教組委員長も「学説は事実を否定できるのか。体験者の証言を裁判所が認めた以上、文科省はこのことを踏まえて新たな訂正に入るべきだ」と追及しました。
 交渉に参加するため文科省に行って、ぼくは驚きました。というのは昨年12月の時は仮ビルディングに入居中だったからです。文科省構内に、天皇を賛美する「君が代」に出てくる「さざれ石」が鎮座しているのです。

 
文科省構内に鎮座する「さざれ石」

 「国歌に詠まれているさざれ石」との題をつけた説明札には次のように書かれていました。
 この石は学名を石灰質角礫岩と言う。石灰石が雨水に溶解して、その石灰分を含んだ水が時には粘着力の強い乳状体となり、地下において小石を集結して次第に大きくなる。
 やがてその石が地上に出て、国歌に詠まれているように、千代に八千代に年を経てさざれ石の巖となりて苔をむす、その景観誠にめでたい石である。
 全国至る所の石灰質の山に産する石であるが、特にこの石は国歌発祥の地と言われる岐阜県揖斐郡春日村の山中にあったもので、その集結の過程と状態はこの石を一見してよく知ることができる。

 通常、案内板等を掲示する時には、例えば大阪府とか奈良市とか、誰が掲示したのかが明記されていますが、この説明札にはそれがありません。何かを追及された時の逃げ道を予測してのものだと考えられます。この無責任体制は戦前・戦中・戦後と続いている日本の国是と言ってもいいでしょう。

 
マスコミ各社との記者会見

 文科省交渉の後、記者会見を持ちマスコミ各社も多数集まりましたが、しかしながら、報告記事を掲載した商業紙は沖縄の2紙のみでした。

 

3.大江・岩波沖縄戦裁判の第1回控訴審公判が6月25日(水)に決定。
夜には報告集会・支援連絡会第3回総会を開催。

 大江・岩波沖縄戦裁判の第1回控訴審公判が6月25日(水)に決まりました。公判は午後2時から開かれますので、傍聴される方は遅くとも午後1時30分までに大阪地裁裏門に集合して下さい。
 この日6月25日(水)午後6時半から、エルおおさか(606号室)で「報告集会・支援連絡会第3回総会」を開きます。
 この集会にも多くの方々が参集されますよう呼びかけます。

 現在「大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会」は、「大江・岩波沖縄戦裁判を支援し沖縄の真実を広める首都圏の会」「沖縄戦の歴史歪曲を許さず沖縄から平和教育をすすめる会」とともに、大阪高等裁判所宛の署名に取り組んでいます。下記アドレスに署名簿がありますので、プリントアウトしていただき、多くのみなさまが署名活動に加わって下さいますよう要請します。締切日は6月20日(金)です。

http://susumerukai.web.fc2.com/kyoukasyosyomei02.pdf

 

4.4月15日(火)に靖国合祀取消訴訟の第9回口頭弁論が開かれる。
3月19日(水)、沖縄でも合祀取消訴訟が提訴される。

 4月15日(火)午前11時より大阪地裁で靖国合祀取消訴訟の第9回口頭弁論が開かれました。ぼくは昨年12月18日の第7回公判と今年2月12日の第8回公判には、大学院の関係で行けなかったので、久し振りの傍聴となりました。この公判は、大江・岩波沖縄戦裁判より傍聴希望者が少ないので抽選に当たる確率が高く、この日も法廷に入ることが出来ました。
 この日は、「原告第18準備書面(靖國神社合祀の加害行為性)」を新井弁護士が陳述しました。それに対し被告の国と靖国神社側は特に何も述べず、午前11時35分に公判は終了しました。
 「原告第18準備書面」の説明は、午後1時からエルおおさかで開かれた「裁判かみ砕き報告・学習集会」で康 由美弁護士より受けました。


韓 由美弁護士

 「原告第18準備書面(靖國神社合祀の加害行為性)」は、「申請も承諾もなく、原告らの親族を勝手に靖國神社に合祀したことの加害行為性」、「靖國神社合祀を取り消すよう請求を受けてもこれを拒否し、合祀を続けていることの加害行為性」を靖國神社合祀という行為の意図・態様・効果(社会的影響)の検討を通じて明らかにしたもので、章立ては次の通りです。
第1 合祀取消請求を拒否した被告靖國神社の回答と、その論理
 1 原告らのした合祀取消請求と、被告靖國神社の拒否回答
 2 拒否回答の論理
第2 靖國神社合祀の意図・目的、態様
 1 戦後も引き継がれている「明治天皇の聖旨」
 2 靖國神社合祀の意図・目的
 3 合祀という行為の具体的内容
第3 靖國神社合祀の効果(原告らおよび一般に与える効果)
 1 合祀祭の一般的効果−悲しみの感情の誉れの感情への転換
 2 戦前の国定教科書に見る靖國神社合祀と「殉国精神の宣揚普及」
 3 被告靖國神社の行うその他の祭典・行事
 4 小括
第4 結論

 要約すると、「第1」では、合祀取消請求を拒否する靖國神社は、@「明治天皇の聖旨」と「創立以来の伝統」により A「国事殉難者」を合祀しているのであるから、事前に遺族の承諾を得て祀ることはしていない、Bこのような形で「国事殉難者」に感謝することは「大方の日本人の伝統的信念」であるから C合祀取消には応じられない、と答えており、この論理の中に靖國神社の本質や実相、加害行為性を解明する手がかりが含まれている、と述べています。
 「第2」では、「明治天皇の聖旨」によれば、靖國神社合祀の意図・目的は、@戦没者の「追悼」にはなく、反対に国を守った功績者を神として「祀る」こと、Aそのことによって「殉国精神を宣揚普及」することにある。日本国憲法の政教分離原則の下では、家族の祭祀は私事であり、公の祀りたることの承認を求めることはできず、平和主義の下では、殉国の精神の受容を人に押しつけることは許されない、と言います。
 ○ 追悼とは、死者をしのんで、いたみ悲しむこと
 ○ 祀るとは、1.供物・奏楽などをして神霊を慰め、祈願する。2.神としてあがめ、一定の場所に鎮め奉る。奉祀する。3.祈祷すること、です。
 「第3」では、靖國神社合祀は戦没者たちの死を「最高の栄誉」と讃え、「国事に命を捧げる」ことこそ最高の徳であるとする靖國神社のメッセージを発信し、広く国民に普及することを意図・目的とし、その意図・目的通りの効果を発揮している。しかしそれは、原告らにとっては肉親である戦没者がそのようなメッセージの流布に利用されていることにほかならない、としています。


丹羽雅雄弁護士

 いよいよ沖縄でも合祀取り消し訴訟が始まりました。この日は、沖縄の裁判も担当している丹羽雅雄弁護士から「沖縄・靖国神社合祀取消訴訟」と題して、次のような報告を受けました。
 沖縄・靖国神社合祀取消訴訟は、@沖縄戦での住民被害の実相が「戦傷病者戦没者遺族等援護法」(この法律については『沖縄通信』第20号に載せていますので参照して下さい)の沖縄への拡大適用によってねつ造・幻化され、A日本国家と共同した靖国神社の無断合祀によって「天皇制国家に殉じた英霊」として顕彰する「靖国思想」に取り込まれ、B靖国思想の流布・宣伝に利用されている現実と、C原告らの被害を問う、訴訟である。
 「戦傷病者戦没者遺族等援護法」の沖縄への拡大適用の経緯は次の通り。
1952年 2月10日 「琉球遺家族会」結成
1952年 4月30日 「戦傷病者戦没者遺族等援護法」公布施行
1952年 7月 1日 「南方連絡事務局」を総理府内に創設。那覇市に「那覇日本政府南方連絡事務所」を創設
1953年 3月    北緯29度以南の南西諸島にも適用琉球政府社会局援護課、市町村に援護係設置「琉球遺家族会」は
              「琉球遺族連合会」(後に「沖縄遺族連合会」)へ改称し、市町村に「遺族会」結成。
              同連合会は1953年10月17日に「日本遺族会」の支部として正式加入
1953年 9月    遺族年金・弔慰金・傷害年金証書が沖縄に公布
1953年10月14日 沖縄「靖国神社参拝団」初出発(厚生省からの補助と自費参加者)
1955年 1月12日 『琉球新報』が「ひめゆり援護始まる−当時の若い女子学徒の殉国の姿」を掲載
1956年 3月    中等学校男子は軍人、女子生徒は軍属適用
1957年 7月    厚生省「沖縄戦の戦闘参加者処理要綱」を決定。住民の戦闘協力・戦闘参加」を20種に類型した
             「戦闘参加者概況表」にまとめる。軍の命令を聞き分けられる小学校適齢年齢の6歳以上
1958年以降     遺族申請による「申立書」(遺族本人)と「現認証明書」(第3者)の提出業務が行政主導によって
              一斉に始まる(5万5,724人)⇒行政主導の「沖縄戦体験記述」はすべて「殉国死」という
             「靖国思想」に添うものでなければならなかった。
1981年以降    6歳未満にも適用拡大
 このように50年代、60年代は、住民被害者の国家賠償、国家補償の願いが「援護法」の枠内に取り込まれ、沖縄戦の実相が「靖国思想」の中にねつ造・幻化される過程であったが、69年の「沖縄県史」第9巻、70年からの第10巻の聞き取り調査により、住民の視点からの「沖縄戦体験記録」が編集され、「反靖国の視点」による沖縄戦認識が共有され、定説化されるようになった、と丹羽弁護士はまとめられました。

 
原告ら

 最後に、所用で退席した一人を除く原告全員が立ち、それぞれ心に染みる挨拶をされました。なお、台湾からの原告・楊元煌(アウィー、Awi)さんは、義父の氏名が霊爾簿(れいじぼ)に記載されていないことがほぼ確実となったため、提訴を取り下げました(楊元煌さんのことは『沖縄通信』第38号に載せています)。

  次回第10回口頭弁論は6月10日(火)午前11時より大阪地裁202大法廷で開かれます。一日かけての証人尋問です。傍聴される方は午前10時までに地裁正門前に集合して下さい。多くの参集をお願いします。

 

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