第59号(2008年6月)

5月24日(土)、25日(日)の2日間、関西社会学会第59回大会が四国・松山大学で開かれました。
そこで、ぼくは『大江・岩波沖縄戦裁判に表出された現代の沖縄差別−沖縄戦は何故「国民の記憶」とならないか−』と
題した研究論文を発表しました。ぼくたち有志で持っている「沖縄研究会(仮)」のメンバーである門野里栄子さん(甲南女子大学)も、
ぼくと同じ「政治・社会運動部門」で、論文『<帽子をかぶった>平和活動者−無意識の抑圧者から主体的な支援者へ(素描)−』を発表されました。
 そこで、今号の『沖縄通信』は、従来と異なり学会発表論文を若干修正の上、掲載します。
少し硬い文章となっており、通常より長文になっていますが、ご了承ください。

◆  目次  ◆
大江・岩波沖縄戦裁判に表出された現代の沖縄差別
                   ──沖縄戦は何故「国民の記憶」とならないか──

1.はじめに

2.大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判とはいかなるものか。

3.強制集団死(集団自決)とは何か。

4.「軍の強制」を削除した教科書検定意見

5.沖縄戦は何故「国民の記憶」とならないか。


1.はじめに

 2005年8月に大江健三郎と岩波書店が、沖縄戦の元戦隊長とその弟の二人から書籍の差止めと損害賠償を請求される民事訴訟を大阪地方裁判所に提訴された。
 裁判所は2008年3月、「原告らの請求はいずれも棄却する」との被告側完全勝訴の判決を言い渡したが、この裁判を根拠の一つに挙げて2007年3月、文科省は沖縄戦における強制集団死(集団自決)で「軍の強制はなかった」と高校歴史教科書を修正する検定意見を発表するに至った。
 その後、沖縄では2007年9月に11万6,000人が参加する「教科書検定意見撤回を求める県民大会」が開かれ、島ぐるみで抗議の意志を示したが、同年12月、文科省が教科書出版社から提出されていた再訂正申請の審議結果を発表して、教科書書き換え問題は当面の結末をみるところとなった。
 本論考は、以上のような経過の中で、現代の沖縄差別がどのように貫かれているのか、それに対するウチナーンチュ(沖縄人)の抵抗とヤマトゥ(沖縄以外の日本)の対応、さらに沖縄戦が何故「国民の記憶」とならないのかをテーマに、分析を試みたものである。

 
関西社会学会第59回大会(於:松山大学)

 

2.大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判とはいかなるものか。

 2005年8月5日に裁判を提訴した原告は、1945年の沖縄戦で米軍が最初に上陸した@慶良間列島・座間味島の最高司令官である梅澤裕第1戦隊長と、A慶良間列島・渡嘉敷島の最高司令官である赤松嘉次第3戦隊長(故人)の弟・秀一の二人、被告は大江健三郎と岩波書店である(以下、「大江・岩波沖縄戦裁判」と略す)。
 訴状によると、梅澤少佐が@座間味島で、赤松大尉がA渡嘉敷島で、それぞれ自決命令を出して多くの島民を集団自決させたと、@については『太平洋戦争』(家永三郎著 1980年刊)と『沖縄ノート』(大江健三郎著 1970年9月刊)に、Aについては『沖縄問題二十年』(中野好夫、新崎盛暉共著 1965年6月刊)と『沖縄ノート』に記述されているが、それらは事実に反しているから、これら書籍の出版、販売、頒布の禁止と、大江健三郎と岩波書店に対し謝罪広告の掲載と損害賠償を請求した裁判である。
 だが、この提訴については、
1.何故、大阪地裁にという場所の問題
2.何故、大江健三郎と岩波書店を被告にという対象の問題
3.何故、今になってという時期の問題
4.方法論上の問題
 等について、疑問が出てくる。
 まず、何故、大阪地裁にという場所の問題と、何故、大江健三郎と岩波書店を被告にという対象の問題を見てみよう。
 二人の原告はともに大阪在住なので那覇地裁ではなく大阪地裁に提訴すること自体は違法・脱法な行為とはいえないが、東京都在住の大江健三郎と同・千代田区にある岩波書店だけを訴え、どうして『沖縄問題二十年』や『沖縄ノート』の元資料となっている『鉄の暴風』とその出版社である那覇市の沖縄タイムス社を訴えないのか。『沖縄問題二十年』は訴えているにもかかわらず、その共著者の一人である同市在住の新崎盛暉・沖縄大学名誉教授を訴えないのか(中野好夫は故人)。それは両者の所在地と居住地がともに沖縄(ウチナー)に存するからであり、そのことを回避したのだと筆者は考える。この点を指摘する論説は皆無に等しい。管見によれば、2007年12月21日の裁判結審後、2008年2月27日に山崎行太郎が、「赤松氏を名指しで批判し、最初に『軍命令説』を主張したのは『鉄の暴風』である。であるならば、赤松氏等は、何故、『鉄の暴風』ではなく、大江氏の『沖縄ノート』を告訴したのか。不可解である」(『琉球新報』「大江岩波訴訟 保守論壇を憂う 下」)と記述し、また、林博史が『歴史学研究』831号(2007年9月号)の『沖縄戦「集団自決」への教科書検定』で、「本来であれば、沖縄タイムスを訴えるべきだろうが、そうすると沖縄全体を敵に回すことになるので、ヤマトンチューを相手に大阪で訴訟をおこなうという策に出たのかもしれない」と簡単に触れたものだけにとどまる。筆者は裁判が提訴された初期の段階からこの点を指摘してきた(例えば『沖縄通信』第33号 2006年3月)が、これらはいずれもその後に執筆されたものである。
 これは、ヤマトンチュ(日本人)が那覇地裁ではなく大阪地裁のあるヤマトゥ(沖縄以外の日本)で、巧妙に沖縄とウチナーンチュ(沖縄人)を排除した土俵で沖縄とウチナーンチュを処断しようとする行為であり、1879年の琉球処分が、1972年の施政権返還がそうであったように、ウチナーンチュから反論の場と機会を奪った上で処分せんとする行為だから、これこそ今日の沖縄差別にほかならないといえる。
 なお、新崎盛暉は、原告・梅澤と赤松、そして被告・大江に対する本人尋問がおこなわれる2007年11月9日当日の『琉球新報』朝刊「識者評論」欄に(談)として、「『集団自決』の書物が数多くある中、岩波書店と作家の大江健三郎氏が標的(被告)となったことは、自由主義史観側が平和主義の象徴的、権威的な存在とみる岩波と大江氏を攻めることで、提訴の効果を最大に発揮するねらいがある。大江氏著書の『沖縄ノート』が主な目標であり、私の共著『沖縄問題二十年』が標的にされたのは、そのついでだろう」と書いていることについて、筆者はそうした見解を取らない。「ついで」であるかどうかは別にしても、新崎を「標的(被告)」にし得なかったところにこそ注目すべきなのだ。それに続いて、「一方、当初は沖縄と直接対決するためらいも自由主義史観側にあったのではないか。彼らは基地や戦争という沖縄の史実に対して知識不足だったため、沖縄を避けてきたと思う」についても、彼らは、「沖縄の史実に対して知識不足」だから「避けた」のではない。沖縄とウチナーンチュを排除した土俵で沖縄とウチナーンチュを処分しようとする確信的な行為なのだ。新崎はこの点を軽視している。
 しかし、こうした原告らの戦術は、渡嘉敷島での集団自決体験者である金城重明(那覇中央教会牧師)の証人調べが、2007年9月10日に那覇地裁で出張尋問としておこなわれたことにより潰えたといえる。その上、この出張尋問に梅澤、赤松両名は原告であるにもかかわらず出廷しなかった。前述の新崎が、「審理が進むにつれ、沖縄との正面対決を避けられなくなった。…沖縄との対峙を迫られ、その矛先を沖縄社会に向けてきた」と述べている点については首肯できる(原告らは、何故か2006年9月1日の第5回公判で『沖縄問題二十年』を訴えから取り下げた)。
 次に、何故、今になってという時期の問題である。
 原告らが、命令を出して島民を集団自決させたことは事実に反するという根拠にしているのは、@座間味島に関しては、2000年出版の宮城晴美著『母の遺したもの』において、「弾薬供与を懇願に行った5人のうちで生き残った女子青年団長」だった宮城初枝(晴美の母)が、「一時期部隊長の集団自決命令があったと証言し、その後、原告・梅澤に対し、部隊長の自決命令はなかったと謝罪して」(筆者注:『母の遺したもの』によると、謝罪したのは1980年12月中旬のこと)おり、A渡嘉敷島に関しては、「作家・曽野綾子は、現地に足を運び、関係当事者に直接取材するなどの徹底した調査を行い」、1973年出版の『ある神話の背景』で、「集団自決命令があったことを支持する証拠がないことを明らかにした」ことに拠っている。であるとするなら、@については1981年の早い時点で、Aについては1973年中に、名誉毀損で訴えることが可能であったにもかかわらず何故訴えなかったのか、との疑問が当然に出てくる。
 1985年の時点で、原告・梅澤は“えん罪”を晴らすために、『鉄の暴風』を発行した沖縄タイムス社の本社ならびに東京支社の前で、そして、『沖縄県史』を発行した沖縄県史料編集所へ、宣伝カーを乗りつけてスピーカーを使った抗議の実力行動に出ている(逆に、大江健三郎、岩波書店への抗議行動はしていない)にもかかわらず、だ。
 2007年11月9日の本人尋問で、原告側弁護士が、「訴訟を起こすまでにずいぶん時間がかかったが、その理由は?」と問うたのに対し、原告・梅澤は、「資力がなかったから」と答えているが、33名もの原告側弁護団を編成するまでに、この間に資力が調ったとは遽かに考えられない。それは、後述する自由主義史観研究会のテコ入れがあって初めて実現を見るに至ったといえるのである。
 さらに、方法論上の問題がある。
 書籍の記述に誤りがあり、名誉を毀損されたと考えた人は、まずその出版社(今回の場合は岩波書店)に交渉を申し入れ、両者の言い分が平行線を辿って埒が明かないと判断した時に、初めて裁判に訴えるのが一般的なプロセスであるが、二人の原告にそうした節は見られない。原告の適格性を疑わせる出来事が、同じく2007年11月9日に現出した。本人尋問で被告側弁護士が、「『沖縄ノート』はいつ頃読んだのか」と質問したのに対し、提訴が2005年8月であるにもかかわらず、原告・梅澤は、「読んだのは昨年(2006年)」と答え、また、「『沖縄ノート』にはあなたが自決命令を出したと書いてありますか」との問いに、「ありません」と答えたことであり、もう一人の原告・赤松は、「難しいのですね、『沖縄ノート』は兄の部分だけ飛ばしてパラパラと読んだ」と答えたのである。さらに、「提訴を起こしたきっかけは、兄・赤松嘉次の陸軍士官学校の同期生だった山本明さんから誘われたから」とも答えた。これらの証言から原告としての適格性が問題とならざるを得ない。

 
研究論文発表中の筆者

 では、以上述べたような問題は、どこから発生するのであろうか。
 2005年になって、自由主義史観研究会(代表 藤岡信勝・拓殖大学教授)が“沖縄プロジェクト”を立ち上げ、同年5月20日にメンバー9人が2泊3日で渡嘉敷島、座間味島を訪れ、「軍命はなかった」との調査結果を得たという。そして、6月4日に同研究会主催の緊急集会「沖縄戦集団自決事件の真相を知ろう」が約80名の参加で開催され、藤岡信勝代表は、「この集会を起点にすべての教科書、出版物、子ども向け漫画をしらみつぶしに調査し、あらゆる手段で嘘をなくす」と発言し、「集団自決強要」の記述を削除するよう国や教科書会社などに要求していくことを決議した。この集会を『沖縄タイムス』は、「『開戦前夜』を思わせる雰囲気だった」(同年6月14日付)と報道した。同年7月10日には同研究会の『会報95号』で、藤岡信勝代表は、「自由主義史観研究会 取り組む当面の三つのテーマ」として「全国大会、沖縄集団自決、教科書採択」を挙げている。
 こうした経過を経て、2005年8月5日にこの裁判が提訴され、同日直ちに、「沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会」が結成された。これらを見ても自由主義史観研究会グループがこの裁判に大きくかかわっている、否、主導していると見ても過言ではない。それは、「沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会」のホームページに、「今回の裁判は梅澤、赤松両氏の名誉を回復するだけでなく、日本の名誉を守り、子供たちを自虐的歴史認識から解放して、事実に基づく健全な国民の常識を取り戻す国民運動にしなければならない」と述べていることからも明らかである。「事務局は現在活動中の『靖國応援団』の構成をほとんどそのまま引継いでいます」といい、自由主義史観研究会、靖國応援団、新しい歴史教科書をつくる会大阪などが、この「支援する会」の協力団体となっている。
 以上のことから、この裁判が名誉毀損のかたちを取っているものの、きわめて政治的なプロパガンダを目的にしたものであるということができるのである。

 
沖縄研究会(仮)の門野さんが発表中

 

3.強制集団死(集団自決)とは何か。

 沖縄戦は、米軍の本土進攻をひき延ばすための捨て石作戦であった。「捨て石」とは何か?「和風の庭に置く石。土木工事の基礎にする石。すぐには役立たないが、将来に備えてする行為」、「将来、または大きな目的のために、その場では無用とも見える物事を行うこと」とある。沖縄戦は勝ち目はないが、将来の本土決戦、国体護持に備えてする行為、将来のヤマトゥのために、または本土決戦、国体護持という大きな目的のために、その場では無用とも見える沖縄戦を行うことなのだ。他者を「捨て石」にすることは差別である。だから、この「捨て石作戦」は、ヤマトゥの軍によるウチナーンチュ差別(政策)であった。
 1944年8月、牛島満・第32軍司令官の全軍に対する7項目からなる訓示の第五「現地自活ニ徹スヘシ」には、「極力資材ノ節用増産貯蓄等ニ努ムルト共ニ創意工夫ヲ加ヘテ現地物資ヲ活用シ一木一草ト雖モ之ヲ戦力化スヘシ」(そして、この第七には「防諜ニ厳ニ注意スヘシ」との記述がある)とあり、これに基づき一木一草をも戦力化するという方針がとられた。さらに1944年11月、球第1616部隊(第32軍司令部)は『報道宣伝防諜等に関する県民指導要綱』を定め、「軍官民共生共死ノ一体化」具現の方針を発表し、ここでも防諜の徹底化をはかることとした。
 こうして、根こそぎ動員の下、老幼婦女子に至るまでが戦闘に協力させられ、また積極的に協力した。防衛隊(飛行場建設や陣地構築のために、17歳以上45歳以下の男性が召集された。その後17歳以下も45歳以上も集められ、その数2万3,000人で、その6割に当たる1万3,000人が戦死した)や学徒隊(鉄血勤皇隊やひめゆり隊、白梅隊など、沖縄の学徒1,780人で結成され、半数が戦死した)も、沖縄県民が「天皇の赤子」であることを実証するために、即ちヤマトンチュとなるために、ヤマトンチュとして認められるために敵前に突撃していった。沖縄戦の「軍民一体の戦闘」は明治以来の皇民化教育の成果であり、一体化路線が沸点に達した瞬間でもあったのだ。ここに沖縄戦の悲劇の本質があるといえる。
 しかし一方、1945年4月の『球軍会報』には、「爾今 軍人軍属ヲ問ハズ標準語以外ノ使用ヲ禁ズ 沖縄語ヲ以テ談話シタル者ハ間諜トミナシ処分ス」とあり、ウチナーンチュがヤマトンチュと一体化しようとした沸点であるこの時、ヤマトゥの軍はウチナーンチュを潜在的スパイと見なしていたのだ。この「沖縄語」を例えば「日本語」や「大阪弁」に置き換えてみれば、その差別性は明白となる。「処分ス」とは殺害すること、殺すことである。これは、「ウチナーンチュは殺す」ということと同意語である。関東大震災時の朝鮮人虐殺を想起させるものだ。
 ところが、いよいよ敵が上陸する段になると、とりわけ座間味島・渡嘉敷島のような離島においては、この『軍民一体』はむしろ作戦の災いとなった。住民はヤマトゥの軍の陣地配置や部隊の編成、弾薬の数量まで知っており、彼らが捕虜となれば軍の機密は容易に敵に漏れてしまうからである。ヤマトゥの軍は、『生キテ虜囚ノ辱メヲ受ケズ』という戦陣訓を一般住民に押し付けていた。それ故、圧倒的な米軍の包囲下、島からの往来を禁止され、沖縄島との音信不通という状況下で島民が唯一選択できたのは、軍から手渡された手榴弾で自爆することでしかなかった。たまたま米軍に救出された人びとは、ヤマトゥ兵から報復が加えられた。
 原告らは軍命を隊長命令の有無のみに矮小化する裁判戦術を取ってきたが、慶良間諸島の前島のように、軍隊がいなかった島では強制集団死(集団自決)は発生していないという一事から見ても、軍の強制は自明のことである。住民をスパイの口実で虐殺したことと、強制集団死はメダルの裏表であり、同根なのだ。加害者が前者はヤマトゥ兵、後者が住民自らという違いがあるだけで、前者は「処刑」であり、後者は「玉砕」であった。
 このように論考を進めてくると、沖縄戦から導きだされたとして人口に膾炙している「軍隊は民衆を守らない」という教訓を掘下げる必要に迫られる。沖縄戦で引き起こされた歴史的事実は、「ヤマトゥの軍は住民を守らなかったどころか死に追いやった」ということであり、より正確には、「ヤマトゥの軍隊はウチナーンチュを虐殺し、(強制集団)死に追いやった」ということだ。歴史に仮定はないと言われるが、本土(ヤマトゥ)で沖縄戦の如き地上戦が展開されていたなら、ヤマトゥの軍隊は、ウチナーンチュを虐殺したようにヤマトンチュを殺したであろうか。筆者は疑問を禁じ得ない。
 ヤマトゥ軍(原告は隊長命令に矮小化するが)の命令・強制・強要・誘導を否定するために、原告側が公判で主張した論理は次のようなものであった。
 2006年3月24日の第3回公判で陳述した準備書面(2)の結語に、「日本人として、今一度、当時の誇り高き日本人の心について考えてみてほしい」とあるように、沖縄の住民の死を、崇高なる献身的犠牲を持って自ら進んで殉死したという。2006年11月10日の第6回公判では、座間味島であった「玉砕命令」について、「住民の手記などに命令の主体が書かれていない」と指摘し、「住民が軍の命令と受け取り、それが軍や隊長の風評の元となった」と、“住民の思い込み”論を主張した。そして、2007年3月30日の第8回公判で、「座間味島民は手榴弾で自決しようとしたが不発弾が多くて死にきれなかった。これは軍が操作方法を教えなかったからで、軍が命令していなかった証拠だ」と、無理な三段階論法を展開し、結審をむかえた2007年12月21日の第12回公判では、「軍命で家族が殺せるのか、家族よりも軍命が大事なのか」、「慶良間列島で起こった集団自決は、家族を愛するがゆえの無理心中であった」と主張するに至った。
 以上のような原告側の主張は、11万6,000人が参加した2007年9月29日の「教科書検定意見撤回を求める県民大会」における吉川嘉勝の発言と比較してみると、その具体性、迫真性についての落差が明確となる。即ち、吉川嘉勝は、「村長の天皇陛下万歳の後、あちらこちらで手榴弾が爆発するのを記憶しております」、「今回の教科書検定結果には我慢がなりません!」、「沖縄はまたも国の踏み台、捨て石になっている。子どもや孫の時代が危ない! みんなそう自覚しているからここに参集しているのだろうと思います。為政者はそのわれわれの思いをきちっと、きちっと受け止めるべきです!」、「第一に、渡嘉敷でも座間味でも日本軍がいなければ『集団自決』は決行されなかった、第二に、赤松隊長が北山(にしやま)に島民数百人も集めなければ329人もの死者は出なかった、第三に、手榴弾が民間人に渡されなければ『集団自決』は決行されなかった」、「事実を解釈によって歪曲してはならない!」と、訴えたのである。

 
宿泊先のホテルから松山大学を望む

 

4.「軍の強制」を削除した教科書検定意見

 文科省は2007年3月30日、沖縄戦における強制集団死(集団自決)で、「軍の強制はなかった」と高校歴史教科書を修正する検定意見を発表した。書き換えられた教科書が2008年度から使用されることになる。検定意見に際して文科省は、2005年8月5日に提訴された大江・岩波沖縄戦裁判を根拠の一つに挙げている。
 検定意見が発表された2007年3月30日は、大江・岩波沖縄戦裁判の第8回公判日であった。報道の解禁は午後6時以降との「プレス協定」がなされていたが、この約束を破って、法廷で原告側・徳永弁護士は、「今回の教科書検定で軍命はなかったと修正されたことは我々の主張が取り入れられた結果であり、大変喜ばしいことである」と、発言した。前述したように、この裁判には場所の問題、対象の問題、時期の問題、方法論上の問題等があり、かつ適格性においても問題があったが、判決の結果を第二義的なものと位置付ければ、高校歴史教科書を修正せんとするこの検定意見は、原告側にとって提訴した目的の半分以上を達成したことになるのかも知れない。また、検定意見の発表に当たって、文科省が参考にした「集団自決」に関する主な著作等の中に「沖縄集団自決冤罪訴訟」があったが、この用語は原告側だけが使っているものである。
 ところで、沖縄戦に関する教科書検定は過去2回問題となり、今回が3度目である。
 1982年、高校教科書『日本史』(実教出版)に、江口圭一が、「六月まで続いた戦闘で、戦闘員約十万人、民間人約二十万人が死んだ。鉄血勤皇隊・ひめゆり部隊などに編成された少年少女も犠牲になった。また、戦闘のじゃまになるとの理由で約八百人の沖縄県民が、日本軍の手で殺害された」と記述したところ、検定意見が付き、結局、削除せざるを得なくなった。文部省(当時)は、江口が示した沖縄県立平和祈念資料館のパネル資料は根拠にならないとし、『沖縄県史』は、「体験談を集めたもので一級の資料ではない」として、これも認めなかった。この検定について、同年9月、沖縄県議会は、「県民殺害は否定することのできない厳然たる事実であり…、削除されることはとうてい容認しがたい」とし、「同記述の回復が速やかに行われるよう強く要請する」との意見書を全会一致で採択した。その結果、文部省は、「次の検定の機会に県民の方々のお気持ちに十分配慮して検定をおこなう」(小川平二文相)と、譲歩せざるを得なくなり、これ以降、日本軍による住民殺害の記述が教科書に載ることとなった。
 しかし、翌年1983年の検定において、家永三郎が『新日本史』に日本軍の住民殺害を記述したところ、文部省はその点は認めざるを得なかったが、集団自決の人数の方が多かったのだから、集団自決をまず書けとの検定意見を付した。それに対し家永は1984年に提訴した。これが第3次教科書訴訟とよばれているものである。最高裁判決では、集団自決を記述せよとの検定意見は違法とまでは言えないとして家永側敗訴となったが、軍の強制性については次の事実が認定された。
 「原審(東京高裁)が認定したところによれば、本件検定当時の学界では、沖縄戦は住民を全面的に巻き込んだ戦闘であって、軍人の犠牲を上回る多大の住民犠牲を出したが、沖縄戦において死亡した沖縄県民の中には、日本軍によりスパイの嫌疑をかけられて処刑された者、日本軍あるいは日本軍将兵によって避難壕から追い出され攻撃軍の砲撃にさらされて死亡した者、日本軍の命令によりあるいは追い詰められた戦況の中で集団自決に追いやられた者がそれぞれ多数に上ることについてはおおむね異論がなく…、県民を守るべき立場にあった日本軍によって多数の県民が死に追いやられたこと、多数の県民が集団による自決によって死亡したことが沖縄戦の特徴的な事象として指摘できるとするのが一般的な見解」であるとし、「集団自決の原因については、集団的狂気、極端な皇民化教育、日本軍の存在とその誘導、守備隊の隊長命令、鬼畜米英への恐怖心、軍の住民に対する防諜対策、沖縄の共同体の在り方など様々な要因が指摘され、戦闘員の煩累を絶つための崇高な犠牲的精神によるものと美化するのは当たらないとするのが一般的であった」(1997年8月29日。判時1623号49頁)と。
 その後、教科書もこうした書き方が一般化していったのである。
 そして、今回が3度目で、今回は強制集団死(集団自決)で、「軍の強制はなかった」と書き換えよというわけである。
 以上の経過を、あえて図式化して表示すれば、@ヤマトゥ軍による住民殺害(⇒削除⇒記述の復活)⇒A集団自決記述を指示⇒B強制集団死(集団自決)で軍の強制はなかった、となる。
 これに対する沖縄の抵抗は、文科省の予想を超えたものだったといえよう。
 2007年5月14日の豊見城市議会、同月15日那覇市議会を皮切りに、41あるすべての市町村議会で検定意見の撤回を求める意見書が採択された。那覇市議会のそれは、「沖縄戦における『集団自決』が、日本軍による命令・強制・誘導などなしに起こり得なかったことは紛れもない事実」だと指摘し、「(事実)がゆがめられることは、悲惨な地上戦を体験し、筆舌に尽くし難い犠牲を強いられてきた沖縄県民にとって、到底容認できるものではない」と断定した上で、「歴史を正しく伝え、悲惨な戦争が再び起こることがないようにするためにも、今回の検定意見が速やかに撤回されるよう強く要請する」としている。沖縄県議会は異例ともいえる、同一会期内で6月22日と7月11日の2回、意見書を全会一致で採択した。
 教科書書き換えについての世論調査でも、「反対」が81.4%に達し、「分からない」10.6%、「賛成」8.0%を大きく上回った。反対の理由は、「沖縄戦の歴史をわい曲するから」52.4%、「『集団自決』の現実を伝えていないから」37.0%、「日本軍の関与が明確だから」9.5%となっている(『沖縄タイムス』5月13日付)。
 そして、6月9日に3,500人の参加で、「沖縄戦の歴史歪曲を許さない沖縄県民大会」が開かれ、11万6,000人が参加した9月29日の「教科書検定意見撤回を求める県民大会」へと進んだのである。大会は、「県民の総意として国に対し今回の教科書検定意見が撤回され、『集団自決』記述の回復が直ちに行われる」ことを決議した。検定意見の撤回と記述回復の二つを求めているわけである。
 県民大会の成功に驚いた文科省は、急遽「訂正申請」があれば受け付けると表明した。文科省が何よりも心を砕いたのは、この問題がヤマトゥにまで波及することだった。沖縄の中だけに閉じ込めておけば大丈夫との思惑がこの方針となった。「訂正申請」は、「教科用図書検定規則」で「誤記、誤植、脱字若しくは誤った事実の記載又は客観的事情の変更に伴い明白に誤りとなった事実の記載があることを発見したときは、発行者は、文部科学大臣の承認を受け、必要な訂正を行わなければならない」(第13条)とあるから、「訂正申請」受理によって、県民大会決議である教科書検定意見の撤回は拒否し、「集団自決」記述の回復はうやむやにしようとの政治的意図がここには隠されていたのである。
 こうして、11月上旬に教科書出版社6社8冊が「訂正申請」をおこなった。その後、文科省は「訂正申請」を検定調査審議会にかけ、それを理由に申請内容や途中経過の公開を一切禁止する旨を教科書出版社に厳命した。審議会は『基本的とらえ方』をまとめ、これを12月4日に『指針』として各出版社に口頭で伝達した。それは、軍の責任を曖昧にし、軍が強制したのではなく住民の側が強

沖縄戦記述の推移

 

当初の申請
(06年4月)

検定決定
(07年3月)

訂正申請
(07年11月初旬)

再修正後
(07年12月26日)

山川出版社

『日本史A改訂版』

日本軍によって壕を追い出され、あるいは集団自決に追い込まれた住民もあった。

日本軍に壕から追い出されたり、自決した住民もいた。

日本軍によって壕を追い出されたり、あるいは集団自決に追い込まれた住民もあった。

そのまま承認

東京書籍

『日本史A
現代からの歴史』

日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民や、集団で「自決」を強いられたものもあった。

集団自決においこまれたり、日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民もあった。

日本軍によって「集団自決」においこまれたり、スパイ容疑で虐殺した一般住民もあった。

日本軍によって「集団自決」においこまれたり*、スパイ容疑で虐殺された一般住民もあった。

三省堂
『日本史A改訂版』
『日本史B改訂版』

日本軍に「集団自決」を強いられたり…

追いつめられて「集団自決」した人や…

日本軍に手榴弾を手渡されて自決を強要された人びと(「集団自決」)や…

日本軍の関与によって集団自決に追い込まれた人もいるなど…

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日本軍により、県民が戦闘の妨げになるなどで集団自決に追いやられたり、…

県民が日本軍の戦闘の妨げになるなどで集団自決に追いやられたり、…

日本軍により、戦闘の妨げになるなどの理由で県民が集団自決に追いやられたり、…

日本軍により、戦闘の妨げになるなどの理由**で県民が集団自決に追いやられたり、…

実教出版
『高校日本史B
新訂版』

日本軍のくばった手榴弾で集団自害と殺しあいをさせ…

日本軍のくばった手榴弾で集団自害と殺しあいがおこった。

日本軍は、住民に手榴弾をくばって集団自害と殺しあいを強制した。

強制的な状況のもとで、住民は、集団自害と殺しあいに追い込まれた。

清水書院

『高等学校
日本史B改訂版』

日本軍に集団自決を強制された人もいた。

集団自決に追い込まれた人々もいた。

手榴弾を配布されたり、玉砕を強いられたりするなど、日本軍の強制によって集団自決に追い込まれた人々もいた。

日本軍の関与のもと、配布された手榴弾などを用いた集団自決に追い込まれた人々もいた。

第一学習社

『高等学校改訂版日本史A』

集団自決のほか、スパイ容疑や、作戦の妨げになるなどの理由で日本軍によって殺された人もいた。

そのまま合格

日本軍によって、集団自決に追い込まれたり、スパイ容疑や、作戦の妨げになるなどの理由で殺された人もいた。

スパイ容疑や、作戦の妨げになるなどの理由で、日本軍によって殺された人もいた。日本軍は住民の投降を許さず、さらに戦時体制下の日本軍による住民への教育・指導や訓練の影響などによって、「集団自決」に追い込まれた人もいた。

*、** 側注として、住民に敵の捕虜になるより死を選ぶ教育・指導があったと説明

制と思い込んだのだという趣旨だった。結果、山川出版社の1冊を除き、ほかの7冊すべてが訂正申請文案の修正を強要された。
 しかも、『指針』にもとづく訂正文の「調整」は教科書調査官に委任されたため、密室の中で調査官と出版社の間での訂正申請文の修正が行われることになった。「訂正申請」の結果は、ヤマトゥの軍が強制した、強要した、強いたという趣旨の記述は一切認めず、「複合的な背景・要因によって住民が集団自決に追い込まれた」と記述の修正を強要し、「集団自決」の本質を曖昧にした。
 こうした経過を経て、12月26日、文科省は教科書出版社から提出されていた再訂正申請の審議結果を発表した。前ページの表が「沖縄戦記述の推移」である。それは9・29県民大会決議である教科書検定意見の撤回と「集団自決」記述の回復を拒否し、「訂正申請」を強制的に修正させたものとなった。
 ヤマトゥ軍という主語を消す、ヤマトゥ軍と強制集団死(集団自決)の関係をあいまいにしようとする政府の意図するところは、「戦争ができる国」に向けた国民意識形成のために、“軍隊は住民を守らない”(前述したように、正確に
は、ヤマトゥの軍隊はウチナーンチュを虐殺したのである)という沖縄戦の教
訓を抹殺したいということであろう。そのために、ヤマトゥの軍隊によるウチナーンチュに対する蛮行を隠蔽・否定する必要があるのだといえる。それは沖縄戦の歴史をわい曲し、記憶を消し去ることである。

 
第1シンポジウム 被爆がもたらす<意味>の現在

 

5.沖縄戦は何故「国民の記憶」とならないか。

 前述したように、12月26日、文科省が教科書出版社から提出されていた再訂正申請の審議結果を発表した日、地元2紙(『沖縄タイムス』と『琉球新報』)は『号外』を発行し、内容を直ちにウチナーンチュに伝えた。『沖縄タイムス』の見出しは、「『軍が強制』認めず」、「検定意見『今後も有効』」とあり、『琉球新報』のそれは、「『軍強制』認めず」、「3冊『関与』に後退/検定意見を堅持」である。翌12月27日の『沖縄タイムス』には、「密室審議で灰色決着/文科省、体面に固執」、「ぼけた核心 落胆/記述回復『生きている間に』」ともある。
 一方、ヤマトゥの新聞の見出しは、「『軍の関与』記述回復」(『朝日新聞』)、「教科書検定/集団自決問題『日本軍の関与』が復活『強制』は認めず」(『毎日新聞』)、「教科書検定/沖縄戦集団自決『軍の関与』記述」(『読売新聞』)であった。
 はたして、「軍の関与が復活」なのか、「軍の強制認めず」なのか。
 今まで見てきたように、検定調査審議会の結論は、第一に、検定意見は撤回しない。第二に、「日本軍によって強制された」というような軍の強制を示す表現は採用しない。第三に、日本軍によって「追い込まれた」などの軍の関与を示す記述は認める、という3点に集約される。検定で消えた「強制」を「関与」という形で復活させ、問題の決着を図ったのだから、「軍の関与が復活」ではなく、「軍の強制認めず」が正確なのだ。
 次に各紙の『社説』を見る。まず地元2紙。
 『琉球新報』は、「教科書問題『軍強制』は明らか/検定意見は撤回すべきだ」として、「『集団自決』の現場にいながら命拾いをした多くの体験者らがこれまで『軍の強制』を証言してきた。その事実を…追究する努力を尽くさず、体験者の証言を顧みることもなく『集団自決』の本質とも言える『軍の強制』を削除できるほど、歴史は軽いものなのか」、「すべての『集団自決』で軍の強制を示す根拠はない。だからといって、軍の強制が明らかにあったケースがあるにもかかわらず『軍の強制』記述を一切認めないのはあまりにも乱暴な論理である」、「『集団自決』の重要なポイントである『軍の強制』の記述抜きには、正しい歴史を子どもたちに教えることはできない」と、主張を展開した。
 『沖縄タイムス』は、12月27日と28日の2日に亘って、「教科書検定審報告」(上)(下)を掲載した。(上)「史実をぼかす政治決着」では、「(文科省は)なぜこれほど『強制』という言葉の使用を忌避するのか、不可解というほかない」、「隊長命令があったかどうかという問題と、日本軍によって強制されたという問題を混同してはならない」、「2005年度までは軍の強制記述が認められてきた。なぜ、今回、学説の大きな変化がないにもかかわらず、検定意見がついたのか。係争中の裁判の一方の主張を検定意見の根拠にしたのはなぜなのか」と述べ、(下)「幾つもの問いが残った」では、「検定意見が撤回されていない以上、同じ問題が再び繰り返される恐れがあるし、何よりも沖縄にとって大きな課題は、これから先、沖縄戦をどのように継承していくかという問題である」、「次代を担う学生に希望したいのは、今回の検定事例を丹念に、さまざまな角度から検証する機会をつくってほしいということである。大きな問いを引き受けることが戦争体験の継承と普遍化につながっていく」と結んでいる。
 次に、ヤマトゥの新聞の『社説』を見る。
 「集団自決検定/学んだものは大きかった」との見出しで『朝日新聞』は、「訂正申請の審議で、『軍が強制した』というような直接的な表現を最後まで許さなかったことには疑問がある」、「とんでもない検定」と書きながらも、「結果としては、内容はいっそう充実したかもしれない」と、検定調査審議会の結論を是認するような論調になってしまっている。同じような論調は、「集団自決記述『強制』排除になお疑問が残る」とした『毎日新聞』にも見られる。即ち、「十分とはいえないまでも、今回の訂正検定(筆者注:このような単語はない。「訂正申請」とすべき)で沖縄戦の実態や背景の説明を前より増やしたことは歓迎すべきだ」と言う。しかし、「軍・官・民一体の戦時体制のなかで、捕虜になることは恥じであり、米軍の捕虜になって悲惨な目にあうよりは自決せよ、と教育や宣伝を受けてきた」(清水書院『高等学校日本史B改訂版』)とか、「戦時体制下の日本軍による住民への教育・指導や訓練の影響など」(第一学習社『高等学校改訂版日本史A』)と、いくら複合的な背景・要因を書き加えても、軍の強制を記述しなければ事の本質は明らかにならないのだ。『讀賣新聞』に至っては、「『沖縄』教科書“政治的訂正”の愚を繰り返すな」(筆者注:沖縄だけで使用されている教科書、とも映る)と題して、「政府が異例の訂正申請を認める発端となったのは、9月29日に沖縄県宜野湾市で開かれた検定意見の撤回を求める県民大会だった。『参加者11万人』という主催者発表の数字が伝えられたが、その後、俯瞰写真に写っている参加者を数えた東京の大手警備会社は、1万8000から2万人と指摘している。実数を5倍以上も上回っていた主催者発表の数字に、政府が驚いたことで始まった“訂正劇”だった。政府は、教科書検定に対する政治介入の愚を二度と繰り返してはならない」と、主張した。


松山大学構内

 

 かくもこれほどまでに、何故、沖縄とヤマトゥの間には“落差”があるのか。結論的にいえば、ヤマトゥの論調が政府・中央官庁発であるのに対して、沖縄のそれは、目線が強制集団死(集団自決)を身近に体験した者とともに在るということではないのか。
 この“落差”の克服なくして、前述した「文科省が何よりも心を砕いたのは、この問題がヤマトゥにまで波及することだった。沖縄の中だけに閉じ込めておけば大丈夫との思惑」を超えて、ヤマトゥが沖縄と出合うことはできないのではないか。しかし現状は、沖縄の教科書だけではなく、全国の教科書が書き換えられるにもかかわらず、未だヤマトンチュは「沖縄問題」と考えているのだといえよう。
 ところで、日本ジャーナリスト会議(JCJ)は、2007年7月、優れたジャーナリズム活動に贈るJCJ賞に『沖縄タイムス』「集団自決」問題取材班の長期企画『挑まれる−沖縄戦』キャンペーンを選んだ。JCJは受賞理由を、「沖縄戦での住民『集団自決』は『軍命によるものではなかった』とする策動に対し、取材班を組んで、反撃。策動派は『大江健三郎・岩波書店』を告訴し、文部科学省は教科書検定で介入している。長期キャンペーンは沖縄県の『島ぐるみ』の戦いをリードしている」と述べているが、ヤマトゥのジャーナリズムは沖縄に賞を贈ること(拍手を送って、「がんばって下さいネ」と言うこと)をもって良しとするのではなく、目線を政府・中央官庁発から民衆の側に置くことが求められている。
 今回の教科書検定問題であらわになったのは、軍による強制を認めようとしないヤマトゥと、沖縄戦の歴史わい曲を許さないとする沖縄との対立の構図だった。この構図は戦後一貫して繰り返されてきたのだ。沖縄戦における強制集団死(集団自決)やヤマトゥ軍による住民虐殺の体験は「土地の記憶」ではあるが、「国民の記憶」とはなっていない。一方、広島、長崎の被爆体験は「土地の記憶」であると同時に「国民の記憶」にもなっている。それは何故か。
 例えば、2007年9月29日の県民大会で、県民へのアピール(開会の挨拶)として詠まれた次の詩は、「国民の記憶」へと、希求するものである。

 砲弾の豪雨の中へ放り出され/自決せよと強いられ
死んでいったうちなーんちゅの魂は
怒りをもって再びこの島の上を さまよっている

 いまだ砲弾が埋まる沖縄の野山に/拾われない死者の骨が散らばる
泥にまみれて死んだ魂を/正義の戦争のために殉じたと
偽りをいうなかれ

 歴史の真実をそのまま/次の世代へ伝えることが
日本を正しく歩ましめる
歪められた教科書は/再び戦争と破壊へと向かう

沖縄戦の死者の怒りの声が/聞こえないか
ヤマトゥの政治家・文科省には届かないか
届かなければ/聞こえなければ
生きている私たちが声を一つにして/押し上げ/訴えよう

 沖縄戦の史実がどうして「国民の記憶」とならないのか。広島、長崎は被爆体験という被害者としてのそれであるのに対して、沖縄戦はヤマトゥの軍が加害者であったからによる。そして、そこには沖縄差別が横たわっている。ここでは一人一人の在り様が問われるのである。ヤマトンチュは、回避したい心境になっても回避してはならないのだ。
 先に、沖縄戦は米軍の本土進攻をひき延ばすための捨て石作戦であったと記し、「捨て石」とは、「すぐには役立たないが、将来に備えてする行為」、「将来、または大きな目的のために、その場では無用とも見える物事を行うこと」だと述べた。これは過去だけではなく、現在まで継続しているといえる。将来戦争のできる国になるために、または大きな日米同盟のために、在日米軍基地の75%を沖縄に押し付けて、沖縄はヤマトゥの捨て石と今もされているからである。この現状を変革することにヤマトンチュが自覚的にならなければ、沖縄戦は「国民の記憶」とはならないといえる。
 この論考は、大江・岩波沖縄戦裁判の判決をテーマとしたものではないので、その点には触れないが、2008年3月28日、大阪地方裁判所(深見敏正裁判長)は、
1 原告らの請求はいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
との被告側完全勝訴の判決を言い渡した。これにより文科省の検定意見の根拠は潰えたといえる。何故なら、原告の陳述書が検定意見の根拠の一つとなっており、判決はそれを明確に否定したからである。ところが、文科省は、「最終的な司法の判断が出ていない。現段階で何も言えない」(同年4月16日の9・29県民大会実行委員会の要請に対する池坊副大臣の回答)と述べ、事実上拒否する姿勢を示している。原告が控訴したことで今も係争中であり、文科省としては現時点で対応することは適切でないとの判断なのであろう。その論理に当てはめれば、結論が出ていない裁判での意見陳述を検定意見の根拠の一つにしたこと自体、適切ではなかったことを自ら認めたことに等しいのである。
 このような不条理を許したまま放置するのであれば、ヤマトンチュは、怠慢の謗りを免れないであろう。


<参考文献>
『赤木』第4号
高作正博『「集団自決」への憲法学の対応』
元座間味村村長・與儀九英『軍命はこうしてなされた』
宮城晴美『母の遺したもの』
大江健三郎『沖縄ノート』
曽野綾子『ある神話の背景』
大城将保『昭和史のなかの沖縄』
嶋津与志『沖縄戦を考える』
石原昌家『オキナワを平和学する!』
『歴史と実践』第26号
『歴史学研究』831号(2007年9月号)
沖縄タイムス社『挑まれる沖縄戦』

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