第60号(2008年7月)

◆  目次  ◆
1.6月25日(水)、大江・岩波沖縄戦裁判の控訴審第1回公判が開かれる。
夜には支援連絡会第3回総会と報告集会が開かれ、
岩高牧師(大阪教区沖縄交流・連帯委員会委員長)が代表世話人に就任。

2.6月7日(土)、「辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動」が200回目の行動。

3.「沖縄から米軍基地撤去を求め、教団『合同のとらえなおし』をすすめる連絡会」
第2回総会が6月15日(日)〜16日(月)に、岩国教会で開かれる。

 

1.6月25日(水)、大江・岩波沖縄戦裁判の控訴審第1回公判が開かれる。
夜には支援連絡会第3回総会と報告集会が開かれ、
岩高牧師(大阪教区沖縄交流・連帯委員会委員長)が代表世話人に就任。

 6月25日(水)、大江・岩波沖縄戦裁判の控訴審第1回公判が午後2時より大阪高裁で始まりました。この日は156名の傍聴希望者が並びました。どう見ても被控訴人(大江・岩波)側が多く、傍聴した人数も我々の方が多数でした。ぼくは抽選に当たり法廷に入ることができました。
 午後1時58分、テレビカメラの撮影が2分間行われてから裁判が始まりました。大阪地裁では34人も居た原告側代理人(弁護士)が、何と6人に激減しているではありませんか。2005年の郵政選挙で刺客として福井県第1区から当選した衆議院議員の稲田朋美弁護士も代理人から外れています。真相は定かではありませんが、私たちの運動の広がりと地裁での勝利判決が、多くの代理人が手を引くまでに追い込んだといえるのではないでしょうか。
 控訴人側が遅れて提出した「控訴理由書」を訂正する「上申書」が数日前に出されたにもかかわらず、小田耕治裁判長がそれでもなお誤りと思われる箇所を複数指摘したのに対し、控訴人側代理人はしどろもどろな答弁を繰り返すばかりで、準備のずさんさが浮き彫りとなりました。
その後、双方10分間との時間制限で口頭陳述に入りましたが、控訴人側徳永弁護士が2時5分から20分まで15分間を要して喋った内容は、「一審判決は『沖縄ノート』の頒布を否定しているのに岩波書店は増刷している」として損害賠償額を増額する「請求趣旨の拡張的変更」でした。これには開いた口が閉まりませんでした。
 一方、当方の秋山代理人が口頭陳述を10分間で終えた後、控訴人側は秦 郁彦氏の証人申請を行いました。秋山弁護士が「『集団自決』の事実認定をする当事者ではないので、その必要はない」と意見を述べ、小田裁判長も「『諸君』08年2月号記載の論文提出で十分ではないのか」と指摘した上で、2時41分、「(左右の裁判官と)合議します」と一旦休廷しましたが、その間たったの1分、2時42分に「その必要なし」と明言して、法廷は終了しました。
 この日特異なことが起こりました。裁判長は“08年2月号”と元号を使わなかったのです。雑誌の月号をそのまま引用したのに過ぎないのでしょうが、ぼくにはとても新鮮に響きました。
 なお、この日、裁判が始まる前、大阪高裁に13,703筆の署名を提出しました。西大和教会では84筆の協力がありました。

 
第3回総会で司会を担当する筆者

 続いて、午後6時半よりエルおおさかにおいて「支援連絡会第3回総会と控訴審報告集会」が開かれました。ぼくは司会を担当しました。総会では岩高 澄牧師(大阪教区沖縄交流・連帯委員会委員長)が代表世話人に就任し、ぼくは引き続き世話人となりました。

 
代表世話人に就任された岩高牧師

 裁判報告で、秋山弁護士は、控訴人側の控訴理由書に対する反論をていねいに解説し、「(控訴審の)裁判官は既に膨大な資料を丹念に読み込んでいる。控訴人側に真偽をただすなど積極的な姿勢がうかがえる」と述べました。また、控訴人側の証人申請を却下した点は「メリハリをつけたスピーディーな判断だ」と評価し、今後の見通しについて「次回までに双方の立証の方針が出そろう。次回結審もあり得る」との見解を示しました。

 
裁判の報告をする秋山弁護士

 岩波書店は、いつもの岡本 厚さんが雑誌『世界』の編集の仕事があり出席できず、代わって岩波新書編集長の小野田耕明さんが登壇し、『世界』に発表した大江健三郎さんの文章を披露して、「大江さんは『この国に再び美しい殉国死という言葉が復興されようとしている以上、それに抵抗することを自分の仕事の核心にしたい』と書いている。私たちも同じ思いだ」と述べました。

 
控訴審報告集会

 次回第2回控訴審公判は、9月9日(火)午後2時より大阪高裁で開かれます。午後1時半から傍聴券の抽選がありますので、遅くともそれまでに大阪地裁裏庭に集合して下さい。
 双方の証人調べがおこなわれないことからすると、早期に結審の可能性があります。是非、多数のみなさまの傍聴をお願いします。

 

2.6月7日(土)、「辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動」が200回目の行動。

 6月7日(土)、「辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動」が200回目の行動をむかえました。

 
200回目を知らせる

 2004年8月から始まった毎週土曜日午後3時30分から5時までの大阪駅前でのビラ配布、署名・カンパ行動は、その当時ぼくは沖縄に居住していたので、8月13日(金)の沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事件を契機に始まったのだろうと思っていましたが、実際は8月7日(土)からスタートしています。その内、2005年1月1日(土)だけ1回休んだので、今年の6月7日(土)はそれから201週目で、200回目となります。


ナンバ駅前でアピールする松本亜季さん

 ぼくは2005年12月まで沖縄に居たので、帰省した折ごとに「大阪行動」に参加するようにしてきました。ぼくが始めて参加したのは、2005年7月16日の第49回目からで、大阪に戻って来た2006年1月以降はスケジュールが重ならない限り、極力参加するようにしています。
 さて、6月7日(土)は200回目にあたるので、従来と違って午後1時にナンバ駅前に集合して「ピース辺野古・なんばアクション」を企画しました。この日、ぼくは大学院で「博士論文説明会」があったのでこの時間帯には参加できず、午後3時30分に大阪駅前へ直行しました。

 
戎橋にて(ジュゴンも訴える)。

 この日は街頭カンパが3,800円集まり、辺野古へのカンパの累計は3,020,438円となっています。
 辺野古の新基地建設を阻止するまで、息長くこの行動を続けていきたいと思います。


心斎橋筋を練り歩く。

 翌日の6月8日付『沖縄タイムス』は、200回目の行動について、次のように報じました。


大阪駅前で訴える松本亜季さん

 「辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動」(松本亜季代表)は七日、大阪なんば駅前で二百回目の街頭行動を展開した。沖縄の基地問題を大阪でも広めようと二〇〇四年から大阪駅前で毎週土曜日に活動している。この日は「ピース辺野古・なんばアクション」と題し、約三十名のメンバーが「辺野古の新基地建設を阻止しよう」と呼び掛けながら二千枚のビラを配布した。
  松本代表は「沖縄の現状を一人でも多くの人に知ってもらいたい。これまでに三万人の署名も集まった。二百回は一つの節目で、さらに活動を継続したい」と述べた。メンバーらはこの後、心斎橋まで移動しながら基地建設反対を訴えた。

 

 

3.「沖縄から米軍基地撤去を求め、教団『合同のとらえなおし』をすすめる連絡会」
第2回総会が6月15日(日)〜16日(月)に、岩国教会で開かれる。

 「沖縄から米軍基地撤去を求め、教団『合同のとらえなおし』をすすめる連絡会(略称:求めすすめる会)」第2回総会が、6月15日(日)〜16日(月)、山口県の岩国教会で開かれ、参加しました。
 第2回総会のプログラムはとても充実したものでした。
 第1日目の6月15日(日)は、
18時00分 開会・総会
19時00分 夕食
19時30分 各地現場報告
21時00分 交流会
 第2日目の6月16日(月)は、
9時00分 協議
10時00分 前岩国市長・井原勝介さんの講演
11時30分 昼食
13時00分 岩国基地見学
15時30分 解散
 というものでした。

 
大阪の報告をする筆者

 1日目の各地現場報告では、岩高牧師とともに、ぼくは6月7日(土)に「辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動」が200回目の行動をむかえたこと、6月25日(水)に大江・岩波沖縄戦裁判の控訴審第1回公判が開かれることを報告しました。

 
井原さんを紹介する岩国教会・大川牧師

 中でも、2日目にあった前岩国市長・井原勝介さんの講演は感動的なものでした。井原さんは、次のように話されました。
 「今以上の基地機能の強化は容認できない」が、私たちの基本方針である。ところが、米軍再編で、@厚木基地から空母艦載機部隊(スーパーホーネット等59機)が、A普天間基地からKC−130空中給油機12機が、それぞれ岩国に移駐する。その結果、岩国基地の航空機数が一気に2倍(120機)、人数は約1万人(4,000人増)になる。
 こうした状況を受けて、その賛否を問う住民投票が実施されることになった。2006年3月12日の住民投票では、投票率58.68%(筆者注:投票率が5割を切れば成立しないことになっていた)、内89%が受け入れに反対であった(筆者注:これは全有権者の51.3%にあたる)。同年4月23日の市長選挙でも、移駐反対を公約に掲げた私が大差で勝利した(筆者注:井原勝介 54,144票、容認派23,264票)。
  この住民投票と市長選後、政府による露骨なアメとムチの政策が出て来た。
「事前協議する」という防衛庁長官の約束は反故にされ、その後も、条件を提示し具体的な話し合いを求めたが、いずれも拒否された。岩国市側の条件は、@訓練の分散、機数の削減等、A5つの条件(試験飛行、日米地位協定の見直し等)、B協議機関の設置などである。しかし、政府の姿勢は「受け入れを容認すれば協議機関を設置する」というものだった。アメとムチは、@新庁舎補助金約35億円の突然のカット、A愛宕山開発の中止、跡地の米軍住宅化、B米軍再編特措法による交付金、という形で現れた。


講演する井原・前岩国市長

 新庁舎補助金カットをめぐり予算が4回否決され、昨年2007年12月に予算と引き替えに、私は市長を辞職した。それでも議会は否決した。2008年2月10日、市長選をむかえた。国や県、各種団体や企業の、デマや誹謗中傷、圧力や締め付けなど、何でもありの手法の前に敗北した。選挙は民主主義の基本である。市民の自由を抑圧し、民意をねじ曲げてしまっては、民主主義は機能しない。
私は市長選挙に敗れたが、これからも民主主義と自治を守っていく。果たして「国防は国の専管事項」なのか? 国の安全保障と市民生活のバランスをどうとるのかがキーポイントだ。納得できない限り容認できないし、市民の平穏な生活を求める基本的権利は、国といえども侵すことはできない。約束違反や不正選挙など手段を選ばず、民意をねじ曲げ、国の政策を押しつける。これは一自治体の問題ではなく、国と地方のあり方の根幹、民主主義と地方自治に関わる問題である。補助金カットに対する募金活動は、全国から2,700万円集まった。
 私は、自由な市民の意思が尊重される新しい民主主義(−市民主義−)の政治を実現するため、4月1日に新しい政治グループ「草の根ネットワーク岩国」を設立し、その代表となった。国の理不尽なやり方には屈服せず、空母艦載機部隊の移駐とそれに伴う愛宕山の米軍住宅化に反対していく。私が主宰する「草莽(そうもう。1.草が茂っている所。くさむら。そうぼう。2.民間。在野の意)塾」も開設した。
 最後に、子どもたちから寄せられた次の手紙を紹介して終わります。「未来はお金とかえることはできません。私たちは、私たちの未来のためにあきらめません」。


説明する福田雅美さん

 昼食後、岩国基地を見学しました。途中、愛宕山の説明を福田雅美さんから受けました。福田さんは、兵庫教区で観たドキュメンタリー映画『消えた鎮守の森〜米軍再編 岩国の選択』に登場されてますので、ぼくは存じていました(福田さんはぼくのことは当然ご存知ではありませんが…)。
 「愛宕山開発事業」とは、「沖合移設事業」とワンセットでおこなわれているものです。213ヘクタールを埋め立てるために、愛宕山を切り崩し、その土砂を海まで運び、埋め立てています。切り崩した山には新しい街を造る計画でしたが、当初の予定より売却予定が大幅に減ったため、事業主である山口県と岩国市に300億円近い借金が残ることが予測されています。2006年4月の新市長選の際に、町村・元外相が岩国入りし「国がその借金を肩代わりして、愛宕山に米軍住宅を建ててあげます」とぶちあげました。
 「沖合移設事業」とは、美しい藻場、干潟をつぶし、滑走路のための埋め立てがおこなわれているものです。すでに南側は2005年9月から運用が始まっています。滑走路移設事業のハズが、水深13mの軍港が作られており、米軍機関紙では、揚陸艦エセックスの着岸も宣言されています。


基地拡張のために埋め立て工事が進む。

 岩国の状況はまさに沖縄と同じものでした。

 

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