第61号(2008年8月)

7月9日付(水)と10日付(木)『沖縄タイムス』に、ぼくの論考「沖縄戦は何故『国民の記憶』とならないか」が掲載されました。それを紹介します。
『沖縄タイムス』文化面担当の記者が次のようなリードを書いています。
沖縄戦のいわゆる「集団自決」(強制集団死)をめぐる歴史認識の問題は、沖縄側での新たな証言の掘り起こしや史実歪曲への異議申し立てに対して、いまだ隔たりが大きな本土との相違がたびたび指摘される。「沖縄戦は何故『国民の記憶』とならないか」をテーマに、「大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会」世話人の西浜楢和氏に、ナショナル・ヒストリーと沖縄戦の記憶の関係について論じてもらった、と。
ただし、ここに載せている写真は、『沖縄タイムス』に掲載されたものではなく、ぼくの撮影によります。
尚、『沖縄タイムス』に掲載されたこの論考は、龍谷大学の松島泰勝先生が主宰されている「ゆいまーる琉球の自治」のホームページにもアップされています。
アドレスは、
http://ryukyujichi.blog123.fc2.com/blog-entry-15.html
です。

◆  目次  ◆
沖縄戦は何故「国民の記憶」とならないか(上)
―加害と被害で国民分裂  国史と地域史の深い溝
◆ 認 識 に 落 差
◆ 対 立 の 構 図
◆ 異 質 性 排 除

沖縄戦は何故「国民の記憶」とならないか(下)
―「捨て石」感情今も継続  変革にヤマトゥ無自覚
◆ 本 土 進 攻 ひ き 延 ば し
◆ 民 衆 を 守 ら な い 軍 隊
◆ 検 定 意 見 放 置 は 怠 慢

 

沖縄戦は何故「国民の記憶」とならないか(上)
―加害と被害で国民分裂  国史と地域史の深い溝

 昨年12月26日、文科省が教科書出版社から提出されていた再訂正申請の審議結果を発表したその日、地元2紙(『沖縄タイムス』と『琉球新報』)は『号外』を発行し、内容を直ちにウチナーンチュに伝えた。
 『沖縄タイムス』の見出しは、「『軍が強制』認めず」、「検定意見『今後も有効』」とあり、『琉球新報』のそれは、「『軍強制』認めず」、「3冊『関与』に後退/検定意見を堅持」である。翌27日の『沖縄タイムス』には、「密室審議で灰色決着/文科省、体面に固執」、「ぼけた核心 落胆/記述回復『生きている間に』」ともある。
 一方、ヤマトゥ(琉球以外の日本)の新聞の見出しは、「『軍の関与』記述回復」(『朝日新聞』)、「教科書検定/集団自決問題『日本軍の関与』が復活『強制』は認めず」(『毎日新聞』)、「教科書検定/沖縄戦集団自決『軍の関与』記述」(『読売新聞』)であった。

 
2004年 8月 8日 金武町の都市型戦闘訓練施設建設に反対する集会
(於 県民広場)

◆ 認 識 に 落 差

 はたして、「軍の関与が復活」なのか、「軍の強制認めず」なのか。
 検定調査審議会が出した結論は、第一に、検定意見は撤回しない。第二に、「日本軍によって強制された」というような軍の強制を示す表現は採用しない。第三に、日本軍によって「追い込まれた」などの軍の関与を示す記述は認める、という3点に集約される。検定で消えた「強制」を「関与」という形で復活させ、問題の決着を図ったのだから、「軍の関与が復活」ではなく、「軍の強制認めず」が正確なのだ。
 かくも何故、沖縄とヤマトゥの間には“落差”があるのか。結論からいえば、ヤマトゥの論調が政府・中央官庁発であるのに対して、沖縄のそれは、目線が強制集団死(集団自決)を身近に体験した者とともに在るということだ。

 
2004年 8月13日 沖縄国際大学に墜落した米軍ヘリの残骸

◆ 対 立 の 構 図

 ところで、日本ジャーナリスト会議(JCJ)は、2007年7月、優れたジャーナリズム活動に贈るJCJ賞に、島ぐるみの戦いをリードしているとの理由から『沖縄タイムス』の『挑まれる−沖縄戦』を選んだ。ヤマトゥのジャーナリズムは沖縄に賞を贈る(拍手を送って、「がんばって下さいネ」と言う)ことをもって良しとするのではなく、目線を政府・中央官庁発から民衆の側に置くことが求められている。
 この“落差”の克服なくして、ヤマトゥが沖縄と出合うことはできないのではないか。しかし現状は、沖縄の教科書だけではなく、全国の教科書が書き換えられるにもかかわらず、未だヤマトンチュは「沖縄の問題」と考えているのだといえよう。
 今回の教科書検定問題であらわになったのは、軍による強制を認めようとしないヤマトゥと、沖縄戦の歴史歪曲を許さないとする沖縄との対立の構図だった。この構図は戦後一貫して繰り返されてきたのだ。

 
2005年 5月15日 普天間基地包囲行動に2万3,850人
(於 佐喜眞美術館裏手)

◆ 異 質 性 排 除

 沖縄戦における強制集団死(集団自決)やヤマトゥの軍による住民虐殺は「土地の記憶」ではあるが、「国民の記憶」とはなっていない。一方、広島、長崎の被爆体験は「土地の記憶」であると同時に「国民の記憶」にもなっている。沖縄戦が「国民の記憶」とならないのは、広島、長崎は被爆体験という被害者で、加害者が外国(=アメリカ)であるのに対して、沖縄戦はヤマトゥの軍が加害者であり、ウチナーンチュが被害者であることによる。国民を分裂させては「国民の記憶」とならないのだ。
 琉球大学の比屋根照夫名誉教授は、再訂正申請の審議結果を報じた12月27日付『沖縄タイムス』に、「検定問題の推移は、国史(正史)と地域史の相克」でもあり、「国史が地域史の異質性を排除し国民的統合、平準化を目指してきたところに、教科書検定の本質があ」り、「国史と地域史には埋めがたい深い溝があることを、今回の事態は白日の下にさらした」と述べている。言うまでもなく、今回の国史と地域史との深い溝とは、国史と、ヤマトゥの一県である例えば山梨県史や鳥取県史との問題ではなく、ヤマトゥ(国史)と沖縄(地域史)との相克であった。


2005年 9月24日 壁が撤去されたあとの沖縄国際大学

 

沖縄戦は何故「国民の記憶」とならないか(下)
―「捨て石」感情今も継続  変革にヤマトゥ無自覚

 戦争の記憶について、子安宣邦は、「戦争の暗部を隠蔽し、その過去の<書き換え>を求める国家と、過去と和解しつつ、無意識に過去の暗部を忘却のうちに置こうとする平和主義的国民とは、あえていえば戦後意識における同罪的な構造を形成してきた」(『現代思想』1995年1月号)と述べている。

 
2006年 3月 5日 沿岸案に反対する沖縄県民総決起大会に3万5,000人
(於 宜野湾海浜公園)

◆ 本 土 進 攻 ひ き 延 ば し

 筆者は、この国民の中にウチナーンチュは含まれないと考える。何故なら、45年から72年までの27年間、ウチナーンチュはヤマトゥ(日本)国家から切り捨てられ渡航も自由にできなかったという現実とともに、もっと本質的にはウチナーンチュは、「過去と和解しつつ」、「過去の暗部を忘却のうちに置」けなかったからである。だからこそ、国家が「過去の<書き換え>を求める」のに対してウチナーンチュはそれを認めることはできないのである。

 
2006年 6月29日 座り込み802日目の辺野古

 沖縄戦は、米軍の本土進攻をひき延ばすための捨て石作戦であった。「捨て石」とは何か?
「すぐには役立たないが、将来に備えてする行為」、「将来、または大きな目的のために、その場では無用とも見える物事を行うこと」とある。
 沖縄戦に勝ち目はないが、将来の本土決戦、国体(=天皇制)護持に備えてする行為、将来のヤマトゥのために、または国体護持という大きな目的のために、その場では無用とも見える沖縄戦を行うことだ。他者を「捨て石」にすることは差別である。だから、この「捨て石作戦」は、ヤマトゥによる沖縄差別(政策)であった。

 
2007年 9月29日 教科書検定意見撤回を求める県民大会に11万6,000人
(於 宜野湾海浜公園)

◆ 民 衆 を 守 ら な い 軍 隊

 それ故、沖縄戦から導きだされたとして人口に膾炙している「軍隊は民衆を守らない」という教訓は掘下げる必要がある。沖縄戦で引き起こされた歴史的事実は、「ヤマトゥの軍は住民を守らなかったどころか死に追いやった」ということであり、より正確には、「ヤマトゥの軍隊はウチナーンチュを虐殺し、(強制集団)死に追いやった」ということだ。歴史に仮定はないが、本土で沖縄戦のごとき地上戦が展開されていたなら、ヤマトゥの軍隊は、ウチナーンチュを虐殺したようにヤマトンチュを殺したであろうか。疑問を禁じ得ない。
 沖縄戦後、「沖縄人がスパイを働いたから友軍は負けた」という情報は早くからヤマトゥに流されていた。一方で、ヤマトゥの軍によるウチナーンチュに対する蛮行(住民虐殺、強制集団死、壕追い出し、食料強奪等々)は隠ぺいされた。これは、語るにはあまりにも辛い戦争体験を経たウチナーンチュを逆利用することによって可能となった。

 
2007年10月 1日 東村高江区でのヘリパッド建設阻止の座り込み

◆ 検 定 意 見 放 置 は 怠 慢

 例えば、昨年9月29日の県民大会で、県民へのアピール(開会のあいさつ)として詠まれた次の詩は、「国民の記憶」へと、怒りを孕みながら希求するものである。

  砲弾の豪雨の中へ放り出され/自決せよと強いられ
  死んでいったうちなーんちゅの魂は
  怒りをもって再びこの島の上を さまよっている
  いまだ砲弾が埋まる沖縄の野山に/拾われない死者の骨が散らばる
  泥にまみれて死んだ魂を/正義の戦争のために殉じたと
  偽りをいうなかれ
  歴史の真実をそのまま/次の世代へ伝えることが
  日本を正しく歩ましめる
  歪められた教科書は/再び戦争と破壊へと向かう
  沖縄戦の死者の怒りの声が/聞こえないか
  ヤマトゥの政治家・文科省には届かないか
  届かなければ/聞こえなければ
  生きている私たちが声を一つにして/押し上げ/訴えよう

 
2008年 6月 7日 辺野古大阪行動が200回目の行動(於 心斎橋筋)

 「捨て石作戦」は過去だけではなく、現在まで継続している。戦争のできる国になるために、または大きな日米同盟のために、在日米軍基地の75%を沖縄に押し付けて、沖縄はヤマトゥの捨て石と今もされているからである。この現状を変革することにヤマトンチュが自覚的にならなければ、苦闘する沖縄と出合うことはできない。

 
2008年 3月28日 大江・岩波沖縄戦裁判で勝訴する。(於 大阪地裁)

 去る3月28日、大江・岩波沖縄戦裁判で大阪地方裁判所(深見敏正裁判長)は、被告側勝訴の判決を言い渡した。これにより文科省の検定意見の根拠は潰えたといえる。なぜなら、原告の陳述書が検定意見の根拠の一つとなっており、判決はそれを明確に否定したからである。
 ところが、文科省は、「最終的な司法の判断が出ていない。現段階で何も言えない」(4月16日の県民大会実行委員会の要請に対する池坊保子副大臣の回答)と述べ、事実上拒否する姿勢を示している。原告が控訴したことで今も係争中であり、文科省としては現時点で対応することは適切でないとの判断なのだ。その論理に当てはめれば、結論が出ていない裁判での意見陳述を検定意見の根拠の一つにしたこと自体、適切ではなかったことを自ら認めたことに等しいのである。
 こうした文科省(すなわちヤマトゥ政府)の不条理を許したまま放置するのであれば、ヤマトンチュは怠慢の謗りを免れないであろう。

 

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