第65号(2008年12月)

◆ 目次 ◆
1.11月14日(金)〜16日(日)に、「ゆいまーる琉球の自治in西表島」が開かれる。
2.11月18日(火)、辺野古の座り込みに参加。
3.11月21日(金)〜24日(月)、日本キリスト教団大阪教区沖縄研修旅行に参加。
4.「沖縄大好き検定」3級に合格する。


1.11月14日(金)〜16日(日)に、「ゆいまーる琉球の自治in西表島」が開かれる。

 龍谷大学の松島泰勝先生が主宰する「ゆいまーる琉球の自治」の4回目の集いが、11月14日(金)から16日(日)まで西表島の祖納(そない)で開かれ、参加しました。昨年11月に奄美大島の宇検村で持たれた2回目の集いの報告は『沖縄通信』53号(2007年12月)に、今年3月に伊江島で持たれた3回目の集いの報告は同57号(2008年4月)に、それぞれ載せていますので参考にして下さい。
 今回の集いでは、@船浮公民館・嘉目信行(よしめ のぶゆき)館長が、本土リゾート開発企業による船浮地域の土地買い占めについて A祖納公民館・石垣金星館長が、八重山諸島、西表島が抱える諸問題と自治の実践について報告しました。ヤマトゥでは実感できませんが、八重山では公民館長は行政職として権威があり、集落の民衆から信頼される人が就任するとのことです。ぼくは石垣金星さんとは初対面ですが、書物を通して大柄な人と想像していました。ところが160cmもない小柄な方でした。でも巨人のような人物でした。


三線を奏でる石垣金星さん

 そのほか、B石垣島島民会議・鷲尾雅久事務局長が、石垣島の乱開発の現状と島民会議の活動について C竹富島喜宝院蒐集館・上勢頭芳徳館長が、竹富島のまちなみ保存と今後の課題についてなどを報告しましたが、ここでは船浮について報告します。

 
上勢頭芳徳さん。左は松島先生

 船浮は西表島ですが船でしか渡れません。人口は42人。小中学校の生徒4人で、車もなく手つかずの自然が残る地域です。その船浮でも最も美しいイダの浜を含む16.5ヘクタールが、今年5月から宮古・八重山でリゾートを施設経営するユニマットグループの所有になっていたことが分かりました。集落より北の大部分が、住民の知らぬまにユニマットの手に渡っていたのです。

 
ユニマットが買い占める船浮集落

 もともとは集落の共有地にしていたものが、戦前、税金の関係で一部が個人に売却され、長く那覇の資産家が持っていましたが、今年4月に石垣の不動産会社が買い取り、翌月にユニマットに転売されたものです。住民が畑として使っていた個人の所有地も囲まれた形です。西表は世界遺産の登録に向けた調査予算がついたばかりで、衝撃は島全体に及んでいます。
 ユニマット不動産は「まだ事業計画はない」としていますが、一説には10階建ての大型ホテルの構想があるといわれています。既にその休憩所が公民館の許可を得ずに建設され、その時、1957年に県が天然記念物に指定したヤエヤマハマゴウの群落1本を残してすべて伐採しました。
 嘉目館長は「小さな島の住民がバラバラになっている。静かな自然を残す部落にしたいが、まだ、大げさに反対運動をするまで住民がまとまっていない」と述べ、参加者に助言を求めました。
 これに対し、参加者から「外部に船浮の自然を守る会などを立ち上げ、地域と連携しながら(反対運動を)やっていけば良いと思う」などの意見が出されました。
 会合では次の「ゆいまーる琉球の自治in西表島宣言」を採択しました。

 
集いでの筆者。右は松島先生のご両親

 現在、八重山諸島は「南の楽園」と呼ばれ、リゾート、ホテル、アパート等の建設が相次いでいる。石垣島白保にある青サンゴの群落も陸地からの赤土流出によって大きな被害を受けている。このままでは自然が無残に破壊され、住民は生活し文化を育む場所を失ってしまう。企業による住民を無視した横暴な行為を止めさせることができるのは、住民ひとりひとりによる「自治的自覚」にかかっている。企業誘致に島の運命をゆだねるのではなく、住民の自治によって島を守り、未来を自らの手でつくっていく必要がある。島を自らのからだの一部として生活し、島の過去・現在・未来に対し、責任をもって行動できるのは島の住民でしかない。住民ひとりひとりによる自治の実践が島を救うのである。
 西表島浦内では年前に住民の反対を押し切って、ユニマット社は巨大リゾートを建設した。リゾートの汚水は地下浸透で海に流され、世界でここにしかいないトゥドゥマリハマグリが絶滅の危機に陥っている。海亀が産卵のために上陸する浜であったが、全く上陸しなくなった。地元民の雇用も少ない。さらにいまこのホテルを売りに出している事実もある。巨大リゾートを建設しても地域の活性化にはつながらないのだ。
 それにもかかわらず、現在、ユニマット社と、地元資本のドリーム観光社は同島船浮において、広大な土地を買い占めて巨大リゾートを建設しようとしている。ドリーム観光社は船浮に自生していた天然記念物のヤエヤマハマゴウを違法に伐採した。両社は、島の人々の生存権、生活権、環境権を無視して、資本の暴力を振り回すべきではない。数百年、数千年にわたり、地域の自然とともに生活し、文化を育み、自治を実践してきたのは島の住民たちである。一度破壊された風景や自然は二度と元には戻らない。船浮はイリオモテヤマネコが発見された場所でもある。竹富町は世界遺産登録を目指しており、船浮の開発が世界遺産登録にとって大きな障害になるおそれもある。
 住民の意思を無視し、自然を破壊するホテル、観光施設を「観光客」として利用し、「日帰りツアー」に参加することを、私たちは強く拒否する。外部の企業だけが問題ではない。他の島々においても、島内の企業と島外の企業が結託して島々の開発が進められるケースが少なからずみられる。内外の企業による島の開発を阻止することができるのは、島民ひとりひとりの「自治的自覚」である。
 日本各地に住む私たちは、現在の船浮で起こっていることを多くの人に伝えていく覚悟である。船浮の問題は、船浮だけの問題ではなく、西表島、八重山諸島のみならず、琉球全体、それから日本及び、全世界の問題であり、私たちひとりひとりの問題である。「自治的自覚」をもった人々の環を世界に広げていきたい。

 
集いを報じる『南海日日新聞』

 集い開催中、石垣金星さんに祖納集落を案内してもらいました。大竹祖納堂儀佐(おおたけそないどうぎさ)は、15世紀ごろの西表の英雄です。碑には「与那国島を発見した人。祖納部落の豊年祭は彼を祀った大竹御嶽を中心に催されている」とあります。

 
大竹祖納堂犠佐屋敷跡

 しかし金星さんがおっしゃるには、与那国の人は「島は大竹祖納堂儀佐に発見されたのではない」と言うとのことです。

 
西表島より与那国島を望む筆者

 西表島の石敢当は、沖縄島のものとはおおいに異なります。

 
沖縄島とは異なる西表島の石敢当

 集いが始まる一日前にぼくは西表島に入りました。大相撲は12月に沖縄巡業をおこないます。12月13日(土)、14日(日)が浦添場所、16日(火)、17日(水)が宮古島場所、19日(金)、20日(土)が八重山場所です。祖納でこんなポスターを見ました。八重山の人々にとって大相撲は「日本」大相撲なのですネ。

 
その名も「日本」大相撲

 ユニマットグループが上原地域に建設したニラカナイ・ホテルに反対する立て看板です。この建築により地球上で唯一トゥドゥマリ浜にのみ生息するトゥドゥマリハマグリが絶滅の危機にさらされています。金星さんはニラカナイ・ホテル建設に反対する原告団長でした。

 
「ニラカナイ反対」の立て看板

 祖納にある、東経123度45分678を示す子午線モニュメントです。

 
東経123度45分678を示す子午線モニュメント

 美しいマングロープ林です。

 
マングロープ林


2.11月18日(火)、辺野古の座り込みに参加。

 「ゆいまーる琉球の自治in西表島」に参加して後、11月21日(金)からの大阪教区沖縄研修旅行のメンバーと合流するまで、ぼくは沖縄島に留まっていました。折りしも県立博物館で開館記念特別展として「甦る琉球王国の輝き」が開催されており、鑑賞しました。

 
県立博物館・美術館の展示ポスター

 県立博物館学芸員の平川信幸さんは12月3日付『沖縄タイムス』に次のような記事を寄せています。
 「琉球王国と中国は500年という長い交流があるが、その間、琉球王国では三山時代から第一尚氏、第二尚氏と王朝が替わり、薩摩による侵攻を体験している。また、中国でも明から清へと王朝が交代している。さらに中国の明清の交代は王朝の交代というだけでなく統治する民族が漢民族から満州族に替わった。琉球にとっても1609年の薩摩の侵攻と同様に、これまで体験したことのない未曾有の大事件であったと考えられる。
 なぜなら、農民反乱によって明朝が滅び、北京の紫禁城に入った清朝の皇帝は政治的な制度は明朝のものを受け継ぎながら、自らの習俗である弁髪と満服を支配下の漢民族に強制し中国を統治していく。清朝は明清の王朝の交代を、髪形や衣装によって視覚的に印象づけたのである。当時、中国へ渡った琉球人たちも中国の世代わりにともなう、習俗の変化に強烈なインパクトを受けたはずである」と。

 
座り込み1675日の辺野古(11月18日)

 そして11月18日(火)、辺野古の座り込みに行きました。この日は2004年4月19日より始まった座り込みから1675日目です。
 毎日、現地で指揮を取っている平和・市民連絡会事務局長の当山栄さんを始め、平良 修牧師、平良堀悦美さん、宜野座映子さん、浦島悦子さんら懐かしい顔ぶれと再会しました。

 
「民意は基地建設NO」の大看板

 この日は火曜日で、ちょうど週一会議(毎週火曜日に週1回「日常の諸課題を話し合い決定していく」会議を持つ)が開かれる日だったので、ぼくもその末席に参加しました。


座り込むおじー、おばぁたち(右端は嘉陽宗義さん)

 テントには次の詩が飾られていました。


詩が飾られていた。

 忘(わ)してわしららん / 戦(いくさ)世(ゆ)の辛(ちら)さ
 繰(く)り返(け)えちなゆみ / 子(くわ)孫(んまが)の為(たみ)に
                                 長方よむ

 銭(じん)金(かい)に迷(ま)ゆて / 基地ゆ認(みと)めれば  
 孫(んまが)世(よ)になれば / くやで泣ちゆさ
                      新垣政光詩 長方かく

 テント小屋の人に聞くのを忘れましたが、「長方よむ」「長方かく」とある「長方」とは、多分、沖縄社会大衆党の委員長を歴任された瑞慶覧長方さんだろうと思います。瑞慶覧長方さんのことは『沖縄通信』11号(2004年3月)で取り上げています。

 
12月4日付『朝日新聞』朝刊

 ヤマトゥに戻った12月4日付『朝日新聞』朝刊1面に「普天間移設 先走る思惑」「環境アセス中 米軍宿舎工事着々」との見出しで、次の記事が載っていました。
 「米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設先とされる同県名護市辺野古にある米軍キャンプ・シュワブ内で、移設関連工事が始まっている。代替基地の建設計画はまだ環境影響評価(アセスメント)の段階。滑走路の位置についての政府と県の合意もできていないが、基地内の工事は先行して着々と進んでいる。
 沖縄防衛局によると、建設されるのは下士官宿舎や倉庫、舟艇整備工場など5棟。工事は6月ごろから始まり、現在は南側の海岸沿いの斜面で造成工事や基礎工事が進められていて、赤土がむきだしの状態になっている。工期は09年9月まで。
 普天間飛行場の移設は、キャンプ・シュワブに隣接する海域を埋め立て、V字形の滑走路を建設する計画で、同防衛局は今回の工事について『移設後の基地内人口の増加に対応するための宿舎などの再配置』と説明している。宜野湾市によると、普天間飛行場に駐留する米軍人と家族らは約3千人で、キャンプ・シュワブの4倍前後とみられている。
 辺野古で座り込みを続けるヘリ基地反対協議会代表委員の安次富浩さんの話では、着工後、大雨の日にキャンプ・シュワブから海への赤土流出が数回、確認されたという。『まだアセスも終わっていない。ただちに中止すべきだ』と安次富浩さんは話した」

 

3.11月21日(金)〜24日(月)、日本キリスト教団大阪教区沖縄研修旅行に参加。

 11月21日(金)から24日(月)まで、大阪教区第8回沖縄研修旅行に参加しました。今回のテーマは“強制集団死(集団自決)を学ぶ”と名付けてよいと思います。
 1日目の11月21日(金)、ぼくは宜野湾セミナーハウスから又吉京子さんと一緒に那覇空港へメンバーを迎えに行きました。空港からそのまま、小桜の塔、対馬丸記念館、ベッテルハイム住居跡を回りました。対馬丸記念館については、『沖縄通信』50号(2007年9月)に載せています。

 
ベッテルハイム博士居住之趾

 ベッテルハイムの琉球伝道については、『沖縄通信』63号(2008年10月)に書きました。


ベッテルハイムが幽閉されていた住居

 21日(金)のうちに渡嘉敷島に渡り、2日目の11月22日(土)は、吉川嘉勝さんの案内で一日かけて渡嘉敷島を回りました。ぼくは2007年3月に「大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会」のメンバーとともに渡嘉敷島、座間味島を訪問しましたが、その時は2島を半日ずつで回ったので駆け足でした。今回はじっくりとフイールドすることができました。前回の報告は『沖縄通信』45号(2007年4月)に載せています。


案内していただいた吉川嘉勝さん

 午前中は、島を回りながら吉川さんより渡嘉敷島の歴史や文化、自然などについて報告を受けました。例えば、「根元家の石垣」に琉球王朝時代の島の繁栄を偲ぶことができます。

 
根元家の石垣

 根元家は、琉球王朝時代にこの島の男たちが水主(唐や薩摩へ行く船の乗組員)として船で活躍した頃に繁栄しました。屋敷を囲む石垣や、内にあるヒンプンはどれも精巧に切り取られた石灰岩を正確に積み上げています。この石垣は、渡唐船の船頭役を勤めた根元家の主が「唐儲け」により建設したものです、と刻まれています。
 午後、集団自決跡地などを回りました。

 
集団自決跡地

 この日の最終便で沖縄島に戻ったぼくたちは、3日目の11月23日(日)、主日礼拝に出席したのち、佐喜眞美術館を訪問し、宜野湾セミナーハウスに戻ってから、金城重明牧師の講話を聞きました。「渡嘉志久(とかしく)と阿波連(あはれん)は仲が悪かったから、軍命がなければ、我々阿波連部落の者がわざわざ渡嘉志久へ行って死ぬことはない」という一つの発言の中にも、強制集団死の実像が見えます。


金城重明牧師の講話を聞く。

 実は沖縄最後のこの日の夜、驚くべきことが起こりました。ぼくは『沖縄通信』63号(2008年10月)に、『沖縄・問いを立てる 3』(社会評論社刊)で、阿部小涼・琉球大学准教授が『沖縄通信』を紹介していると書きましたが、阿部先生がセミナーハウスに表敬訪問して下さいました。とても楽しいひと時を持つことができ感動でした。

 さて、以下の文章は、沖縄研修旅行の報告集に書いたものです。
1993年から始まった大阪教区の沖縄研修旅行は、今回で8回目をむかえました。実施に至るまでに、@1989年:社会委員会、教育委員会合同で沖縄研修旅行の検討を開始 A1991年:両委員会代表7名が3泊4日の準備旅行を実施。5月の教区総会に「沖縄旅行実行委員会」の設置と旅行の実施を提案、常置委員会付託となる。9月の常置委員会で「沖縄研修旅行検討実行委員会」の設置が決まり、12月に委員会発足 B1992年:数回の沖縄学習会を開いた後、研修旅行の具体案を作成。7月の常置委員会で承認、参加者募集に入る、という前史を持っています。こうした主の導きと先達の働きに深く感謝したいと思います。
 1995年に予定されていた2回目が、阪神・淡路大地震のため1年遅れて1996年に実施されて以降、研修旅行は偶数年におこなわれるようになりました。この内、ぼくは第1回(1993年2月)、第4回(2000年2月)、第5回(2002年6月)、第6回(2004年7月)と4回参加し、今回で5回目となります。沖縄在住中の2004年には現地合流するということもありました。
 研修旅行では毎回多くのことを学び深い感動を得てきましたが、参加した5回の中で今回が最も充実していたと思います。今回、11月21日中に渡嘉敷島に渡り、翌22日は朝から丸一日、吉川嘉勝さんにガイドしていただいたので、島の歴史や文化、自然なども学び、強制集団死(集団自決)が起こったその背景を知ることができました。
 以前、伊江島に行った時「伊江島は沖縄の縮図である」と聞いたことがありますが、吉川さんは「渡嘉敷島は琉球史の縮図である」と話されました。渡嘉敷島の亀甲墓は組合墓で沖縄島の門中墓と異なること、渡嘉敷島は首里王府から過酷な搾取を受けていたこと、進貢貿易の中継港であるにもかかわらず離島差別に苦しめられてきたこと、などをお聞きしました。
 こうした歴史的背景を持つ渡嘉敷島に1944年9月、赤松嘉次大尉を部隊長とする海上挺進第3戦隊104名が上陸します。当時、兵隊が自宅を宿舎に使ってくれた民家はそれを誇りにしていたといいます。ヤマトゥの軍隊がすべてを支配する「軍官民共生共死の一体化」の下、沖縄島とは渡航不能、音信不通という、隔離された小さな離島で強制集団死は起こったのでした。
 翌23日は主日礼拝後、佐喜眞美術館・館長より「沖縄戦の図」を背景に強制集団死の説明を受け、その後金城重明牧師の講話を聞きました。そして最終日の24日には、後藤 聡牧師の案内で糸数アブチラガマに入るというように、いろんな角度から強制集団死について重層的に学ぶことができました。
 沖縄戦の歴史を書き換えさせてはならない、この想いを腹の底から実感した研修旅行でした。

 

4.「沖縄大好き検定」3級に合格する。

 ぼくは、10月13日(月・祝)に実施された第1回沖縄大好き検定の3級を受験しました。『沖縄通信』63号(2008年10月)に「多分合格していないだろうと思いますが、11月下旬に合否の結果が分かりますので、『沖縄通信』12月号で報告できるでしょう」と書きました。
 果たして12月1日(月)に結果報告が郵送されて来ました。
 「このたびは第1回沖縄大好き検定3級を受験していただき心より感謝申し上げます。厳正なる採点の結果、めでたく貴殿は“合格”されました。ここに、貴殿の沖縄を愛する気持ちに敬意を払い、沖縄大好き検定3級認定証を贈呈いたします。こちらの認定証は合格の証になるものですので、失くさないよう大切に保管して下さい。今後も、更に上位級へチャレンジしてくださることを、委員会一同願っております」とあるではありませんか! 無事合格することができました。正直、嬉しかったです。

 
「沖縄大好き検定3級」認定証カード

 その後、沖縄大好き検定のHPに問題と解答がアップされました。
 検定3級の問題と解答は、下記のアドレスで見ることができます。
 http://www.kentei-uketsuke.com/okinawa_answer_01.html

 検定2級の問題と解答は、下記のアドレスで見ることができます。
 http://www.kentei-uketsuke.com/okinawa_answer_02.html

 ぼくは、100問中52問しか覚えていなかったので、『沖縄通信』63号には全問を掲載できませんでした。問題と解答がアップされたので正解率を分析して見ました。『沖縄大好き検定 公式ガイドブック』の目次に沿って100問を自然、歴史、文化に3分類すると下表のような結果となりました。

 

沖縄の自然

沖縄の歴史

沖縄の文化

合  計

出 題 数

17

38

45

100

正 解 数

13

32

15

60

不 正 解 数

23

30

正否・不明数

10

正 解 率

82.4%

89.5%

48.9%

70%

 「沖縄の歴史」の89.5%、「沖縄の自然」の82.4%の正解率に対して、「沖縄の文化」は48.9%と正解は半分にも達しません。文化の領域の弱点を歴史と自然でカバーしたということです。ぼくの沖縄観のいびつさがここにも表れています。また正否・不明数10問すべてが正解となってやっと合格ラインの70点(以上)になるので、合格といっても奇跡的なものだったことがうかがい知れます。
 これから、もっともっと沖縄の文化(美術工芸、芸能・言語、祭りと民謡、くらしと信仰、食など)の領域について学ばなければなりません。

 

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