第66号(2009年1月)
◆ 目次 ◆
1.島津侵略400年、琉球処分130年の2009年を迎えて。
− プロテスタント日本伝道150年などと浮かれている場合ではない。
2.「高裁判決の意義―出版・表現の自由に関わって」
1月30日(金)大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会の学習会にご参集ください。
1.島津侵略400年、琉球処分130年の2009年を迎えて。
− プロテスタント日本伝道150年などと浮かれている場合ではない。「抑止力の維持と(沖縄の)負担軽減」−2005年10月29日の「日米同盟:未来のための変革と再編」(日本では「中間報告」と呼ばれたが正式名称はこれ)と2006年5月1日の「再編実施のための日米のロードマップ」(日本では「最終報告」と呼ばれたが正式名称はこれ)で、しばしば日本政府が使うこの言葉ほど欺瞞に満ちたものはありません(西山太吉さんは、そもそも「米軍再編」という言い方は間違いで、正しくは「米日軍事再編」であると主張されている)。
筆者作成の「2008年 沖縄での出来事」からも明らかなように、この言葉とは裏腹に2008年は「軍事力の強化と沖縄への負担強化」が一層進んだ1年でした。
なお、今号に載せている写真は「辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動」が辺野古現地より坂井 満(さかい みちる)さんこと満(まん)ちゃんを迎えて開いた2008年12月14日(日)の「総会」的なイベントと大阪駅前行動の時のものです。2008年 沖縄での出来事 (西浜作成)
月日
辺野古・高江、基地
米軍事件・事故
政治・社会
1
7
嘉手納基地で有事を想定した即応訓練実施
タクシー運転手に対する強盗致傷容疑で米兵2名逮捕
18
県環境影響評価審査会は37項目の意見を知事に答申
20
北谷町砂辺で「早朝離着陸・爆音被害に対する住民大会」
24
ジュゴン訴訟で米国防総省の米文化財保護法違反を認定
2
10
米海兵隊による女子中学生レイプ事件@
18
米海兵隊伍長を民家への不法侵入で逮捕
20
フィリピン女性暴行容疑で米軍が米陸軍隊員の身柄を拘束
沖縄返還「密約」控訴審判決
3
16
米少年2人がタクシーで窃盗
23
「米兵によるあらゆる事件・事故に抗議する県民大会」に6000人参加
26
キャンプ・ハンセンで大規模な山火事が発生
27
沖縄高等養護学校に米軍車両侵入
27
キャンプ・シュワブで山火事発生
28
大江・岩波沖縄戦裁判で大阪地裁判決
4
15
北谷町の米軍人・軍属の基地外居住が2006年より約3割375戸増えて1,644戸になる
19
嘉手納基地で戦闘機が緑地帯突入
22
キャンプ・ハンセンで火災発生
5
16
@で米軍法会議が懲役3年の判決
20
「基地労働者パワハラ被害者及び支援者の会」結成
6
8
県議会選挙で与野党逆転
26
普天間飛行場飛行差し止め訴訟で、1億4670万円の支払い命令。差し止めは認めず
7
9
防衛省は本部町に建設を計画していたP3C計画中止を決定
18
県議会が名護市辺野古沿岸域への新基地建設に反対する意見書を採択
30
宜野湾市議会は普天間飛行場の危険性除去と早期返還を求める意見書を全会一致で可決
8
26
防衛省は陸上自衛隊第1混成団(那覇市)を2009年度中に第15旅団に格上げし、300人増の2100人体制にする方針
9
2
沖縄返還「密約」裁判で最高裁上告棄却
10
5
海兵隊2人をタクシーを盗んだ容疑で逮捕
14
国際自然保護連合(IUCN)がジュゴン保護を求める3度目の勧告を採択
20
広島型原爆200発に相当する爆弾が1958年に嘉手納基地に配備されていたことが判明
24
嘉手納基地のセスナ機が名護市内で不時着炎上、米兵4名重軽傷。約700世帯で停電⇒翌25日、県警の機体差し押さえ要求を拒否し、米軍が解体し嘉手納基地内に持ち帰る
31
大江・岩波沖縄戦裁判で大阪高裁判決
11
5
キャンプ・シュワブの米海兵隊員を民家への不法侵入で逮捕
12
巡航ミサイルを装備したまま海軍最大級の原子力潜水艦オハイオ初入港⇒海上自衛隊幹部が乗船していたことが判明
18
米海軍原子力空母と航空自衛隊が沖縄近海で共同訓練
19
泡瀬干潟埋め立て地裁判決
12
1
嘉手納基地で有事を想定した即応訓練実施
7
全国基地爆音訴訟原告団連絡会議結成
13
金武町伊芸地区で、米軍の銃弾により民家の車が被弾
17
キャンプ・ハンセンで山火事発生
24
沖縄防衛局が、座り込みの高江住民に対し妨害禁止で仮処分を申し立てたことが判明
25
教科書検定審議会が検定手続きの「改善策」。従来より後退
@ 止まない米軍犯罪と事件・事故
2月10日、またもや海兵隊員による少女レイプ事件が発生しました。当時38歳の二等軍曹タイロン・ハドナットの卑劣な行為に民衆の怒りが爆発、3月23日の県民大会へと発展しました。しかし14歳の少女は「そっとしておいてほしい」と告訴を取り下げ、容疑者は日本の裁判ではなく、米軍法会議で禁固4年(司法取引で最後の1年は保留)の実刑判決を受けました。
高里鈴代さん(基地・軍隊を許さない行動する女たちの会 西原教会員)は、犯人が「今回の事件も、実に大胆に行っていることの背後には、一度ではないということが予想できる」(『けーし風 61号』35ページ)と語っています。
ぼくは、『沖縄通信』第56号(2008年3月)で「2月29日(金)、被害者本人が告訴を取り下げたため不起訴処分となり、同日午後8時42分、釈放されました。/ああ、何という不条理。彼女はどれだけの重荷を背負ったことだろう。『そっとしておいてほしい』という言葉にそれは表れているでしょう」と書きましたが、阿部小涼さん(琉球大学准教授)は「沖縄10年−何が始まっているのか」という座談会で次のように話しています。少し長い引用となりますが、お読みください。
「今回の事件で被害者が提訴を取り下げたことを、どのように理解すべきだろうかと考えます。レイプをめぐって法廷に出ると必ずセカンド・レイプが起こってしまう、残念ながら。事件化する際に、その当事者も、家族も、友達たちも充分に予想していて、それでも、捜査に踏み切ったんだと思うんです。ある程度の覚悟はあったはずで、だけどやっぱり予想通り、残念なことに予想以上の、インターネットを含むメディアによるバッシングがあり、週刊新潮の執拗な取材攻撃もあった。そういうことがあって、取り下げるわけです。このやり方を私は、何というか、よくやったと思うんです。相応しい言い方かどうか判りませんが。つまり、個人として傷つくことが目に見えているなら、これ以上闘うのはもう辞めようと撤退するのは一つの手だと。社会に対して投げかけはしたのだから、充分なわけですよ。後はわれわれがそれを受け取って、きちんと問題にして議論を続けていけば良い。被害者の心情を思いやって大会をすべきでないとか、とんでもない話で。つまり、この人は一石を投じた。個人として攻撃されるのはこれ以上は嫌だから、家族も嫌だから、引きます、でも、社会に対してはちゃんと問題は提供しましたっていうやり方だったと思うんですよね。そういう意味で新しいやり方、しかも、今可能な、傷を最小限に留めながらできる抵抗だと思うんですよね。本人がそう言われてどう思うかは判りませんが。黙っておくという選択だってあったけど、それは選ばなかった。それだけで、もう充分に力強い抵抗で、それこそが多分95年の事件以降、大人たちが結局実現できなかったことを、この人は、この人とこの家族は見事に批判的に実践してみせてくれたと、そんな見方をしてもいいんじゃないのかなと思うんです」(『インパクション 163号』56ページ)と。
ぼくが『沖縄通信』第56号(2008年3月)で述べた見解に変わりはありませんが、こういう見方もできるのかと思いました。そうなのです、後は私たちがそれを受け取って取り組みを続けていかなければならないのです。
満ちゃんと松本亜季さんのトーク10月24日、嘉手納基地所属の米軍セスナ機が名護市真喜屋のサトウキビ畑に墜落しました。
2004年8月、沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落した時、県警による機体の検証を拒否した米軍は今回、現場検証を県警と合同で実施し乗組員に対する事情聴取についても公務外の事故の上、過失も大きいと今回は認めました。しかし、現場検証を終えた機体をまたしても基地の中へ持ち帰り、証拠は5年前と同様、米軍が押収しました。県警の要請を拒否し機体を持ち帰った根拠は「米軍の同意がない場合、日本の警察は軍の所有物の差し押さえや検証を行えない」という日米地位協定なのでした。
タクシー強盗事件も頻発しました。3月16日、沖縄市で発生した事件では規律を正すべき憲兵隊員が「強盗を実行した少年らを基地から現場まで送迎した」として起訴され、有罪判決を受けました。ほかにもタクシー運転手をガラス瓶で殴りケガを負わせるなど米兵による事件が相次ぎました。
三線の演奏A 急増する米原子力潜水艦の入港
米原子力潜水艦の沖縄への入港回数がここ数年で急増しています。2007年は24回であったのに対し、2008年は39回と過去最高を記録しました。横須賀基地(神奈川)や佐世保基地(長崎)への寄港回数が減少しているのと対照的です。39回の寄港のうち桟橋に接岸しない沖合寄港が33回です。
『リムピース』の頼和太郎さんは「潜水艦のデータ、無線では渡せない膨大な情報を磁気テープとして渡している。そのためにホワイトビーチ(うるま市)にちょっと寄って出て行く」と指摘しています。
ライブ中の会場風景B 米軍との一体化を進め、沖縄で増強される自衛隊
2009年度中に第15旅団に格上げし、300人増の2,100人体制になる予定の陸上自衛隊第1混成団は、2008年から米軍キャンプ・ハンセンの共同使用を始めました。これには延べ820人以上が参加して計4回行われました。
11月には米海軍最大級の原子力潜水艦オハイオに海上自衛隊幹部が乗船していたことが判明しました。また、米海軍原子力空母と航空自衛隊が沖縄近海で共同訓練をするなど、自衛隊は米軍との一体化を進め、一層増強されています。
そして、あろうことか沖縄防衛局は、ヘリパット建設に反対し座り込み中の高江住民に対し妨害禁止の仮処分を申し立てました。その後取り下げられたとはいえ、その中には8歳の女児も当初含まれていました。申し立ては11月25日付ですが、沖縄防衛局はその事実を約1ヶ月間公表しませんでした。
『沖縄タイムス』はその社説で「国が住民を排除する手段として、原告となって民事上の手続きをとるケースはほとんどなかった」「法的手段を使って住民を排除しようとする今回の手法に国の強引な姿勢が垣間見えてならない」「防衛局は、仮処分の前に住民への説明をさらに尽くす努力を続けるべきだ。強行姿勢では問題は解決しない」(2008年12月28日)と述べています。
双方の意見を聴く審尋は1月27日(火)に開かれます。C 辺野古新基地建設反対の県議会決議が挙がる。
7月18日、与野党が逆転した県議会で名護市辺野古沿岸域への新基地建設に反対する意見書が採択されました。初めてのことです。しかし、日本政府はその2時間後に総理官邸で開かれた普天間移設協議会でも、辺野古への移設の重要性を強調しました。町村官房長官(当時)は「(沖縄県民の)負担をできるだけ軽減するという、そういう観点に立ってトータルの(米軍再編の)パッケージを作り、その一環として普天間の移設があることを理解いただきたい」と発言しています。冒頭に述べたように、白を黒と言いくるめるこの欺瞞性を徹底的に暴かねばなりません。
一方、スペインのバルセロナで開かれていた国際自然保護連合(IUCN)総会は10月14日、国の天然記念物で辺野古沖にも生息するジュゴンの保護を求める勧告案を採択しました。勧告は3度目で同一生物では極めて異例のことですが、日米両政府は棄権しました。日米両政府の欺瞞性についても同様です。
こうした沖縄の状況を知れば知るほど、2009年はプロテスタント日本伝道150年と浮かれている場合ではありません。沖縄教区の見解を再度見ましょう。「2009年に、長崎や横浜のキリスト者が自分たちの地域の『宣教150年』を覚え『記念行事』を行うことは理解できるが、@沖縄教区の私たちにとっては『150年』ではない。A特定地域の記念行事を『日本』全体のこととして覚えることは、別の地域を切り捨てることにもなり、おかしなことだ。Bキリスト教の日本への宣教が、さまざまな経緯をたどって為されたことを想い起こす時、そもそも『150年』というように歴史を区切る必要があるのか。大切なことは、ていねいな歴史の検証であり、過去の事実を踏まえつつ、未来に創造的に関わることだ」と。この見解こそ大切にしたいものです。
沖縄と琉球伝道163年を切り捨てる日本伝道150年との間には、埋めることのできない落差があり、このことに改めて愕然とします。
松本亜季さんより辺野古へカンパを折しも『沖縄タイムス』は2009年1月1日(水)に「20XX年 沖縄独立」という特集記事を掲載しました。そして1月5日(月)〜13日(火)まで6回にわたり「薩摩侵攻400年」と題する『琉球・沖縄史を考える』という4人の研究者による座談会を連載し、1月15日(木)からは毎木曜日に『琉球・沖縄歴史再考』を連載する計画です。多分これは1年間50回ほど続くのではないでしょうか。
満ちゃんも三線を
2.「高裁判決の意義―出版・表現の自由に関わって」
1月30日(金)大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会の学習会にご参集ください。大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会は、最高裁での公判を前に1月30日(金)午後6時30分よりエルおおさかで、東京より近藤卓史弁護士を講師に招いて学習会「高裁判決の意義―出版・表現の自由に関わって」を開催します。多くのみなさまがご参集くださるよう訴えます。
ところで、『正論』2009年1月号に藤岡信勝・拓殖大学教授(自由主義史観研究会代表)が「沖縄戦集団自決『大江裁判』控訴審/裁判長こそ証言者への名誉毀損ではないか」という評論を載せているとのことです。それをぼくは芥川賞作家・目取真俊さんのブログ『海鳴りの島から』で知りました。ぼくは『正論』を読んでいないので、「溺れた犬は叩け!」と題した2008年12月30日(火)の目取真さんのブログから紹介します。
「控訴審で元隊長側は、宮平陳述書と、それに対する大江・岩波側の批判に反論した私の意見書など、大量の書証を提出して隊長命令説の誤りを論証した。
しかし、判決は『控訴棄却』だった。その内容は一審に輪を掛けた大江・岩波よりの偏向したものだった。小田裁判長は初めから大江を勝たせることを決めていたに違いない」(『正論』2009年1月号 261ページ)
「『小田裁判長は初めから大江を勝たせることを決めていたに違いない』とは笑わせる。藤岡氏もよほど精神的に追いつめられていると見える。別に小田裁判長ならずとも、宮平証言や自分の意見書の何が問題で、どうして証拠採用されず、一顧だにされなかったのか、という反省と自己分析はなく、被害者意識丸出しで小田裁判長をなじるだけなのだから、藤岡氏もホントに救われない人物だ。
だいたい、宮平証言にこだわって言挙げしているのは、いまや藤岡氏一人であり、徳永信一氏をはじめとした原告側弁護団や他の支援者らも『宮平証言』には距離をおいているではないか。控訴審判決文には次のような一節がある。『なお、控訴人ら訴訟代理人は、期日前には、当審で宮平秀幸の証人調べを求めるとしていたが、結局、証人申請はなされなかった』(240ページ)
当初は宮平氏の証人調べを求めるとしていたのに、結局、証人申請をしなかったのは、宮平証言の危うさに原告側弁護団が気づき、証人台に立てるとまずいことになると判断したからだろう。宮平証言が事実であると自信があったなら、証人申請すればよかったではないか」
「さらに興味深いのは、藤岡氏がこの評論の最後に書いている次の一節である。『ただ、この裁判をもともとやるべきではなかったとか、敗訴する前に控訴審の途中で取り下げるべきであったなどの一部の議論に私は与しない。… 裁判を起こさなければ、これほど事実の解明が進み人々の関心を呼ぶこともなかっただろう。… 訴訟は最高裁の場に持ち込まれる。手弁当の弁護団の奮闘に敬意を表し、今後はむしろ言論の場を主戦場として、真実の歴史を明らかにする仕事に取り組まねばならないと考えている』(269ページ)
控訴審判決が原告側に与えたダメージの大きさがうかがえる文章だ。『この裁判をもともとやるべきではなかったとか、敗訴する前に控訴審の途中で取り下げるべきであった』という批判が原告側の内部では噴き出しているわけだ。当然のことながらその批判の矢は、控訴審で宮平証言を押し出し、『意見書』も提出して精力的に動いた藤岡氏にも向けられているだろう。
末尾の文章は、もう裁判には関わりません、と言っているわけだが、控訴審敗訴の責任を追及され、実際には叩き出されたのではなかろうか。元より、最高裁の場で藤岡氏が出る幕はないだろうが、控訴審敗訴のA級戦犯として詰め腹を切らされたというのが真相ではなかろうか。『今後はむしろ言論の場を主戦場』とすると藤岡氏はほざいているが、『虚言』をも一つの手段として沖縄戦の史実を歪曲しようとする溺れた犬は徹底して叩くだけのことだ」
このように目取真俊さんは自身のブログに書いています。ここから、私たちの預かり知らぬところで、原告側内部で内紛が起こっている様子が分かります。
09年1月10日第231回大阪行動終了後のミーティングで筆者ら次の文章は、支援連絡会が1月に発行する『ニュースレター』(第16号)に『大江・岩波沖縄戦裁判の傍聴を続けて』と題してぼくが書いたものです。
いろんな所で書いたり話したりしてきたのでご存知の方も多いと思いますが、座間味島の梅澤裕・元第1戦隊長と渡嘉敷島の赤松嘉次・元第3戦隊長(故人)の弟・秀一が大江健三郎氏と岩波書店を出版差し止めと名誉毀損で訴えたことを当時琉球大学大学院在学中のぼくは、2005年8月6日付『沖縄タイムス』の記事で初めて知りました。その時、“なんじゃ、これは!エライこっちゃ”と思ったのを昨日のことのように記憶しています。そして大江健三郎氏が同年8月16日付『朝日新聞』の「伝える言葉」でそのことに言及しました。
当時、沖縄在住だったためぼくは第1回公判(2005年10月28日)を傍聴できませんでしたが、2005年12月ヤマトゥに戻り、2006年1月27日の第2回公判を傍聴しました。この日に裁判があることは、その前日すなわち1月26日に「辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動」のML(メーリングリスト)で立命館大学大学院生が知らせてくれたのでした。仮にこのMLが来なくてもいずれ裁判の傍聴に行ったでしょうが、第2回公判から傍聴できたことに感謝しています。この大学院生とは面識はなく、当日携帯で連絡を取り合って裁判所内で彼と会うことができました。この日は原告側の傍聴人の方が圧倒的に多く、ぼくは危機感を持ちましたが、当日の日記に次のように書いています。「自由主義史観側の力の入れように対して、こちら被告(大江・岩波)側の支援体制が全く出来ていない。沖縄と東京と大阪が分断されている。この裁判にもし敗れたりすれば大変なことになる。力を注がねば」と。
第2回公判終了後、彼のよびかけで有志が集まり支援組織の必要性を確認し合いました。そして、第3回公判(3月24日)後、沖縄平和ネットワーク代表世話人・鈴木龍治さんを講師に「挑まれた『集団自決』訴訟−経過とねらい」と題した学習会を持ち、第4回公判(6月9日)後に「大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会」の結成へと至りました。
ぼくは第2回公判から高裁の第二審公判も含めて、すべての裁判を傍聴してきました。しかしこの書き方は正確ではありません。傍聴券の抽選に当たった時は法廷に入ることができますが、外れると傍聴できません。外れても傍聴券を回してもらった時もあり、逆に当たった傍聴券を譲った時もあったという具合ですから、すべての裁判を傍聴しようと裁判所に出向いた、というのが正しい書き方です。
裁判を傍聴した中で最も印象に残っているのは、2007年3月30日の第8回口頭弁論で、原告側・徳永信一弁護士がこの日の午後6時報道解禁という協定を破って「今回の教科書検定で軍命はなかったと修正されたことは我々の主張が取り入れられた結果であり、大変喜ばしいことである」と誇らしげに発言したことです。通常、裁判では自分たちの見解、主張を裁判長に理解してほしいとの思いから裁判長に向かって発言するものですが、この日に限らず原告側の弁護士たちは裁判長に向かってではなく、傍聴席に向かって発言していました。これは裁判の勝敗よりも自分たちの主義を宣伝する(プロパガンダ)場として法廷を利用している証左の一例でしょう。
高裁判決はこの点に触れ「本件訴訟の目的について」との一項をわざわざ設けて「本件訴訟は、控訴人ら(筆者注:梅澤裕、赤松秀一のこと)の自発的意思によって提起されたものではない。特定の歴史観に基づき歴史教科書を変えようとする政治的運動の一環であり、慶良間列島で発生した集団自決は、日本軍の指示・命令・強制によるものではなく、住民は国に殉じるために美しく死んだと歴史観を塗り替え、歴史教科書を書き換えさせようとする目的で提起されたものである。本件訴訟がそのような目的のために利用されることがあってはならない」(113−4ページ)と一喝しました。
さて、舞台はいよいよ最高裁に移ります。大阪地裁、大阪高裁の時と異なり主戦場は東京です。「最高裁が何らかの態度を示すまでに、早くて約半年、長ければ二、三年かかるとみられる」(『沖縄タイムス』2008年12月27日付)といいます。最高裁における支援のあり方等を含め、1月30日に開かれる学習会でも論議を深めていきたいと思います。