第69号(2009年5月)

◆ 目次 ◆
1.3月29日(日)、「薩摩支配400年シンポジウム・激論会」が那覇市で開かれる。

2.辺野古新基地建設阻止の闘い − 現地から、大阪から。

3.大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会より、渡嘉敷島、座間味島検証の旅へ。

4.沖縄自由民権運動の父・謝花 昇の資料コーナーと記念碑を訪れる。



1.3月29日(日)、「薩摩支配400年シンポジウム・激論会」が那覇市で開かれる。

 「薩摩の琉球支配から400年・日本国の琉球処分130年を問う会」(以下、「問う会」)が1月30日(金)に結成されたことは『沖縄通信』67号(2009年2月)で報告しましたが、3月29日(日)に「問う会」主催で「薩摩支配400年シンポジウム・激論会」が那覇市の教育福祉会館で開かれ、参加しました。
 集会は2部構成で、第1部:豊見山和行・琉球大教授による基調講演と5人のコーディネーターによる発言、第2部:激論会でした。


琉球生け花 琉球おもろ流

 「琉球生け花 琉球おもろ流」の説明文には「日本の華道界のセクト主義に疑問を感じて、一つの学問の一分野として考え、琉球王国の歴史資料などを研究して沖縄独自の方法論を発見し『琉球おもろ流』の生け花を確立しました。吉田紫峯」とあります。


基調報告する豊見山和行・琉球大教授

 「近世琉球(1609〜1879)の国家・社会・民衆」と題した基調講演で豊見山教授は、琉球が薩摩に隷属的に支配されていたとする通説は誤りだと指摘し、侵略初期の従属状態から琉球が主体性を回復する過程を考える必要があることを強調しました。そして、王府の薩摩藩への主体的な抵抗の根拠に琉球の村(百姓)社会の自律性があることを説明し、琉球王国はふっ飛んだが琉球社会がなくなったのではない、と講演をまとめました。


豊見山教授と5人のコーディネーター

 パネルディスカッションでは宮古郷土史研究会の下地和宏さんが「宮古から見る薩摩侵攻・琉球処分」、八重山文化研究会の砂川哲雄さんが「薩・琉支配下の八重山近世史」、環境ネットワーク奄美の薗 博明さんが「奄美大島からの報告」、彫刻家の金城 実さんが「大阪から沖縄のはざまを見た」、「問う会」共同代表の平良 修牧師が「薩摩の琉球『侵攻』または『侵入』は『侵略』のごまかし」と題して、それぞれ報告しました。なお、薗 博明さんについては『沖縄通信』53号(2007年12月)で触れています。
 平良 修牧師のレジメは、
@薩摩の琉球『侵攻』または『侵入』は『侵略』のごまかし。
A日本国による『琉球処分』にはいかなる正当性もない。
B『琉球侵略・処分』継続下の沖縄は、麻薬中毒状態に陥っていないか?
Cアンガー高等弁務官就任式での祈祷の総括
D日本(ヤマト)から離れる、離されることへの沖縄の恐怖感を打破しよう。
  というもので、Cでいう「祈祷」とは、1966年11月、琉球列島米国民政府高
等弁務官アンガー中将の就任式で沖縄のプロテスタントを代表して平良 修牧師がおこなった次の祈祷をいいます。
 神よ、私ども、新高等弁務官の就任式につどい、共に主なるあなたのみ前に深く首を垂れる祈りを与えられ、感謝いたします。過去20年、戦争と、戦争の脅威により世界の多くの人々が家庭と愛する者たちから引き裂かれ、私どもの郷土沖縄も祖国から切り離される憂き目を体験してまいりました。神よ、願わくは世界に一日も早く平和が築きあげられ、新高等弁務官が最後の高等弁務官となり、沖縄が本来の正常な状態に回復されますように、切に祈ります(『沖縄にこだわりつづけて』信教出版社 96〜7ページ)。
 平良 修牧師はレジメを基に、次のように話されました。
@薩摩の琉球「侵攻」または「侵入」とよく聞くが、なぜはっきり「侵略」と言わないのか。言い換えるのはどこかに侵略した側の自己弁護、甘さがある。A「処分」とは、不要なものや余分なものなどを、捨てる、売り払う、消滅させる、など適当な方法で始末することである。「処分」という言葉は本来人間に対して使われてはならないものだ。しかも処分する側の言葉を我々も「琉球処分」と言って使っている。琉球に「廃藩置県」を当てはめるのは間違いだ。「廃国置県」である。言葉に対する違和感を失っていないだろうか。「琉球併合」と言ってはどうだろうか。
C祈祷は、日本への帰属を求める内容だった。日本を冷静に見るということに欠けていたと言える。米軍支配からの解放のみならず、日本の支配からも自由であることの自主性を持つべきだった。
D日本国からの分離・独立を視点に据えることなく、自立性は芽生えない。
このように平良 修牧師は語りました。


国連の勧告を報告する平良識子さん

 第2部 激論会の冒頭、平良識子(さとこ)さんから国連が琉球民族を国内立法下で先住民族と公的に認めるよう勧告したことについての報告がありました。平良識子さんの後ろにあるのは金城 実さんの彫刻『沖縄』で、「1972年の復帰の年に東京都美術館の公募展で奨励賞をもらった作品。こぶしを握って立ち上がろうとする農民をイメージしたもので『沖縄の抵抗』を表現しています」との説明があります。

 

2.辺野古新基地建設阻止の闘い − 現地から、大阪から。

 3月31日(火)、辺野古の座り込みに参加しました。8年(2,639日)の命を守る会の闘いと座りこみ1,808日目です。 

 
座り込み1808日目の辺野古(2009年3月31日)

 この日は火曜日なので、おじぃ、おばぁたちのミーティングがおこなわれる日でした。折しもグアム移転協定が衆議院外交委員会で審議されようとする時で、“辺野古の現状も知らずにそもそも審議できるのか”との圧力(?)に押されて、外交委員会・河野太郎委員長と辻元清美、笠井 亮両委員が翌日の4月1日(水)、非公式に辺野古にやって来るとの情報が入っていました。「キャンプ・シュワブには来てもテント村にやって来た自民党の議員は今まで誰もいないわサァ」との発言に対し「国会議員に限らず、県知事も名護市長も来てないサァ」との受け答えにみんな大笑いでした。

 
おじぃ、おばぁたちのミーティング

 非公式にでも辺野古を訪問するとのシナリオを作った舞台裏で辻元清美さんや服部良一さん(山内徳信議員秘書)の活躍があっただろうことは容易に想像がつきます。おやつにサーターアンダギーを用意しよう、何よりも辺野古の自然を見てもらうために船に乗って海上を案内しようなどなど、いろんなアイデアが出されました。
 グアム移転協定は4月14日(火)に衆議院を通過してしまいましたが、今回の企画は将来にむけて決して無駄なものではなかったと思います。

 
提出した6638筆の署名

 大阪に戻って4月6日(月)、「辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動」が近畿中部防衛局に第7次の署名提出行動をおこない、ぼくも参加しました。第7次分は6,638筆、累計で38,182筆となりました。
 この日、次の「質問書」を提出しました。


近畿中部防衛局との交渉風景

1.日本政府の沖縄への政策について
あなた方が考える「沖縄の負担軽減」とは何か。
2.環境アセスメント「準備書」について

@環境アセスメント準備書において、案を比較検討し、現案が最も良いと結論されているが、そもそも基地を作らないというゼロオプションが検討されていないのはなぜか。
Aこれまで防衛省は新しい基地で運用される兵器・機材については分らないとしてきたが、運用される機材が分らないのになぜ供用後の大気汚染や騒音の評価ができるのか。
B供用後の大気汚染や騒音について、「飛行経路は滑走路をV字型にして運用を図るので、影響が軽減できる」とされているが、米軍が演習等で地域に配慮した運用を行わないことは、嘉手納等の事例をみても明らかである。地域に配慮した運用を米軍が行うよう、防衛省はこれまでどのような努力をしてきたのか。また、今後どのような具体的な努力を続けるのか。
Cサンゴ類について、「可能な限り工事区域外に移植する」とあるが、移植したサンゴは確実に育つのか。最初からサンゴをつぶさないようにすべきではないのか。
D藻場の喪失について、「専門家等の指導・助言を得て生育基盤の環境改善による生育範囲拡大に関する方法等を検討し、可能な限り実施する」とあるが、どのような方法で藻場を増やすのか。最初から藻場をつぶさないようにすべきではないのか。
E「ジュゴンの餌場は主に嘉陽地先のギミ崎東側の海草類藻場と考えられるため、施設等の存在に伴いジュゴンの餌場となる海草藻場の生育域を減少させることはないと予測しました」とあるが、ジュゴンの調査には複数年の調査が必要であると指摘されているにもかかわらず、1年程度の調査でこのような結論を出してよいのか。
3.グアム移転協定について 
@沖縄県名護市辺野古の米軍基地建設が条件であると掲げられているが、それはなぜなのか。また、そのような条件の協定に日本国政府が署名したことは、約13年間の長きにわたりその建設計画に反対しつづけてきた沖縄の人々の声に対して、何を意味すると考えるのか。
Aロードマップが協定として再確認されることについて、それはどのようなことか具体的に示せ。
B沖縄県議会が賛成多数で可決したグアム移転協定に反対する意見書について、どう思うか。
C日本国憲法では、他国の戦力の維持に日本国のお金が使われることについてどのような判断を示してきたか。また示されていないのであれば、貴局として見解を述べよ。
4.ミサイル防衛システム、及びPAC3配備について 
@朝鮮民主主義人民共和国による人工衛星打ち上げについての一連の事態を受けて、貴局に何らかの指令、伝達はあったのか。また、所内ではどのような態勢をとったのか。
A朝鮮民主主義人民共和国による人工衛星打ち上げについての一連の事態を受けて、饗庭野演習場へのPAC配備に何らかの影響はあるのか。時期は早まるのか。
5.第7次署名の取り扱いについて
 今回、大阪行動が提出する第次分の6,638筆の署名、また累計で38,182筆にのぼる基地建設反対の声をどのように受け止めているか。また、この署名をどのように政策に生かすつもりか。

 約2時間にわたる交渉の中で、今回のミサイル騒動に対する質問に担当報道官は「8月ごろ饗庭野(あいばの)基地へPAC3が配備されると非公式ながら聞いている」と答えました。署名と同時に提出した「質問書」には後日(5月中旬)回答できるよう努力すると述べました。

 
交渉後、防衛局(第2合同庁舎)前で記念撮影

 交渉終了後、参加者は早速いつもの大阪駅前に場所を移し、署名提出の報告ビラを配布しました。


交渉後、大阪駅前で報告のビラを配布する筆者

 今回の第7次署名提出行動を在阪の新聞各社は報道しませんでしたが(これほど重要なグアム移転協定の衆議院外交委員会での審議内容についても全く触れずに黙殺した!)、唯一『沖縄タイムス』が報じました。

 
署名提出行動を報じる4月8日付『沖縄タイムス』

 

3.大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会より、渡嘉敷島、座間味島検証の旅へ。

 3月27日(金)〜29日(日)、大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会・代表世話人である岩高 澄牧師を団長にした渡嘉敷島、座間味島検証の旅があり、これに参加しました。そして、ぼくは3月29日(日)メンバーより一足早く那覇に戻り、前述の「薩摩支配400年シンポジウム・激論会」に出席しました。
 ぼくが渡嘉敷島、座間味島を訪れるのは今回で3回目です。ちょうど2年前の2007年3月に大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会より訪ねたのが最初で、2回目は昨年2008年11月に日本キリスト教団大阪教区の沖縄研修旅行で訪ねました。前者は『沖縄通信』45号(2007年4月)、後者は同65号(2008年12月)に書いています。
 前2回と異なり、今回は多くの証言者から貴重なお話を聞くことができました。そのお一人に座間味島の宮平春子さん(82歳)もおられました。

 
宮平春子さん、山城 功さんから証言を聞く。

 宮平春子さんは1945年3月25日の夜、兄の盛秀(せいしゅう)さん(村の助役、兵事主任、防衛隊長を兼任していた)が父に「明日は艦砲射撃が始まって敵の上陸は免れない。捕まらないうちに軍から玉砕しなさいと言われているから、水杯して一緒に死にましょうね」と言ったのを聞いていたのです。この証言は大江・岩波沖縄戦裁判で決定的な証拠となったものです。

 
小嶺正雄さんが一人で掘った壕

 渡嘉敷島の小嶺正雄さん(79歳)が64年前、集落の南側に家族を守るため一人で掘った壕があります。雨の中、案内してくださった小嶺さんは「ここから、グラマンが急降下して村を攻撃する時、パイロットの顔が見えた」と言います。小嶺さんは壕の脇に「戦さ場ぬ憶い 忘る時ねえらん 子孫に語て 平和願ら(戦争の記憶は忘れる時がない。子孫に語り伝えて 平和を願おう)命ど宝!!恒久平和を祈念して」と書いた看板を最近立てました。歌の下に「昭和(ママ)20年3月28日を忘れるな!」と書かれています。

 
小嶺さんが立てた看板

 強制集団死の現場を体験した人たちの多くは、墓場まで沈黙を貫こうと決めていました。しかし、小嶺正雄さんが「なぜ、事実なのに歴史をひっくり返したのかねと、怒りが燃えてきたのね」と語り、山城 功さんが「これまでは戦争の話は出来なかった。今回、教科書問題が起こって、やっと話さなくてはいけないと思うようになった」と語り、宮平春子さんが「ここに兵隊が来なかったら『集団自決』はなかったと思いますヨ。軍の責任がないなんて、どう考えているのかね。沖縄の人を苦しめて、自決させて。これをなかったと訂正させて、こんなことを許してはいけないと思う」と述べるように、文科省の検定意見が大きな契機となり、11万6,000人が集まった2007年9月29日の県民大会が決定的となって、多くの証言が新たに出てきたのでした。9月29日の県民大会の会場で、慶良間列島から参加した人たちが「沖縄本島のみなさん、ありがとう」と言っていたのを、実際ぼくは何度も耳にしました。決してヤマトゥのみなさん、ありがとうではないのです。この発言は、強制集団死の実相を沖縄島に住む人たちが受けとめてくれたことに対する感謝なのです。
 しかしながらと言うべきか、にもかかわらずと言うべきか、ぼくは次の疑問を払拭することができません。すなわち、集団死を強制させられた人たちは皇軍に命を奪われ、その尊厳を国家(=大日本帝国)によって辱められました。ところが、死して後にも戦傷病者戦没者遺族等援護法に基づき、遺族の意思とは無関係に英霊として靖国神社に合祀されているのです。それゆえ彼らは二度命を奪われ、その尊厳を日本国と靖国神社によって二度辱められていると言えます。現在、大阪に続いて沖縄でも靖国神社合祀取り消しを求める裁判が取り組まれていることは『沖縄通信』58号(2008年5月)で報告していますが、原告の中に集団死を強制させられた人たちの遺族はおりません。例えば森住 卓著『沖縄戦「集団自決」を生きる』(高文研)で、遺族が靖国神社に合祀されている弟の「御英霊顕彰」写真を持って写っていますが、その感覚は正直ぼくには分かりません。
 以上のような趣旨の疑問を、3月28日(土)渡嘉敷島を案内してもらった吉川嘉勝さんに、3月29日(日)「薩摩支配400年シンポジウム・激論会」で金城 実さんにぼくはそれぞれ投げかけました。吉川さんは「深く考えてない、自然な感情だろう」と答え、金城さんは「まさにそこに沖縄の弱さがある」と答えられました。

 

4.沖縄自由民権運動の父・謝花 昇の資料コーナーと記念碑を訪れる。

 訪沖中の3月30日(月)、謝花 昇の資料コーナーと記念碑を訪れました。2003年から2005年の沖縄在住中にも行ったことがなかったので、初めての訪問でした。資料コーナーは八重瀬町立具志頭歴史民俗資料館の一角にあり、記念碑は東風平庁舎の近くにあります。八重瀬町は2006年1月に東風平町と具志頭村が合併してできた町です。
 謝花 昇の足跡を記せば、『沖縄通信』一号分でも足りないくらいなので、ここでは記念碑にある説明文を載せることにします。

 
謝花 昇像を背景にした筆者

 沖縄自由民権運動の父 義人 謝花昇(18651908

 謝花昇は1865年(慶応元年)東風平間切東風平村の農家に人兄弟の長男として生まれる。幼少の頃より学業優秀で17歳の時に師範学校に入学。翌年の明治15年には第回県費留学生として上京。学習院大学から東京山林学校・東京農林学校を経て帝国農科大学を明治24年に卒業。同年月県技師に任命され高等官となる。
 平民出身で沖縄初の農学士、そして高等官となった謝花昇は県民の尊敬の的となった。
 県技師となった謝花昇は、琉球処分後の特殊事情下にあった沖縄の各種制度の改革に努め、さらに農工銀行の設立・沖縄糖業論の刊行や造林指導にも業績を残し『東風平謝花』の名で親しまれた。
 しかし、杣山(藩有林)開墾をめぐる問題等で時の県知事と激しく対立。沖縄の実情を訴える場がないことを考えた謝花昇は、藩閥政治の打破と参政権獲得運動を展開するため、職を辞し、多くの同志と共に『沖縄倶楽部』を結成。沖縄の実情を訴えるため『沖縄時論』を発行する等全財産を投じて東奔西走したのですが、反対勢力の弾圧は厳しく、資金も途絶え、運動も徐々に行き詰まり仲間もそれぞれが新天地を求めて四散していった。
 謝花昇は再起を図るべく本土に渡るが、山口県に赴く途中病に倒れ、年後の1908年(明治41年)44歳の若さで悲運の生涯を閉じたのである。
 謝花昇によって灯された参政権獲得運動の灯火は、謝花昇が没してから年後の明治45年に実現をみる。本土から遅れること実に22年後のことである。
 その後、謝花昇は沖縄自由民権運動の父、民族的英雄、さらに義人 謝花昇として町民を初め多くの県民から慕われている。
 東風平町では、昭和10年に先生の遺徳を顕彰すべく銅像が建立されたが今次大戦で国に応召され、昭和39年に銅像再建期成会を結成し、現在の銅像が建立され先生の遺徳が讃えられている。

 ですから、昨年2008年は謝花 昇没後100年でした。

 

沖縄通信に戻る

 

 

 

 

 

 

inserted by FC2 system