☆西浜さんのプロフィール☆
1944年生。1989年12月受洗。
2005年3月琉球大学大学院修士課程修了。
2009年3月大阪市立大学大学院博士課程単位取得退学。
現在大阪市大人権問題研究センター会員ならびに共生社会研究会所属。


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第70号(2009年6月)

◆ 目次 ◆
1.5月17日(日)、「琉球侵攻400年シンポジウム」が沖永良部島・知名町で開かれる。

2.前日の5月16日(土)から、「ゆいまーる琉球の自治in沖永良部」が開かれる

3.5月14日(木)、辺野古へ。環境影響評価に対する意見書が5,345件に上る。

4.5月15日(金)、日本再併合37年目の日。多くの取り組みが。


1.5月17日(日)、「琉球侵攻400年シンポジウム」が沖永良部島・知名町で開かれる。

 5月17日(日)に「琉球侵攻400年シンポジウム <琉球>から<薩摩>へ−400年(1609〜2009)を考える−」(主催:知名町教育委員会)が鹿児島県は沖永良部島の知名町で開かれ、参加しました。現在、沖縄島から沖永良部島には空路がなく、この日の午前7時にクイーンコーラルエイト号で那覇港を出港し、午後1時55分に沖永良部に到着しました。約7時間の船旅です。後述する豊見山教授と同じ船に乗り合わせました。


クイーンコーラルエイト号

 沖永良部島には知名町(ちなちょう。人口6,844人)と和泊町(わどまりちょう。人口7,256人)の2町があり、住所は鹿児島県大島郡ですが、1609年の薩摩侵略まではともに琉球王国の版図でした。

 
船の甲板(背景に与論島が見える)

 当日、主催者が配布した「シンポジウムの趣旨」は次のように述べています。
 今年(2009年)は、薩摩島津氏による琉球侵攻(1609年)から400年をむか
える。この400年の意味するものを考察することが、シンポジウムの基本的テーマである。
 琉球の統一王朝である琉球王国は、中山王国の尚巴志が、1416年に北山王国、
1429年に南山王国を、攻め滅ぼすことによって成立した。薩摩の琉球侵攻によって、古琉球の時代は終焉をむかえることになるが、王国自体は薩摩藩の間接支配下で、1879年の琉球処分(廃琉置県)までの約500年間、存続した。
 奄美諸島南部(沖永良部島、与論島)は北山王国時代から琉球王国時代を経て、薩摩藩の支配下におかれた。両島にとって<琉球>の時代は、北山時代もふくめると、200年から300年間である。…
 奄美大島と喜界島も15世紀半ばには、琉球王国の影響下にあったことがわかる。しかし、16世紀後半まで、両島に対しては琉球王府の軍勢が何度も派遣されていることから、奄美諸島北部(奄美大島、喜界島)が琉球王府に完全に服属したのは16世紀後半ということになる。薩摩の支配下におかれたのは、それから数十年後のことであった。奄美諸島北部にとって<琉球>の時代は、100年から200年間である。
 奄美諸島にとって<薩摩(鹿児島)>の時代(400年)は、<琉球>の時代よりも長い。にもかかわらず、言語、民謡、民俗などの文化は、薩摩の影響を基本的に受けることなく、現在でも琉球文化圏である。琉球文化圏も、徳之島以北の奄美文化圏、沖永良部島以南から沖縄島周辺の沖縄文化圏、宮古・八重山の先島文化圏に分かれる。沖永良部島は<琉球>なのか、<奄美>なのか、ということも一つのテーマである。…
 薩摩は奄美諸島と琉球王府との関係を完全に断ち切ったわけではない。薩摩の琉球支配のもう一つの目的は、琉球を介した中国との進貢貿易による経済的利益であったからだ。奄美諸島は対外的には<琉球之内>であった。… 飢餓時の奄美諸島と琉球間の連携(救米等)、漂着者の送還をめぐる中国、琉球、奄美諸島、薩摩、朝鮮といったネットワークも形成されていた。
 明治初期の奄美諸島… も琉球処分とは無関係ではなかった。… それぞれの思惑から、奄美諸島の帰属をめぐって動いていた。琉球王府による「道之島」(筆者注:奄美諸島のこと)返還要求、清国政府による琉球三分割案、明治政府(大蔵省)による「大島県」設置構想。…
 敗戦によって、奄美諸島は沖縄とともに日本国から切り離され、米国の占領下におかれた。… 講和条約の調印(1951月)、発効(1952月)をきっかけにして、「元鹿児島県大島郡の完全復帰」という実質復帰論が主流となり、19531225日、奄美諸島は… 日本国へ返還された。…
 奄美諸島の「日本国」返還から半世紀が過ぎた現在でも、奄美諸島の帰属(道州制)が問われようとしている。琉球侵攻、琉球処分、復帰運動と続く、帰属問題である。薩摩による琉球侵攻から400年。それは過去の問題ではない。奄美諸島、そして沖永良部島の島民たちにとっては、現在の問題でもある。… この400年の意味するものを考えたい。

 
琉球弧の島々

 シンポジウムは、第1部は、基調講演@「薩摩にとって、1609年」を原口 泉・鹿児島大学教授が、基調講演A「琉球にとって、1609年」を豊見山和行・琉球大学教授がそれぞれおこないました。
第2部は、原口、豊見山両氏に弓削政己・奄美郷土研究会、高橋孝代・沖縄大学准教授を加えてパネルディスカッションがおこなわれました。

 
基調講演@の原口 泉教授

 薩摩(から見た琉球侵略)の歴史について全くといっていいほど無知なぼくは、原口教授の講演(特に人名、地名)をあまり理解できませんでした。そこで、ここでは原口教授が「薩摩の視点」と題して2009年1月1日付『琉球新報』に掲載した小論を紹介します。
 琉球にとって国家の在り方が大きく変わった出来事が、1609年に起きた薩摩による侵攻だ。一つの独立国家を形成していた琉球王国が幕藩体制に取り込まれたという点で、単に鹿児島と沖縄の問題ではなく、国家と国家の問題だ。
 幕末の時代、幕府は琉球にかかわる外交問題で日本が影響を受けないように対応していた。明治時代の琉球処分もそうした積み重ねの現れだ。第2次世界大戦では、沖縄は米軍の本土上陸を長引かせる「不沈空母」となった。こうした日本の考えは、幕末から続いていたものだった。私たちが考えないといけないことは、その考え方が今、克服されているかという問題だ。

 
基調講演Aの豊見山和行教授

 次に、基調講演Aで豊見山氏は400年前(近世琉球、薩摩藩の支配期)を振り返ることの意味を問い、薩摩侵攻300年の時といえば1909年、200年といえば1809年、100年といえば1709年であり、その当時は薩摩侵攻の意味を問うことすらできなかっただろうと述べた上で、薩摩藩の琉球支配の変遷を説明しました。
@1609年〜1623年:直接占領期で強圧的段階にあり、薩摩藩への全面的服属体制が構築された。
A1624年〜1630年頃:直接占領の緩和期で、琉球側による扶持方(ふちかた。諸士への給与)・死罪流罪・おりめまつり(農耕祭祀)の裁量を許した。
B1630年頃以降〜:間接的支配体制へ移行した。
 と、強圧的な支配から緩和期を経て間接的な支配体制への移行を説明し、琉球支配には段階性と強弱があり、一貫して圧服されたという理解は一面的だ、と指摘しました。

 
パネリストの高橋孝代さん(左)と弓削政己さん(右)

 パネルディスカッションで弓削氏は薩摩藩が先導した沖永良部、与論両島の砂糖生産と階層分化の関連性に言及し、流通体制と貨幣制度の解明を研究課題に挙げました。沖永良部島・和泊町出身の高橋氏は、日本/沖縄、鹿児島/沖縄、奄美/沖縄のうち、鹿児島/沖縄という境界性に焦点を当て考察すると、沖永良部島と外部勢力との関係が島民のアイデンティティーに影響を与えたと言え、侵攻後の400年は外部勢力に揺れた歴史の一こまで、柔軟な島民の姿勢が今の発展に貢献していると語りました。


シンポジウムを報じる5月18日付『南日本新聞』


2.前日の5月16日(土)から、「ゆいまーる琉球の自治in沖永良部」が開かれる。

 5月16日(土)〜17日(日)に「ゆいまーる琉球の自治in沖永良部」が開かれました。


会議風景

 今回で5回目を迎える「ゆいまーる琉球の自治」は次のような経緯をたどって来ました。

開催年月

開催場所

『沖縄通信』掲載号

第1回

2007年03月

久高島

参加していない

第2回

2007年11月

奄美大島

53号(2007年12月)

第3回

2008年03月

伊江島

57号(2008年4月)

第4回

2008年11月

西表島

65号(2008年12月)

今回

2009年05月

沖永良部島

今70号(2009年6月)


発表する皆吉龍馬さん

 今回は道州制が一つのテーマで、皆吉龍馬さんも発表されました。皆吉さんは82歳、現役の琉球新報通信員です。皆吉さんの祖父は1879年、琉球処分によって設置された沖縄県庁に勤務。退職後、沖縄から仲毛演芸座(筆者注:沖縄近代演劇史上、重要な役割を果たした芝居小屋で、那覇東村にあった。1889年頃、沖縄最初の本格的な芝居小屋としてスタートした)30名を沖永良部島に招いて、沖縄芸能の普及に力をいれました。その影響を受けた父は、沖縄県を切り離したかたちで進められる復帰運動の渦中で、琉歌で沖縄と行動を共にすべきことを訴えたとのことです。
 皆吉さんは、沖永良部は文化的にも距離的にも沖縄に近いから、与論、和泊、知名の3町が沖縄の北部の町と合併するという方法で沖縄州への編入が可能だと述べました。それに対して、参加者から「沖縄県になるということは米軍基地が来るということにつながる」との意見も出されました。


会議中の筆者(右端)

 翌5月17日(日)の午前中、島を駆け足で巡りました。長く教職に就かれていた1934年生まれの奥間さんが案内をしてくださいました。その内の一つ、和泊町にある「世之主の墓」を訪れました。


「世之主の墓」を説明する奥間さん

 「世之主」とは地方の領主のことで、琉球王国統一後は国王のことを指すようになりました。伝承によると、世之主が生きた時代は14世紀後半15世紀の初め、日本では南北朝時代、沖縄では中山、南山、北山の三勢力が競った三山時代にあたります。
 沖永良部島は北山王の領分であり、初めて沖永良部世之主となった人は、この北山王の二男真松千代(まちじょ)といいます。平穏に島を統治していた世之主でしたが、琉球ではたびたび合戦のすえ中山王は南山を陥れ、北山も攻め滅ぼしました。そして、中山王の和睦の船が来航しましたが、世之主は北山王の二男ですからてっきり中山王の軍船であると考え違いをし、小島をもって大国には勝てないと判断し、直ちに奥方、嫡子とともに自害しました。
 この墓は世之主と奥方、嫡子の墓で、中央に3名が並び、四隅には家臣の四天王、後蘭孫八(ごらんまごはち)、屋者真三郎(やじゃまさばる)、西目国内兵衛(にしみくにうちべえ)、国頭弥太郎(くんじゃいやたろう)の遺骨が納められています。この墓を方言でウファといいます。


トゥループ号碑

 海岸近くの小高いところに、1艇の帆船が置かれています。これは、1890(明治23)年9月、長崎からの帰路、台風に遭遇して知名町・芦清良(あしきよら)のウジジ浜沖で難破したカナダの帆船トゥループ号を復元したものです。
 海に投げ出された帆船の乗組員22名のうち12名が、島民の必死の活動によって救助されました。船長と職工1名は亡くなりましたが、残りの10名は芦清良の民家で17日間献身的な看護を受けて無事帰国することができました。この帆船事故の救助活動は、日本の水難救助の第1号ともいわれています。そして事故から110年後の2000年に「トゥループ号110年祭」が行なわれたとのことです。
 半日だけでしたが島を巡って、国頭、西原、玉城、大城、赤嶺、新城など沖縄島と同じ地名が多くあり、沖永良部島と沖縄(琉球)との関係の深さを感じさせられました。


沖永良部空港にて

  沖縄の「めんそーれ」は、沖永良部では「めんしょーり」となります。

 

3.5月14日(木)、辺野古へ。環境影響評価に対する意見書が5,345件に上る。

 5月14日(木)、早朝7時05分に関空を飛び立ったので那覇空港には午前9時15分に到着し、辺野古に直行しました。8年(2,639日)の命を守る会の闘いと座りこみ1,852日目です。
 この日辺野古に行くようにしたのは、翌日の15日(金)は平和行進でヤマトゥから多くの人たちがやって来るからその日は避け14日(木)にしたのです。


1852日目の辺野古(2009年5月14日)

 この日は環境影響評価(アセスメント)準備書に対する意見書締切日の前日だったので、辺野古テント村は届けられた意見書の整理などで忙しくしていました。ぼくも意見書をテント村で作成しました。
 5月15日(金)の締切日までに提出された意見書は実に5,345件に上りました。これから、意見書が集約されます。そして、アセス審査会が意見を提出し、8月中旬に名護市が沖縄県に意見を送り、10月に沖縄県が知事意見をまとめて提出するという手順です。

 
干潮の美しい辺野古の浜

 ぼくが座りこみに行った5月14日(木)の前日の13日(水)にグアム移転協定が成立しました。これは米海兵隊司令部庁舎や隊舎、学校など生活関連施設を整備するため28億ドルを上限に負担することを条約として確約するものです。
加えて家族住宅や電力・上下水道などの基地内インフラ整備に計32.9億ドルを融資の形で提供し、移転費総額102.7億ドルのうち日本が真水と融資を含め60.9億ドルを支出するというとんでもない代物です。
 ウチナーンチュはかつて1952年4月28日を「屈辱の日」と呼んできましたが、沖縄民衆に一切問うことなく、頭越しに沖縄にだけ犠牲を押し付ける点においてグアム移転協定はそれにも匹敵する暴挙だといえます。それ故、2009年5月13日という日にちを決して忘れてはなりません。

 

4.5月15日(金)、日本再併合37年目の日。多くの取り組みが。

 5月15日(金)は沖縄が日本に再併合されて37年目の日です。この日は沖縄で様々な取り組みがありました。
ぼくは、「メアは沖縄から出て行け!5・15平和行進」に参加しました。メアとは沖縄にいるアメリカ総領事の名前です。彼は「県内か県外かという質問なら県外がいいとなるが、キャンプ・シュワブに移設するか、普天間が今のまま続くかという現実的な質問であれば、過半数が移設するべきだと返事するだろう」と述べ、大きなひんしゅくを買っています。
 例えば、屋慶名 徹さんは「わたしの主張 あなたの意見」という読者欄に「県民見下した総領事の発言」と題して「彼によれば沖縄人には普天間基地の処遇について、現状維持か名護市に移すかの二者からしか『現実的に』選択権はないのである。この人が民主主義を世界に語る米国政府の総領事とは米国民主主義も地に落ちたものである。日本政府の沖縄住民に対する『アメとムチ』施策どころか、彼のこの発言は、『足枷と手枷』、どちらを選択するか沖縄住民に問うに等しい。/ 歴史からよみがえったかつての高等弁務官そのものである。彼には、早々に沖縄から立ち去ってもらいたい」(『沖縄タイムス』5月23日付)と書いています。その通りでしょう。

 
米軍ヘリ墜落現場で集会

 当日午後2時より、沖縄国際大学ヘリ墜落現場で集会が開かれました。この集会には韓国から反基地闘争を取り組んでいる6名の代表団も参加しました。

 
韓国から6名の代表団(真ん中は通訳)

 集会後、在沖アメリカ総領事館までデモ行進をし、メア総領事に対し糾弾の声を上げました。

 
在沖アメリカ総領事館前で。


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