☆西浜さんのプロフィール☆
1944年生。1989年12月受洗。
2005年3月琉球大学大学院修士課程修了。
2009年3月大阪市立大学大学院博士課程単位取得退学。
現在、大阪市大人権問題研究センター会員ならびに共生社会研究会所属。
日本キリスト教団大阪教区沖縄交流・連帯委員会委員長


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第71 号(2009年7月)

◆ 目次 ◆
1. 6月5日(金)、講演会「沖縄戦『集団自決裁判』をたたかって」が開催される。
あわせて大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会の第4回総会を持つ。

2.慰霊の日(6月23日)に、京都・壇王法林寺で、大田昌秀さん(元・沖縄県知事、前・参議院議員)の講演会が開かれる。

3.「辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動」から生まれた「辺野古カフェ」が朝日新聞で紹介される。


1. 6月5日(金)、講演会「沖縄戦『集団自決裁判』をたたかって」が開催される。
あわせて大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会の第4回総会を持つ。

大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会は、6月5日(金)エルおおさかにおいて第4回総会を開催し、最高裁での勝利と高校歴史教科書に対する検定意見撤回、 記述回復をめざして一層奮闘することを確認し合いました。役員改選では、代表世話人に岩高 澄牧師が、世話人にぼくがそれぞれ再任されました。


挨拶する岩高 澄牧師

 続いて、この日のメインである「沖縄戦『集団自決裁判』をたたかって」と題した講演に移りました。講師は岩波書店編集部の岡本 厚さんです。
1.裁判の現状 
2.沖縄、沖縄戦と私たち−裁判を通じて見たこと、考えたこと
  3.沖縄戦、『集団自決(強制集団死)』の異様さ−日本(軍)とは何だったか
  4.私たちは何(誰)とたたかったのか
  5.私たちは勝ったのか
との項目からなるレジメを基に岡本さんは概ね次のように話されました。
 まず、裁判の現状から言うと、昨年末、原告側は最高裁に対して上告理由書、上告受理申立理由書を提出した。第1小法廷(涌井紀夫裁判官)に係属となった。最高裁では、@決定、 A期日指定、B口頭弁論開始という3つのケースがあり、@の場合は棄却、Aは原判決維持、Bは原判決を覆す場合で、通常、時間が経過するに従って@からAへ、AからBへと移る ケースが多いとされている。
 次に、裁判を通じて、私たちは原告側弁護団、支援者たちの杜撰さ、歴史の真実探求への不誠実さをつぶさに見てきた。例えば、彼らは安里(あさと)を"あんざと"と読んでいた。 一方、私たちは沖縄の体験者たちの怒りや悲しみに直に触れ、そこから逆に勇気をもらった。「文書による軍の命令など受けたことはない。すべてが口頭での命令だった」と身を震わ せて怒った大田昌秀さん、「なぜ首里で降伏しなかったのか。あそこで降伏しておれば、その後の無駄な大量の死は免れたのだ」と語った外間守善さんを忘れることはできない。 。

 
講演する岡本 厚さん

 第3に、沖縄戦の異様さ−日本(軍)とは何だったのかを考えてみよう。
 沖縄戦では10万人以上の住民、すなわち4人に1人が亡くなっている。全体で24万人、何を守るためにこれだけ膨大な死者を出したのか?沖縄を守るためか?日本兵は「沖縄を守 るために来た」と言って住民を壕から追い出している。しかし、住民を玉砕させれば沖縄はなくなってしまう。住民は何のために死んだのか?悠久の大義のためか、国体のためなのだ ろうか?
 沖縄戦の特徴を見ると、
@ 太平洋戦争最後の、日米最大の決戦。日本のほとんど唯一の地上戦だった。
米軍は54万8,000人、1,500隻の艦艇、日本軍は防衛隊、学徒兵などを入れて11万人=初めから勝算のない戦い、米軍に流血を強制する、本土決戦の準備のための「時間 稼ぎ」「捨石作戦」だった。
A 軍官民共生共死の一体化方針は総玉砕方針である。
B 皇民化教育、「生きて虜囚の辱めを受けることなかれ」との戦陣訓が徹底された。
C 捕虜になると残虐に殺されるとの恐怖心が植えつけられた。
D 捕虜になった者を処刑し、住民をスパイ視し虐殺する。
こうした「沖縄戦」という戦争のあり方を凝縮しているのが、住民の「集団 自決」(玉砕)だった。果たして「自決」なのか?女性、子ども、老人が8割を占めている。赤ん坊が「自決」するのだろうか。
 果たして、日本軍(皇軍)は沖縄住民をどう見ていたのか。
『沖縄警備隊区徴募状況』には「本県民は歴史的に勇気欠如し居るものの如し…本県民における軍事思想の幼稚なると国家思想の薄弱なるとは遂に徴兵を忌避し、ややもすれば兵役の大 義務を免れんとするもの多し」とある。
 沖縄連隊区司令部『沖縄県民の歴史的関係および人情風俗』(1922年)には「皇室国体に関する観念徹底しおらず」「進取の気性に乏しく、優柔不断、意志甚だ薄弱なり」「遅 鈍、悠長にして敏捷ならず」「無気力、無節制、責任観念に乏しい」「軍事思想に乏しく軍人となるを好まず」とある。
 極秘文書『沖縄防備対策』(石井虎雄沖縄連隊区司令官、1934年)には「沖縄県人は『帝国日本国家』の運命にはまったく眼中にない、出征兵士を送り出しながら無関心で戦争の 意味が分かっていない」とある。
 1944年8月31日の牛島 満司令官の訓示には「第32軍の軍民雑居、軍隊の編成・移動、陣地構築など『軍事機密』を知る住民、地方民をして喜んで軍の作戦に寄与し、進んで 郷土を防衛する如く指導すべし」「防諜に注意すべし」とある。同じく1945年4月9日の命令には「爾今軍人軍属を問わず標準語以外の使用を禁ず。沖縄語をもって談話しある者は 間諜とみなし処分す」とある。

 
会場風景

  第4に、私たちは何(誰)とたたかったのだろうか。
@ 藤岡信勝氏ら自由史観研究会が、2005年5月にケラマを調査、6月「沖縄プ ロジェクト」を立ち上げる。藤岡氏は「軍命はつくり話だということをはっきりさせ、旧日本軍の名誉を守りたい」と語った。
A 原告弁護団が提訴の1年前に、訴訟に消極的だった原告を説得した経緯が、 原告側弁護士によって書かれている。歴史修正主義派による「百人斬り訴訟」などの流れの中にある。「従軍慰安婦」「南京虐殺」「沖縄集団自決」の3点セットである。教科書記述か ら"抹殺"を図る。
B 2006年度の教科書検定における記述修正に対する官邸(チーム安倍と呼ば れた)の役割があった。
C 原告側は控訴審の最終弁論において「昨年の教科書検定を通じて教科書から 『命令』や『強制』が削除されたことは、勇気を持って提訴に及んだ訴訟の目的の一つを達成したと評価できる。…世間の耳目を集める訴訟が個人の権利回復に留まらず、より大きな政 治的目的を併有していることは珍しいことではない」と述べた。
 最後に、私たちは勝ったのか、を考えてみよう。
 裁判では確かに勝ったが、教科書は検定前に戻っておらず勝っていない。人命の軽視、人権の軽視も継続している。また沖縄に対する見方も変わっていない。500万人を超える観光 客が、毎年沖縄を訪れるにも係わらず、基地の存在を見ようとしない現実がある。この現実がある限り、裁判に勝っても勝ったとは言えないのではないか。
 以上のような講演を受け、その後活発な質疑があり集会は成功裏に終了しました。
 大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会は、次回学習会を9月11日(金)午後6時30分よりエルおおさかにおいて開きます。高嶋伸欣・琉球大学名誉教授より「沖縄戦の真実をどう伝え るか」と題した講演を受けます。是非多くの方がご参集下さるよう訴えます。
 さて、ぼくと同じく大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会の世話人として、この間一緒に闘ってきた栗原佳子さんが『狙われた「集団自決」−大江・岩波裁判と住民の証言』(2,346 円)を社会評論社から出版されました。一人でも多くの方がご購読されますよう呼びかけます。


2.慰霊の日(6月23日)に、京都・壇王法林寺で、大田昌秀さん(元・沖縄県知事、前・参議院議員)の講演会が開かれる。

  6月23日(火)の慰霊の日に、京都で「命の尊さ、平和の大切さを語り継ぐ会−平和は未来へ、沖縄からのメッセージ」が開かれました。主催は京都宗教 者平和協議会と浄土宗壇王法林寺、後援は京都沖縄県人会で、会場も壇王法林寺の本堂でした。ぼくにとって、お寺の本堂で講演を聞くというのは初めてのことです。
 第1部「歌い継ぐ」と題して、SHINKAというバンドのミニライブが行われました。


SHINKAのライブ

 プログラムによると"SHINKAは琉球ソングをかかげながらも、ジャンルにとらわれない音楽好きが集まった「毛遊び(もうあしび)」バンド。「毛遊び」 とは、昔の沖縄で仕事を終えた人々が砂浜や野原で三線片手に飲んで歌って朝まで楽しんだ集いのことで、バンド名の「SHINKA(シンカ)」とは「仲間、同志」を指す。今、現代 にて素敵に「毛遊び」を楽しむ個性派ぞろいで、京都の山科を拠点に活動"とあります。


京都沖縄県人会・大湾宗則会長

 ミニライブののち、京都沖縄県人会・大湾宗則会長の挨拶に続いて、第2部「語り継ぐ」と題して、大田昌秀さんの講演がありました。
 大幅に割愛していますが、概略次のように話されました。
平和をどうして大事にしなければならないのか?そもそも平和とは何か?
 ノルウェーの著名な政治学者であるヨハン・ガルトゥング氏は、平和=戦争のない状態と捉える「消極的平和」に加えて、貧困、抑圧、差別などの構造的暴力がない「積極的平和」を 提起し、平和の理解に画期的な転換をもたらした。直接的暴力である戦争をなくすだけでは、それは消極的な平和のつくり方であって、私たちは積極的に平和をつくり出していかねば ならない。
 さて、沖縄戦を考えてみよう。
当時、首里城の地下30mの所に4キロにわたって地下壕を作り、沖縄守備軍司令部が入っていた。私も動員させられ壕を掘っていた。そこに2,000人から3,000人の軍隊が 潜んでいた。首里城付近には23の国宝の建造物があったが、司令部が入っていたため米軍が攻撃するところとなった。
沖縄戦の体験を振り返らなければ、沖縄の未来を考えることはできないと思う。牛島司令官が自決したのは6月23日となっているが、アメリカ側の資料の多くは22日となっている。 そして牛島司令官がどのようにして自決したのかという問題もある。日本のほとんどの資料は武士道に則って見事に割腹したとなっているが、どうも青酸カリを飲んだらしい。こうし た点を見ても沖縄戦についてまだ分からないことが多い。
 では、どうすれば戦争を止めさせることができるのか?
長谷川如是閑(筆者注:はせがわにょぜかん。1875年〜1969年。日本の代表的ジャーナリスト。大正デモクラシー運動で重要な役割を果たす。1948年、文化勲章受章)は、 1929年に「戦争絶滅受合法案」というのを言っている。そこでは戦争開始後10時間以内に次の各項に該当する者を最下級の兵卒として召集し、出来るだけ早く最前線に送るとし て、@国家の元首、A国家の元首の男性の親族で16歳に達した者、B総理大臣、各国務大臣、各次官、C男性代議士。ただし戦争反対の投票をした者は除く。Dキリスト教など各宗 教の高僧で公然と戦争に反対しなかった者をあげている。そして、彼らの妻、娘、姉妹らは看護婦、使役婦として召集し、野戦病院に勤務させるとしている。
時の支配者は、徴兵制をひいても自分たちの息子はそれから逃れる方途を持っている。だから、この法案の持つ意味は大きい。
 なぜ、沖縄だけが日本から切り離されたのか?
 沖縄が戦争に負けたからか?沖縄だけが負けたのではなく日本全体が負けたのだ。それは民族の境、皇土であるかないかの違いによる。ニミッツ布告は北緯30度以南を占領すると宣 言したが、30度以北は皇土であって本土防衛軍が守るのに対し、北緯30度以南は日本であらざる所で、軍隊も南西諸島防衛軍とはっきり区別していた。そのことを米軍も知ってい たからだ。
 辺野古の新基地建設には反対しなければならない。
アメリカ会計検査院の報告書には、普天間の代替ではなく強化した基地を作るとはっきりと書いてある。辺野古の新基地は運用年数40年、耐用年数200年とある。これからまだ2 00年間沖縄は基地の島となる。だから絶対に認めてはならない。
 日本は民主主義制度を採っている。民主主義制度というのは多数決で決まる。今、国会議員は722名いるが沖縄選出の議員は11名だ。その内5名が政府と同じ歩調を取るから、基 地に反対する者は6名だけで、すべてが多数決で決せられる。いつまでたっても沖縄問題は解決しないという構図ができている。大変皮肉なことに、民主主義の名において沖縄は支配 されている。本土のみなさんが他人事ではなく、少しは自分の問題として沖縄を考えてもらわねば解決しないのだ。


講演する大田昌秀さん

 最後に、永井隆さん(筆者注:1908年生まれ。カトリック信徒。助教授をつとめる長崎医科大学付属病院で被爆。自らも重い傷を負ったその直後から、 負傷者の救護や原爆障害の研究に献身的に取り組む。被爆から6年後の1951年、43歳で死亡。「長崎の鐘」「この子を残して」などの著者)が誠一(まこと。1935年〜20 01年)さんと茅乃(かやの。1941年〜2008年)さん、お二人の子どもに送った遺言を紹介して終わる。「いとし子よ」という遺言である。
 いとし子よ!あの日、イクリの実を皿に盛って、母の姿を待ちわびていた誠一よ、茅乃よ。お母さんはロザリオの鎖一つをこの世に留めて、ついにこの世から姿を消してしまった。 そなたたちの寄りすがりたい母を奪い去ったものは何であるか?
−原子爆弾。いいえ。それは原子の塊である。そなたの母を殺すために原子が浦上にやって来たわけではない。そなたたちの母を、あの優しかった母を殺したのは、戦争である。
戦争が長引くうちには、はじめ戦争をやり出した時の名分なんかどこかに消えてしまい、戦争が済んだころには、勝った方も負けた方も何の目的でこんな大騒ぎをしたのか分からぬこ とさえある。そうして、生き残った人びとはむごたらしい戦場の跡を眺め、口をそろえて、戦争はもうこりごりだ。これっきり戦争を永久にやめることにしょう!そう叫んでおきなが ら、何年か経つうちに、いつしか心が変わり、なんとなくもやもやと戦争がしたくなってくるのである。どうして人間はこうも愚かなものであろうか。
私たち日本国民は憲法において戦争をしないことを決めた。わが子よ−。憲法で決めるだけならどんなことでも決められる。憲法はその条文どおり実行しなければならぬから、日本人 として中々難しいところがあるのだ。どんなに難しくても、これは善い憲法だから実行せねばならぬ。自分が実行するだけでなく、これを破ろうとする力を防がねばならぬ。これこそ 戦争の惨禍に目覚めた本当の日本人の声なのだよ。
 しかし、理屈は何とでもつき、世論はどちらへでもなびくものである。日本をめぐる国際情勢次第では、日本人の中から憲法を改めて戦争放棄の条項を削れと叫ぶ声が出ないとも限ら ない。そしてその叫びがいかにももっともらしい理屈をつけて、世論を日本再武装に引きつけるかも知れない。その時こそ、誠一よ、茅乃よ。たとい最後の二人となっても、どんなの のしりや暴力を受けても、きっぱりと「戦争絶対反対」を叫び続け、叫び通しておくれ!たとい卑怯者とさげすまれ、裏切り者とたたかれても「戦争絶対反対」の叫びを守っておくれ! 敵が攻め寄せた時、武器がなかったらみすみす皆殺しにされてしまうではないか?−という人が多いだろう。しかし、武器を持っている方がはたして生き残るであろうか?武器を持た ぬ無抵抗の者の方が生き残るであろうか?狼は鋭い牙を持っている。それだから人間に滅ぼされてしまった。ところが鳩は何一つ武器を持っていない。そして今に至るまで人間に愛さ れて、たくさん残って空を飛んでいる。愛されるものは滅ぼされないのだよ。愛で身を固め、愛で国を固め、愛で人類が手を握ってこそ、平和で美しい世界が生まれてくるのだよ。
 終わります。ありがとうございました。

3.「辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動」から生まれた「辺野古カフェ」が朝日新聞で紹 介される。

 6月22日(月)の朝日新聞(大阪版)に「辺野古カフェ」が紹介されました。2004年8月7日から始まった「辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行 動」は、6月27日で255回目となりました。毎週土曜日の行動で、元旦が土曜日だった時に一度だけ休んだので256週となります。この行動の中からいろんな企画が生まれてき ました。大阪駅前はキタにあるからミナミでも、と月1回難波駅前で「ナンバアクション」が始まり、更に「辺野古カフェ」や「リングリングナイト」という企画も生まれました。  以下は、「沖縄問題 カフェで話そ/ジュゴン・基地…ドキュメンタリー上映」と題した、朝日新聞の記事です。


朝日新聞に掲載された写真。左端に筆者

 沖縄をめぐる問題に関心はあるけれど、街頭で「基地反対!」と声をあげるのは、おっかなびっくり。「まずは気軽に語り合う場を」と、大阪市内のカフェ で、沖縄にちなんだドキュメンタリーの上映会が開かれている。米軍普天間飛行場の移設先とされる名護市の地名にちなみ、会の名前は「辺野古カフェ」。いつも40人ほどがお茶を 片手に作品の感想を語り合い、沖縄のいまを学んでいる。
沖縄の本土復帰から37年を迎えた5月、同市北区中崎西1丁目の「Salon de AManTo天人(あまんと)」で、ジャーナリスト森口豁(かつ)さんが1人の男性を長年 追った「沖縄の十八歳」シリーズを上映した。
 「言葉も教育も、日本民族として同じものを持っている。祖国に復帰すべきだ」。66年に復帰に向けて熱く語っていた高校生が、基地という「痛み」が残った17年後、こうつぶや く。「為政者が違う方向に持って行った」
 この心境の変化について参加者が語り合った。「期待し、裏切られ、立ち位置を変えていった。沖縄そのままを表しているのでは」(中年男性)。「祖国は何か、自分はどう生きるの か、問い続ける姿は自分に重なった」(在日コリアンの20代女性)
「カフェ」は、大阪市在住の高校教員の男性、通称・タユさん(26)の主宰。意見をたたかわせたり、意思統一を図ったりというわけではなく、自由に話してもらうため、参加者に 名前や所属はあえて聞かずに、自らも匿名にしている。この日は20〜60代の約30人が感想を述べた。
 タユさんは、神戸大院生だった06年、社会運動の研究のため初めて辺野古を訪れた。だが、飛行場の移設反対の座り込みをする住民から「応援に来てやったから頑張れというのでな く、一緒に頑張ってほしいのに」と本土批判も聞かされた。胸が痛み、逃げるように予定を早めて那覇に戻った。「もう辺野古のことは書けない」と思った。
それでも、「地元でできることはしよう」と決心。JR大阪駅前で毎週行われている移設中止を求める署名運動に参加。デモや街頭演説に気後れするような若者とも触れ合おうと、昨 年11月に辺野古カフェを始めた。
 タユさんは「沖縄の問題は沖縄以外の人の態度表明にかかっている。自らの生き方やライフスタイルを見直す機会になれば」と話す。

 
G 6月13日、第253回の大阪行動(ジュゴンの後方でチラシを配布する筆者)

 この記事が掲載されてから最初の大阪行動があった6月27日(土)、「期待し、裏切られ、立ち位置を変えていった。沖縄そのままを表しているのでは」 と中年男性が語ったと書いてあるが、「あれは西浜さんのことやで!」とみんなから言われました。多分ぼくの発言だと思います。


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