☆西浜さんのプロフィール☆
1944年生。1989年12月受洗。
2005年3月琉球大学大学院修士課程修了。
2009年3月大阪市立大学大学院博士課程単位取得退学。
現在、大阪市大人権問題研究センター会員ならびに共生社会研究会所属。
日本キリスト教団大阪教区沖縄交流・連帯委員会委員長


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第72 号(2009年8月)

◆ 目次 ◆
1. 6月28日(日)に、兵庫沖縄県人会の方々による「薩摩侵攻400年に寄せて」の講演会が開かれる。
 
2. 教団ジャーナル誌『風』第28号に「今年は薩摩侵略400年 琉球処分130年」が掲載される。
 
3. 7月18日(土)に、栗原佳子さんの出版記念会(『狙われた「集団自決」−大江・岩波裁判と住民の証言』)が開かれる。
 


1. 6月28日(日)に、兵庫沖縄県人会の方々による「薩摩侵攻400年に寄せて」の講演会が開かれる。

 兵庫沖縄県人会の方々による「ウチナーグチ講座」の特別企画として、6月28日(日)に講演会「薩摩侵攻400年に寄せて−女性史から見た琉球と薩摩」 が開かれ、尼崎まで出向きました。
尼崎といっても、今年の3月に阪神電鉄なんば線が開通し、奈良⇔三宮間が直通で結ばれるようになったので随分便利になりました。
 講師は神戸女学院大学教授・真栄平房昭さんです。ぼくは真栄平教授の論文のいくつかは読んでいて以前から存じていましたが、お会いするのはこの日が初めてでした。
 はじめに−「歴史」をどのように見るか−
1. 薩摩の侵攻と女性
 (1)戦火に家を焼かれ、逃げまどう人びと
 (2)夫の帰国を待ちわびる尚寧王妃
2. 性と権力関係
 (1)「女房衆」の知行権廃止令
 (2)「関東御用」に付き、若い女性を要求
3. 女性の入墨習俗と伝承
 (1)入墨という習俗−文化人類学の視点から−
 (2)近世の女たち:入墨は「美徳」→結婚の習俗・成人儀礼
 (3)近代化の論理:入墨は「野蛮」→政府による弾圧
 (4)入墨伝承にみる民衆の薩摩観
とのレジメに沿って、真栄平教授は概ね次のように話されました。


講演する真栄平教授(名前の房昭の漢字が間違っている)

 400年前の薩摩侵攻を実際に経験した人は今や誰もいない。それ故、@語り継がれてきたこと、A文献の二つから私たちは歴史を読み取る。 ところで女性の存在は歴史の中で一般に影が薄く、政治との関わりは低くみられがちだ。だが、それは誤解である。琉球王国の歴史を見てもわかるように、女性たちの中で宗教的な 権威を持つ聞得大君(きこえおおきみ)や大阿母(おおあも)は、政治(まつりごと)の世界で重要な役割を果たしていた。女性の歴史像が見えにくい理由は、単に史料の乏しさだ けでなく、「女性史」に対する関心が希薄だったことによる。
 ここでは女性史から琉球と薩摩を見ていく。
 薩摩侵攻で、浦添から首里に向かって攻め寄せた薩摩軍は、「入取(いりとり)」という略奪を各地でおこない、寺や民家などに火を放った。女や子どもは逃げまどい、戦火を避 けて山に隠れた。この時、聞得大君御殿(うどぅん)も焼き討ちにあった。『喜安日記』(筆者注:泉州堺の僧侶である喜安入道蕃元(ばんげん)の日記。薩摩侵略に関する琉球側 の数少ない資料の一つ。1609年3月の薩摩の琉球入り前後から、捕虜となった尚寧王に従って薩摩・江戸へ行き帰国する1611年10月までの約2年半にわたる記録)にも「聞 得大君御殿、仙福庵、豊見城の宿所、皆灰燼の地とぞ成りにける。その外の民屋(みんおく)は記すに及ばず。家々の日記、代々の文書、七珍万宝(ひちちんばんほう)さながら失果 (うちは)つ」と記録されている。
 その後、薩摩軍の攻勢を受けて、4月2日、尚寧の弟具志頭(ぐしちゃん)王子朝盛(ちょうせい)と三司官が人質として那覇へ下向した。3日の夕方には具志頭王子は、若き女房 たちに悲しい思いをさせるのはかわいそうだと尚寧に降伏を勧めた。この説得に応じた尚寧は4日に首里城を明け渡した。御輿に乗って城を退去する王の後から「女房衆」が続いた。 『琉球渡海日々記』(筆者注:1609年3月4日山川港を出船し、5月15日那覇を出船、24日山川に帰陣するまでを記した薩摩側の資料)によると、「きさき(王妃)」は輿に も乗らず徒歩姿で、「おんな衆」もひどく惨めな様子であったという。
 尚寧王は女性の身柄の安全と琉球王国の存続・再建を考えて降伏を選択したのであろう。
 そして、尚寧王は側近の三司官・家臣とともに薩摩に連行されることになった。4月14日には「女房等泣きまどふ」(『喜安日記』)、パニック状態となった。15日に尚寧一行 は島津軍とともに那覇港を発ち、見送る人びとと涙の別れを惜しんだ。
      (以上 1.(1)戦火に家を焼かれ、逃げまどう人びと)
 尚寧の帰国を待ちわびる王妃が詠んだとされる歌があり、そこから派生した琉歌がある。
「北風(にしかじ)の真北(まにし)吹きつめてをれば、
    按司添前(あじすいめい)てだの御船(うふね)ど待ちよる」
「北風の吹く頃になれば、王様のお帰りをお待ちしなければ、追い風の吹く頃になれば…」という意味である。北風のシーズンには薩摩から船が入港する。北の方角を仰ぎ見て、祈る ように夫の帰りを待ち続けた王妃の心情が伝わる。尚寧が許されて薩摩から帰国したのは、2年後であった。
      (以上 1.(2)夫の帰国を待ちわびる尚寧王妃)

 
黒板を使い、講演にも熱がこもる。

  1609年薩摩の侵攻から2年後の1611年、薩摩は「掟15カ条」で「女房衆」の知行権(土地に関する権利)を廃止した。「女房衆」とは王府に 使える聞得大君やまつりごとに係わる女性たちである。琉球では王府から神女やノロが知行を与えられたが、近世日本では知行権は男性に独占されていた。そのような幕藩制国家の 政策論理から薩摩藩は「女房衆」の知行権を廃止したが、その権限は王国末期まで保持され、この禁止令は空文化した。
      (以上 2.(1)「女房衆」の知行権廃止令)
 また、1612年3月、琉球三司官あて島津氏家老連署覚書に
「琉球の女 関東御用という名目で5人ほどまずまず差し渡し候。
   但し12歳より19歳までの女、遣わさせる事」
というのがある。
関東とは江戸幕府のこと。何の目的のために女性を要求したのかは文献からは分からない。帰って来たのかも分からないが、敗れた側にはこのような力が働くのだ。
      (以上 2.(2)「関東御用」に付き、若い女性を要求)
 イレズミの分布は広く、東南アジア大陸部とインドネシア諸島、オセアニア、フィリピン、台湾、日本に及び、西はインドから中東、北アフリカにも分布する。イレズミは身体装 飾を主要な目的としているが、ほかに悪霊から身を守る意味があり、また成人になった通過儀礼あるいは男性の勇気を象徴したり、社会的地位や部族を類別する表示として機能する。
      (以上 3.(1)入墨という習俗−文化人類学の視点から−)
 ハジチとは適齢期の娘たちの両手の甲に入墨をする風習で、喜舎場永c(筆者注:きしゃばえいじゅん 1885年〜1972年。沖縄研究者。とくに八重山研究の開拓者として 知られる)の『八重山民俗誌』には「結納の儀式が終わると、佳き日を選び、嫁方で入れ墨の儀式が執り行われる。嫁にとっては、この日は無上の喜びの日であるとともに、かつま た極めて意義深い日である」「旧来の美徳としてのこの南島の入れ墨の習俗は、女性の人生における一つの過程であった」「入れ墨が終わった女性は嫁としての誇りすらもっていた」 と書かれている。ここではプラスイメージでしか考えられていない。
      (以上 3.(2)近世の女たち:入墨は「美徳」→結婚の習俗・成人儀礼)
 ところが、近代化の論理の中で入墨は「野蛮」となり、明治政府による弾圧が起こる。例えば『琉球新報』1909年10月21日付には「本県風俗の改良を要すべきもの多かる が、中にも野蛮の遺習たる婦人の入れ墨は最も改良を要すべき者なる」とある。
 いいと思う者の価値観とそれを嫌う者の価値観とがある。価値観だからどうしようもない。どちらが正しいとは言えない。価値観は力の働き方で相手を処罰するところまで行って しまうことがある。明治政府の法律はそこまで行ってしまった。
      (以上 3.(3)近代化の論理:入墨は「野蛮」→政府による弾圧)
 外国人はどのように見ていたのだろうか?
 明治の初期、宣教師だったシュワルツは「日本が導入した諸々の改革にもかかわらず、琉球は依然として日本になりきっていない。この二つの国の地質学的および地理的な相違と同 じく、両国民の風俗、習慣の相違は明らかである」「一説によれば、入れ墨は琉球政府の政令で行われたもので、日本の役人たちが琉球の女性を日本の女性だといって連れて行くこ とを防ぐためだということである。日本政府は入れ墨の習慣を禁止しているが、完全にやめさせることは難しいようだ」(『薩摩滞在記−宣教師のみた明治の日本』)と書いている。
 入墨の文化は再生しない可能性がある。失われたとしてもそれが持っていた意味は美意識だったということを受け継いでいかねばならない。野蛮だから止めましたということではな い。伝統文化を大切にしたいという女性たちの思いがこの文章からも読み取れるだろう。
      (以上 3.(4)入墨伝承にみる民衆の薩摩観)
 以上、女性を中心とした視点から琉球と薩摩の歴史を駈け足で見てきた。
 このように真栄平教授は語られました。


2. 教団ジャーナル誌『風』第28号に「今年は薩摩侵略400年 琉球処分130年」が掲載される。

 教団ジャーナル誌『風』の「聖書を読んでみました」の欄に原稿を書いてほしいとの依頼が編集部から来て、8月に発行される第28号に『今年は薩摩侵 略400年 琉球処分130年』と題する文章を書きました。
 以下にそれを掲載します。
<聖句>  主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。
「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。
豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。
貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて彼の皿から食べ、彼の椀から飲み彼の ふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。
ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに自分の羊や牛を惜しみ貧しい男の小羊を取り上げて自分の客に振る舞った。」
 ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」
ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、 主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。…』

      (サムエル記下 12章1節〜7節)


「今年は薩摩侵略400年 琉球処分130年」が掲載された『風』28号

  今年2009年は、1609年の薩摩侵略から400年、1879年の琉球処分から130年に当たる節目の年で、琉球王国時代同じ版図であった沖縄 島・奄美諸島ではその歴史を検証するシンポジウムなどがさかんに開かれていて、ぼくもできるだけ参加するようにしています。この歴史を問い直すことなく、その対極に位置する のが実はプロテスタント日本伝道150年だと思います。なぜなら、そこには日本とは異なる歴史をたどった琉球を知るどころか抹殺しようとする宗主国の歴史認識があるからです。
1859年に米国宣教師たちが来日し、伝道活動を開始して今年が150年になると言うのですが、その来日に先駆けること13年前の1846年5月、ベッテルハイムは薩摩の支 配下にあった琉球王国の那覇に上陸し、1854年7月琉球を去るまでの8年余、布教活動をおこないました。ベッテルハイムが琉球で宣教を開始して今年は163年で150年で はありません。彼の宣教により1851年にプロテスタントの信仰を表明した者(琉球王府の役人であった崎浜秀能)が、キリシタン禁制策をとった江戸幕府の命令により殉教する という事件が起きています。また1853年に琉球人4人に洗礼を施したとの記述が彼の書簡にあり、それは日本で最初の受洗者が与えられたという1865年よりも12年前の出 来事です。それ故、今年はプロテスタントが日本において伝道を開始して150年に当たるのではなく、それも言うならプロテスタントが琉球や日本において伝道を開始して163 年に当たるとすべきなのです。
 以上のように見てくると、プロテスタント日本伝道150年は「日本」とは何を指すのか、そこには「琉球」は含まれているのかいないのか、「日本」とは有史以来自明のものと して存在し続けてきたものなのかなどを問う、すぐれて歴史認識の問題であることが分かるのです。

 ところで、ぼくが職場を辞し琉球大学大学院で沖縄政治思想を研究するため沖縄に居住するようになったのは2003年3月のことでした。
 この時は、前年2002年10月の第33回教団総会で沖縄教区提出の「名称変更」議案及び「合同関連」議案が時間切れ・審議未了・廃案となった直後で、居住してまずぼくは 沖縄の信徒たちの絶望を目の当たりにするところとなりました。それはあれだけへりくだって説明し譲歩してもまだヤマトンチュは分からないのかという挫折感でした。ぼくはヤマ トンチュとして沖縄の信徒たちに対して申し訳なくいたたまれない気持ちでした。
 沖縄に居住していた2005年12月まで、ざっと振り返っただけでも米軍による事件・事故は相次ぎました。
 米軍ヘリが沖縄国際大学に墜落・炎上(2004年8月)し、辺野古新基地建設を巡る攻防が頂点に達しました(同年9月以降)。伊芸の都市型戦闘訓練施設が完成し実射訓練が 始まり(2005年7月)、同月、米兵による少女わいせつ事件が起こるという具合です。
 大学院を修了してヤマトゥに戻ってからも、米軍再編の最終報告(2006年5月)、日本軍(海上自衛隊)が辺野古に投入(2007年5月)され、米兵が14歳の女子中学生 を強姦(2008年2月)、グアム移転協定(2009年5月)と、沖縄への米軍基地の押し付け、犠牲の集中は一貫して続いています。否、強化されています。
 米軍基地は次のような経過で沖縄に集中することになりました。1952年旧安保条約の成立から1960年安保改定の頃までに、日本の米軍基地は4分の1に減少しましたが、沖 縄の米軍基地は約2倍に増えました。1972年沖縄返還を挟む数年で、日本の米軍基地はそのまた約3分の1に減少しましたが、沖縄の米軍基地は数%しか減りませんでした。こ のように沖縄に基地を集中させるかたちで、日本全体の米軍基地の整理統合がなされたのです。領土面積の0.6%しか占めない沖縄に在日米軍基地の75%を押し付けている、こ の一点からしてもまぎれもない沖縄差別であり、この状態の下でも宗主国に住むヤマトンチュは平気でいられるのです。
 実にぼくが住む奈良県に米軍基地が全く存在しないのは、沖縄に押し付けているからです。

 サムエル記に出てくる豊かな男とはヤマトンチュと読め、貧しい男とはウチナーンチュと読めます。そうすると一人の客とは米軍です。この三者の構造はすぐに分かることです。
 ところが、ダビデが激怒して「そんなことをした男は死罪だ」といったのに対して、ナタンはダビデに向かって「その男はあなただ」と言うのです。そうなのです、私たちこそがそ の男なのです。このことに気付かねばならないと思います。
 ですから、宗主国(日本)に住む私たちヤマトンチュは、ヤマトンチュのキリスト者は、現代の植民地主義を打ち破ることに徹底して自覚的にならなければなりません。
 さて、64年前の沖縄戦は、米軍の本土進攻を引き延ばすための捨て石作戦でした。「捨て石」とは何でしょうか? 辞書には「すぐには役立たないが、将来に備えてする行為」、 「将来、または大きな目的のために、その場では無用とも見える物事を行うこと」とあります。
 沖縄戦に勝ち目はないが、将来の本土決戦、国体(=天皇制)護持に備えてする行為、将来のヤマトゥのために、または国体護持という大きな目的のために、その場では無用とも見 える沖縄戦を行うことです。他者を「捨て石」にすることは差別につながります。この「捨て石作戦」はヤマトゥによる沖縄差別(政策)でした。
 「捨て石作戦」は過去だけではなく、1972年の日本への再併合後も今日まで継続しています。戦争のできる国になるために、または日米同盟の目的のために、在日米軍基地の75 %を沖縄に押し付けて、沖縄はヤマトゥの捨て石と今もされているからです。この現状を変革することにヤマトンチュは、ヤマトンチュのキリスト者は自覚的にならなければ、ついに 沖縄と出合うことはできないでしょう。
 「合同のとらえ直しとその実質化」はこのことをも問うています。今期ぼくは大阪教区沖縄交流・連帯委員会の委員長を務めることになりました。2年の任期の間に委員のみなさんと ともに「合同のとらえ直しとその実質化」をもう一度検証し、2年後には何らかの文書にまとめたいと思っています。


3. 7月18日(土)に、栗原佳子さんの出版記念会 (『狙われた「集団自決」−大江・岩波裁判と住民の証言』)が開かれる。

  前号の71号でもお知らせしましたが、ぼくと同じく大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会の世話人として、この間一緒に闘ってきた栗原佳子さ んが『狙われた「集団自決」−大江・岩波裁判と住民の証言』(2,346円)を社会評論社から出版されました。


栗原佳子著『狙われた「集団自決」』の表紙

   この本の目次は次のようになっています。
1.大江・岩波裁判
2.「集団自決」と教科書検定
3.高まる抗議
4.国動かした島ぐるみの怒り
5.「玉砕」の島
6.大江・岩波裁判勝訴
7.控訴審
8.天皇の軍隊


主催者挨拶をする岩高 澄牧師

  そこで、これを記念して大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会の主催で、出版記念会が7月18日(土)に道頓堀ホテルで開かれました。ぼくは司会を担当しました。


挨拶する栗原佳子さん

 一人でも多くの方がこの書籍をご購読されるよう推薦しますが、目取真俊さんも自身のブログ「海鳴りの島から」の7月27日に、この書籍を紹介して、 「重要なポイントが整理され、的確にまとめられている。本書を読めば、大江・岩波沖縄戦裁判がどのような狙いで起こされ、その問題点、特徴は何であったのかが把握できる。 同裁判について知りたい人には格好の一冊である」「大江・岩波沖縄戦裁判や教科書検定問題に関わった人々の生の声が数多く収められている。とりわけ、沖縄戦当時座間味島の 助役・兵事主任・防衛隊長を兼ねていた宮里盛秀氏の妹さんや娘さんの声が伝えられているのは意義深い」「座間味島、渡嘉敷島、慶留間島における『集団自決』(強制集団死) の生存者の声を数多く伝えているのも本書の特色である」「裁判の傍聴はもとより、教科書検定をめぐる沖縄代表と文部科学省の交渉の場、9・29県民大会や沖縄島での抗議集 会、慶良間諸島での動きなど、大阪、東京、沖縄・慶良間諸島という三つの現場を直接取材し、多くの証言を交えてここまで立体的に捉えた書籍は他にない」「大江・岩波沖縄戦 裁判や教科書検定問題、『集団自決』(強制集団死)の問題に関心のある人にぜひ読んでほしい一冊である」と書いています。


服部良一さんと司会を担当する筆者

 出版記念会には、衆議院選挙を目前に控えた忙しい中を、同じく世話人である服部良一さんも駆けつけました。

 また、大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会は、次回学習会を9月11日(金)午後6時30分よりエルおおさかにおいて開きます。高嶋伸欣・琉球大学名誉教授より「沖縄戦の 真実をどう伝えるか」と題した講演を受けます。是非多くの方がご参集下さるよう訴えます。


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