☆西浜さんのプロフィール☆
1944年生。1989年12月受洗。
2005年3月琉球大学大学院修士課程修了。
2009年3月大阪市立大学大学院博士課程単位取得退学。
現在、大阪市大人権問題研究センター会員ならびに共生社会研究会所属。
日本キリスト教団大阪教区沖縄交流・連帯委員会委員長


☆沖縄通信のご感想・ご意見はこちらまで☆

第73 号(2009年9月)

 8月30日(日)に投開票された第45回衆議院総選挙で、服部良一さんが近畿ブロック比例区で見事当選しました。
ぼくの古くからの友人である服部さんは、ぼくが取り組むより以前から沖縄とのかかわりを持ってきました。ざっとみただけでも彼は沖縄とともに基地撤去をめ ざす関西連絡会共同代表、金城実彫刻展事務局長、大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会世話人、しないさせない戦争協力関西ネットワーク共同代表などなどを務め てきました。
 そして、2007年参議院選挙で、服部さんは元・読谷村長の山内徳信さんの当選を支援する、その一点から大阪選挙区より立候補しました(『沖縄通信 第 47号』2007年6月、『同第48号』同年7月参照)。結果、山内さんは見事当選し(『同第49号』同年8月参照)、その後服部さんは山内さんの秘書と して東京に単身赴任することとなりました。このことはウチナーンチュの山内さんがヤマトンチュの服部さんを秘書に指名するほど信頼が厚いという証左でしょ う。教科書検定問題で2007年9月29日の11万6,000人が結集した県民大会以降、文科省交渉のために上京した折にも、ぼくは山内さん、服部さんに 大変お世話になりました。


栗原佳子著『狙われた「集団自決」』出版記念会で挨拶する服部良一さん(右端:筆者)

 以上のような経過を経て、服部さんは今回比例区単独候補として立候補するに至りました。近畿ブロック比例区で社民党は411,092票で1議席を獲得しま した。大阪10区の辻元清美さんが小選挙区で当選したため、服部良一さんが比例区で当選を果たすことが出来ました。

◆ 目次 ◆
1. 8月19日(水)、「辺野古のアセスは違法」と、国を那覇地裁に提訴する。ぼくも344名の原告の一人です。
 
2. 8月15日(土)に、対馬丸撃沈65周年祈念映画「銀の鈴〜対馬丸より、今を生きている君たちへ〜」を鑑賞する。
 
3. 『うらそえ文藝』第14号「特集 集団自決」を読む。何らの論証もない独りよがりに、正直うんざりする。
 
    4. 9月11日(金)に、大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会の学習会高嶋伸欣氏を講師に、『沖縄戦の真実をどう伝えるか』を開きます。
 


1. 8月19日(水)、「辺野古のアセスは違法」と、国を那覇地裁に提訴する。ぼくも344名の 原告の一人です。

  344名の原告が辺野古新基地建設に伴う環境影響評価(アセスメント)で、事業者である沖縄防衛局による方法書や準備書の作成手続き に違法があったとして、8月19日(水)、国にアセス手続きのやり直し義務の確認と国家賠償を求める訴えを那覇地裁に起こしました。ぼくも原告の一人です。弁護 団によると、アセス手続きそのものの不備を問う訴訟は全国で初めてとのことです。
 土地の形状の変更や工作物の新設などで環境にどう影響を与えるか。その影響についてあらかじめ調査、予測、評価を行い、環境保全の観点でよりよい事業計画を作成 するのが環境アセスです。ですから、これを正しく進めなければ環境への負荷は大きく、私たちの暮らしにも影響を及ぼすのです。
 原告は、環境問題の専門家や辺野古への新基地建設に反対してきた沖縄内外の人たちで、今後2次提訴も視野に入れています。


「アセス違法と国提訴」と報じる8月20日付『沖縄タイムス』

 訴状では、
(1)具体的な事業計画が示されないなど問題点が多い方法書や準備書はアセス法の要件を欠く。
(2)1,700万?の海砂採取や4つのヘリパッド建設などを追加・修正するにはやり直しが必要で、手続きのやり直し義務が事業者側にある。
(3)また、違法な手続きが行われ「住民が意見を述べる機会を失った」として、原告1人当たり1万円の慰謝料を求めています。
 沖縄内外の41人で組織する弁護団の団長を務める三宅俊司弁護士は「沖縄防衛局がやっていることは『ザル法』と言われている日本のアセス法にも反するずさんな調 査で、絶対に認めてはいけない。沖縄で環境アセスの悪例を作らせてはいけない」と裁判の意義を強調しています。
 誰でも原告になることが出来ます(裁判費用は2,000円です)。第2次提訴の原告になろうと思われる方は、下記のヘリ基地反対協議会のHPに呼びかけ文と訴訟 委任状が載っていますのでダウンロードしてください。多くの方が原告に加わられるよう呼びかけます。

   http://www.mco.ne.jp/~herikiti/justice.html

 環境影響評価(アセスメント)準備書を審査する県環境影響評価審査会(津嘉山正光会長)は8月24日(月)、キャンプ・シュワブ周辺で現地視察を実施しました。 審査会のメンバー8人が参加し、宮城邦治副会長(沖縄国際大学教授)は「委員が自分の目で現地を確認して自然の豊かさを実感した」と話しました。キャンプ・シュ ワブ内で美謝川の河口切り替え予定先を視察した琉球大学・前門 晃教授は「切り替え後の河口に砂がたまって水が流れなくなる可能性がある。水路の幅も狭く環境への 影響が考えられる」と指摘しました(『沖縄タイムス』『琉球新報』8月25日)。
 さらに、8月26日(水)には第5回環境影響評価審査会が開かれ、ジュゴンなどの専門家である粕谷俊雄さん(元・帝京科学大学教授)が新基地建設工事や施設の 存在が沖縄本島のジュゴン全体に影響が及ぶとの見解を示しました。また許容レベルを設定しないまま「影響は少ない」とした事業者(沖縄防衛局)の評価を「無意味」 と断じました(『沖縄タイムス』8月27日付)。


2. 8月15日(土)に、対馬丸撃沈65周年祈念映画「銀の鈴〜対馬丸より、今を生きている君たち へ〜」を鑑賞する。

 今年は1944年に対馬丸が撃沈されて65年です。そこで、8月15日(土)に対馬丸撃沈65周年祈念映画『銀の鈴〜対馬丸より、今を生きている君たちは〜』が 上映され、観てきました。上映が8月15日だったので終戦記念上映会と銘打たれていました。


映画「銀の鈴」案内チラシ

 対馬丸については『沖縄通信』第50号(2007年9月)に書いています。少し長いですが抜粋を以下に記します。
 1944年8月22日、沖縄から九州へ向かう学童疎開船・対馬丸が悪石島(あくせきとう)で米軍に撃沈されました。学童約800人を含む乗客1,788人のうち、 死亡者数は学童775人を含む1,418人です(名前が判明している者のみ)。対馬丸は6,754tの元貨物船で、8月15日に出航した潜水母艦につぐ学童疎開第 2陣として、8月21日、和浦(わうら)丸、暁空(ぎょうくう)丸とともに出航しました。
 対馬丸が船出した海は、アメリカ潜水艦によって既に17隻が沈められていました。というのは1942年3月25日公布の「戦時海運管理令」によって民間の船も軍に 徴用されるようになり、それにともない米軍は日本の補給路を絶つために軍民の区別なく日本の艦船を攻撃したからです。
 そして、対馬丸は8月22日午後10時12分、奄美大島十島(としま)村悪石島の西北方約12.5kmの海上で、アメリカの潜水艦・ボーフィン号の魚雷3発を受け 11分後に沈没しました。生存者は学童59人、一般168人でした。全長約95mのボーフィン号(BOWFIN)は、対馬丸が上海を出発し那覇港に入る直前から攻 撃の対象としてとらえ、この日も早朝から追跡を再開していました。
 疎開の理由は、1944年7月7日にサイパン島が陥落し、米軍はサイパン島からB29を出撃させ、無着陸で北海道・東北北部を除く日本のほぼ全土を空襲できるよう になったことから、政府より沖縄県知事宛“本土決戦に備え、非戦闘員である老人や婦女・児童計10万人を本土に8万人、台湾に2万人疎開させよ”との命令が通達さ れたことによります。要は沖縄に駐留する軍隊のために大量の食料や居住地が必要となるので「民間人は足手まといになるから出て行け!」ということです。
 対馬丸の生還者には、かん口令が敷かれました。本当に理不尽な形で殺された子どもたちについて、戦後になってようやく対馬丸の話が拡がっていきました。
 日本政府は、1997年12月12日、海底に沈む対馬丸を確認しましたが、引き揚げは不可能だとしています。対馬丸で犠牲になった学童たちを慰霊するため那覇市の 護国寺に「小桜の塔」が建てられ、1953年5月5日のこどもの日に除幕式がおこなわれました(59年に改築、那覇市若狭旭が丘公園に移された。対馬丸記念館も旭が 丘公園にある)。


挨拶する齋藤 勝監督

 以上が『沖縄通信』第50号からの抜粋です。
戯曲『銀の鈴』は2000年7月に初演され、今回はその映画版とのことです。映画は2007年8月25日にクランクインし、2008年12月30日にクランクアッ プしました。
 この日、上映に先立ち挨拶に立った齋藤 勝監督は「学童の生存者59人のうち半数は既に亡くなられた。残り半数のその2分の1の方は、今でも対馬丸での体験を話 そうとはされない。“戦争に負けたのはあなたが喋ったから”という当時の記憶から逃れられないのだ」と語りました。


齋藤監督と出演者たち

 ストーリーは、本土から沖縄の国民学校に転任してきた訓導(教師)渡瀬は大河内中尉から「軍艦による疎開」と知らされ疎開を奨励します。渡瀬の妹のアキコは海 の危険を知りながらも引率に志願します。渡瀬の教え子である良一と文子の父も当初、わが子を本土に送るのをためらいますが、渡瀬の説得に応じ、航海の安全を信じ て2人を疎開させることを了承します。渡瀬が思いを寄せる当真訓導も引率に志願。多くの子どもたちもそれに従いましたが、8月22日、対馬丸は米潜水艦の攻撃を 受け波間に消えていきました。
 救助された数名の学童とアキコたちにはかん口令がしかれ、対馬丸撃沈の事実は隠されます。沖縄に残った渡瀬は当真やアキコから何の連絡もないことに苛立ちます が、そこへ対馬丸に乗った良一が帰ってきます。何も言おうとしない良一。しかし彼の持ったお守りはすべてを物語っていました。それこそ航海の安全を祈願して渡瀬 が当真に手渡したものでした。
 沖縄で対馬丸を想い苦しむ渡瀬や良一に、疎開先で耐え続けるアキコや子どもたちに、戦争は仮借なく押し寄せます。沖縄は戦場のるつぼと化し、疎開先でも空襲が 迫ります…というものですが、奈何せん経費が足らないのでしょう、空襲シーン、海上に漂流するシーンなどがちゃちなのです。事実はこんな簡易なものではないゾと 思うのです。そしてカラー映像も鮮明ではありません。
 下の写真は、戦後、渡瀬が児童たちに青空の砂上で授業するシーンですが、実際はこんなに立派な服装をしているハズはないのです。訴えたいことは伝わってくるので すが、映画の完成度としてはまだまだでした。


映画のワンシーン

 さて、前述したように今年は対馬丸が撃沈されて65年に当たるので、沖縄ではいろんな催しが企画されました。
 8月22日(土)、生存者の上原清さん、喜屋武盛守さん、儀間真勝さんの3人と遺族、関係者ら計6人が悪石島を訪問しました。到着後、対馬丸の沈没した海域に 船で向かい、那覇市内40校の児童生徒が折った千羽鶴を流しました。「犠牲になった子どもたちを永遠に守って」と、上原さんが自作したシーサー像(高さ約45セ ンチ、重さ約40キロ)を沈めました(『沖縄タイムス』8月23日付)。
 また、8月23日(日)には、浦添市で混声合唱組曲「海のトランペット−対馬丸の子どもたち−」が池辺晋一郎さんの指揮で演奏されました。
 当時の様子を音でリアルに再現した組曲は全6楽章。@国策として疎開したことを描く「10万人の疎開命令」、A日本兵が沖縄を踏みにじる「茶色の顔」、B疎開 する子どもと別れを惜しむ母の気持ちを歌う「蛍になっても生きておくれ」、C沈没の様子をドキュメント風に描く「吉田上等兵の証言」、D海に投げ出された子ども たちの思いを表現する「漂流」、E海の底で歌う子どもたちの声が未来へ続くことを願う「海はかなでる」で構成されています。指揮した池辺さんは「合唱という演奏 形態はメッセージを伝えるのに適している。その心を未来へと伝えていきたい」と語っています(『沖縄タイムス』8月25日付)。
 対馬丸記念館が2004年8月22日に開館して5年。高良政勝・対馬丸記念会会長は「来館者延べ人数は7月末で8万1,238人、1日平均来館者数は約46人、 自力で運営するには1日約100人の来館者がなければならない」(『沖縄タイムス』8月14日付)と書いています。私たちも対馬丸の悲劇を決して忘れることなく 伝えていかねばなりません。


3.『うらそえ文藝』第14号「特集 集団自決」を読む。何らの論証もない独りよがりに、正直うん ざりする。

『うらそえ文藝』第14号(2009年5月)に掲載された「特集 集団自決」の批判を、9月下旬に発行される大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会の機関紙「news letter」 第20号に書きましたので、以下に転載します。ただし原文の「である」調は、「ます」調に変えました。
 特集は、@星雅彦さん(『うらそえ文藝』編集人)の「集団自決の断層」(237頁〜242頁)、A上原正稔(しょうねん)さんの「人間の尊厳を取り戻す時−誰も 語れない“集団自決”の真実−」(243頁〜251頁)、それにB二人の対談「上原正稔との一問一答−集団自決をめぐって−」(252頁〜270頁)の三本で構 成されています。
 しかし読んで、正直うんざりしました。そしてまったく心に響いてこないのです。ぼくは沖縄に住んでいた時から『うらそえ文藝』は良識ある同人誌だと多少は評価し ていましたが、それも裏切られた思いです。@ABを通して、何らの論証もない断定ばかりの独りよがりのオンパレードです。だから論評に値しないというのが偽らざ る感想です。
 例えば、@では「軍部が住民に自決を命令するということはまずあり得ない」(239頁)。Aでは「慶良間の“集団自殺”については赤松嘉次さんと梅澤裕さんが命 令したことはないことははっきりしている」(251頁 悪文の見本)、「赤松さんも梅澤さんも心の広い人間だ」(251頁)。Bでは「赤松さんは大した男ですよ。 まさに昔のタイプの誠実な人ですよ」(上原さん 259頁)、「大江健三郎は、沖縄については多少の知識はあっても何も知りませんよ。彼には幼稚園生程度の知識 しかない」(上原さん 259頁)などという具合です。
 ここで述べられているものには何らの立証もありません。同じことをオウムのようにただ繰り返して発話しているに過ぎません。そして、上原さんは「こんなおもしろ い仕事ないですよね。これを発表して読者に読んでもらって、…世の中を騒がしく動揺させるわけだから、これが僕の楽しみになっているんです」(263頁)、「沖 縄の人たちが、戦争の犠牲になったとは僕は考えたことないですよ」(269頁)という品性の持ち主です。
 上原さんが『うらそえ文藝』で披瀝しているその多くは1996年の『沖縄戦ショウダウン』で述べていることと変わりません。この『沖縄戦ショウダウン』は、大江 ・岩波沖縄戦裁判の一審判決でも二審判決でも根拠がないと認定されましたから、ここで再び開陳するには判決文を越える論理展開が必要となりますが、まったくそれ がありません(後述するようにできるわけがない)。
 すなわち、被告(大江・岩波側)は準備書面(7)で『沖縄戦ショウダウン』について「赤松隊長を一方的に評価している者の証言だけから執筆されたものであって信 用性がなく、これにより、赤松命令説が沖縄でも虚偽であることが広く認識されているとはいえない」と主張したのに対して、一審判決は「赤松大尉は、大城徳安、米 軍の庇護から戻った二少年、伊江島の住民男女6名を正規の手続きを踏むことすらなく、各処刑したことに関与し、住民に対する加害行為を行っているのであって、こ うした人物を立派な人だった、村の人で赤松大尉のことを悪く言う者はいないなどと評価することが正当であるかには疑問がある」、「また、援護法が集団自決に適用 されるためには軍の自決命令が不可欠だったから赤松大尉は一切の釈明をせず世を去ったと記載された部分についても」「根拠がないというべきである」(187頁〜 8頁)と認定しました。二審判決は「根拠がないというべきである」との原審判決を「根拠がないのみならず、そもそも、赤松大尉自身がその様な考えを持っていたこ とを裏付ける的確な証拠もない」(226頁)と断じたのです。念が入ったことには、「当裁判所が判断を改め、補足し、補正した部分等は、区別しやすいようにゴシ ック体で表示する」として、「根拠がない」以下の「のみならず、そもそも、赤松大尉自身がその様な考えを持っていたことを裏付ける的確な証拠もない」をゴシック 体で表示したのです。
 ところで、目取真俊さんが自身のブログ「海鳴りの島から」にとても興味深い文章を載せています。すなわち2009年8月1日付で、目取真さんが要請して7月30 日に星さんと面会したことを取り上げています。それによると『うらそえ文藝』第14号を「一読して感じたのは、星氏も上原氏も判決文をちゃんと読んでいないので はないか、ということだった。確認してみると予想通り、判決文は読んでいない…ということだった」。「私(目取真さん)が判決文を見せると、インターネットから 印刷できるのか、と驚いていた」。「判決文を読んでいないために『うらそえ文藝』では、何を今さら、という議論を星・上原両氏がやっている箇所が目立つ」。「一 審、二審の判決文はこれから慶良間諸島の『集団自決』問題を論じる上で必読の資料である、と私(目取真さん)は考えている。星・上原両氏はまず判決文をちゃんと 読んで自説を展開すべきだ」と論じていますが、まさに正鵠を射た指摘だといえましよう。
 いずれにせよこのような言説が性懲りもなく、これでもかこれでもかと繰り返し登場すること自体が異常だというほかありません。


4.9月11日(金)に、大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会の学習会 高嶋伸欣氏を講師に、『沖縄戦の真実をどう伝えるか』を開きます。

 大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会は、学習会を9月11日(金)午後6時30分よりエルおおさかにおいて開きます。高嶋伸欣・琉球大学名誉教授より「沖縄戦の真 実をどう伝えるか」と題した講演を受けます。是非多くの方がご参集下さるよう訴えます。


沖縄通信に戻る

 

 

 

 

 

 

inserted by FC2 system