☆西浜さんのプロフィール☆
1944年生。1989年12月受洗。
2005年3月琉球大学大学院修士課程修了。
2009年3月大阪市立大学大学院博士課程単位取得退学。
現在、大阪市大人権問題研究センター会員ならびに共生社会研究会所属。
日本キリスト教団大阪教区沖縄交流・連帯委員会委員長


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第75 号(2009年11月)

◆ 目次 ◆
1. 10月12日(月、祝)に「戦争あかん!基地いらん!09関西のつどい」が開かれる。
 
2. 10月21日(水)に、辺野古違法アセス訴訟第1回公判が開かれる。
 
3. 2009年は薩摩侵攻400年、琉球処分130年の節目の年。ここに宮森小学校50年を加えねばならない。
 


1. 10月12日(月、祝)に「戦争あかん!基地いらん!09関西のつどい」が開かれる。

 直射日光の下では汗ばむような陽気の10月12日(月、祝)の午後、大阪城野外音楽堂で「戦争あかん!基地いらん!09関西のつ どい」が開かれました。今年は沖縄からの報告を高里鈴代さん(西原教会員、基地・軍隊を許さない行動する女たちの会)、グアムからの報告をビクトリア・レ オン・ゲレロ(Victoria  Leon Guerrero)さんから受けました。


戦争あかん!基地いらん!09関西のつどい(於 大阪城野音)

 その前日の10月11日(日)に「事前学習会」がエルおおさかで開かれました。スタッフなどのため、集会当日は報告を十分に聞くことが難しい人もいるの で設けられたものです。ですから、お二人のお話は10月11日、12日と共通しています。
 高里鈴代さんは概ね次のように報告されました。
 10月9日(金)で辺野古の座り込みは8年と2,000日となり、10月10日(土)に「辺野古新基地建設白紙撤回、アセス作業の中止を求める座り込み8 年+2,000日突破市民集会」が辺野古浜で開かれた。これには約350名が集まった。集会名称は普天間移設とか代替施設云々とかではなくて、明確に新基地 建設白紙撤回と謳っている。会場では伊勢エビのぶつ切りなどもふるまわれた。
集会で、命を守る会の嘉陽宗義おじぃが挨拶に立って「自分にできることは何かを常に考えてほしい。誰かがやっているから自分もというのではなく、それぞれ自 分にしかできないことを考えてほしい。私はもうやっていますヨ。自分は毎朝4時に起きて、1時間祈っている。座り込み参加者の健康を祈っている」と発言され た。


2,000日突破集会を報じる『沖縄タイムス』

 衆議院選挙で鳩山政権が誕生して、アメリカのホワイトハウス報道官が最初にコメントしたことは「普天間は変わりませんヨ、話し合う余地はありませんヨ」とい う反応だった。実にすばやい反応だなぁと思った。ということはよっぽどそのことを気にしているのだと思った。
 辺野古の闘いの歴史を振り返ると、2005年9月、すべての単管が抜かれて元の海が戻った。海上基地建設を断念に追い込む大勝利だった。
 このあたりのことをぼくは『沖縄通信』第30号(2005年10月)で次のように書いています。「那覇防衛施設局は9月2日に掘削ポイントとなる『単管足場』 4基全部を撤去しました。昨年11月に設置作業が始まり、全部が撤去されるのは初めてのことです。撤去理由は“台風対策のため”と称していますが、これは私 たちの阻止行動の成果といえるものです」と。


報告する高里鈴代さん

 また、高里さんの発言に戻ります。  ところが翌10月、米軍再編に伴い建設地は辺野古沿岸案に変わった。同時に海兵隊8,000人、その家族9,000人をグアムに移すという計画が出てきた。こ れを当時の額賀防衛庁長官は「負担軽減を望む沖縄県民の悲願に応える」と声高にしきりに言っていた。
 その後、今年の9月に日本が民主党政権になり、防衛と外務からアメリカに調査に行って来た。彼らが帰国後、鳩山首相に変化があったといわれている。アメリカ の対応はとても厳しいものだったという。彼らはアメリカで米軍再編を推進してきたメンバーだ。調査に赴く日本側のメンバーも推進してきた役人である。
 9月25日〜26日に北沢防衛大臣が25名の官僚を連れて沖縄にやって来た。「県民の意見を聞く」といいながら辺野古で座り込んでいる人の意見は聞かなかった。 それどころか、辺野古に2,000日以上座り込んでいることを知らなかったと発言した。私はそれを聞いて寒気がした。「県民の意見を聞く」と言って、“聞き易 い声を聞いていく”ことではないのかと危惧している。
 私たち「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」は、海兵隊のグアム移転に当初から反対してきた。アメリカの領土だからグアムに行ってほしいとか、グアムに 行って良かったネというような問題ではない。軍事主義を許さないことこそが大切だ。
 今後もグアムの人たちとともに基地撤去に向けて取り組んでいきたい。
 以上のように高里鈴代さんは語られました。


ビクトリア・レオン・ゲレロさん。右は通訳

 次に、グアムからのゲストであるビクトリア・レオン・ゲレロさんは次のように話しました。
 私はチャモロ・ネーションを代表してやって来た。チャモロ・ネーションはグアムの先住民であるチャモロの人々の民族としての存在を宣言するために1991年 に設立された。
 チャモロの民族は、自分たちが起こしたのでもない戦争の犠牲となり、しかもそのことについて未だに歴史の教科書にも記述されず、犠牲に対する補償も受けてい ない。第二次大戦で多くのチャモロ人が死んだ。1941年12月8日にアメリカ合州国が私たちの島を、日本帝国の軍隊の前に何の防衛もない状態にして撤退した 後のことだ。グアムはわずか2日間で日本に占領された。アメリカは一戦も交えることもなかった。しかもアメリカ海軍はチャモロの人たちに戦争がチャモロの海岸 に押し寄せていることを知らせなかった。チャモロの人たちにはアメリカは世界最強だから、グアムはいつでも守られていると説明していたのだ。
 グアムは合州国の下院に議決権のない議員を選出できるが、グアム選出の下院議員は第二次大戦中にグアムの人々が経験した災禍に対する補償を要求し続けてきた。 アメリカは日本に対してそのような補償を免除する一方、チャモロの人々に対する補償をいまだおこなっていない。先週、アメリカの議会は再び第二次大戦中のグア ムの人々の犠牲に対する補償に道を開く法律の制定を拒否した。アメリカはチャモロの土地とチャモロの人々を常に自分たちの好きなように利用しており、私たちは 年々自分たちの尊厳と権利が失われているのを感じている。
 第二次大戦以降、グアムにおける米軍基地の存在は、チャモロ人の言語と文化の存続、自分たちの政府を確立する権利、祖先から受け継いできた土地を所有する権 利に破滅的な影響を及ぼした。米軍が私たちの島の約30%を占有しているにも係わらず、私たちはその軍隊の最高司令官たるアメリカ大統領やそのほかの選挙に参 加する権利を持っていず、私たちの基本的人権は、米軍基地の存在によって脅かされてきた。
 米軍基地拡張計画に日本の国会で60億ドルの支出が承認されたが、私たちはこの拡張計画を止めるいかなる法律上の手段も持っていない。今後5年間にグアムに 19,000人の兵士と20,000人の家族、20,000人の外国人契約労働者がやって来る。グアムの人口は現在17万3,000人だが、今後5年間に合計 59,000人、つまり34%の人口増加となる。これほど大規模な人口増加と軍の拡張がグアムの人々に及ぼす影響を想像してみてほしい。それにも係わらず私た ちは、その計画の内容について正確なことを知らされていない。
 海兵隊が沖縄から追い出されるのは、その存在が良い影響をもたらさないからだ。グアムなら良いことがあるのか? 私はみなさまに、みなさまの政府がこの動き を支持することに反対するよう訴える。今年の前半にアメリカのヒラリー・クリントン国務長官が日本に来て、みなさまの国との間で海兵隊をグアムに移転する協定 に署名した場に私たちはいなかった。私たちには発言権がなかった。私たちは協力して、チャモロの人々と日本の人々がこの協定に反対して闘う必要がある。私たち が私たちの共有する歴史から何かを学んだとすれば、それは戦争と軍備拡張がすべての人々を傷つけるということだ。この歴史を繰り返してはならない。
ビクトリア・レオン・ゲレロさんは概ね以上のように話されました。

 普天間の「移設」問題でぶれにぶれている内閣ですが、このことについては次号で詳しく述べようと思います。このような状況の下で、日本キリスト教団大阪教区 沖縄交流・連帯委員会は、12月11日(金)午後6時30分より東梅田教会において、衆議院議員・服部良一さんを講師に招いて講演会「政権交代後、翻弄される 沖縄…私たちはどこへ」を開きます。
 教会に関係のあるなしにかかわらず、多くのみなさまがご参集されますよう訴えます。


2.10月21日(水)に、辺野古違法アセス訴訟第1回公判が開かれる。

 辺野古新基地建設に伴う環境影響評価(アセスメント)手続きに不備があると、344名が国に対しアセス方法書や準備書作成のやり直しなどを求めた第1回公判が、 10月21日(水)に那覇地裁で開かれました。『沖縄通信』第73号(2009年9月)で報告しているように、ぼくはこの裁判の原告の一人です。
 アセスは10月13日(火)に知事が準備書に対する意見書を沖縄防衛局に提出し、評価書作成の手続きに進んでいますが、知事意見は準備書の予測・評価は不十分 であると指摘し、多くの項目で再調査や予測・評価のやり直しを要求しています。
 やり直しの確認が三つ、損害賠償が一つ、計四つの請求をしているとして、この裁判の弁護団事務局長の金高 望弁護士は「一つ目は、国は方法書の作成のやり直 しをする義務があることの確認。…環境影響評価法は大規模事業をやろうとする場合には方法書を作りなさいと書いてあるけれど、今回出てきた方法書はスカスカの内 容のないもので、法律が求める水準に達していない。ちゃんと方法書ができていないから、方法書をやり直しなさい」「二番目が、準備書の作成をやり直す義務があ ることの確認。…環境影響評価法は準備書を作りなさいと言っているけれど、出てきた準備書は法の求める水準に達していない。準備書として欠陥があるわけだから 、準備書を作り直しなさい」「三つ目に、追加修正部分については、環境影響評価法にもとづいて一からやり直す義務があることの確認。…法律は、方法書が出た後 に評価書が終わるまでに追加修正があれば、原則として方法書からやり直しなさいと書いてあるのに、それをやらない、だから方法書からやり直しなさい」「そして 損害賠償です。…このようなズサンな手続きによって、われわれみんなが意見を述べる機会を奪われた。われわれには意見を述べる権利があるはずなのにそれを奪わ れたことについての慰謝料を請求する」(『けーし風 第64号』54〜5頁 2009年9月)と、この裁判の意義を分かりやすく述べています。
 この日、安次富 浩原告団長(ヘリ基地反対協共同代表)と東恩納琢磨事務局長(名護市議)の二人がアセスは違法と意見陳述しました。国は現行法上、原告がアセ ス法に関する訴訟を起こす規定はないとして訴えの却下を求めました。
 裁判には新たに278名が加わり、今後は622名が原告となります。次回公判は、12月25日(金)午前11時から開かれます。
 この項目はぼくが裁判に参加したように書いていますが、参加はしておらず、もっぱら沖縄タイムスや琉球新報などの記事から引用しました。


3. 2009年は薩摩侵攻400年、琉球処分130年の節目の年。 ここに宮森小学校50年を加えねばならない。

 1959年6月30日午前10時40分頃、嘉手納飛行場を飛び立ったアメリカ空軍F100Dジェット戦闘機が操縦不能となり、民家をなぎ倒した後、石川市(現 うるま市)立宮森小学校のトタン屋根に衝突、さらに隣のコンクリート校舎を直撃し、炎上しました。パイロットは空中で脱出し無事でした。世界の航空史上まれに みる大惨事で、死者17名(児童11名、一般6名)、重軽症者210名(児童156名、一般54名)、住宅17棟、公民館1棟、3教室が全焼し、住宅8棟、2 教室が半焼しました。
 事故当時、学校には児童・教職員ら約1,300人がいました。ちょうど2時間目終了後の栄養不良改善のためのミルク給食の時間で、ほぼ全児童が校舎内にいまし た。特に直撃を受けた2年生の教室の被害が大きく、火だるまになった子どもたちは水飲み場まで走り、そのまま次々と息絶えたと伝えられています。
 この宮森小学校事故から50年、事故を風化させずに語り継ごうと、事故当時最も犠牲者の多かった2年生で、2008年4月より宮森小学校に校長として赴任した 平良嘉男さんと、事故当時25歳の青年教師だった豊浜光輝さんを招いた集会が10月17日(土)、大阪沖縄会館で開かれました。


平良嘉男さん

 平良さんは卒業後那覇に引っ越し、教員になりましたが、恐怖心から当時の話をすることもなく、2008年4月に校長として赴任するまで母校に足を踏み入れるこ とができませんでした。トラウマです。定年を前に、亡くなった子どもたちに引っぱられるようにして宮森小学校に戻って来たと…。そして、次のように話されまし た。
 ミルクを飲もうとする時だった。頭上からボーンという大音響が落ちてきて、窓の外が真っ赤になった。同級生が「いくさだぁ、戦争だぁ」と叫び、パニックになっ た。天井から火の粉が降る中、生徒たちは一つしかない出口めがけて走り、火のない所を求めて逃げた。破片を受けた子は血まみれになり、黒こげの遺体が転がって いた。
 当時2年生の担任だった石川清子先生は「46名の生徒が給食のミルクを飲み終わって、あと片付けをしようとした矢先だった。いきなり爆音とともにあたり一面が、 火と煙でつつまれ、あとは生徒たちが泣き叫ぶ声が聞こえるだけで何も見えなかった。夢中で生徒を助けながら逃げたが、逃げおくれた子どももいるだろうと思うと 胸もはりさけるようだ」と語っている。また、1年生の担任だった知花敏子先生は「ミルク給食を準備する間、子どもたちを外へ出していたが、いつまでたっても帰 ってこない。おかしいと思い外へ出たとたん大きな火の流れを見て爆風でひっくり返された。そのあとは、こどもたちの泣き叫ぶ声で、これこそ地獄かと思われるば かりの光景でした。子どもたちが心配で捜しまわっているが、果たして全員が無事でいてくれるものかどうか、まだわかっていない。親子ラジオで呼びかけて全員家 に帰るようにいってあるので、間もなくはっきりしたことがわかると思い、まつしかない。けがをした子どもはいないか心配です」と話している。


パワーポイント「墜落事故から50年経った今」

 平良さんはパワーポイントを使って話されましたが、その一つには「墜落事故から50年経った今 子供はだれが守るのか!」と題して「二度とあのような事故をお こさせてはならない。沖縄には(日本の米軍占有基地の)75%の基地がある。基地の島である。金武町は土地の60%が基地である。基地の島沖縄では、いつでも 事故はおこる。沖国大へのヘリ墜落事故は5年前、民家に銃弾」とあります。


豊浜光輝さん

 豊浜さんは長年体験を語れなかったといいます。昨年の春から平良校長が一所懸命「命と平和の語り部 『石川・宮森630館』」に取り組んでいたが、なぜ思い出 させるのかと当初は関わりたくなかった。しかし、やはり事故を風化させてはいけない、やるからには徹底的に取り組もうと思うに至ったと、次のように話されまし た。
 事故当時、校内の遺体安置所の担当を命じられ、焼け焦げたわが子と対面した親に「なぜ君は生きているんだ。明日も生きていくんだろう。どうして私の子どもを守 れなかったのか」と詰め寄られた。当然だ。教師というのは子どもたちを守らなければならない。でもあの状態では絶対守れない。米軍統治下、行き場を失った怒り は教員に向けられるしかなかった。それも一人ではない。両親、おじぃ、おばぁ、兄弟たちだ。教師は一人怪我したが、残りみんな無傷で生きている。返す言葉がな い。
 火だるまになった2年生の女の子が、親しかった6年生の男の子を見つけて「兄々(にいにい)助けて」と寄ってきた。あまりの恐ろしいその姿に怖くなって逃げて しまった。その男の子は「私が何とかしておれば…。それが今でも悔やまれる」という思いを引きずったままだ。
 私は1935年生まれの74歳、あと10年はできると思う。宮森小学校ジェット機墜落事故を通して、平和の重要さをこれからも語っていこうと思う。
このように豊浜さんは話されました。


左が豊浜さん 右が平良さん

 質疑応答&意見交換会に移り、3〜4名の方が発言されましたが、何と全員が事故当時宮森小学校に在籍されていた方々でした。「私は当時〇年生で、〇区〇班で した」と話されると、豊浜さんは「そこに誰それがいたでしょう、それは私の妹です」と答えられるという按配でした。差し詰め、大正区の大阪沖縄会館に宮森小学 校が出現したという様相でした。


在関西の卒業生と話す豊浜さん

 今年はプロテスタント日本伝道150年と浮かれている人びとは、50年前の1959年は伝道100年と言ったのでしょうが、宮森小学校の事故に想いは至らなか ったと想像できます。ぼくは口を酸っぱくして今年は島津侵攻400年、琉球処分130年の節目の年だと言ってきましたが、ここに宮森小学校50年を加える必要 があるとつくづく思いました。


豊浜さん、平良さんを囲んで(後方右から3人目が筆者)

 集会が開かれた翌日の10月18日(日)、「辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動」のメンバーは豊浜さん、平良さんと懇談する機会を得、有意義な話し合 いの場を持つことができました。


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