☆西浜さんのプロフィール☆
1944年生。1989年12月受洗。
2005年3月琉球大学大学院修士課程修了。
2009年3月大阪市立大学大学院博士課程単位取得退学。
現在、大阪市大人権問題研究センター会員ならびに共生社会研究会所属。
日本キリスト教団大阪教区沖縄交流・連帯委員会委員長


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第76 号(2009年12月)

◆ 目次 ◆
1. 県内移設は沖縄差別だ。11月8日(日)と10日(火)、普天間基地撤去  辺野古新基地建設反対の連続行動
 
2. 11月17日(火)、辺野古の座り込みに参加
 
3. 11月13日(金)〜15日(日)、「第6回ゆいまーるの集い」が平安座島で開かれる。
 
4. 11月16日(月)に宮森小学校を訪問する。
 


1.県内移設は沖縄差別だ。
11月8日(日)と10日(火)、普天間基地撤去   辺野古新基地建設反対の連続行動

 「辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動」は月に一度ミーティングを開いていますが、10月は月末の31日でした。8日 後に迫った「辺野古への新基地建設と県内移設に反対する県民大会」に参加するのも一つの方法だが、ここヤマトゥの地で何か行動を起こさねばと話し合 いました。その結果、緊急なことだからたとえ10〜20名くらいしか集まらなかっても、沖縄に基地を押し付けているヤマトンチュの責として罪として、 @「普天間基地撤去 辺野古新基地建設反対 大阪アクション」を11月8日(日)の同時刻午後2時より中之島公園女神像前で開き、集会とデモをおこ なう。A11月10日(火)に民主党大阪府連に申し入れをすることの二つを決めました。「大阪行動」が街頭でデモを主宰するのは行動開始5年にして 初めてのことでした。
 集会とデモを知らせたのは11月7日(土)大阪駅前での定例行動の時一度だけで、それ以外はネット、メールに限定されました。が、ネット、メールは 飛びかいました。自身のブログに掲載してくださる方、HPに取り上げてくださる方など、多くの方々の賛同・協力を得ました。


中之島公園女神像前に200名が参集

 11月8日(日)、「普天間基地撤去 辺野古新基地建設反対 大阪アクション」には200名が集まりました。労組や大きな団体に依存せず、一人びと りが自主的に集いこの数になりました。主日礼拝を終えてキリスト者も参集しました。 


松本亜季さんと司会担当の筆者

 集会では、言い出しっぺのぼくが司会を担当することになりました。この日の行動を呼びかけた「大阪行動」代表の松本亜季さんが「沖縄の人たちがなぜ 何度も基地反対の県民大会を開かなければならないのかを考えるべきだ。いま私たち本土の民意こそが問われている」と挨拶し、ジュゴン保護キャンペー ンセンターや3月行動をよびかける女たちなどからもこもごも「新基地建設を許さない」、「基地は辺野古にもグアムにもいらない」などのアピールがあ りました。


ジュゴンを先頭に元気一杯デモ行進

 1時間の集会を終えて、午後3時よりジュゴン(の縫いぐるみ)を先頭に出発、途中アメリカ領事館を経由し、梅田まで元気一杯デモ行進しました。


「県内移設は沖縄差別」のプラカード

 また、11月10日(火)には民主党大阪府連に「最低でも県外」との選挙公約を守れとの「要請書」を手渡しました。
 以下が民主党へ手渡した「要請書」です。


民主党への要請行動

 日頃のご活躍に敬意を表します。
 私たち「辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動」は、沖縄県名護市の辺野古に計画されている新基地建設を絶対に止めようと、2004年8月より活 動している市民運動団体です。毎週土曜日の午後3時30分から5時までJR大阪駅前でビラくばり、署名・カンパ活動を継続しており、その行動は先週 11月7日で第274回を数えています。この間に集まったカンパ額は3,287,278円、寄せられた署名は38,182筆におよび、過去6回にわ たって近畿中部防衛局に署名を提出して、建設中止にむけた交渉を積み上げてきました。  さて、市場原理第一主義の結果、格差と貧困を拡大させた自公政権に変わって、去る9月16日に鳩山連立政権が成立しました。多くの国民は生活者を 第一に考える鳩山政権の姿勢に支持と期待を寄せています。そして、過去64年間にわたって基地の過重な負担に苦しんできた沖縄の民衆も、鳩山由紀夫 首相の「最低でも県外」との公約に、大きく胸をふくらませました。
 ところが、その後の新閣僚の発言に沖縄は翻弄されています。9月25日、鳩山首相「県外へとの考えを変えるつもりはない」、9月26日、北沢防衛 相「新しい道を模索するのは難しい」10月3日、前原沖縄担当相「辺野古が本当に進むのか疑問」10月7日、鳩山首相「発言が変化する可能性は否定 しない」10月8日、鳩山首相「(容認とは)一言も言っていない」「いろんな選択肢の中で県民が理解できる着地点を」10月19日、鳩山首相「他の 選択肢があるかないか含め米政府と相談」10月22日、岡田外相「なぜ今のプラン(辺野古)なのか納得できない」10月23日、岡田外相「県外は事 実上考えられない」「嘉手納しか残された道はない」10月24日、鳩山首相「最後は私が決める」10月27日、北沢防衛相「日米合意は公約違反では ない」という次第で、まさしく日替わりメニューです。
 沖縄の民衆を愚弄するのもいい加減にしてほしいと声を大にして叫びたくなります。こうした目眩ましの中でも本音が見え隠れしています。すなわち、岡 田外相は私案としながら「過去に検証されたもの(嘉手納統合案のこと)を再度行うことは、勘の良い人は『県外はない』と気付いたのではないか」(1 0月27日)と発言し、北沢防衛相は2,000日を越える座り込みが辺野古でおこなわれているのを知りませんでした。「コンクリートから人へ」を掲げる 政権の閣僚であれば、少なくとも現地を訪れ、ジュゴンが住むちゅら海と称される美しい自然環境をしっかりと目視した上で政策提起をすべきでありまし ょう。
 「普天間の移設先をどこにするのか」との報道が連日報じられていますが、この表現は間違いです。辺野古に計画されている基地は普天間の代替ではな く、新基地の建設なのです。アメリカは1966年からこゝに基地を建設するプランを持っており、米軍再編によってこゝが再浮上してきたものです。日 本政府が建設費を負担してくれるからです。
 1996年4月の普天間返還合意から13年7カ月が経過しても事態の進展が見られないその根本原因は、県内「移設」に拘泥することによります。世界 一危険と言われる普天間基地の即時閉鎖と、辺野古新基地建設を中止することが最も現実的な解決法です。
 沖縄の民意は明らかです。嘉手納統合案に反対する嘉手納町民は11月7日、人口1万3,942人(2009年9月末現在)の町で2,500人が参 加して「米軍普天間飛行場の嘉手納統合案に反対する町民大会」を開催しました。また、翌11月8日には宜野湾市で「辺野古への新基地建設と県内移設 に反対する県民大会」が 2万1,000人の参加で開かれました。名護市長選挙の結果を待つなど全く必要ないのです。
 さらに、10月31日、11月1日の両日、琉球新報と毎日新聞共同で実施された世論調査が直近のものですが、〇辺野古への「移設」に反対が67. 0%、賛成 19.6%、〇普天間基地を県外か国外に移設するよう米国と交渉するが69.7%、〇在沖米軍基地について、整理縮小すべきが52.1%、撤去すべ きが31.4%で計83.5%、現状のままでいいが11.8%というように、沖縄の民意は明らかです。
 こうした沖縄の民意を背景に、鳩山連立政権は方針を決定すべきです。それは普天間基地の即時閉鎖と、辺野古新基地建設の中止以外にあり得ません。
   貴大阪府総支部連合会は、党本部ならびに鳩山連立政権に対しこの方針こそが民意に沿うものであることを進言するべきです。


アメリカ領事館申し入れ行動

 民主党への要請行動の後、アメリカ領事館にも申し入れに行きました。


イラク帰還兵による殺人事件で半旗のアメリカ国旗

 沖縄キリスト教大学の新垣 誠さんは11月29日付『沖縄タイムス』の「思潮2009」欄で「『同じ県民が仲井真知事を選び、知事もそういう( =県外がベストの)気持ちがありながら、(県内やむなしと)努力していることも一つの県民の意思として尊重しなければならない』。そう述べた鳩山 首相。しかし、このような乱暴な選択を沖縄に強いたのは、誰だったのか。戦後長年続いた自民党政権のなかで味わった深い挫折感が、沖縄を『現実的』 な選択へと追いやった。新政権には表面的な議論を超えて、その歴史的苦悩を理解する力はないのか」と述べています。
 鳩山首相は、最低限『沖縄タイムス』、『琉球新報』の地元2紙は読むべきです。


2.11月17日(火)、辺野古の座り込みに参加

 ぼくは11月13日(金)〜15日(日)と平安座島にいて、11月16日(月)は宮森小学校へ行き、11月17日(火)は辺野古の座り込みに参 加しました。8年(2,639日)の命を守る会の闘いと座り込み2,039日目です。


座り込み2,039日目の辺野古

 「太田 光の私が総理大臣になったら」のTV番組収録でテント村にやって来た太田 光と田中裕二の色紙が飾ってありました。「アメリカに今後1円 も払いません!米軍には出て行ってもらいます」はヤマトゥでは11月6日(金)に放映されましたが、沖縄での放映は11月16日(月)でしたので 、早速DVDにしてテント村でも流されました。


太田 光と田中裕二の色紙

 飛行機の便の都合があるのでぼくがテント村を離れてから、自民党の元外務大臣・川口頼子議員が抜き打ちにテント村にやって来たとのことでした。 後日調べたところによると、この日、自民党政務調査会として訪沖した模様です。会長の石破 茂議員は辺野古には来ず、仲井真沖縄県知事と面談し“県 内移設”を強要していたようです。そして、川口議員は政務調査会の副会長職にあります。
 「民意を知りたい」とする川口元外相らに対し、安次富 浩・ヘリ基地反対協代表委員は「私たちの苦労はあなた方がつくった。そして家族、親族も分断 させられ、ひどい目に遭っている原因だ。そこから反省しないと物事は始まらない」と強く訴えました。(『社会新報』12月2日)川口元外相は黙っ て聞いていたとのことです。


山内徳信さんの弟さんもテントへ

 この日は、山内徳信参議院議員の弟さんもテント村に見えました。関西在住とのことでした。


3.11月13日(金)〜15日(日)、「第6回ゆいまーるの集い」が平安座島で開 かれる。

 「NPO法人 ゆいまーる琉球の自治」主催の第6回ゆいまーるの集いが、11月13日(金)から15日(日)まで平安座島(へんざじま)で開か れ、参加しました。海勢頭豊さんは平安座島の出身です。海中道路の先に平安座島があり、宮城島(みやぎじま)、伊計島(いけいじま)、浜比嘉島( はまひがじま)が橋で結ばれており沖縄島と陸続きの島々です。金城 実さんは浜比嘉島の出身です。
 平安座島の周囲は6,650m、総面積は2.96ku。1971年、石油基地(ガルフ社)誘致に伴い海中道路が完成しました。今年11月1日現 在、553世帯、人口は1,425人です。


伊計島、宮城島、浜比嘉島を案内する道路標示

 1日目の11月13日(金)の午後、高良 勉さんの案内で勝連城跡を訪れました。


バスで勝連城跡へ向かう。川満信一さん、高良 勉さんの顔も見える。

 2005年2月にぼくは沖縄を訪れた友人夫婦とともに勝連城跡に行ったことがあり、『沖縄通信 24号』(2005年4月)に報告しています ので、その文章を引用します。
 勝連城は、11−12世紀頃築城され、15世紀頃に修築されたと考えられています。標高100m近い琉球石灰岩上に築かれ、一の郭(本丸)・ 二の郭・三の郭・四の郭・東郭からなり、各郭は階段状になっています。城の面積は約1万1,867uです。城は北西側と東南側の両端が高く、中 央部が低い形状を示しているため、地元の人たちは勝連城を唐船にたとえているといいます。


唐船に似た勝連城跡。松島先生の顔も見える。

 勝連城は阿麻和利(あまわり)が茂知附(もちづき。望月)按司(あじ)を攻め城主となり、その後急速に頭角を現わし、国王・尚泰久(しようたい きゅう。在位1454−60年)の娘・百度踏揚(むむとふみあがり)を娶ります。奸計によって中城城主・護佐丸を討ち(1458年の護佐丸・阿麻 和利の乱)、つづいて首里城を攻撃しようとしますが、それより先に妻の百度踏揚とその付き人の大城賢雄(おおぐすくけんゆう。鬼大城とも呼ばれる )に計画をさとられ、国王軍の反撃であえなく敗れ去りました。勝連城は阿麻和利の時代が最盛期で、その没後も使用されました。


説明する高良 勉さん

 正史には阿麻和利は極悪人のように思われていますが、護佐丸をうたったおもろが一つもないのに対して、『おもろさうし』に阿麻和利を称えた<勝 連の阿麻和利、十百歳(とひゃくさ)、ちよわれ(千年もこの勝連を治めよ)>とのおもろが、またその居城を称えた<勝連わ、何(なお)にぎや、た とゑる、大和の、鎌倉に、たとゑる>とのおもろがあるところから、実は人望の厚い按司で、勝連では英雄であったとの説もあります。また勝連人が航 海で請島(うけじま)・与路島(よろじま)・徳之島・沖永良部島、さらに奄美大島との経済交流を独占し、首里と対比するほどに栄えていたといいま す。
 以上が『沖縄通信』からの引用です。


世礼国男の胸像

 沖縄近代詩の最初の詩集として注目された『阿旦(あだん)のかげ』(1922年)の作者である世礼国男(せれい くにお 1897〜1950年 )は平安座小学校の卒業生なので、学校の校庭に彼の胸像がありました。


会場風景

 今回の「ゆいまーるの集いin平安座島」は次のような多彩な講師陣でした。
〇 浜比嘉島出身の彫刻家・金城 実さん:平安座島と浜比嘉島の漁民による浮原島漁業権争い顛末記 〇 平安座島出身の元与那城村長・奥田良(おくだら)正光さん:平安座の歴史、海中道路と石油基地


奥田良正光さん

〇 平安座島出身の県会議員・新里米吉さん:平安座のバレーボールの歴史


新里米吉さん

〇 平安座島出身の劇作家・謝名元慶福さん:平安座から生まれた「島口説(しまくどぅち)」や「海の一座」の誕生秘話


謝名元慶福さん

〇 平安座島出身のエコ運動家・玉栄章宏さん:現在の平安座の活性化に向けた「大バンタ」復元の夢 〇 うるま市具志川出身のぬちまーす社長・高安正勝さん:製塩にかけた思い、そして宮城島に拠点を移した思い


高安正勝さん

〇 平安座島出身の音楽家・海勢頭 豊さん:平安座に生まれて始まった古代日本の謎解きの旅


海勢頭 豊さん

〇 うるま市赤野出身の琉大名誉教授・仲程昌徳さん:世礼国男論


仲程昌徳さん

 という次第でした。
 また、指名を受けて、川満信一さんもCTS闘争について話されました。


川満信一さん

 本来ならそれぞれの報告を掲載するところですが、紙面が膨大になることと、何よりもぼく自身の能力を超えるので、今後機会あるごとに紹介していこ うと思います。


石油基地

 2日目の11月14日(土)の早朝、普段は入ることの出来ない石油基地の中にある西城(いりぐすく)の拝所に行きました。西城は平安座島で一番 高い海抜130mのところにあります。


西城の拝所


4. 11月16日(月)に宮森小学校を訪問する。

 11月16日(月)に宮森小学校を訪問しました。1959年6月30日に米軍ジェット戦が宮森小学校に墜落、炎上した事故については『沖縄通信』 の前号に掲載しました。
この日は、10月17日(土)に大阪で講演された平良嘉男校長に校内を丁寧に案内していただきました。


仲よし地蔵

 亡き児童を祈念した仲よし地蔵には「概況」として次のように彫られています。


概況を刻む

 1959年6月30日午前10時40分、嘉手納空軍所属のF100ジェット戦闘機が2時限目終了後の楽しいミルク給食時間に、ここ宮森小学校に 墜落、死者は小学生11名一般の人6名、合計17名、重軽傷者220名余、住宅27棟、公民館1棟、3教室を全焼、住宅8棟、2教室を半焼させ た。10時46分に整備終了後のテスト飛行で嘉手納を飛び立った飛行機は、一旦東シナ海へ向かうが真栄田岬上空でエンジン異常が発生、パイロット は嘉手納に引き返そうとするが、太平洋に向かえとの指示に従い、具志川上空でパラシュートで脱出救助、無人の飛行機はくしくも石川へ向かうことに なる。わずか4分間の飛行であった。沖縄においては第2次大戦後の基地被害では最も大きな事故で、世界の航空史上、まれな大惨事として国内外に大 きく報道された、と。


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