☆西浜さんのプロフィール☆
1944年生。1989年12月受洗。
2005年3月琉球大学大学院修士課程修了。
2009年3月大阪市立大学大学院博士課程単位取得退学。
現在、大阪市大人権問題研究センター会員ならびに共生社会研究会所属。
日本キリスト教団大阪教区沖縄交流・連帯委員会委員長


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第77 号(2010年1月)

 読者のみなさま、新年を迎えました。
 ぼくは今年の年賀状に「2010年こそ普天間基地を撤去し、辺野古新基地建設を止めさせましょう」と書きました。今年は普天間基地撤去、辺野古新基地 建設阻止の正念場です。がんばりどころです。そして、がんばれば実現できるそんな手応えを感じるのです。お互いに叡智を出し合いましょう。

◆ 目次 ◆
1.2010年を、普天間基地撤去!辺野古新基地建設を阻止する年にしよう。
 
2.12月4日(金)、屋良朝博さんの講演「米軍再編が明かすウソ」を聞く。 「服部良一国政報告会 in 大阪」にて。
 
3.12月11日(金)、大阪教区沖縄交流・連帯委員会は 「政権交代後、翻弄される沖縄… 私たちはどこへ」を開催する。
 
4.11月27日(金)、大田昌秀さん講演会「沖縄戦と集団自決裁判」を 大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会が開く。
 


1.2010年を、普天間基地撤去!辺野古新基地建設を阻止する年にしよう。

 2009年12月2日(水)ごろ、12月7日(月)に鳩山首相が辺野古新基地建設受け入れ表明か!との情報が流れましたが、12月3日(木)の福島社 民党党首の「重大発言」によって年内は辛うじて回避されました。そして12月15日(火)、与党3党間で越年を合意し、移設先の再検討が決まりました。 後述する屋良朝博さんや大田昌秀さんのお話からも明らかなように、辺野古は普天間の代替移設先ではなく新基地の建設なのですが、ここでは便宜上「移設先」 との用語を使います。
 その後、12月28日(月)に「沖縄基地問題検討委員会」の初会合が開かれ、平野博文官房長官が委員長に就任しました。服部良一さんはこの委員会の委員 になりました。ところが12月30日(水)になって、普天間を拠点とするヘリコプターの訓練の一部を、県内の伊江島(伊江村)や下地島(宮古島市)に移転 し、普天間の継続使用を容認する案が政権内で浮上しました。
 「1996年に日米両政府が普天間飛行場」を「『今後5〜7年以内に』」返還する「という当初の合意は守られず」「はや13年の歳月が流れ」(『沖縄タ イムス』12月30日付「社説」)たのは、移設先を県内に固執するからです。ここに来て、伊江島や下地島などと県内移設を言うのは言語道断です。県内移設 は沖縄差別です。


2009年最終の第281回大阪行動(12月26日)

 さて、辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動は、2009年は1月3日から12月26日まで52回行いました。2004年8月の開始から数えると第2 30回から第281回になります。ぼくは52回のうち38回参加しました(欠席14回)。何も長く続けるのが誇ることではありません。本当ならこんな行動 を繰り返さなくてもよい社会こそが必要なのです。沖縄の人たちとそしてヤマトゥの私たちのがんばりで、2010年中にこの行動を勝利のうちに終えることが 出来るようにしたいものです。また、そうしようではありませんか。


田中さんの書籍の出版を報じる『朝日新聞』11月28日付夕刊

 こうした時、ぼくとともに「『けーし風』読者の集い」を主宰している田中佑弥さんが、『辺野古の海をまもる人たち〜大阪の米軍基地反対行動』(東方出版 1,575円)を出版しました。この本は大阪行動に集う27〜68歳のメンバー7人へのインタビュー&論考集です。宝塚教会員で兵庫教区沖縄交流委員会委 員の大森悦子さんもインタビューに応えている一人です。
 なぜ、彼/彼女たちは大阪で沖縄の基地問題に関わるのか?どんなことを考えながら辺野古の海をまもろうとしているのか?をインタビューによって明らかにし ています。「平和を求めて行動する人びとの思いに心を打たれた。本書には沖縄とヤマトの『連帯』の可能性が示されている」と山内徳信参議院議員も推薦して います。みなさまにもご一読を強く薦めます。


田中佑弥編著『辺野古の海をまもる人たち』の表紙


2.12月4日(金)、屋良朝博さんの講演「米軍再編が明かすウソ」を聞く。 「服部良一国政報告会 in 大阪」にて。

 12月4日(金)、「服部良一国政報告会 in 大阪」が開かれました。『砂上の同盟−米軍再編が明かすウソ−』(沖縄タイムス社)で、反核・平和・人権 擁護などを推進する報道に贈られる「第15回平和・協同ジャーナリスト基金賞」の奨励賞を受賞した屋良朝博さんが、この集会で講演されました。
「著者は、海兵隊グアム移転の理由を知りたい、との思いに駆られて2007年7月から沖縄タイムス社を1年間休職し、ハワイ大学東西センターの研究員とし て留学し」(本書前書き)、研究した成果がこの本です。受賞にあたって屋良さんは「軍隊に基地を与えるのは政治であり、それが文民統制の基本だ。米軍への 取材を通して、そのことに気付かされた。米軍基地をめぐる国内論議はその基本を忘れてはいないか、という視点で書いた本」と述べています(『沖縄タイムス』 12月6日付)。


屋良記者の奨励賞受賞を報じる沖縄タイムス

 屋良さんは講演で、概要次のように話されました。
@太平洋地域の米軍配置
 2002年現在、米軍の全兵力は141万人、このうち海外駐留は23万人(3万は艦船などで洋上配備)。NATO地域とアジア太平洋地域にそれぞれ約10 万人。アジア太平洋地域の10万人のうち、日本4万人と韓国3万8,000人で全体のほぼ8割を占める。うち沖縄は2万5,515人だからアジア太平洋地 域の25%、日本の63%を占める。2万5,515人のうち、海兵隊は1万5,910人(62%)、空軍6,734人(26%)、海軍1,928人(8%)、 陸軍943人(4%)。ちなみに米軍が駐留するアジア太平洋地域5カ国の総面積(約900万平方キロメートル)中、沖縄はわずか0.025%の面積に過ぎ ない。
A太平洋海兵隊の配備転換
 では、海兵隊司令部のグアム移転を盛り込んだ米軍再編によって、海兵隊の太平洋配備はどう変化するのか?
 現在の配置図では沖縄は「メインオペレーションハブ」(主要作戦拠点)だが、再編後はそれがグアムに移る。米軍再編後、米本国から沖縄に配備される戦闘 部隊は、沖縄に立ち寄った後グアムへ向かう。マリアナ諸島に整備する訓練場で演習し、グアムで休息後アジアの任務地へ遠征する。沖縄は一時立ち寄り所とな り、兵舎はあるが兵隊不在のエンプティー・ガソリン(空っぽの兵舎)になるという。
B海兵隊はなぜグアムに行くのか?
 海兵隊にとっては“楽園”であるはずの沖縄を出て、なぜグアムに行くのか?
 2002年暮れから2006年6月までの米軍再編に伴う日米協議を米側は防衛政策見直し(Defense Policy Review Initiative、 DPRI)と呼ぶが、それは次のような経過をたどった。
2002年 12月 日米再編協議スタート
2003年 11月 ラムズフェルド沖縄視察
2004年     沖縄問題テーマに
      07月 本土移転提案
      08月 ヘリ墜落炎上 沖縄国際大学
2005年 09月 グアム開発調査 各軍聞き取りスタート
      10月 海兵隊移転で日米合意
2006年 06月 再編協議、最終報告
      07月 グアム統合軍事開発計画(GIMDP)が完成
 グアム統合軍事開発計画が完成したのは、日米再編協議が最終合意してから2ヵ月後の2006年7月である。ところが、日米は2005年10月に海兵隊移 転で合意している。グアムに海兵隊を移転することが可能かどうかを確認するよりも前に日米合意が出来上がっているのだ。
 日米再編協議がスタートした2002年12月には沖縄問題はテーマではなかった。これが一転、沖縄問題をテーブルに載せざるを得なくなったのが2003年 11月のラムズフェルド米国防長官の沖縄訪問だった。ラムズフェルドとの会談で稲嶺知事は「沖縄の基地の思いきった変革を望みたい」と何度も在沖米軍の削 減を迫った。沖縄側の要望を聞き終え、席を立とうとした長官を知事はなお引き止め、基地被害を訴え続けるという抗議にも似た異例の会談となった。不機嫌に なったラムズフェルドは、側近に沖縄の海兵隊の人数が1万8,000人であることを聞き、「1万人くらいでどうだ」と言い放った。この数字に根拠などあろ うはずもない。こうして太平洋の再編は「沖縄の1万くらい」がワシントンの意思として伝わった。だから日本にとって沖縄の米軍は不動の防備だというのは誤 解である。それは長官が指をパチンと鳴らすと吹き飛んでしまう虚構だ。
 海兵隊司令部8,000人がグアムへ移転する理由をハワイで、退役軍人の軍事アナリストに聞いたところ、彼は二つの背景があると言った。一つは、北朝鮮を にらみ前方展開を重視する冷戦型思考の幹部が定年で世代交代が進んだこと、もう一つは、機動性に富む海兵隊にとって場所はどこでもよいのだ、と。実際10 年ほど前、日米はすべての海兵隊を北海道へ移転する案を検討したが、日本の反対で見送られた、とも。


当日のレジメ

C海兵隊の歴史
 海兵隊は戦後ずっと沖縄に駐留していたわけではない。岐阜と山梨から移ってきた。次のような経過である。
1950年6月 朝鮮戦争
1952年1月 3師団再編成
1953年8月 岐阜、山梨
1956年2月 3師団沖縄へ
 1950年の朝鮮戦争で韓国に配備された米軍をバックアップするために海兵隊の最初の駐留地は岐阜と山梨だった。「戦略的予備軍」と呼ばれ、岐阜県各務 原市のキャンプ岐阜と山梨県北富士演習場に約1万6,000人が配置された。1954年に硫黄島で大規模な上陸演習を実施している。なぜ朝鮮半島から遠い 沖縄に移転する必要があったのか、今もって謎である。ウイルソン国防長官の決断というほかは分からない。
 おそらく日本本土の反基地闘争に追われるようにして、海兵隊は沖縄に流れ着いたのだろう。自衛を目的とした最小限の防衛力整備にとどめるという平和憲法 の体裁を保ちつつ、日米安保条約が定める米軍への基地提供義務は沖縄で果たしていくということだろう。このように、沖縄は日米同盟のいけにえにされたので ある。
 九州でもグアムでも海兵隊は同じように任務を遂行する能力がある。沖縄でなくても構わないのだ。しかし、日本本土に海兵隊を歓迎する県があるか?すべて は政治で決まる。
 概ね、以上にように屋良さんは話されました。
我部政明・琉球大教授は、屋良さんの『砂上の同盟』を評して「本書を読み終えたとき、日本国民が承認するからこそ沖縄に米軍基地が、戦後64年にわたり存 続してきた、と再び確認させられた。沖縄の米軍基地は、米国の利益の実現のための手段であり、日本政府がそれを支える政策をとるから存続する」(『沖縄タ イムス』8月22日付「書評欄」)と書いています。正しくその通りです。
 私たちが普天間基地と辺野古新基地建設を承認せず、「日本政府がそれ(=米軍基地)を支える政策をとる」ことを許さない闘いを継続せねばなりません。


3.12月11日(金)、大阪教区沖縄交流・連帯委員会は 「政権交代後、翻弄される沖縄… 私たちはどこへ」を開催する。

 12月11日(金)、大阪教区沖縄交流・連帯委員会は講師に服部良一さんをお招きし「政権交代後、翻弄される沖縄… 私たちはどこへ」を東梅田教会に おいて開催しました。
 以下の文は、沖縄交流・連帯委員会の委員である黒野忠和さん(東梅田教会員)が、『教区ニュース』に掲載されたもので、ご本人の了解を得て転載します。


会場風景

 講師に衆議院議員の服部良一さんを迎え、2009年12月11日(金)18時30分より標記集会を東梅田教会で開催しました。各教会・伝道所と一般から も含めて40名を超える参加がありました。


沖縄交流・連帯委員会より挨拶する筆者

 講演に先立ちDVD「狙われた海−沖縄・大浦湾 幻の軍港計画50年−」を鑑賞しました。現在、新基地建設計画のある辺野古の大浦湾に、喫水が深く大 型艦船の出入りが容易なため、50年前既に軍港計画があった事実、住民の激しい反対運動により建設計画を断念させた歴史、辺野古で今展開されている基地 建設阻止の運動に関わる人たちの姿などが描かれていました。集会参加者は新基地建設阻止の思いを新たにするところとなりました。
 その後講師の服部良一さんが講壇に立ち、まず初めにクリスチャンになられた経緯や教会生活について話されました。同時に私たちにとって興味深い国会議 員の日常活動を伺うことができました。
 特に新聞・テレビなどのマスコミでは知りえない@連立政権協議の経過と内容 A普天間基地問題 B辺野古の新基地建設の中身などについて話していただ きました。新基地建設のために埋立土砂が10トントラックで525万台必要とのこと、1日千台が運んでも14年強かかるのです。また大浦湾に棲息するジ ュゴン絶滅の危機を防ぐために活動する団体の動きについても説明されました。さらにこれらに関連した政権内部の攻防についてもお聞きできました。


服部良一さんと司会の足立こずえ牧師

 普天間基地の移設ではなく撤去を求め、辺野古の新基地建設を阻止するために日夜政権内、国会内で奮闘される様子を聞くことができ、とても良い集いとな りました。服部良一さんの人柄からゆっくり話されたので、沖縄で今何が起ころうとしているのかを非常に良く理解することができました。
 教団が沖縄宣教連帯金を120万円から80万円に減額したことを参加者に説明し、互助献金を沖縄教区へ送るため、席上献金をよびかけたところ37,841円 が集まり、感謝でした。


4.11月27日(金)、大田昌秀さん講演会「沖縄戦と集団自決裁判」を 大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会が開く。

 11月27日(金)、大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会は、エルおおさかで大田昌秀・元県知事を講師に「沖縄戦と集団自決裁判」と題した講演会を開きま した。当日は会場を埋める118名の参加がありました。


主催者挨拶をする岩高 澄牧師

 支援連絡会代表世話人である岩高 澄牧師の主催者挨拶に続いて、大田昌秀さんより、概略次のような講演を受けました。
 この裁判を起した「新しい歴史教科書をつくる会」の人たちは、沖縄戦のことをご存知ないのではないか。沖縄戦についてよく知っていればこんな裁判は起 せるはずはない。
 この裁判が起されたので、証拠探しにアメリカに行ってきた。渡嘉敷の赤松隊の「命令」に関する資料は見つからなかったが、慶留間島の資料を見つけること ができた。慶留間島では53名が「自決」したが、「日本軍将校が説得(「命令」)した」と記されている。order(命令)という用語ではなく、パースエ イド(persuade)と記録されている。persuadeとは、家族を殺せと言われてそれをためらっている人、拒否している人に対して、米軍が来た ら女性は大変な目に遭う、男性は戦車にひき殺されるなどといって怖がらせる方法で説得する(「自決」に追い込んでいく)ということだ。
 曽野綾子の『ある神話の背景』の中に「これまで命令書は見つかっていない」という記述があるが、彼女は断定的に命令書はないとは書いてはいない。
大江さんは裁判の陳述書で「集団自決は、日本国―日本軍―現地32軍を貫く『縦の構造』の力によって島民に強制されたという結論に至った。この『縦の構 造』の先端にある指揮官たちの行動…」と述べている。この『縦の構造』という言葉が沖縄戦において重要な意味を持つ。


講演する大田昌秀さん

 沖縄戦は、一言で言えば最初から玉砕を前提として戦わされた戦争であった。大本営は、一たび沖縄に米軍が上陸したら玉砕するしかない、日本軍は沖縄住 民を助ける方法はないという認識を最初から持っていた。
 なぜそのような無謀な戦争をしたのか?米軍が上陸した時、日本本土の防衛体制は60%しか出来ていなかった。そのためなるだけ長く沖縄に釘付けし、そ の間に本土防衛体制を完成させようとの計画の下に作戦化された戦争だった。沖縄戦で沖縄は本土を守るための防波堤にされ、かつ捨石にされた。
 牛島司令官は、沖縄守備軍への着任演説(訓示)で軍官民共生共死の一体化の実現をはかり、また防諜に厳に注意すべしと強調した。軍官民共生共死を強調 しているが実際はそうではなかった。例えば長参謀長は、米軍がいよいよ上陸しようという時、県民はどうすればよいかという質問に対して「ただ軍の指導を 理屈なしに素直に受けいれて全県民が兵隊になることだ。県民が軍の作戦に協力し食糧を確保することが重要である。敵が上陸したら食糧輸送が困難になり県 民の餓死が起こる。住民が軍に食糧を求めても軍はこれに応じるわけにはいかん。軍は戦争のために重大な任務についているのだから軍の食糧は住民にはやれ ない」と語っている。つまり「共生」の“共に生きる”はなくて「共死」のみがあったのだ。慶良間列島の「集団自決」においても食糧問題が絡んでいた。


司会を担当した筆者

 1934年、沖縄連隊石井寅雄が送った機密電報には次のように記されている。@沖縄全域に戒厳令を敷き、民間の権力をすべて軍隊に委ねる。A沖縄は多 くの島々からなっているので、一つの島を敵にとられても本島を防衛出来なくなる。よって海軍力ですべての島を守ること。B沖縄は琉球国であったから県民 の中には天皇の存在さえ知らない者も多く忠誠がない。だから有事の時には監視しておかないとどちらへ行くか分からない。C有事体制になると食糧難で全員 が餓死する可能性がある、と。
 この結果どうなったか。公布こそされなかったが実質的に戒厳令が公布されたと同じ状態になった。すべての権限が軍隊に握られた。大本営が玉砕を前提に した沖縄戦だったから、主旨は当然現地の守備隊長に伝わる。Bに関係するが、1945年1月、名護市の大政翼賛会北部支部で学校長、市町村長、県会議員、 農協の会長、医者などを集めて「国士隊」という33名からなる秘密部隊が組織され、密かに住民の言動を首里の守備軍情報部へ密告し処刑させていた。
 首里城の地下30メートルの深さに4キロにわたって守備軍はあったが、そこには1,500人から3,000人の兵隊がいて私もそこにいた。そこでは毎 日毎日命令が出されるが、『会報』1945年4月9日号に「日本語以外の言葉で話しすることを禁ずる。沖縄語で話しをする者は間諜として処分する」と書 かれている。スパイとは法的、国際的に定義があるが、ここでは沖縄語を使うだけでスパイとみなされ処分された。このように日本軍は最初から県民に対して 不信感を持って見ていたのだ。
 「集団自決」問題に関連して言えば、梅沢さんは「自決命令」を出したのは助役の宮里盛秀であって、それは遺族救済のために役場当局が取った手段である としている。証拠として宮里盛秀の弟・幸延が梅沢さんに渡したという「文書」を挙げているが、その「文書」は梅沢自身が書いて幸延に酒を呑まして酔っ払 わせてハンコをつかせたものだと証言されている。「つくる会」の人たちはこの「文書」を楯にとって、命令したのは梅沢ではなく兵事主任だと主張している が、命令する権限など兵事主任にはない。この点からしてもこの裁判は非常におかしい。


牛島 満司令官の訓令

 戦後いろいろな資料を集めていたらこういうものが出てきた。「訓令 陸軍大尉 益永董 貴官ハ千早隊ヲ指揮シ軍ノ組織的戦闘終了後ニ於ケル沖縄本島ノ遊 撃戦ニ任ズヘシ 昭和20年6月18日 第32軍司令官 牛島 満」とある。司令官・牛島さんが直接こんな命令を出している。解散命令が出たのにこれからも まだ戦えという命令だ。当時そんな命令があったことを誰も知らなかったが、事実こういう命令がある。「命令はない」と言っていても実はいろいろな形の命令 が出てくる。ただ、渡嘉敷や座間味に限っては、沖縄守備軍が摩文仁に行く時、軍の機密文書は焼き払えという命令が出ていて、すべての文書を焼き払ったとい う記録がある。だから座間味や渡嘉敷でも命令を記すものがなかったとはいえない。それらは焼き払われた可能性が高い。
 「つくる会」の人たちは、この裁判で教科書から日本軍が沖縄の人を殺害したことを何としても消し去りたい。そして住民は自ら進んで国のために死ぬことに よって国の利益を図ったという殉国の美談としている。曽野さんは「死んでいった人たちは死をもって自らの名誉を守ったと考えない人はいない」と語っている が、我々戦争体験者は、あんな死をどうして名誉と考えられよう。
 日本軍が住民を殺害することなどあり得ないとか、日本軍が民間人に対して直接命令を下すことなど絶対にあり得ないという。ところが私が動員された時命令 書などはなく、守備軍司令部から少佐がやって来て全校の職員を集めて「今日からお前たちは軍に動員された」と口頭で言うわけだ。このような場合「命令」は 出されてはいないというのか?現実に口頭の命令で125名が動員された。
 私は自分の体験に照らして、今回の教科書問題で「命令」はなかったという言い方に強い疑問を持っている。以前、沖縄戦の本を書いた時、53市町村それぞ れに「市町村史」があり、さらに「字史」に村の人たちが戦争記録を書いているが、その記述では想像以上の悲惨なことが書いてある。そこには「命令」を聞い たという証言がいくつもある。その人たちが嘘を書く必要などまったくないわけだ。


会場を埋める118名が参加

 沖縄は戦後なぜ本土から切り離されたのか。27年間も米軍の統治下に置かれたのか。戦争に負けた結果だと言われるが、それはおかしい。日本が戦争に負け たということは何も沖縄だけが負けたのではなく日本全国が負けたのだ。それなのになぜ沖縄だけが切り離されたのかという問題になる。
 1945年3月26日、米軍は慶良間諸島に上陸し、その翌日には「米国海軍軍政府布告第1号」を出した。上陸した途端にまだ戦争が勝つか負けるか分から ない段階で占領下に置くとした。アメリカは初めから南西諸島を日本から切り離すという計画を持っていたからだ。
 南西諸島というのは奄美大島も含む北緯30度以南を指す。アチソンが証言しているが理由は二つある。30度は大和民族と琉球民族の境目の線であるという こと、言語や生態系も違うとされている。もう一つは、沖縄戦の時30度以北は日本軍の本土防衛軍、それ以南は南西諸島防衛軍という部隊が配属されていた。 つまり日本の軍隊の配置からしても日本は沖縄を本土とはみなしてはいなかったということが米軍の判断にも影響した。
 今、一番嘆かわしく思うのは、日米安保は国益にかなう、日本の平和を守るために不可欠だという言い方があるが、安保条約には沖縄に基地を置くとは書いて ない。全土基地方式といって元々日本全国どこにでも置けるようになっている。
 今、辺野古に基地を作ろうという計画があるが、アメリカの会計検査院の資料を見ると、計画は日米両国政府の発表とは随分違う。普天間の副司令官の文書で は、今の普天間を4分の1に縮小して基地を作るとあるが、会計検査院が調査した文書では全く違い、航空母艦35隻分の広さ、つまり関西空港並みの広さにな り、予算も7,000億ぐらいといわれていたものが1兆から1兆5,000億かかるとある。新しく出来る基地は普天間の代替といわれているが、これも違う。 普天間より軍事力が20%強化されて作るとなっている。普天間では嘉手納に行って爆弾を積んで、そこからイラクに出撃している。今度作られようとする基地 は海上からも陸上からもすぐに爆弾を積み込めるようにすると書いてある。さらにMV22オスプレイというヘリコプターを配備する計画である。新基地完成ま でに会計検査院の資料では少なくとも12ヵ年かかるとある。そればかりか運用年数40年、耐用年数200年の基地と書いてある。だからそんな基地を認めた ら子どもたち、孫たちにどんな望みを残せるかと、戦争を体験したオジィ、オバァは座り込みをして闘っている。
 もし日米安保が本当に日本の国益にかなうというのであれば、本土の人も負担と責任を分担すべきだと強調したい。これまで沖縄の痛みを他へ移すべきではな いと言ってきたが、最近はあまりにも政府が沖縄の意見を聞いてくれないものだから、基地を本土に移せ、その痛みを分からせないと沖縄の基地の問題は理解し てもらえないという空気が強まってきている。また沖縄は日本から離れて独立すべきだという空気も出て来て、独立党が出来、独立研究所も出来、独立の本がた くさん出版されるようになってきている。


大田昌秀さんとの記念写真

以上、大田さんの講演報告は、大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会の世話人である松浦さんのテープ起こし原稿にその多くを負っています。深く感謝します。


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