☆西浜さんのプロフィール☆
1944年生。1989年12月受洗。
2005年3月琉球大学大学院修士課程修了。
2009年3月大阪市立大学大学院博士課程単位取得退学。
現在、大阪市大人権問題研究センター会員ならびに共生社会研究会所属。
日本キリスト教団大阪教区沖縄交流・連帯委員会委員長


☆沖縄通信のご感想・ご意見はこちらまで☆

第79 号(2010年3月)

◆ 目次 ◆
1.2月24日(水)、沖縄で県議会が 「県内移設に反対し、国外・県外移設を求める意見書」を全会一致採択。
 
2.カマドゥー小(ぐわー)たちの集い ・ とぉ、なまやさ!「基地は県外へ」 2月15日(月)、知念ウシさんの<沖縄からの報告>を聞く。
 
3.沖縄密約訴訟を考える集い 「暴かれた、国家のウソ」が 2月27日(土)に、会場を満員にして開かれる。
 
4.橋本康介さんからの指摘について
 


1.2月24日(水)、沖縄で県議会が「県内移設に反対し、国外・県外移設を求める 意見書」を全会一致採択。

 名護市長選で基地反対派の稲嶺 進氏が当選して、ちょうど1カ月後の2月24日(水)、沖縄の県議会で「米軍普天間飛行場の早期閉鎖・返還 と県内移設に反対し、国外・県外移設を求める意見書」が全会一致で採択されました。
 日本共産党はこの意見書の文案に最後まで反対し、採決の時点で議場を退場する予定だったといいます。新聞報道によると、その理由は「『県外・ 国外移設』では、他の都道府県に基地の被害を広げてしまう」(『沖縄タイムス』2月23日付)からだと。ぼくは前号78号の『沖縄通信』で、 新崎盛暉さんが「基地建設反対の側は、“沖縄にいらないものはどこにもいらない”という建前論が、64年間結果として沖縄への構造的差別を覆 すことができなかった、そのことも問われている。普天間移設は、どこに持っていくのかという賛否両論、それは安保や日米同盟のあり方を問うこ とをどれだけ共有できるか、というところから始めなければならない」、「“移設”というなら、私は国内移設だと思う。グアム移設と言うがそこ にはチャモロの先住民がおり、植民地状態だ。アメリカ本国への移設ならよいが…。国内移設だと当然反対運動が起こる。そこで、どうして基地が なければならないのかの議論を戦わせればよいのだ」と講演したと報告しました。その通りだと思います。
 この時点において、日本共産党のこの建前論はもう通用しないでしょう。事実、「23日に共産県議団は…断続的に議論を重ね『県民が求めてい るのは政府に県内移設を断念させることだ』とし、最終局面で意見書案に賛同する意向を示した。/『退場では、県内移設反対にも反対していると 取られかねず、世論の支持を失う』(同党関係者)との判断が働いたとみられる」(『沖縄タイムス』2月24日付)と報じています。
 かくして、意見書は全会一致採決されました。以下がその全文です。

 「米軍普天間飛行場の早期閉鎖・返還と県内移設に反対し、国外・県外移設を求める意見書」

 米軍普天間飛行場は、沖縄本島中部の市街地に位置し、その周辺には住宅や学校等が密集しており、万一事故等が発生した場合は、その被害は多 くの周辺住民や各種施設に及ぶことが想定され、極めて危険性が高い場所となっている。 
 特に、2004年(筆者注:原文は元号表記になっている)8月13日に発生した沖縄国際大学構内への米軍海兵隊所属CH53D大型輸送機ヘ リコプターの墜落事故は、一歩間違えば大惨事を引き起こしかねないもので、「世界一危険な飛行場」の存在をあらためて内外に証明した。
 このため、県民は同飛行場の返還を強く要求し、これを受け日米両政府は、1996年(筆者注:同前)の日米特別行動委員会(SACO)合意 および2006年(筆者注:同前)の在日米軍再編協議で同飛行場の全面返還を合意したところであるが、13年経過した今なお実現を見ることは なく、その危険性は放置されたままである。
 ところで、県民は、去る大戦の悲惨な教訓から基地のない平和で安全な沖縄を希求しており、SACO合意の「普天間飛行場移設条件つき返還」 は新たな基地の県内移設にほかならない。県民の意思はこれまで行われた住民投票や県民大会、各種世論調査などで明確に示されており、移設先と された名護市辺野古沿岸域は国の天然記念物で、国際保護獣のジュゴンをはじめとする希少生物をはぐくむ貴重な海域であり、また新たなサンゴ群 落が見つかるなど世界にも類を見ない美しい海域であることが確認されている。
 また、宜野湾市民や県民は、最も危険な普天間飛行場を早期に全面返還し、政府の責任において跡地利用等課題解決を求めている。
 さらに、地元名護市長は、辺野古の海上および陸上への基地建設に反対している。
 よって、本県議会は、県民の生命・財産・生活環境を守る立場から、日米両政府が普天間飛行場を早期に閉鎖・返還するとともに、県内移設を断 念され、国外・県外に移設されるよう強く要請する。

普天間基地関連の県議会の意見書・決議

可 決 日

件    名

可 決 状 況

1996年
  3月27日

3事業の早期解決と普天間基地の全面返還に関する要請決議

 
全会一致

1996年
  7月16日

普天間飛行場の全面返還を促進し、基地機能強化につながる県内移設に反対する意見書・決議

 
全会一致

1999年
 10月15日

普天間飛行場の早期県内移設に関する要請決議

賛成多数(社民、社大、共産、結の会ら反対)

2008年
  7月18日

名護市辺野古沿岸域への新基地建設に反対する意見書・決議

賛成多数(自民、公明反対)

2010年
  2月24日

米軍普天間飛行場の早期閉鎖・返還と県内移設に反対し、国外・県外移設を求める意見書

 
全会一致

 普天間基地をめぐる県議会の意見書・決議は上記のようになっています。
「県外・国外移設」を求めるのは今回が初めてであり、全会一致は1996年7月以来、実に14年ぶりのことです。
 「県内移設の是非をめぐり議会を二分する対立を続けてきた県議会で、与野党48人の全議員が意見書に賛成したことは『国外・県外移設』の実 現を政府に強く突き付けるとともに、歴史的にも重い意義を持つ」と述べた上で、琉球新報は、「1月の名護市長選挙で新基地建設に反対する候補 者が当選したのに続き、『苦渋の選択』で県内移設を容認してきた政治環境は幕引きが決定的となった。県議会での全会一致を踏まえ、市町村議会 にも動きが広がることが想定される」、「沖縄の基地負担の軽減について全国的な理解や議論を共有してほしいという訴えは、保革を超えた県民共 通の願いだ」と言います。次は、ヤマトゥのわれわれがウチナーンチュのこの“願い”に応える番です。さらに「県議会が立場の違いを乗り越えた ことは、中央政府に対し、県民が一つにまとまる政治風土を象徴している」(2月25日付)と述べます。この冷静で、控えめな文言は「中央政府 に対し」と言いながら、“ヤマトンチュよ、まだ応えぬか!”との叫びを秘めているのです。
 『沖縄タイムス』社説も、「民意をくみ歴史的転換」との見出しで「今回の県議会意見書で、県内移設に反対する思いがようやく一つの表現にま とまった」、「1996年7月の『県内移設に反対する決議』以来14年ぶりに全会一致を実現させた判断は歴史に刻まれるだろう」、「『抑止力』 などの曖昧な言葉で基地を押し付ける時代は終わらせるべきだ。県議会意見書はそう宣言している」(2月25日付)と高らかに謳いました。
 意見書採決を受け、「知念ウシさんは『本土も基地を引き取りつつ、安全保障のあり方を再考してほしい。日米両政府が沖縄の民意を踏みにじる ことがないよう国際社会の監視も呼び掛けたい』と訴え」、「ヘリ基地反対協の安次富 浩代表委員は『陸上案に対する県民の怒りが決議に反映され ている。無理やり県内に押し込もうとすると県民全体の怒りを買い、連立政権の崩壊につながるだろう』とくぎを刺し」(『沖縄タイムス』2月2 5日付)ました。


2.カマドゥー小(ぐわー)たちの集い ・ とぉ、なまやさ!「基地は県外へ」 2月15日(月)、知念ウシさんの<沖縄からの報告>を聞く。

 2月15日(月)、知念ウシさんの講演会「とぉ、なまやさ!『基地は県外へ』」が、関西沖縄文庫で開かれました。“とぉ、なまやさ!”とは “さぁ、今ですよ!”という意味とのことです。たまたまこの日の朝日新聞朝刊に「沖縄米軍基地・本土移設論を聞く」と題して、9条の会・おお さかの吉田栄司事務局長(関西大学教授)へのインタビュー記事が載りました。「『こっちもお断り』よぎる/知事発言あまりに非現実/違憲の疑 い/あってはならぬ存在」との見出しがあります。この記事は大阪版にしか掲載されていないので、会場に行くまでぼくは読んでいませんでした。  知念ウシさんは、この新聞記事を題材に話しました。以下はその新聞記事の抜粋です。そして@とかAとか、(A)(B)と下線を敷いている箇 所について、知念ウシさんが疑問、批判を加えました。
 (問)橋下知事の発言をどう受け止めたか。
 (答)平和運動にかかわる知人の中には、米軍機が関西空港に轟音を立てて離着陸する場面を想像し、凍りついた(A)人もいた。沖縄の基地負 担を軽減すべきだというのはその通りだが、実際に関空に米軍が来るというのはとても受け入れられない(A)。事故や騒音被害を考えれば周辺府 県の了解も得なければならず、ハチの巣をつついたような大混乱になるだろう(@)。あまりに非現実的(A)だから府民の議論は盛り上がらず…。  (問)基地負担を「本土移設」で分かち合おうという考えをどう評価するか。
 (答)基地を沖縄に集中させているのはヤマト(本土)のエゴという認識だし、本土(B)で沖縄の基地問題が関心事になっていないことも遺憾 に思っている(B)。現実に安保条約がある(C)以上、その是非論と切り離し基地負担を均等にというのは正論だ。ただ、問題の解決は単に基地 をどこかに移せばいいという話ではない(D)。
 (問)安保条約の維持に賛成が7割。米軍駐留を解消できる時期は見通せない。それでも、本土に基地を動かしてはいけないのか。
 (答)私は戦後日本の平和が米軍駐留で実現したとは思わない。ベトナム戦争では在日米軍基地が出撃拠点になり、もし北ベトナム軍に空軍力が あれば日本が空爆される可能性があった(E)。私は「基地移設運動」ではなく、憲法9条の理念を地道に訴え、日米安保体制そのものを問うこと に与えられた命を使いたい。
 (問)最近、新崎盛暉氏が「『沖縄にも、どこにも基地は要らない』(F)という建前的本質論は無力だった」と表明し、話題になった。沖縄で も「本土移設論」が急速に高まっている。
 (答)この60年余、基地負担が減るどころか、新たな基地さえ押しつけられる沖縄の苦衷をおもんぱかると頭を下げるしかない(B)。それで も「基地を本土で引き受けて下さい」との言葉に「こっちもお断りです」(G)との思いが反射的によぎった(A)。やはり、基地を移すことが本 質的解決になるとは思わない。難しい問題だ。


講演する知念ウシさん

 以下は知念ウシさんの疑問、批判点です。
@ハチの巣をつついたような大混乱になることは素晴らしいことではないか?そうなれば平和運動が盛り上がる、最大のチャンスではないか。 Aどうして、すぐに非現実的だと見えるのだろうかと考えてほしい。
B「本土」という言葉の使い方を考えたい。人が生きているところがそれぞれ本当の土だと思う。だったら、日本の99.4%の面積に99%の日 本人が住んでいる、その多くの人が安保条約を認めているのだから、そこが在日米軍基地にとっての「本土」ではないか。そして、そこに住んでい る人たちは自分たちを「本土」と言っている。
C安保条約に反対、というのは私も賛成だ。でも普天間基地には5月末という締め切りがある。5月末までに安保条約がなくならなければ、普天間 を「本土」で引き取ってほしい。
D私たちも単に基地をどこかに移せばいいと言っていない。私たちの主張は、日本のいろんな所に基地があってくれ!と言うのではない。移設先は 何で沖縄だけなの?と言っている。「本土に基地を置くところがない」との言い方は、安保に賛成の人も反対の人も両方が言うことだ。基地を「本 土」に返す意義は、平等の実現、平等の要求だ。私たちは「不平等はやめてくれ!抑圧するのはやめてくれ!」と言っているのだ。「それは悪平等 だ」と本土の人が言ったことがある。なら、言おう、その悪平等すら私たちにはない。悪平等でも私たちはほしい。「本土」で闘わなければ米軍基 地はなくならない。
E空爆される可能性があったのは、当時“悪魔の島”と呼ばれていた沖縄であって「本土」ではない。ベトナム戦争に限らず、イラク戦争もアフガ ン戦争も沖縄では現在進行形だ。
F軍事基地は沖縄にも「本土」にも何処にもあってはならない、この意見に私も賛成だ。だから、基地を必要としている人たちのところへまず返そ うとしている。基地をなくす、その第一日目として沖縄から基地をなくすのだ。基地がなくなるその最後の日に沖縄からなくなるというのを待って いられない。
G「こっちもお断りです」と言ってしまえば済む、その自分の権力性を自覚してほしい。私(知念ウシ)も「お断りです」。お断りだから政府に返 そう。“沖縄の痛みを分かち合おう”とよく言うが、実は“本土の痛み”と言うべきなのだ。
 自分たちに直接降りかかってくる時(A)には、凍りついたり、とても受け入れられなかったり、反射的によぎる、という動物的直感で判断する が、遠い沖縄のこと(B)なら、遺憾に思ったり、頭を下げたりと、冷静な物言いとなる、この距離感は何か?


説明も白板を使って

 このように知念ウシさんは語りました。ぼくは知念ウシさんの主張に賛成です。この講演会の翌日の2月16日(火)、前日の吉田栄司さんを引 き継ぐように知念ウシさんの記事が載りました。題は前日と同じ「沖縄米軍基地・本土移設論を聞く」です。こちらは、『もう沖縄は待てない/嘉 手納を関空、普天間は神戸へ/安保支持なら自ら背負うのがスジ』との見出しです。この記事もまた大阪版のみでした。そこで彼女はこのように語 っています。
 沖縄に基地があるのは地理的要因という誤解があるが、米高官は沖縄にこだわっていないと明言している。沖縄1%、本土99%という人口比率 からも明らかだが、安保条約を支持する圧倒的多数は本土の人々。ならば安保が解消されるまで、基地負担は本土で背負うのがスジではないか。  日本が民主主義の国なら、これ以上不平等を続けることは国際的にも恥ではないか。普天間返還が実現しても沖縄の基地負担は依然として70% だ。本土移設は、130年前に「琉球処分」で琉球王国を解体し、沖縄戦で捨て石にし、戦後は基地を押しつけてきた沖縄と本土のゆがんだ関係を 問い直す機会でもある、と。


3.沖縄密約訴訟を考える集い 「暴かれた、国家のウソ」が 2月27日(土)に、会場を満員にして開かれる。


 2月27日(土)に、マスコミ9条の会などの主催で「沖縄密約訴訟を考える集い 『暴かれた、国家のウソ』」が開かれました。内容が充実し ていたこともあり、主催者の予想を超える参加で会場は満員となりました。
 講演では、密約文書開示訴訟弁護団事務局次長の日隅一雄さんが「裁判で明らかになったこと」を、琉球大学教授の我部政明さんが「沖縄返還と は何であったのか」を、元毎日新聞記者の西山太吉さんが「日米関係は今後どうあるべきか」をそれぞれ演題に話されました。
 沖縄密約について、ぼくは『沖縄通信』第56号(2008年3月)「沖縄密約とは何か。それは国家による犯罪であり、思いやり予算の原型だ」 で詳しい経過を、同62号(同年9月)「沖縄密約裁判、上告棄却。一体、この国はどうなっているのか」で密約文書開示訴訟について書いていま す。第56号で述べた経過についての抜粋は次の通りです。
 1971年5月、外務省詰めの西山記者が同省から沖縄返還協定調印直前の「愛知外相−マイヤー駐日米大使会談」など3通の極秘電信文を入手 しました。この中には米側が日本に支払うべき沖縄基地復元補償費など400万ドルを日本側が肩代わりすることを前提としたやりとりが含まれ、 これを西山記者は同年6月18日、「請求処理に疑惑」と報道しました。
 西山記者から極秘電文のコピーを受け取った当時社会党の横路孝弘議員は1972年3月27日、衆院予算委員会で「密約がある」と政府を追及 しました。外務省はコピーの流出ルートを調査し、同省の女性職員が親しい関係にあった西山記者に渡していることが分かりました。
 警視庁は同年4月4日、西山記者と女性職員を国家公務員法違反容疑で逮捕、東京地検が2人を起訴しました。担当は東京地検特捜部検事の佐藤 道夫氏(筆者注:検察庁退官後、1995年参議院議員に当選し、2001年二院クラブから民主党に移籍、2007年の選挙には立候補せず政界 引退)で、彼が起訴状に「女性事務官をホテルに誘ってひそかに情を通じ、これを利用して」と書いたことで、世論を国家が密約を結んだことの是 非から、西山さんの私的なスキャンダルに向けさせることに成功しました。2000年5月に米国側の公文書公開で密約が明らかにされた後、20 06年3月8日に放映されたテレビ朝日の『スーパーモーニング』に出演した佐藤氏は、当時を振り返って「言論の弾圧といっている世の中のイン テリ、知識層、あるいはマスコミ関係者なんかにもね、ちょっと痛い目にあわせてやれ」という思いから、起訴状の文言を考えたと明かしました。 この手法は功を奏し言論の自由、報道の自由の問題が男女のスキャンダルにすり変えられたのでした。これを主導した人がのちの民主党議員ですから、 民主党も国家による犯罪に一役買ったと言われても仕方がないのではないでしょうか。
 東京地裁は1974年1月31日、元職員に懲役6ヶ月、西山さんには「取材行為は正当なもの」として無罪を言い渡しました。元職員は控訴せ ず有罪が確定しますが、西山さんは控訴し、東京高裁は1976年7月20日、一審判決を破棄、「被告の行為はそそのかしにあたる」として懲役 4ヶ月、執行猶予1年の有罪判決を下しました。西山さんが上告した最高裁は1978年5月31日、「秘密文書を入手するため女性の元外務省事 務官と肉体関係を持ち、依頼を拒みがたい心理状態に陥ったことに乗じ機密文書を持ち出させ」、「元事務官の尊厳を著しく蹂躙」し「到底是認で きない」として上告棄却を決定、西山さんの有罪が確定しました。
 ところが2000年5月、我部政明・琉球大学教授が米国立公文書館で密約を裏付けるアメリカ政府公文書を発見します。それによると、@返還 土地の原状回復補償費400万ドルを日本政府が肩代わりする。A日本政府が物品・役務で負担する基地施設改善移転費6,500万ドルなどの「 秘密枠」をつくる、のが密約だったことが明らかになりました。2年後の2002年6月にも密約を示す別の米公文書が発見されました。我部教授 は「400万ドルを認めると、秘密のすべてを認めなければならなくなる。内部文書を突きつけられても否定し続けたのは、そうした背景があった からではないか」と語っています。
 その後2005年4月25日、西山さんは国に損害賠償と謝罪を求めて東京地裁に提訴をするに至りました。2006年2月には、日米交渉を担 当した吉野文六・外務省元アメリカ局長が密約の存在を認めたにもかかわらず、東京地裁(2007年3月27日)、東京高裁(2008年2月2 0日)ともに密約の存否を判断せず、除斥期間(権利の法定存続期間、20年)を採用し、西山さんの請求を棄却したのでした。司法が政府の密約 を追認したものといえます。
 この密約による「秘密枠」こそ、その後1978年6月、金丸 信防衛庁長官が、在日米軍基地で働く日本人従業員の給与の一部(62億円)を日 本側が負担すると決めたことから始まる「思いやり予算」の原型となったものです。
 また、密約文書開示訴訟については第62号で次のように書いています。
 2008年9月2日(火)、最高裁第三小法廷(藤田宙靖裁判長)は、西山さんの上告を退ける決定をしました。これで請求を棄却した一、二審 判決が確定しました。第三小法廷は「事実誤認や単なる法令違反の主張で、適法な上告理由に該当しない」としただけで、密約の存在についての判 断をしないまま、裁判は終わりました。
 しかし、こうした流れに掉さす動きも起こっています。最高裁決定が下された同じ9月2日(火)に、外務、財務両省に対して沖縄返還に係わる 「秘密合意議事録」など3通の行政文書の情報公開請求がなされたのです。請求した文書は、1969年12月2日付で日米財務官僚が交わした「 秘密合意議事録」と1971年6月11、12両日付で日米の外交官が交わした「秘密合意書簡」の3通です。具体的文書を指定して公開請求をし たのは今回が初めてとのことです。
 請求者には筑紫哲也さんや琉球大学の我部政明教授、それに西山太吉さんら63名が名を連ねています。西山さんは「文書には日米の交渉責任者 のサインがあり、存在しないと逃げることはできない。国民の主権を根本的に検証するものだ」と語っています。
 果たして、この情報公開請求に対して、外務、財務両省は、すなわち日本政府はどのような対応を取るのか、注視していきたいと思います。  以上が、『沖縄通信』56号(2008年3月)と62号(同年9月)からの抜粋です。
 1969年12月2日付「秘密合意議事録」とは、柏木・ジューリックが3億2,000万ドルで署名した了解覚書を、1971年6月11、1 2両日付「秘密合意書簡」とは、吉野・スナイダーの、軍用地の原状復帰費400万ドル支払密約とボイス・オブ・アメリカ1,600万ドル支払 密約をいいます。


日隅一雄弁護士(名前の漢字が間違っている)

 さて、当日は弁護団事務局次長の日隅一雄さんが密約文書開示公判の経過を報告しました。2008年9月2日の情報公開請求に対し、同年10 月2日に外務、財務両大臣が不存在を理由に不開示を決定しました。この決定を不服として、2009年3月16日にこの密約文書開示訴訟を提訴 しました。裁判は、
 2009年 6月16日 第1回口頭弁論
 2009年 8月25日 第2回口頭弁論
 2009年10月27日 第3回口頭弁論
 2009年12月 1日 第4回口頭弁論 吉野文六・元アメリカ局長、我部政明・琉球大学教授証人尋問
 2010年 2月16日 第5回口頭弁論
  という経過をたどり、来る4月9日に判決が出ます。
 特筆すべきは、第1回口頭弁論(昨年6月16日)において、杉原則彦裁判長が「アメリカ側に3文書ある以上、日本側にも対応する文書がある はずであり、仮に正に対応する文書がなくても、これに関する報告文書等はあるはずであるという原告らの主張は十分に理解できる。文書がないと いうのであれば、なぜないのかを合理的に説明する必要がある。また、『密約』はないというのであれば、アメリカ側の上記文書はどういうものに なるのか」と発言したことです。
 こうして、2009年12月1日の公判で吉野文六・元アメリカ局長と我部政明・琉球大学教授の証人尋問が実現し、ここで吉野・元局長が密約 の存在を認める証言をしました。


我部政明・琉球大学教授

 我部政明さんは「沖縄返還とは何であったのか」と題して、次のように話されました。
 日本はなぜ二枚舌外交をせねばならないのか。
 戦後、沖縄はすべてが米軍基地だった。少しずつ米軍が返していった所が民家となり、最後に残った所が今の基地である。アメリカは、アメリ カのおカネで造った基地を日本に返す時、タダで返すことはアメリカの納税者が許さないとの理屈だ。
 戦後処理の関係で未だに残っているものは、@ソ連(ロシア)との平和条約、A北朝鮮との関係、B安保理常任理事国入りの3つだ。時の総理 大臣は歴史に名を残そうと思って、それに手掛ける。佐藤首相は沖縄を手掛けたのである。
 しかし、基地が返還されたのではない、施政権が返還されたに過ぎない。施政権とは、領土であるのみならず統治が及んでいるということだ。 施政権返還前は、基地の対策も住民対策もすべてアメリカがやっていたが、返還後、住民対策は日本がおこない、アメリカは基地だけをすればよ くなった。
 日米の共犯関係によって、沖縄に基地が残ったのだ。密約はこの共犯関係を押し隠すものである。



西山太吉さん

 西山太吉さんは「日米関係は今後どうあるべきか」と題して、次のように話されました。
 今年は安保改定50年だ。この50年間に安保体制も変わり、状況も変わった。安保の変質には常に沖縄をテコにしてきた、踏み台としてきた 。ペンタゴンの世界戦略の変更に対応して、それに順応するかたちで安保が変化していった。
 1996年、アメリカは普天間を返還すると言った、その1週間後に安保共同宣言がなされた。ここから周辺事態法へと発展していった。これ によりアジア・太平洋へと行動範囲が広がり、自衛隊が後方支援することとなった。そのために9条の問題が出てきた。
 2006年5月、米軍再編報告書により安保がまた変質する。グアムへの移転にともない、ここでも沖縄がテコとなった。そして、すでに19 66年にアメリカが大浦湾プロジェクトとして作成していたものがここで復活してきた。これこそ辺野古の新基地建設である。これは永久拠点化 だ。
 最後に、密約について言えば、アメリカの要請と9条がコミットするから密約となるのである。
 以上、三人の方から内容の深い講演を聞きました。



4.橋本康介さんからの指摘について

 ぼくは、前号78号の『沖縄通信』「普天間閉鎖!辺野古に新基地はつくらせない−1月24日(日)、名護市長選で基地反対派が勝利する」 で、
 「名護市長選の勝利を聞いて、ぼくは在日の詩人・金 時鐘(キム シジョン)さんの発言を思い出していました。それは2007年2月10日 、友人の橋本康介さんの『祭りの海峡』出版記念会で話されたもので、氏は『支配者は常に勝ち続けなければならない。しかし、ぼくたちは最後 に一度だけ勝てばよいのだ』という趣旨のものでしたが、この名護市長選の勝利こそ当てはまると思ったのです」と書きました。
 この文章に対し、橋本康介さんご本人から、「時鐘さんの言おうとしたことは、そうではないと思います。時鐘さんはこう言ったのです。『負 け続けることをやめた時が本当の敗北だ』と…。端的に言えば、こう言ったのです。『生きているうちに勝つことはない。むしろ、負け続けるの だ、それを覚悟しなさい。それが嫌で、負け続けるのをやめて何かしらの成果や、擬勝利を目指すのなら、
そいつはぼくのいう闘いではない。負け続けることの値打ちを知りなさい。最後に勝つのだから…』そんな言葉でした」との指摘を受けました。
 似て非なるとはこういうことを言うのでしょう。あの時はアルコールも入っていました。橋本さんの文言の方が正確です。
 読者のみなさまも金 時鐘さんの発言をこのようにご理解ください。


沖縄通信に戻る

 

 

 

 

 

 

inserted by FC2 system