☆西浜さんのプロフィール☆
1944年生。1989年12月受洗。
2005年3月琉球大学大学院修士課程修了。
2009年3月大阪市立大学大学院博士課程単位取得退学。
現在、大阪市大人権問題研究センター会員ならびに共生社会研究会所属。
日本キリスト教団大阪教区沖縄交流・連帯委員会委員長


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第80 号(2010年4月)

◆ 目次 ◆
1.3月8日(月)に、琉球大学開学60周年記念事業 「江戸立」探検隊の大阪シンポジウムと交流会が開かれる。
 
2.「ピースウォーク from沖縄」が、3月21日(日)、大阪に入る。 3月22日(月、祝)には、奈良県大和高田市に。
 


1.3月8日(月)に、琉球大学開学60周年記念事業 「江戸立」探検隊の大阪シンポジウムと交流会が開かれる。

 ぼくが2003年から2005年にかけて大学院で学んだ琉球大学は、今年5月に開学60周年を迎えます。
 宮城悦二郎さんが『占領者の眼』(那覇出版社、1982年)の「琉球大学の開設」の項で次のように書いています。 1932年生まれの宮城さんは、米軍統治下の1960年から約13年間、米軍の準機関紙『星条旗』の記者をしていま した。施政権返還後の1973年、当時、琉球大学教授だった大田昌秀・元県知事の誘いで同大学の講師に転身し、19 95年には、大田知事時代に開設された県公文書館の初代館長に就任。米国民政府(USCAR)文書の収集などに尽く しました。2004年に71歳で亡くなられた時、ぼくは沖縄に居住していましたが、その当時宮城さんを存じていませ んでした。残念なことです。ほかに岩波ブックレットから『沖縄占領の27年間』も出されています。
 以下、『占領者の眼』からの引用です。
 かつて大宅壮一は琉球大学を「八ミリ大学」と評して話題になったが(筆者注:開学9年目を迎えた1959年に来沖 し、琉球大学を視察した大宅壮一は、琉球大学の規模があまりに小さいことに驚いて絶句し、琉球大学を8ミリ大学と形 容した。これは、当時はやり始めていた家庭用の小型8ミリフイルム映画に因んだもので、8ミリ大学は大宅の造語。ま た、彼は新制大学を「駅弁大学」と呼んだことでも知られる。駅弁大学とは、弁当を売っている駅のある所には大学もあ る、と新制大学を皮肉ったもの。即ち、琉球大学は駅弁大学とも呼べないほど小さかったということ)、開学当初は、米 人の間にも“あれは米軍高官に名誉博士号を贈るためにつくったものだ”と悪口をたたく者もいた。「ユースカー(米民 政府)のつくった最大の小学校」と評する人さえいた。
 しかし、大学開設は住民の長年の悲願であったし、“布令大学”(筆者注:琉球大学は米軍政府布令によって創立され た。1966年7月から布令にかわり、琉球大学設置法及び琉球大学管理法により琉球政府立大学となる。1972年施 政権返還後、国立大学に移管)としていろいろ問題を抱えていたとはいえ、琉球大学が戦後の学問の振興、人材養成に果 たした役割は大きい。そして、米軍の意図に反して復帰運動の先端にいたのも琉球大学の学生たちであった。
 以上、引用した琉球大学が催す開学60周年記念事業について、次のように述べています。
「戦後間もない1950年5月22日、琉球列島初の高等教育機関として、琉球大学が開学しました。早いもので、20 10年5月には、華甲となる60周年を迎えます。この間、激動する時代に呼応しながら変遷し、現在、国立大学法人と して7学部、7大学院、1専門職大学院を擁する総合大学になっています。
琉球大学は現在、『柔らかで、しなやかな学知と思想』を発展させ、地域や国際社会に貢献できる大学つくりを行ってい ます。この度、これを記念して『琉球大学開学60周年記念事業』を実施いたします」と。


江戸立探検隊のチラシ

 また、開学60周年の記念事業として企画した「江戸立」探検隊について、
「琉球王国の使節団が行った『江戸立』の道中を、琉球−薩摩、薩摩−大坂、大坂−江戸の3行程に分けて追体験し、琉 球使節団と訪問地との交流の歴史、意義について考えます。
 また、琉球側から贈られた資料の発掘、新しい事実の発見も目指します。道中の重要な結節点となる那覇、名瀬、鹿児島、 大阪、東京では、フォーラムやシンポジウムを開催し、歴史から学ぶ沖縄の将来像を学生と地域の方々とともに考える機会 を持ちます。
 さらに、地域との交流を通して、幾多の変遷を経ながらも60周年を迎え、南の学知の拠点として発展を続ける琉球大学の 現状に対する理解を深めてもらいます。
卒業生や県人の多い大阪や東京では、探検隊と同窓会、県人会との交流の場を持ち、今後の大阪、東京における大学の活動 に対する連携へもつなげていきます」と述べています。
 この「江戸立」探検隊は、3月1日(月)に那覇で出発フォーラムを持ち、3月3日(水)名瀬フォーラム、3月4日(木 )鹿児島シンポジウム、そして3月8日(月)の大阪を経て、3月12日(月)東京シンポジウム&交流会との行程を歩み ました。
 3月8日(月)の大阪でのシンポジウム&交流会は、ホテル阪急インターナショナルで開かれ、岩政輝男・琉球大学学長、 学生(留学生も含まれている)・スタッフ総勢41人よりなる探検隊メンバー、琉球大学同窓会、在関西の県人ら約200 人が集いました。


挨拶する岩政学長

 第1部は豊見山和行・琉球大学教授を司会に、上原兼善・岡山大学特任教授の基調講演「『アジアの中の琉球王国』を考 える」、真栄平房昭・神戸女学院大学教授の講演「大航海時代と琉球」と、その後に討論会が持たれました。しかし、全体 の時間配分を無視して上原教授が一人で長時間喋ったため、あとの時間がなくなり成功したとは言い難いものでした。


シンポジウム

 そこで、ここでは『「江戸立」探検隊 フォーラム・シンポジウム資料集』、『歴史のはざまを読む−薩摩と琉球』(紙屋 敦之著 榕樹書林、2009年)、真栄平房昭『琉球使節の「江戸立」(上)、(下)』(『御取合(ウトゥイエー)400 年 琉球・沖縄歴史再考(9)、(10)』 「沖縄タイムス」2009年3月23日、30日)などを参考に、「江戸立」 について説明します。
 1609年に琉球に侵攻した薩摩藩は、1611年に掟15ヶ条を初めとする琉球支配の方針を定めました。薩摩藩は当初、 琉球を日本に同化させることを企図していましたが、幕府の対明政策が挫折した1615年を境に、琉球に固有の政治形態と 風俗を認める異化政策に転換し、1624年にそれが確定しました。それは琉球の明との冊封・朝貢関係が日明間をつなぐパ イプとして重視された結果です。
 そして、「江戸立」は1634年に始まります。この年、尚豊王(1621年〜1640年)の使者として佐敷王子朝益(尚 豊次男)、金武王子朝貞(尚豊の弟、のち摂政)が京都の二条城で将軍家光に拝謁しました。次回の1644年より江戸に赴 き、将軍(大君)に聘礼をおこないました。
 琉球使節には琉球国王の即位を幕府に感謝する謝恩使と、幕府の新将軍の襲位を祝う慶賀使の二つがあり、1850年まで1 8回を数えました。1710年以降、幕府は異国、すなわちアジアの国々を意識して、琉球使節を日本のご威光をいや増す外 国使節として認識し直しました。
 即ち、「江戸立」の政治的意義は、幕府にとって将軍権力を内外に誇示する効果が期待され、島津家は、「異国」琉球を支配 していることを幕府に強く印象づけ、さらに琉球を媒介として中国産物(唐物)を購入し、海外情報を入手することもできま した。一方、琉球にとって江戸立は、「異国」としての独自性をアピールする重要なセレモニーであり、これにより王国体制 を維持できました。
 使節団の規模は年度によって増減がありますが、およそ100人前後で、旅程はおよそ100日、江戸滞在期間は1ヶ月ほ どでした。
 ところで、琉球使節の江戸往還を、上下・従属関係をあらわす「江戸上り」と表記せず、対等なニュアンスの「江戸立」を 当時も使っていました。薩摩との関係は従属的だったにせよ、幕府との外交戦略で独自性を発揮するために、琉球側は「江戸 立」という言葉を主体的に用いていました。


探検隊メンバー

 第2部の交流会で、同窓会の金城盛紀・関西支部長は、「当時は占領下の自由しかなく、今日のような大学になるとは、想 像もできなかった。ますます発展して、世界にはばたく琉球大学になってもらいたい」と挨拶しました。
 また、探検隊の学生が琉舞や琉球古典音楽などを披露しました。


学生による琉舞の舞い

 交流会会場で元力士の一ノ矢関(本名:松田哲博さん)に会いました。彼は徳之島出身で、琉球大学物理学科を卒業。19 83年に角界に入った時は、初の国立大学出身力士として話題になりました。2007年11月に引退した時は46歳という 最高齢でした。166センチの身長では新弟子検査に合格するはずがないので、頭皮の下にシリコン樹脂を注入したといいま す。
 入門後もケガにも悩まされ、24年間の力士生活で、最高位は三段目東6枚目でした。しこ名は、徳の島 ⇒ 徳錦 ⇒ 一ノ矢 と改名、通算成績は484勝518敗6休、在位145場所、序二段で2回(1989年名古屋場所、1993年初場所)優 勝しました。
 2007年11月に引退後は高砂部屋のマネージャーとなり、2008年2月に結婚しましたが、結婚式と断髪式を同じ日に 挙げました。
 二人で並んでも、ぼくとそんなに身長は変わりません。


元・一ノ矢関とのツーショット

「江戸立」探検隊の琉球大学の学生たちのパワーは凄まじく、うらやましい限りでした。


琉球大学の学生たち


2.「ピースウォーク from沖縄」が、3月21日(日)、大阪に入 る。 3月22日(月、祝)には、奈良県大和高田市に。

 2010年1月1日、“神の島”と呼ばれる沖縄の久高島を出発した「ピースウォーク from 沖縄」が、3月21日(日 )大阪に入り、翌3月22日(月、祝)には奈良県大和高田市に入りました。
 日本山妙法寺の石橋行受上人(ぎょうじゅしょうにん)を中心に、5月にゴールの東京まで行進するというものです。「沖縄か らスタートしたい」と相談したところ、彫刻家の金城 実さんは「それは久高島以外にない」とおっしゃったとのことです。 呼びかけ文は次のように書いています。


大阪での行進(その1)

今、私たちは…
世界の大変動期のただ中にあり、いかなる未来を創出しうるのか 
私たち一人ひとりの選択にかかる重要な時代を迎えています。
折しも2010年5月には米国連本部にて核兵器不拡散条約(NPT)が開かれ、
そして、10月には名古屋にて生物多様性契約国会議(COP10)が開かれます。この大切は変革期に開催される両会議に歩 調を合わせ、2010年1月1日より沖縄を出発する「ピースウォーク from 沖縄−天地行−」を行います(筆者注:「天地行」 とは、“天を仰ぎ、地に伏して、祈りの果てに捧げ行く”の意)。
地球の未来を見つめるために歩きます。
なぜ、沖縄からなのでしょうか…
オバマ大統領が宣言した「核のない世界へ」という言葉を注視するなら、
その真の実現は「核廃絶」にとどまらず、「戦争のない世界」を創ることに他なりません。
いま、沖縄は基地問題で大きく揺れています。
「沖縄基地問題」とは、とりも直さず「日本国の独立」に関わる問題でもあり、米国が幾度も繰り返す「戦争遂行」行為が大前 提となるものです。
「人殺し」と「環境破壊」に終止符を打つために
世界の行く末に希望を見いだすために
受難の歴史を一身に背負う沖縄から、古代より神々が宿り、海に守られた平和の民の地である沖縄から、私たちは歩み始めます。 ゴールの5月東京までの途上、ナガサキ・ヒロシマをはじめ米軍や自衛隊の基地、原発など重要な場を訪ね歩きながら、魂の叫 びを聴き、光を求める旅路に向かいましょう。
長期・短期を問わず歩いてくださる方、
また、お心を添えてくださる方共々にウォーカーです。
多くの方々のご参加を願ってやみません。
祈りと勇気を共にしましょう。合掌


大阪での行進(その2)

 3月21日(日)、大阪では午後5時より扇町公園で集会を持ち、梅田まで行進しました。
 翌日の3月22日(月、祝)、ぼくは大和高田市での取り組みにも参加しました。大和高田市での行事を企画している森本さん を友人が紹介してくれたからです。ぼくは奈良県民でありながら活動はいつも大阪なので、大和高田市での行動に参加するのは 初めてのことです。
 大和高田での取り組みはとてもユニークなものでした。
11時30分 JR高田駅に集合し、
11時45分 JR平野駅を出発したメンバーを出迎え、
12時00分 商店街のおにぎり店で昼食
13時00分 さざんかホールで、大和高田歓迎集会です。
 歓迎集会は、大和高田文化協会有志による「おかげ踊り」で始まり、歓迎の挨拶に続いて、石橋行受上人より挨拶とメンバー の紹介がありました。


メンバーを紹介する石橋行受上人

 その後、沖縄民謡演奏などがあり、メンバーは、
14時30分〜 大衆演劇館「弁天座」で演劇を鑑賞し、役者と交歓しました。
それが終わってから、近鉄大和高田駅まで短いコースを行進し、


短いコースを行進

近鉄大和高田駅前でストリートパフォーマンスとして、石橋行受上人の訴えとカンパ活動をおこないました。


近鉄大和高田駅前で

「ピースウォーク from 沖縄」の毎日の行動は、以下のブログで観ることができます。
http://peacewalk.xrea.jp/blog.php 無事にゴールに到着することを祈りましょう。


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