☆西浜さんのプロフィール☆
1944年生。1989年12月受洗。
2005年3月琉球大学大学院修士課程修了。
2009年3月大阪市立大学大学院博士課程単位取得退学。
現在、大阪市大人権問題研究センター会員ならびに共生社会研究会所属。
日本キリスト教団大阪教区沖縄交流・連帯委員会委員長


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第81 号(2010年5月)

◆ 目次 ◆
1.5月4日(火、祝)に鳩山首相が沖縄を訪問し、県内移設を表明。
 
2.4月25日(日)、県民大会に9万3,700名が参集
 
3.県民大会が開かれた同じ日に「沖縄に基地を押しつけたくないねん!京都集会」がおこなわれる。
 
4.4月26日(月)、大阪行動は防衛局要請行動をおこなう。
 
5.4月26日(月)、大阪行動は民主党へ要請行動をおこなう。徳之島は(沖縄)県外だが、(琉球弧)圏内だ。
 


1.5月4日(火、祝)に鳩山首相が沖縄を訪問し、県内移設を表明

 鳩山首相が言う「腹案」の中味が、@辺野古沿岸部への「くい打ち桟橋」方式とA徳之島への機能の一部移転であることは、ある程度予想 がついていました。というのは、4月24日(土)の第298回大阪行動の現場で、「『辺野古案 大筋容認』報道/米紙/岡田外相、米に 伝達」と報じたその日の『朝日新聞』夕刊を見たからです。しかし沖縄を訪れた5月4日(火、祝)、鳩山首相から「県内移設だ」とあそこ まであからさまに言われると、開いた口が塞がらないというものです。
 同紙は「24日付の米紙ワシントン・ポスト(電子版)は、米軍普天間飛行場の移転問題で、岡田克也外相が、現行の辺野古移設案に一部 変更を加えたうえで受け入れる考えがあると米側に伝えた、と報じた。滑走路の設計を一部変更し、海兵隊の一部を(沖縄から160キロ離 れた場所に)移すことが柱という」と伝えていたのです。よりにもよってこの日は県民大会が開かれる前日のことでした。


首相、県内移設表明

 5月4日(火、祝)、名護市民会館で行われた鳩山由起夫首相と稲嶺 進名護市長の会談のテープ起こしをしたものが目取真 俊さんのブロ グ『海鳴りの島から』に掲載されています。目取真さんに感謝しつつ、以下に引用させていただきます。
 当日はガラス越しに会談を見守る市民から終始、稲嶺市長への声援や鳩山首相への批判の声が上がった。特に鳩山首相の発言の時には、激 しい抗議で騒然となり、会談の場にも怒号が届いて、ただでさえ力のない鳩山首相の声が聴き取りにくいほどだった。そのせいもあって、意 味がどうしてもつかめなかったところは(一部不明)としてある、とのことです。
稲嶺市長:こんにちは。鳩山総理大臣、自ら名護市にお越しいただいたことについて名護市長として敬意を表します。ようこそおいでいただ きました。
 本日は普天間飛行場の移設問題についての政府の考え方を、鳩山首相自らお聞かせいただける場を設けていただきましたが、今日の日を迎 えるまで名護市民は期待と不安、不信が交差する中で疑心暗鬼の日々を過ごしてまいりました。
 私は先ほどの昼食懇談会でも申し上げました通り、去る1月24日の市長選挙において、辺野古の海はもとより陸上にも新たな基地は造ら せないと訴え当選することが出来、その信念を貫き通していきたいと考えております。
 名護市長選挙の結果や4・25県民大会の成功は、県内移設NO!の意思をはっきり示したものであると認識しております。知事との会談 や基地所在市町村長との意見交換会の場での内容は「すべての県外移設は難しい、沖縄のみなさまにまたご負担をお願いしなければならない」 という風に『号外』で報道をされております。このことは辺野古を意味するものであるなら到底受け入れるものではありません。
 2,000日以上も座り込みを続けて反対を貫き通してきた辺野古のおじぃ、おばぁたちに、これ以上辛い思いはさせたくありません。大 勢の名護市民の見守る中ではありますけれども、そのことをしっかり斟酌していただきたい、そのように考えております。
 なお、私のほかに親川副市長、山里企画総務部長、玉城政策推進部長、及び岸本基地対策室長も同席をさせていただいております。どうぞ よろしくお願いをいたします。


切れた期待の糸 謝罪行脚に怒号

鳩山首相:私の方から、お礼方々稲嶺市長さん始めみなさま方に、このような場をお作りいただいたことにまず心より感謝を申し上げたいと 存じます。
 先ほど、私も辺野古の海を改めて拝見をしてまいりました。とても干潮ではありましたけれどもきれいな海でございました。何度かこちら にお邪魔をしてまいりました。かつても(一部不明)ございまして、(一部不明)座り込みが2,000日も続いたとありましたが、辺野古 の海を汚してはならないという一念で頑張っておられるおじいちゃん、おばあちゃんに、激励にお邪魔をしたこともございました。いま改め て稲嶺市長からそのお話を伺いながら思い出しておったところでございます。
 今日も美しい海を眺めながら、この海を汚したくはないという思いが、当然のことながら人間ですから私の心の中にも大変強く存在してお ります。そのことも正直に申し上げたいと思います。
 そして、選挙の時に申し上げた言葉の重みも理解をしているつもりでもございます。県民のみなさんが4月25日に、最低でも県外だと、 国外が望ましいという大集会を開かれたこともよく存じ上げております。
 一方で先ほど、普天間の第二小学校の所で住民の皆さま方との対話集会を行ってまいりました。その席でも、一方では普天間の早く基地を 移してもらいたいと、難聴になって大変だ、という騒音の問題も含めて、危険の除去に対しては一刻も早く行わなければならない、これを1 3年も14年も延び延びにしてしまっている政治の、政府の責任というものを痛感をいたしたところでございます。
 ただ同時に、その方々の要望の中には、必ずやはり県外、最低でも県外を実現していただきたいというお話も聞かせたいただいたところで ございます。それが両立でき得れば、当然のことながら鳩山自身としても、その道を模索してまいりたいと思いますしそのことを実現してま いりたいと、今でも思っております。
 今日から日米で、ご案内の通り協議が始まっておりまして、私どもとすれば政府の主張というものをしっかりとアメリカ側に伝えて、日米 同盟というものを確かなものにしていくためにも、沖縄のみなさん方の過重な負担を出来る限り軽減をさせていただくことが大事なんである ということも、その中で議論を進めていきたいと考えておるところでございます。
 ただ、私ども将来的にいつになるかということになると分かりませんが、将来的にはグアム、テニアンへの完全な移設ということもあり得 る話かとは思っておりますが、現在の北朝鮮を初めとする、いわゆる北東アジア情勢あるいはアジアの情勢を鑑みた時に、やはり日米同盟を 維持していく中での抑止力の観点から、沖縄のみなさんあるいは沖縄の周辺のみなさま方に、引き続いてご負担をやはりお願いをせざるを得 ないという状況になってきておることも、それは政府としての考え方として申し上げなければなりません。
 その意味で、私どもとして県外を様々模索をしてまいった所でございますが、やはり陸上部隊との共同訓練あるいは共同行動というものの 保証がどうしても必要だという議論が先方からなされている中で、あまり遠い所に移設地を求めるということができないという事実も、私ど もの交渉の中で出て来ている所でございます。
 私は今日ここで辺野古の海を見させていただいて、改めてこの海を汚したくないという思いに駆られております。出来得れば、従いまして 出来る限り環境というものに配慮していくことは言うまでもありませんが、海というものを汚さないような形での決着というものがないもの かどうか、ということを模索してまいることも非常に重要なことだと考えておりますが、しばらくの間、沖縄の県民のみなさま方に、まだ、 この抑止力の観点からの基地に対するご負担を一部お願いをせざるを得ないという状況も、これは仲井真知事始めみなさま方にも申した所で もございます。
 今日は名護市長、稲嶺市長さんが、選挙の時に公約とされたことをお思いなさるということは政治的に正しいご主張だということも、十分 に存じております。その思いも十分に学ばしていただく中で、出来る限りトータルとしての、沖縄の県民のみなさま方のご負担が軽減される 道はないものかということを、交渉の中で求めてまいりたいと思っておりまして、今日は基本的には市長さんのお気持ちを学ばしていただく 場という形で、お邪魔を申し上げたところでございます。そのことにもご理解をいただく中で、しばらくの間、稲嶺市長さん始め名護市のみ なさま方のご見解もうかがわせていただければ、大変にありがたいと思っております。
 既に市長さんからは、海も更に陸の部分も不可能だという話もいただいておりますので、そのお気持ちのお話をいただくということになろ うかと思っておりますが、改めて市長さんに私からも今の政府の立場というものを、どうしてもまだ不十分ではございますが、ご説明を申し 上げたいという思いで今日は名護市にお邪魔をいたしたことを、どうかご容赦を願えればと思っております。
 いろいろと、今日も、反対の…、反対というか市民のみなさん方の気持ちがそこで伝わってまいります。そのことも、私としてもしっかり と胸に受け止めておかねばならないことだという理解はいたしておりますことも、付言させていただきとうございます。どうぞよろしく。 稲嶺市長:すみません、まだ、えー、これからちょっと座らせてお話をさせていただきますが、先ほど首相から沖縄県民の負担軽減のお話が ございました。その負担軽減が、片一方ではまた負担の増になる、このようなことがあってはいけないというふうにこう思っております。  更に、抑止力のことも仰っておりましたけれども、抑止力ということでありますならば、それは日本国民全体を守る、日本国土を守るとい うことでありますならば、そのことについては日本国民全体でそのことを考えていただくという環境をお作りになっていただかないと、私た ちこんなに小さな島にこれ以上の新しい基地ができるということは、もうこれは限度を超えている。
 また、これ以上そこに新しい基地を持ってくるということになりますと、これは県知事さんからもありましたけれども、一つには沖縄に対 する差別でもあるのではないかと、こんなお話もありましたように、私ども沖縄県民はほんとにこれ以上の基地の負担はもう認められません というのが、4月25日の県民大会の思いでありますし、それから今日ここに集まっている名護市民の思いでもあります。
 しっかりと首相ご自身の目でごらんになった海、そして、ご自身の耳で名護市民の声を聞いていただいて、そのことがしっかりと県外移設、 県内移設はダメですよということにつながるように、選挙で公約をされたことをしっかりと実現できるように決断を、ご英断をお願いしたい 。このように思っております。どうぞよろしく、お願いをいたします。
鳩山首相:確かに抑止力の話は日本国民すべてにとってのメリットの話でありますし、日本の平和を守るためでありますから、当然のことな がら沖縄のみなさま方ばかりにご負担をお願いすることは筋違いであることはよく理解をしております。その通りだと思っております。従っ て、極力沖縄のみなさま方の負担を、(一部不明)の時の環境よりも、かなり負担を軽減させていくことは、それは当然、物事を進めていく 上で不可欠なことだと思っておりまして、その思いは何としても実現を申し上げたいと思っておりまして、このたびの中での、ご負担の軽減 というものは何としてもさせてもらいたいと思っております。
 まだ、政府として最終的な考え方をまとめているという状況ではございませんので、これ以上のことを申し上げる術がないことを情けなく 思っておりますが、従いまして今日は、今、外で活動しておられる方々の思いというものも、勉強させて拝見させていただきながら、政府が アメリカとしっかりと交渉できる体制を作る資料にしてまいりたいとも考えております。
稲嶺市長:以前に首相が申し上げたことに、辺野古の案はなくなりましたというような内容のお話もございました。最近マスコミでは、くい 打ち桟橋方式などというようなことが出たりすることで、名護市民はほんとに不安の中で過ごしている状況であります。いかなる施設であっ てもこれ以上の基地負担は受け入れられないというのが、名護市民の切実なる思いでございます。
 また辺野古に戻って来るというようなことが、絶対にあってはならないっていう風に名護市民は強い思いでございます。是非首相におかれ ましては最後まで県外、国外を模索する、あるいはそのことを導き出すようにご努力をしっかりお願いをしたい。このようにこう思っており ます。よろしくお願いしたいと思います。
鳩山首相:いまの市長のお気持ちは、よく(一部不明)。
稲嶺市長:是非、最後にもう一度お願いいたします。辺野古に戻ってくるようなことが絶対あってはならない。このことだけはしっかりとお 引き取りいただきたい。こう思っています。よろしくお願いをいたします。
鳩山首相:ありがとうございました。


2.4月25日(日)、県民大会に9万3,700名が参集

 4月25日(日)、読谷村運動広場で「米軍普天間飛行場の早期閉鎖・返還と、県内移設に反対し、国外・県外移設を求める県民大会」が 開かれ、9万3,700人が集まりました。
 これには41すべての市町村長(内、代理2)が参加しました。その中で醜態を演じたのは仲井真知事でした。彼は最後の最後まで参加す るのか否かを明らかに出来ず、態度表明したのは大会が開かれる2日前という体たらく振りでした。そして、挨拶では県内移設反対との発言 をしない始末です。知事就任後も沖縄県防衛協会の会長職にあった彼は、本質的に防衛族だと言えるでしょう。


県民大会を報じる『沖縄タイムス』4月26日付

 大会では次の決議が採択されました。
 普天間飛行場の返還は1996年日米特別行動委員会(SACO)合意から13年経過した今なお実現を見ることはなく、その危険性は放 置されたままです。
 しかも、2004年8月13日に発生した沖縄国際大学構内への米軍海兵隊所属CH53D大型輸送機ヘリコプターの墜落事故は、市街地 に位置し、住宅や学校等が密集する普天間飛行場の危険極まりない現実を明らかにしました。一歩間違えば大惨事を引き起こしかねず「世界 一危険な飛行場」の存在を改めて内外に明らかにしています。しかも、2006年の在日米軍再編協議では同飛行場の全面返還を合意してお り、県民や宜野湾市民は、最も危険な普天間飛行場を早期に全面返還し、政府の責任において跡地利用等課題解決を求めているのです。
 私たち沖縄県民は、去る大戦の悲惨な教訓から戦後一貫して「命どぅ宝」、基地のない平和で安全な沖縄を希求してきました。にも関わら ずSACO合意の「普天間飛行場条件つき返還」は新たな基地の県内移設にほかなりません。
 県民の意思はこれまで行われた住民投票や県民大会、各種世論調査などで明確に示され、移設先とされた名護市辺野古沿岸域は国の天然記 念物で、国際保護獣のジュゴンをはじめとする希少生物をはぐくむ貴重な海域であり、また新たなサンゴ群落が見つかるなど世界にも類をみ ない美しい海域であることが確認されています。
 名護市長は、辺野古の海上および陸上への基地建設に反対しています。また、勝連半島埋め立て案についてはうるま市長・市議会ともに反 対を表明しています。
 よって、私たち沖縄県民は、県民の生命・財産・生活環境を守る立場から、日米両政府が普天間飛行場を早期に閉鎖・返還するとともに、 県内移設を断念し、国外・県外に移設されるよう強く求めるものです。


黄色い手拭いを掲げる

 この日は、大会に参加できない人々も統一カラーの黄色を身に着け、県内移設反対の意思を示しましたので、ぼくの家でも黄色い手拭いを 掲げましたが、何だかただ単に洗濯物を干しているようにしか見えません。
 大会では、高校生を代表して普天間高校の生徒二人が発言しました。
 まず、岡本かなさん(3年)の発言です。
 厚さ6センチの窓。その窓一杯に見える飛行機の胴体。これが私たち普天間高校の日常の光景です。私は2年前、あこがれの普天間高校に 入学しました。
 とてもわくわくして登校したことを今でも覚えています。
 しかし、グランドに出れば、騒音とともにやって来る低く黒い影。授業中でも、テスト中でも容赦なく、すべてを中断させる音。低空飛行 する機体に向かって思わず「うるさい!」と叫んだこともあります。学校までの通学路は、どこまでも長い基地のフェンスが続きます。早期 講座の始まる頃には、基地から上がる星条旗が見えます。「あれ、ここって日本だよね、いったいフェンスで囲まれているのは、基地なの、 わたしたちなの?」一瞬、考えてしまいました。日本にある米軍基地の75%が、ここ沖縄に存在していることを改めて実感しました。そん な不安と違和感を覚えた1年でした。
 入学から2年たち、私は自分が変化していることに気付きました。そして怖くなったのです。ヘリコプターは相変わらず頭上を飛び、騒音 は鳴り続けます。でも「しょうがない」「いつものこと」と思う自分がいたのです。軍用機がいつ、自分の上から落ちるか分からない日常。 訓練が民間地域のすぐ横で行われている日常。基地や訓練が何のためにあるのか忘れた日常。危険を危険と感じなくなる怖さ。
 普天間高校で過ごす間にこの状況があまりに日常になって、私の感覚は鈍くなっていたのです。生活の中に基地があること、沖縄の中に基 地があること、この問題を仕方がないから、と考えるのをやめていないか。私を含めて、今一度多くの方に考えてほしい。
 みんながそれぞれの立場で、もう一度基地問題に向き合ってほしいと思います。私たち一人ひとりが考えれば、何かが変わる、そう信じて 今、私はここに立っています。
 次に志喜屋成海さん(3年)の発言です。
 戦後65年の間、沖縄の中には米軍基地と何らかのかかわりをもちながら、様々な気持ちを抱く人がいるのもまた事実です。基地で働き生 活の基盤を作っている人、沖縄の様々な場所で反対運動をする人たち、辺野古の海岸で座り込みを続けている人たち。日本人だけでなく、基 地で働く多くの外国の人もいます。すべての人が一生懸命生きているからこそ、平和と基地、沖縄はいつも矛盾を抱えています。
 私には、それぞれの立場の人の考えを判断するだけの人生経験がありません。でも、かつて沖縄が琉球王国と呼ばれていた時代から、沖縄 の人が平和を愛し、人と人のつながりを何よりも大切にしてきたことだけは分かっています。この精神は今も昔も変わらず、沖縄の人々の心 に刻み込まれているのです。私たちには、お互いに手をとり平和を築ける力をもっている、と私は思います。だから、ただ現状に流されて「 仕方がない」と受け入れることで本当に良いのでしょうか。私は純粋に、素直に、この問題を見た上で、やはり、基地は沖縄には必要ないと 思うのです。
 今、私たちの通う普天間高校では、大会をきっかけに一人一人が基地問題について考え始めています。そして、今、この会場にも県内外か ら多くの方々が基地問題を何とかしたいという思いに突き動かされて集まっている。もちろんこの会場以外でも、それぞれの場所で今この瞬 間考えていると思う。
 この基地問題は普天間だけでなく、沖縄県民だけでもなく、日本国民全ての人が自分の問題として考えてほしい。私たちの思いが一人でも 多くの人たちの心に届くことを、心から願っています。


意見広告を報じる4月29日付『沖縄タイムス』

 ところで、アメリカの新聞に意見広告を出す運動にぼくも協力しましたが、4月28日(水)、ワシントン・ポスト紙朝刊に「裏庭に軍事 基地が欲しいですか?」との全面広告が掲載されました。


3.県民大会が開かれた同じ日に 「沖縄に基地を押しつけたくないねん!京都集会」がおこなわれる。

 県民大会が開かれた4月25日(日)の夕刻、京都・鴨川河川敷で「沖縄に基地を押しつけたくないねん!沖縄県民大会に連帯する京都集 会」がおこなわれました。


鴨川河川敷で京都集会

 この集会は「辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動」と友好関係にあり、毎週土曜日に三条河原町で署名・カンパ活動を展開している 「沖縄・辺野古への新基地建設に反対し、普天間基地の撤去を求める京都行動」が主催したもので、300人以上が集まりました。ぼくは連 れ合いと娘と一緒に参加しました。


基調報告する萩原さん

 集会では京都行動の設立メンバーである萩原一哉さんが「1995年9月の米兵3名による少女レイプ事件から15年が経っても普天間基 地の撤去は実現していない。沖縄は何度県民大会を開かねばならないのか。今回が最後の基地撤去の県民大会になるよう願いたい。問われる べきは日本であり、これ以上沖縄に基地を押しつけてはいけない」と基調報告しました。


京都沖縄県人会・大湾会長

 京都沖縄県人会の大湾宗則会長も「今日、沖縄の声は一つになった。基地のない郷里を実現するために私たちもがんばりたい」と挨拶しま した。


エイサー

 集会は歌ありエイサーありと、とてもカラフルで良い雰囲気で進みました。その後、円山公園までデモ行進しました。


京都の繁華街をデモ行進

 京都での出来事でしたが、京都新聞より沖縄タイムスの方が大きく扱っていました。


4月26日付『沖縄タイムス』


4.4月26日(月)、大阪行動は防衛局要請行動をおこなう。

 家に掲げた黄色い手拭いはそんなにアピールしなかったようなので、4月26日(月)からは、青地に白抜きの「辺野古新基地許さない !!」と赤地に白抜きの「普天間基地いらない!!」とのポスターを家の塀に貼り出しました。色が鮮やかなので、通行する住民の方もよ く見ているようです。


辺野古新基地許さない!! 普天間基地いらない!!

 さて、4月26日(月)午後1時より「辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動」は近畿中部防衛局へ要請行動をおこないました。
 1月28日の第8次署名提出行動の時に提出した質問書について、「所掌内のことを含め回答する場合はすべて本省の許可を得なければ ならないが、本省からは『回答できない』旨の連絡があったので、回答できない」とのことでした。ただ、それではダメだと思ったらしく 、濱田報道官の私見という前提で聞きました。


近畿中部防衛局との交渉風景

○PAC3の配備について
 今年度中の配備計画、既に配備されているものを読み上げ、全国配備はあると思われる。理由は北朝鮮のミサイル問題など。ただ、予算 の問題などあり、どうなるか分からない。
○小松基地について
 飛行差し止めにむけて実効ある取り組みはない。
○2009年12月4日に発生したF15戦闘機トラブルについて
 時系列で、近畿防から各自治体へ説明した経緯を教えてくれました。小松基地に原因究明と安全対策を求める。現在、金沢地検が入って 捜査中でタイヤを出し忘れたパイロットが処罰される可能性が高い。
○グアム移転について
 新聞報道ぐらいのことしか分からない。「グアム移転協定は破棄されるべきという考えについて見解を述べよ」について、答える立場に ない。


庁舎前で記念写真(左から2人目が筆者)


5.4月26日(月)、大阪行動は民主党へ要請行動をおこなう。 徳之島は(沖縄)県外だが、(琉球弧)圏内だ。

 防衛局に引き続いて、大阪行動は民主党への要請行動をおこないました。以下が民主党に提出した「要請書」です。


民主党へ要請

(前略)昨日4月25日、沖縄の読谷村運動広場で開かれた「米軍普天間飛行場の早期閉鎖・返還と県内移設に反対し、国外・県外移設 を求める県民大会」には宮古・八重山を含め9万3,700人が集まり、仲井真知事を始め41ある市町村の首長(2代理)全員が参加 しました。カンパは実に500万5,005円が寄せられました。もはや、沖縄の人々の意思は明らかです。もう元に戻ることはあり得 ません。今や沖縄全体が烈火のごとく怒り、その魂をかけて普天間基地の即時閉鎖と沖縄内の基地たらい回しを拒絶すると叫んでいるの です。
 私たちは昨年11月10日の「要請書」で、「1996年4月の普天間返還合意から13年7カ月が経過しても事態の進展が見られな いその根本原因は、県内『移設』に拘泥することによります。世界一危険と言われる普天間基地の即時閉鎖と、辺野古新基地建設を中止 することが最も現実的な解決法です」と述べましたが、これこそが正しい解決法であることが、一層明らかになっています。
 ところが、4月24日付『ワシントン・ポスト(電子版)』は、岡田外相が、現行の辺野古移設案に一部変更を加えたうえで受け入れ る考えがあると米側に伝えた、と報じました(『朝日新聞』4月24日付夕刊)。それに対し、鳩山首相は「事実ではない。辺野古の海 が埋め立てられるのは自然に対する冒涜だ。現行案が受け入れられるなどというような話はあってはならない」と否定した(『産経新聞』 4月24日付夕刊』)と報道しています。またまたの閣内不一致です。
 この間、鳩山首相は徳之島への代替を検討していたようですが、伊仙町、天城町、徳之島町の3町からなる徳之島では、去る4月18 日、人口約2万5,400人の島の半数を上回る1万5,000人が集まって「米軍基地徳之島移設断固反対1万人集会」が持たれまし た。


4月18日の徳之島での集会

 「最低でも県外」と公約した鳩山首相にとって徳之島は県外ですが、実は徳之島は琉球弧圏内です。県外だが圏内なのです。元・県知 事の大田昌秀氏は『徹底討論 沖縄の未来』(芙蓉書房出版)の中で、戦争に負けたのは日本全体であるのに、なぜ47都道府県の中で 沖縄だけが切り離されなければならなかったのかを考察しています。
 大田氏によれば、沖縄の分離は「沖縄戦が始まる2年ほども前から米軍が周到に企図」し、1945年3月26日の米国海軍政府布告 第1号(ニミッツ布告)で、「北緯30度以南の南西諸島における日本の行政権、司法権を停止して、米軍の占領下に置く」としました。 北緯30度線は奄美大島の北方、口之島のすぐ北にあり、なぜその線で区切られたか。大田氏はその理由をアチソン米国務長官の議会証 言の議事録に見出します。「北緯30度の線から切り離した理由は、一つには、そこが大和民族と琉球民族の境目の線だというのです。 つまり北緯30度線以北の人々は、純然たる大和民族で、それ以南の人々は、それとは異質の琉球民族だというわけです。
 二つ目の理由としては、米軍が占領して基地建設を予定している地域をできるだけ広く取っておきたかったから、奄美大島まで分離す る範囲を広げた」と。
 また、戦時中「北緯30度線以北の皇土防衛の担当部隊は『本土防衛軍』と称されていたのに対し、それ以南の防衛部隊は、『南西諸 島守備軍』、すなわち『沖縄守備軍』として明確に区分」していたと指摘します。
 鳩山政権が普天間基地の「移設」先として挙げているキャンプ・シュワブ陸上案、勝連半島沖埋め立て案、徳之島案などを見る時、そ のすべてが北緯30度以南に限定されており、自ずと大田氏の考察を思い出させます。鳩山首相をはじめ普天間基地「移設」問題に関わ る閣僚たちには差別という自覚はないかも知れませんが、歴史に関する無知と発想の根底にある奄美・沖縄への差別に無自覚であるが故 に、反発の火に油を注ぐ愚を犯しているのです。
 一方、大江健三郎氏は『朝日新聞』4月20日付「定義集」で、「微笑とTrust me!という、まさに沖縄県民にはあいまいな 表現で始まった普天間飛行場の移設交渉が、剥き出しの権力の声で期待外れの決定を示す時、第一(注:1995年10月21日の宜野 湾海浜公園で行われた「米軍人による少女暴行事件を糾弾し、日米地位協定の見直しを要求する沖縄県民総決起大会」のこと。施政権返 還後、最大規模の8万5千人が集まった)、第二(注:2007年9月29日、同じ宜野湾で開かれた「教科書検定意見撤回を求める県 民大会」で、これには11万人−八重山、宮古でも計6千人−が集まった)の県民大会を上回る人数と切迫感が宜野湾(注:これは読谷 村の誤り)をみたすでしょう。それを予見してやり直す想像力が政府にあるか、大集会で明示される民主主義の抵抗力を全日本的に伝播 させうるか、戦後最大の正念場です」と書いています。
 鳩山連立政権が取るべき方針は、普天間基地の即時閉鎖と、辺野古新基地建設の中止以外にあり得ません。 
貴大阪府総支部連合会は、党本部ならびに鳩山連立政権に対しこの方針こそが民意に沿うものであることを強く進言していただきたい。 そのことを再度ここに要請いたします。

 

 

 

 

 

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