☆西浜さんのプロフィール☆
1944年生。1989年12月受洗。
2005年3月琉球大学大学院修士課程修了。
2009年3月大阪市立大学大学院博士課程単位取得退学。
現在、大阪市大人権問題研究センター会員ならびに共生社会研究会所属。
日本キリスト教団大阪教区沖縄交流・連帯委員会委員長


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第84 号(2010年8月)

◆ 目次 ◆
1.普天間は終わった、とする大きな力が。しかし、何も終わっていず、新たな動きも。
 
2.8月1日(日)、「普天間飛行場の辺野古移設に反対する
関西沖縄県人会・郷友会の集い」が開かれる。

 
3.7月3日(土)〜6日(火)、大阪教区第9回研修旅行で宮古島・沖縄島を訪問する。

 


1.普天間は終わった、とする大きな力が。しかし、何も終わっていず、新たな動きも

 A.沖縄の鬱屈した被差別感情がかつてなく強まっている。

 『沖縄タイムス』7月31日付「社説」は、『届かぬ声、募る苛立ち』と題して次のように主張しています。
 「全国知事会ではどの知事も基地負担にそっぽを向き、メディアは米軍普天間飛行場の移設問題をめぐる米側の懸念を伝えながら『同盟危機』 を繰り返し報じた。そして普天間問題は『県内移設』で早くけりをつけろ、という切り捨て論が強まった。
 沖縄戦から戦後、そして今日に続く理不尽な仕打ちが沖縄の鬱屈した被差別感情をかつてなく強めている」と。
 ここでは沖縄の現状を「理不尽な仕打ちが沖縄の鬱屈した被差別感情を強める」と位置付けています。続けて、
「5月末に鳩山由紀夫前首相が名護市辺野古への移設に合意したことで、すべてが解決したかのように普天間報道はぴたりとやんだ。ここにたど り着くまで、沖縄偏重の基地配置を見直すという論点はほとんどなかった」
 「問題の本質は差別的な基地偏重をどう是正するかだ。沖縄だけに基地を押し込める日米両政府の従来政策はなぜか検証されない。(中略)基 地問題についてメディアの検証力は弱く、… 昨年10月、ゲーツ米国防長官が来日し、普天間の辺野古移設が唯一の実現可能な案だとし、…  その後、沖縄の基地問題が日米同盟の踏み絵であるかのように論じられ、メディアの主張は多様性を失った」と述べます。
朝日新聞:傷ついた日米当局間の信頼をどう回復するつもりか。
毎日新聞:普天間問題を日米同盟全体を揺るがす発火点にしてはならない。
読売新聞:安保にかかわる米軍基地問題に関して、県民の意向だけに委ねるような姿勢は危険である。
大手マスコミはこのように多様性を失っている、と批判します。さらに、
「海兵隊の『抑止力』とは何か。果たしてそれは実際にあるのか。… 名護市長の反対を日米両政府は無視できるのか。こうした疑問に政府は説 明責任を果たしていないのが現状だ」。「在日米軍の兵力削減を要求しないなら、沖縄問題は負担均衡をめぐる国内調整に尽きる」と、「社説」 はこのように主張します。
 「沖縄問題は負担均衡をめぐる国内調整に尽きる」とは、噛み砕いて言えば、基地はヤマトゥが引き受けよ!ということです。


310回目の大阪行動での筆者(7月17日)

 B.温度差超えて日本を問う。

 『沖縄タイムス』に記者が投稿する「複眼」という欄があります。その7月24日に、東京支社に赴任した与那原良彦記者が標記の題で次のよう に書いています。
 菅政権の誕生直後、ある会合で大手マスコミの政治部幹部は「菅直人首相は普天間飛行場移設の日米共同宣言を踏襲し、よかった。日米関係の修 復を図る上々の滑り出しだ」と評価した。腑に落ちない。席上、「普天間問題は終わったのか。鳩山由紀夫首相退任でみそぎを終えたのか」と問 うと、幹部は「残されたのは、沖縄を納得させる内政問題だ」とした。本土マスコミの論理は、沖縄側の合意を得ないままでも普天間飛行場問題 は解決の方向に向かっているようだ。(中略)
 東京支社に赴任し、普天間報道をテーマに講演する機会がある。「沖縄問題は沖縄が問題ではなく、沖縄に過重な基地負担を強いて平気な日本全 体の問題。選挙のたびごとに、沖縄の民意を試すのではなく、日本が変わるべきだ」と訴える。(中略)
 基地問題をめぐる沖縄と本土の温度差にあえぎながらも、県外移設を求めて県民の民意を日米同盟の軍事的思惑で覆そうとする日本の現状を問 い続けたい。

 C.なぜ、沖縄に米軍基地が必要か? 米軍のトップでさえ答えられない。

 1995年9月、米兵3名による少女レイプ事件が起こった時、在日米軍司令官であり、その後2001年〜2005年、統合参謀本部議長と いう米軍の制服組トップにあったリチャード・マイヤーズが朝日新聞との会見に応じています。7月20日付『朝日新聞』の記事です。
― 海兵隊はなぜ沖縄に常駐せねばならないか、との質問に対して。
 駐留している4万数千人(筆者注:2009年9月末現在の在沖米軍は44,895人。うち陸軍3,798人、海軍2,630人、空軍13, 971人、海兵隊24,496人)は、北朝鮮の攻撃から日本を完全に守ることのできる規模かといえば、そうではないかもしれない。海兵隊の うち実戦部隊が2千人(筆者注:24,496人いる海兵隊がイラクやアフガンに戦争のために飛び立っており、沖縄には2千人しか残っていな いことを指している)でも、認識の違いを生む。
― 海兵隊の出動はどんな事態が想定されるのか、との質問に対して。
 他国が日本を侵略する可能性は低い。しかし、あらゆる事態を想定せねばならない。陸上侵略は海兵隊が対処するのに最も適した事例だ。
― 海兵隊の駐留は沖縄でなければだめなのか、との質問に対して。
 海兵隊を日本国内の別の場所に移せないか話し合ったこともある。
 「要約すれば、紛争はどう起きるか想定はできない。どんな危機にも対応するには、(実戦部隊2千人という)小規模であっても海兵隊は常駐 せねばならない。その駐留拠点は沖縄でなければならないわけではないが、ほかに場所がない」
という主張です。
 「規模とは関係なく、海兵隊がいる限り他国は攻撃を手控える」という抑止効果の検証は出来ず、米軍人トップの発言もこの程度では大したこ とはありません。
 これではもう、今沖縄で盛んに話されている「抑止力=ユクシ=ウソ」の類です。

 D.短歌で訴える平和朗読にも新しい流れが。

 6月30日付『沖縄タイムス』「文芸時評」欄で、平敷武蕉は次のように評しています。
 6月19日(土)、第15回糸満市平和祈念祭が開かれ、6回目を迎える短歌で訴える平和朗読が披露された。遠くはフランス、北海道から沖縄 宮古島までの応募作82首の短歌が朗詠された。
 ヤマトゥからの作品は、
 兄の意志継がねばならぬ「平和学」沖縄戦の本を読み込む
(成沢自由・埼玉)
 琉球弧の青に溺るる!癒さるる!いひつつ血走る大和の眼
(南 輝子・兵庫)
 泣きやまぬ赤児に銃剣突きつける軍は鬼なりウチナーンチュに
(今井正和・東京)
 というものです。
 平敷武蕉は「他府県から寄せられた歌に質的変化が見られる。沖縄戦を客観主義的に詠む傾向にあったのが、自らの痛みとして主体的に捉え返 そうとする姿勢が窺がえる」と評しています。
 作者らをネットで検索すると、名を成した歌人の方々ばかりでした。ヤマトンチュとしての責を問おうとする姿勢にぼくも同意しました。

 E.7月9日(金)、県議会が日米共同発表の見直しを求める意見書を採択。

 7月9日(金)、沖縄県議会は「米軍普天間飛行場移設の日米共同発表の見直しを求める意見書」を採択しました。以下が「意見書」です。


2269日目の辺野古(7月5日)

 去る5月28日、日米両政府は、米軍普天間飛行場の移設先を沖縄県名護市のキャンプ・シュワブ辺野古崎地区及びこれに隣接する水域とし 、1,800メートルの滑走路を建設することを明記した共同発表を行った。
 この共同発表は、「県内移設」反対という沖縄県民の総意を全く無視するもので、しかも県民の意見を全く聞かず頭越しに行われたものであり、 民主主義を踏みにじる暴挙として、また沖縄県民を愚弄するものとして到底許されるものではない。
 さらに、去る6月23日に行われた沖縄全戦没者追悼式に参加した菅直人内閣総理大臣は「沖縄の基地負担に陳謝とお礼」を表明し、米国では 6月24日に下院で、29日には上院でそれぞれ米軍基地を受け入れる沖縄への感謝決議が議決されているが、このことは過重な基地負担を強いら れ、今また新たな基地を押しつけられようとしている県民の思いを全く理解していない行為として県民の大きな怒りを買っている。
 沖縄県民の願いは、基地のない平和で安全な郷土をつくることであり、このことは本県議会が再三にわたり県内移設反対を議決したのを初め9万 人余が参加した4月25日の県民大会、県内全市町村長の反対表明、マスコミの世論調査などで明確に示されている。
 よって、本県議会は、県民の生命、安全及び生活環境を守る立場から、政府が県民の思いに真摯に対応するとともに、日米共同発表を見直すよう 強く要請する。

 F.グアム移転が2017年(?)に遅れる。グアム政府も新たな施設建設に反対。

 米国防総省は7月28日(水)までに、沖縄駐留米海兵隊約8千人のグアム移転について、日米両政府が合意した2014年の完了を断念する内 容を盛り込んだ環境影響評価(アセスメント)の最終報告を公表しました。急激な人口増加に上下水道などの社会基盤の整備が追いつかないことが 理由です。
 新たな移転完了時期は明記していませんが、3年遅れの2017年完了が選択肢の一つです。これにより普天間移設の完了も2014年からずれ込 む可能性が一段と濃厚になり、合意見直しは必至の情勢となりました。(『沖縄タイムス』7月29日付)
 一方、グアム政府は8月7日(土)までに、海兵隊移転に伴ってグアムに新たに施設が建設され、米軍基地の規模が拡大することに反対する書簡 を米海軍省に送りました。グアムは海兵隊の移転自体は受け入れる立場ですが、あくまでも現在の施設内にとどまる形で行うよう念を押した格好で す。(『沖縄タイムス』8月8日付)


辺野古で安次富 浩さんから説明を受ける。

 G.アメリカでも在沖米海兵隊不要論が拡がる。

 『琉球新報』7月16日付は「在沖米海兵隊/拡がる不要論/下院の重鎮『冷戦の遺物』」と題して、次のような記事を報じました。
 在沖米海兵隊の不要論が最近、米国内で急速にわき上がっている。米民主党の重鎮で、政府に影響力を持つバーニー・フランク下院歳出委員長が 「米国が世界の警察だという見解は冷戦の遺物であり、時代遅れだ。沖縄に海兵隊がいる必要はない」と公に訴えたことがきっかけだ。同氏らの意 見が反響を呼び、メディアも大々的に取り上げている。背景にあるのは深刻な財政赤字。リーマン・ショック以降、不況で生活に苦しむ国民の不満 が、膨大な軍事費に向き始めている。… 海外駐留米軍の撤退を求める声は拡大する様相を見せている。…
 フランク氏は「1万5千人の在沖海兵隊が中国に上陸し、何百万もの中国軍と戦うなんて誰も思っていない。彼らは65年前に終わった戦争の遺 物だ。沖縄に海兵隊は要らない。…」と訴えた。


2.8月1日(日)、「普天間飛行場の辺野古移設に反対する
関西沖縄県人会・郷友会の集い」が開かれる。

 8月1日(日)、大阪・大正区民センターで「普天間飛行場の辺野古移設に反対する関西沖縄県人会・郷友会の集い」が開催され、在関西ウチナー ンチュ、ヤマトンチュら554人が集まりました。この集会を共催したのは、@大阪沖縄県人会連合会、A沖縄県人会兵庫県本部、B京都沖縄県人 会、C奈良沖縄県人会、D関西宮古郷友会、E近畿八重山郷友会、F関西今帰仁村人会、G関西地区読谷郷友会の8団体で、関西の県人会・郷友会 がともにこの種の集会を催すのは多分復帰運動の時以来ではないでしょうか?



現地報告をする新里米吉さん

 この日のメインは、4・25県民大会実行委員会事務局長で県会議員の新里米吉さんがおこなった「沖縄からの現地報告」でした。
 実は、ぼくは新里さんと一度お会いしています。昨年11月13日から15日まで平安座島(へんざじま)で開かれた「ゆいまーる琉球の自治」の 集いのことを『沖縄通信』第76号(2009年12月)で報告していますが、この集いで新里さんは「平安座のバレーボールの歴史」について話 されました。昨年の11月13日〜15日といえば、11・8県民大会を受けて、要請団が大挙して上京した時期です。新里さんも帰沖された直後 だったでしょう。新里さんは現在社民党の沖縄県連委員長ですが、当時は書記長でした。東京での報告や県民大会のことも喋りたいところでしょう が、この日新里さんは主催者から依頼のあったテーマである「平安座のバレーボールの歴史」についてのみ話されました。分をわきまえた立派な方 だとその時ぼくは思いました。
 集会で、丁寧に新里さんは現地報告をなさいました。


京都沖縄県人会・大湾宗則会長

 決意表明に立った京都沖縄県人会の大湾宗則会長は「結成24年になる京都県人会ではウチナーンチュとは誰のことかと話し合ってきた。沖縄にい る者だけではなくて、遠くボリビアやアルゼンチンにいる者もウチナーンチュであり、京都にいる我々もウチナーンチュである。その我々は、ふる さとが泣いたり笑ったりしている時に無関心でいられない、と今この場に参加した」と話され、これにはひときわ大きな拍手が寄せられました。 続いて、6月8日(火)に発せられた下記の「普天間飛行場の辺野古移設に反対する関西の沖縄県人会・郷友会緊急アピール」を集会宣言として採 択しました。


集会風景

 日米両政府は5月28日に「共同声明」を発表し、普天間飛行場の移設先を名護市のキャンプ・シュワブ辺野古崎地区とこれに隣接する水域と し、1,800メートルの滑走路を建設すると明記しました。
 これは、鳩山総理(当時)の「最低でも県外」「辺野古の海を埋め立てることは自然に対する冒涜」という発言に反するものであり、4月25日に 9万人が結集して開催された沖縄県民大会の民意を踏みにじるものです。
 鳩山内閣は普天間問題の迷走の責任をとって退陣しましたが、責任を取るどころか全く無責任な投げ出しでしかありません。
 在日米軍基地の75パーセントが集中している沖縄に、もうこれ以上の基地を建設することは許されません。私たち関西の沖縄県人会・郷友会は、 普天間飛行場の即時閉鎖、全面返還を求め、辺野古への移設に反対することを、ここに表明します。
 関西における沖縄県人会・郷友会は祖国復帰を闘った底力がありますし、復帰後も沖縄の問題を自分たちの問題として注視してきました。
 6月8日に発足した菅内閣は、「日米共同声明」を尊重すると表明しています。私たち関西の沖縄県人会・郷友会はこれに強く抗議し、日米合意 を見直し、
沖縄県民の声に真摯に耳を傾けるよう要求します。
 各沖縄県人会・郷友会は協力して、県民大会の決議と意思を実現するために沖縄県民大会実行委員会とともに、今後ともねばり強く行動していく ことを表明します。



エイサーの演舞

 集会はエイサー演舞で締め括られました。
 集まった会場カンパは247,021円に上りました。関西にある県人会・郷友会が辺野古移設に反対する集会を共同して開催したという意味は 歴史的にも大きなものがあります。ついに新しい1ページが切り拓かれたのです。


3.7月3日(土)〜6日(火)、大阪教区第9回研修旅行で宮古島・沖縄島を訪問する。


 13教会・伝道所から22名のメンバーで、7月3日(土)〜6日(火)、第9回大阪教区沖縄研修旅行で、宮古島・沖縄島を訪ねました。
 防衛省は、この宮古島と八重山に陸上自衛隊の国境警備部隊を数百人、与那国島に沿岸監視部隊を約100人、5〜8年後をめどに段階的に配備 する方向で現在検討しています。そこには当然、今回の研修で訪れた下地島空港の軍事利用も絡んできます。
さて、宮古島では「アリランの碑」も見学しました。『女たちへ』と題する碑には次のように記されていました。


アリランの碑

 アジア太平洋戦争期、日本軍はアジア太平洋全域に「慰安所」を作りました。沖縄には130ケ所、宮古島には少なくとも16ケ所あり、日本 や植民地・占領地から連行された少女・女性が性奴隷として生活することを強いられていました。
 2006年から2007年にかけて「慰安婦」を記憶していた島人と韓国・日本の研究者との出会いから碑を建立する運動が始まり、世界各地か らの賛同が寄せられました。
 日本軍によって被害を受けた女性の故郷の11の言語と、今も続く女性への戦時性暴力の象徴として、ベトナム戦争時に韓国軍による被害を受け たベトナム女性のためにベトナム語を加え、12の言語で追悼の碑文を刻みます。
 故郷を遠く離れて無念の死をとげた女性たちと連帯し、彼女たちの記憶を心に刻み、次の世代に託します。
 この想いが豊かな川となり、平和が春の陽のように暖かく満ちることを希求します。
 この碑をすべての女たちへ、そして平和を愛する人々に捧げます。
 2008年9月7日
宮古島に日本軍「慰安婦」の祈念碑を建てる会



人頭税石の前の筆者

 現在、ぼくは大阪教区沖縄交流・連帯委員会委員長なので、今回の研修旅行の団長の任に当たりました。
 以下は『研修旅行報告集』に掲載した「極私的感想記」です。


漲水御嶽前で。宮古島伝道所・星野牧師

 沖縄政治思想の研究のために、ぼくは2003年4月より琉球大学大学院に進みましたが、併せて西大和教会からうるま伝道所に転会しました。2 003年7月3日、そのうるま伝道所から2泊3日の宮古島研修旅行に行きました。その報告は、月刊で発信している『沖縄通信』第4号(200 3年8月号)に載せていますのでご一読いただきたいと思いますが、そこでぼくは次のように書いています。
 「宮古の人たちは、同じ県内なのに本島の那覇や浦添に行く時に、今でも『沖縄に行く』と言います。こゝにも見られるように、この宮古には独 自の文化と生活が昔から根付いているのです。ですから、大阪教区が取り組んでいる沖縄研修旅行も沖縄島だけではなく、宮古・八重山も訪問でき ればと思います。そうでないと<沖縄>は見えても<琉球>は見えないのでは…と痛感しました、今回の研修旅行で」と。
 2009年5月より大阪教区沖縄交流・連帯委員会の委員長に就任したぼくは、第9回沖縄研修旅行は宮古島に行こう、それも2003年に訪ね た時天候が素晴らしかった7月3日から実施しようと即座に提案しました。そして、委員全員一致の賛成で実現のはこびとなったのでした。実際、 7月3日大阪は豪雨に見舞われましたが、研修旅行中、宮古島・沖縄島は快晴が続きました。
 うるま伝道所から宮古島を訪れたことにも見られるように、沖縄島から宮古島を訪問する人はそんなに多くはないのです(逆に宮古島から沖縄島 に来る人は多い)。まして8回を数える大阪教区の研修旅行でもそれまでに訪れたことはなかったのです。
 研修旅行では初めての宮古島なので、今年5月に岩高牧師と一緒に宮古島へ下見に行きました。このように、ぼくにとっては思い入れの深い宮古 島への研修旅行でした。今回参加いただいた(ぼく以外の)21名の方たちも、沖縄島では味わうことのできない経験を宮古島でなさっただろうと 推測します。そうであれば企画した一人として肩の荷が下りるというものです。と同時に数々の粗相があったことをみなさまにお詫びいたします。
 以前2000年3月、信徒の三輪佳子さんが沖縄交流委員会(当時はこの名称だった)の委員長として研修旅行の責任を果たされましたが、今回 ぼくは団長の任に着き、その責任の重さを痛いほど感じたのでした(陰の声:一参加者なら、ずっと気が楽です)。でも、みなさまのお支えにより、 病気にかかる人もいず(参加者にお医者さんがおられたので気分的にも随分救われた)、また事故に遭う方も出ず、無事に研修旅行を終えることが できました。
 今回の貴重な経験と与えられた課題を自分たちの住むところで持続的に深めていくこと、それが沖縄(教区)との出会いと連なりになるのだと再 度、再度思います。

 

 

 

 

 

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