☆西浜さんのプロフィール☆
1944年生。1989年12月受洗。
2005年3月琉球大学大学院修士課程修了。
2009年3月大阪市立大学大学院博士課程単位取得退学。
現在、大阪市大人権問題研究センター会員ならびに共生社会研究会所属。
日本キリスト教団大阪教区沖縄交流・連帯委員会委員長


☆沖縄通信のご感想・ご意見はこちらまで☆

第85 号(2010年9月)

◆ 目次 ◆
1.興南高校、ぶっちぎりの優勝。春夏連覇の偉業。
 
2.“県外・国外移設”に示される沖縄の思想を検証する。
 


1.興南高校、ぶっちぎりの優勝。春夏連覇の偉業。

 8月21日(土)、興南高校が春夏連覇を果たした歴史的な日は土曜日だったので、ぼくは「辺野古に基地を 絶対つくらせない大阪行動」(2004年8月の開始から315回目)に向け自宅を出発するギリギリまで、テ レビの中継を見ていました(テレビは消音にしてラジオで実況を聞くというのが流儀です)。その時点で11対 0のスコアだったので“まずは大丈夫”と踏んでいました。電車に乗りあと1〜2分で鶴橋駅に着くという車中、 岩高 澄牧師から着信音が入り、駅に着いて折り返し電話を入れると「今、甲子園ですか?勝ちましたネ」とのこ と、ここで13対1で優勝したことを知りました。
 ぼくがこの『沖縄通信』で高校野球を話題にするのは、2006年の八重山商工以来のことです。40号(2 006年11月)で「このことは確実に言えることです。八重山商工高時代の到来は近い、と。2007年夏の 甲子園出場を期待しましょう」と書いた手前、八重山商工をずっと追ってきました。
 以降、八重山商工はどうだったでしょう。2008年夏の予選は3回戦で、興南(この興南です!)に1対8 で敗れました。2008年秋の大会は2回戦で、浦添商に1対2で敗れました。2009年夏の予選は準決勝戦 で、興南(この興南です!)に4対5で敗れました。2009年秋の大会は何と1回戦で、北中城に0対1で敗 れました。そして今年2010年夏の予選を迎えます。その前に2010年春の大会はどうだったのかといえば 、準決勝戦で、糸満に0対1で敗れました。この糸満がこの春の大会で優勝しました。さて、2010年夏の予 選ですが、春に敗れた糸満と3回戦で当たり2対10で7回コールド負けします。この糸満が決勝戦で興南(こ の興南です!)に1対9で敗れて、2年連続興南優勝というように、もう本当に沖縄のレベルは全国トップです 。沖縄の代表に選ばれるということはほとんど全国制覇するのと同意語だといっても過言ではありません。  大阪行動がビラ配布する場所は、地下の阪神電車乗降口からJR大阪駅へ向かうところですから、甲子園球場 から戻って来る人がたくさん通ります。ぼくは「お読みください!」と声をかけながらビラを配るのですが、春 夏連覇の偉業を思うと、ついつい感激して涙声になってしまいます。興南高校のメガホンを持っている人には「 やったネ!」とつい握手をします。1度が2度、2度が3度、3度が4度、4度が5度、5度が6度となる始末 です。沖縄から応援にやって来た人はぼくに「ウチナーンチュですか?」と聞いてきました。ヤマトゥで辺野古 のチラシを配っているのはウチナーンチュだと思ったのでしょうか。あるいは、ぼくは小柄で色が黒いから間違 われたのでしょうか。また、通行中のあるウチナーンチュは「これで基地も勝つ!」と言いました。感動が続い たこの日の行動でした。


『沖縄タイムス』特別版

 ぼくは『沖縄タイムス』を購読していますが、ヤマトゥゆえ1日遅れで着きます。その上日曜日は郵便局が配 達しないので、準決勝戦の結果を伝える8月21日付と決勝戦の結果を伝える8月22日付が、2便一緒に8月 23日に届きます。8月22日付を見て驚きました。『沖縄タイムス』1面の上にまた『沖縄タイムス』特別版 があるのです。これにはおったまげました。この特別版は1面と最終面をつないだもので、大規模な県民大会が 開かれた時にも使われる報道のやり方です。見開き紙面で母紙をくるむこの仕方をラッピング方式というのだそ うです。
 上の紙面が、ラッピング方式の『沖縄タイムス』特別版です。


これが通常の1面と最終面をつないだ紙面

 これが通常の1面と最終面をつないだものです。
 準決勝戦は報徳学園に0対5とリードされてからの逆転劇でしたから、見出しも「聖地熱狂 全琉沸騰」、「 興南劇場 一体で演出/大旗目前 期待は頂点」です。


聖地熱狂 全琉沸騰

 確かに甲子園球場を高校野球の聖地という言い方をしますが、この見出しを見た時、ぼくは斎場御嶽(せーふ ぁうたき)を持つ沖縄のことを言っているのだと想像しました。そして全琉なのです、全沖ではないのです。
 通常なら、伊波洋一・宜野湾市長の知事選出馬は1面トップ記事になるのですが、この日ばかりは興南がトッ プ記事です。


トップ記事ではない知事選出馬

 日一日とボルテージが上がっていきます。もう、『沖縄タイムス』もスポーツ紙並みです。


『沖縄タイムス』もスポーツ紙並み

 そして、「大願ついに 沖縄総立ち」、「この日 信じていた/歓喜 アルプス頂点」です。


大願ついに 沖縄総立ち

 8月23日付も1面トップ記事は「興南凱旋 県民が祝福」です。


興南凱旋 県民が祝福

 興南が優勝しようが、全琉が沸騰しようが、しかし沖縄は米軍基地の島なのです。「興南フィーバー沸点」の 見出しの横には「懲りない米兵/バーの客から6000円窃盗容疑」の記事が載っています。


懲りない米兵/バーの客から6000円窃盗容疑

 さらに『沖縄タイムス』には次のような詩歌が載りました。それぞれ2面ずつを使っています。
    海を渡る/深紅の優勝旗
遠い昔−。
戦(いくさ)が、海を渡って島に来た−。
その戦(いくさ)は、悲しみと苦しみを伴い
そして「鉄の暴風雨」と呼ばれた。
65年の月日が経った−。
深紅の大優勝旗が、青い海を渡って島に来る−。
その優勝旗は、喜びと歓喜を伴い
県民は「春夏連覇」と歓喜した。
高校野球の歴史の中で
春夏連覇は、6校しかなし得てない−。
県民は沸き立った−。
連覇を見ることが出来たことを−。
ウヤファーフジ(引用者注:ご先祖様)から脈々と受け継がれた
ウチナーのDNAはリレーされる。
春夏連覇の歴史的偉業は、
これから未来へと繋がっていく−。

 もう一つ。
    興南、春夏連覇/感動ありがとう
沖縄の地に、初優勝旗が渡る−。
青い海を越えて、渡るのは深紅の大優勝旗。
さらには「春夏連覇」という
夢に見た偉業をなしとげた。
高校球児が夢を見て
あと一歩で2度、涙をのんだ。
1958年から挑戦し続け
厚い壁にはばまれた−。
「一勝」なんて夢だと言った。
「優勝」を夢だと言った。
「連覇」を夢だと言った。
でも、沖縄の興南が夢を現実にした−。
やれば出来る−。
沖縄は素晴らしい音楽で日本と世界を沸かせた。
伝統芸能、踊りで世界を沸かせた−。
そして、野球で春夏連覇−。
この勝利は、県民に「勇気」「希望」を
与えてくれた。
この「感動」を糧として
県民ひとりひとりが、自分の夢をかなえる。
「勇気」と「希望」は未来へ繋がる−。

    次に、上原直彦作の琉歌
若者(わかむん)ぬ栄ゐ
国栄えぬ基(むとぅい)
誇(ふく)らしゃ明日(あちゃ)に
繋(ちな)じ行かな


宜野湾市民大会演壇の島袋洋奨君(右端)

 実は2004年8月13日、米軍ヘリが沖国大に墜落した後、9月12日に3万人が集まった宜野湾市主催の 市民大会で、当時志真志小学校の6年生で、春夏連覇・興南高校エースの島袋洋奨君が、小学生の代表として発 言していることが分かりました。ぼくは持っている書物を捜し、2004年12月2日に宜野湾市が主催した「 普天間基地問題シンポジウム」パンフに、彼が写っているのを見つけました。小さくて分かりづらいですが、そ れが上の写真です。
 当日、彼は学年全員で作ったという、次の詩を朗読しています。
 教室で響く歌声の上に重なる黒い影
 にぶい音を響かせて飛ぶ
 フェンスの向こうには
 どんな未来があるのか

 優しい心と明るい笑顔のあふれる
 世界をつくっていこう
 未来は私たちの手でつくるんだ
 未来は私たちの手でつくるんだ
というものです。
 2004年に小学6年生なら、2005年から2007年が中学生で、2008年から2010年が高校生で 何の変哲もありませんが、だがしかし、2004年から今日までの6年間、沖縄の基地はどれだけ減ったのでし ょうか。沖縄はどれだけ変化したのでしょうか。基地機能強化の一途ではありませんか。


2.“県外・国外移設”に示される沖縄の思想を検証 する。

 ぼくが属している大阪市立大学大学院共生社会研究会の2010年度夏季一泊セミナーが8月29日(日)〜 30日(月)に開かれました。今回のテーマは「『沖縄問題』とどう向き合うか−琉球弧と大和(日本)の近現 代史の位置と未来−」で、大阪大学の冨山一郎教授が「近現代における琉球弧−沖縄と奄美をつなぐ構想」と題 したメイン報告をおこないました。
 ぼくは「“県外・国外移設”に示される沖縄の思想を検証する」との報告をおこないましたが、以下はそのレ ポートです。


大阪市大大学院共生社会研究会夏季一泊セミナー

 普天間基地問題の直接の高揚は1995年から始まっており、すでに15年間続いている。
 2月24日に沖縄県議会で「米軍普天間飛行場の早期閉鎖・返還と県内移設に反対し、国外・県外移設を求め る意見書」が採択されたが、「意見書」は次のように述べている。
 米軍普天間飛行場は、沖縄本島中部の市街地に位置し、その周辺には住宅や学校等が密集しており、万一事故 等が発生した場合は、その被害は多くの周辺住民や各種施設に及ぶことが想定され、極めて危険性が高い場所と なっている。 
 特に、2004年(引用者注:原文は元号表記)8月13日に発生した沖縄国際大学構内への米軍海兵隊所属 CH53D大型輸送機ヘリコプターの墜落事故は、一歩間違えば大惨事を引き起こしかねないもので、「世界一 危険な飛行場」の存在をあらためて内外に証明した。
 このため、県民は同飛行場の返還を強く要求し、これを受け日米両政府は、1996年(引用者注:同前)の 日米特別行動委員会(SACO)合意および2006年(引用者注:同前)の在日米軍再編協議で同飛行場の全 面返還を合意したところであるが、13年経過した今なお実現を見ることはなく、その危険性は放置されたまま である。
 ところで、県民は、去る大戦の悲惨な教訓から基地のない平和で安全な沖縄を希求しており、SACO合意の 「普天間飛行場移設条件つき返還」は新たな基地の県内移設にほかならない。県民の意思はこれまで行われた住 民投票や県民大会、各種世論調査などで明確に示されており、移設先とされた名護市辺野古沿岸域は国の天然記 念物で、国際保護獣のジュゴンをはじめとする希少生物をはぐくむ貴重な海域であり、また新たなサンゴ群落が 見つかるなど世界にも類を見ない美しい海域であることが確認されている。
 また、宜野湾市民や県民は、最も危険な普天間飛行場を早期に全面返還し、政府の責任において跡地利用等課 題解決を求めている。
 さらに、地元名護市長は、辺野古の海上および陸上への基地建設に反対している。  よって、本県議会は、県民の生命・財産・生活環境を守る立場から、日米両政府が普天間飛行場を早期に閉鎖 ・返還するとともに、県内移設を断念され、国外・県外に移設されるよう強く要請する。
 この「意見書」は、@採決にあたって退場者がなく全員出席の下、全会一致で可決されたこと、A初めて「県 外移設」を求めたこと等において歴史的意義を持っている。
 なお、共産党は最後まで反対し、採決の時点で議場を退場する予定だった。理由は「県外・国外移設」では、 他の都道府県に基地の被害を広げてしまうからと。しかし退場では、県内移設反対にも反対していると取られか ねず、世論の支持を失うとの判断で最終的に賛成に回った。
 この「意見書」で言う「県外移設」とは何か。
 「県外」とは沖縄以外の都道府県、すなわちヤマトゥのことであり、「県外移設を求める」とは、“基地はヤ マトゥで引き取れ!”という意味である。
 次表の普天間基地に関連する今までの県議会の意見書・決議を見ると明らかなように、「県内移設に反対する 」(1996年7月)や「新基地建設に反対する」(2008年7月)という決議ならヤマトンチュにとっては 痛いも痒くもない。だから、“賛同します”とか“連帯します”とか“(沖縄は)大変ですネェ〜”とか言って おけば、それで済む話だった。

普天間基地に関連する今までの県議会の意見書・決議

可 決 日

件    名

可 決 状 況

1996年
  3月27日

3事業の早期解決と普天間基地の全面返還に関する要請決議

 
全会一致

1996年
  7月16日

普天間飛行場の全面返還を促進し、基地機能強化につながる県内移 設に反対する意見書・決議

 
全会一致

1999年
 10月15日

普天間飛行場の早期県内移設に関する要請決議

賛成多数(社民、社大、共産、結の会ら反対)

2008年
  7月18日

名護市辺野古沿岸域への新基地建設に反対する意見書・決議

賛成多数(自民、公明反対)

2010年
  2月24日

米軍普天間飛行場の早期閉鎖・返還と県内移設に反対し、国外・県 外移設を求める意見書

 
全会一致

 ところが、今回 “ヤマトゥで引き取れ!”と突き付けられて、賛成、反対含めて、ヤマトンチュが初めて考 えるようになった、考えざるを得なくなったのである。
 新崎盛暉は「基地建設反対の側は、“沖縄にいらないものはどこにもいらない”という建前論が、64年間結 果として沖縄への構造的差別を覆すことができなかった、そのことも問われている」(2010年1月16日 「戦後日米関係の転機としての普天間問題」の講演)と投げかけている。
 ところで、1998年5月、「心に届け女たちの声ネットワーク」が「基地のタライ回しはやめてよ!」とタ ライを持って銀座を道ジュネーしたのが、「県外移設」が登場した最初である。当然これは1995年9月に起 こった少女レイプ事件に対する行動の一つとしておこなわれたものである。彼女たちは「わったー ウチナーン チョー うんじゅが ちゃっさ うしちきてぃちん 基地ぇーならん  安保が必要やれ ヤマトゥんかい 基 地むっちめんそーり」(私たち 沖縄人は     あなたが いくら 押し付けてきても 基地は受け入れま せん。安保が必要なら 基地はヤマトゥへ持っていって下さい)と叫んだのである。しかし、この頃はまだ、基 地はヤマトゥへ すなわち「県外移設」は多数意見ではなかった。
 次に、普天間基地周辺に住む女性たちを中心としたグループである「カマドゥー小たちの集い」の「県外移設 」論を見てみよう。「カマドゥー小」とは、むかし、沖縄では多くの女性たちにつけられた名前で、カマドゥー とは「愛しい」「かわいい」という意味である。「カマドゥー小たちの集い」の『声・こえ・KoE』1号は1 997年11月18日に発行されている。
 2010年4月25日、9万3,700人が参加した県民大会の日に『声・こえ・KoE』15号が発行され 、そこには「とぉ、なまやさ!基地は日本本土へ返しましょう」と題した、次のような主張が載っている。
○今回、「国外」をスローガンに入れることは、日本に遠慮する優しい沖縄人の片鱗を見る思いです。その優し さが沖縄に不平等の基地を押し続ける日本政府や日本人を再生することになります。そうさせないために、やっ ぱり「普天間基地は県外へ」です。
 日本本土でも可能なことを回避して、沖縄に押し続ける政策はアンフェアーです。米軍が要求するからでしょ うか?否!日本政府の、それを支えている日本人の沖縄への差別のまなざしです。日本人はそれを克服するチャ ンスです。
 普天間基地を引き受け(なさい)、戦後責任を担ってもらいます。(後略)   (志真志 又吉京子)
○最後の県民大会にしましょう。徳之島?ダメ。グアム?ダメ。テニアン?ダメ。基地を今すぐなくせないとい うのなら、必要と思っている人が圧倒的多数のヤマトゥへ返しましょう。日米両政府は沖縄にやったように、振 興策付きで、「本土」へ基地を押し付ければいい。名護では、宜野湾の人のためには移設は仕方ない、と悩み苦 しんだ人がたくさんいました。それなのにどうして、「本土」の人は基地を引き取ろうとしないのでしょう。沖 縄の人の優しさに「本土」の人が自覚もなく、甘えているのが許せないのです。   (真栄原 国政美恵)
○「県外へ」と沖縄民衆が声をあげることは戦後65年も延々と安保の踏み台にされ、基地を押しつけられてい る歴史を考えれば沖縄の地域エゴでも臆することでもないと思う。
 沖縄戦で捨石にされ、米軍占領下の27年。本土復帰から38年、日本政治の沖縄差別に抗し怒りの拳を上げ てきたが屈辱感と徒労感だけが残ってきた。
 「沖縄は基地問題でいつも大変ですね」というヤマトの友人の認識を変えるためにも「県外移設」を主張しま す。「県外移設」こそが、1年でも1日でも早く普天間の危険性を取り除く最善の近道だと思う。
 今こそ普天間基地の撤去のボールを東京中にかっ飛ばそう。沖縄の若者たちが夢を壊さないためにも。               (真栄原 森山敏子)
 更に、豪雨の中、1万7千人が普天間基地を包囲した5月16日に16号が発行された。「基地は県外へ=押 しつけられた基地を日本本土へ返そう」と題して、次のように主張している。
 T.「自分が嫌なものを人に押しつけることはできない」に対して
 その通りです。でもそれをしているのが日本本土に人たちです。まず、第一に人口が日本全体の1%にすぎな い沖縄が、99%の日本本土に押しつけることができるでしょうか?できません。逆は可能です。99%が自 分の嫌なものを1%に押しつけている。それが過去から現在までの日本と沖縄の形です。私たちはそのこと に気づき、「基地は県外へ」と主張しているのです。そうしなければ、沖縄の次の世代に、沖縄人が基 地を押しつけることになります。
 U.「移設ではなく撤去を」に対して
 「基地は県外へ」は、「基地撤去」をめざして闘ってきた歴史の上に、悩みながらもやっとつかんだ 言葉です。そのことを、ぜひ知ってほしいのです。沖縄人は「イクサやならんどー」という言葉を大切にして、 米軍統治下の27年間、復帰後の38年間も「基地撤去」を言い続けてきました。憲法に望みを託した日本復帰 では、基地が撤去されるどころか本土からも移設され自衛隊までやってきました。憲法を求めたのに安保を 押しつけられたのです。それでも現在まで決議、集会、デモ、討論会、座り込み、ビラ、要請等ありとあら ゆる行動を、老若男女、赤ちゃんからお年寄りまで参加しておこなってきました。このことは何度言っても言い 過ぎではありません。しかし残念ながら、「基地撤去」では基地は動きませんでした。
 「基地は県外へ」が具体的になって初めて、日本本土の人たちは、沖縄の声を黙殺することができな くなったのです。それでも未だに「米国vs鳩山総理vs沖縄県民」という勝手な構図を作り、自分たちは陰に 隠れて無関係を装っています。隠れることによって、「基地はそのまま沖縄に置いていた方がいい、少しは徳之 島に負担させて」と発信しているのです。それなのに、日本本土の人に「基地は県外へ」と要求するのを遠慮し ないといけないのでしょうか。基地を動かすためには、99%が1%に押しつけているその事実を踏まえ、基地 は県外へ=押しつけてきた基地を引き取りなさい、なのです。
 V.「安保や抑止力、海兵隊議論を」に対して
 もちろん議論は必要です。しかし、安保に賛成でも反対でも、どちらでもない、わからない、であっても安保 条約の体制下にあるのだから負担を等分にするのは当たり前のことです。まずは基地を一日でも早く日本本土に 引き取ってもらうのが先です。それから議論を始めてもらいましょう。それが道理というものです。
 ◎日本本土のみなさんへ
 「基地を県外へ」というのは、エゴですか?「基地を県外へ」というのは、わがままですか?日本本土のあな たのエゴやわがままで、65年間も基地を押しつけられているのです。あなたの地元で、沖縄に押しつけてきた 基地を引き取る運動をしてください。まずは基地を引き取ることです。グアムやテニアンへの移設も論外です。 安保は日本とアメリカとの条約です。「国外」ではなく、あなたの責任を担いなさい。


沖縄研修旅行で訪れた7月5日の辺野古で、メンバーと

 以上見てきたように、今、「県外移設」と沖縄差別認識が急速に広がり深まっている。
 4月25日の県民大会を前にした4月20日、大江健三郎は『朝日新聞』に「大集会で明示される民主主義の 抵抗力を全日本的に伝播させうるか、戦後最大の正念場です」(『定義集』)と書いた。この「戦後最大の正念 場」は現在も継続進行中である。
 5月28日に那覇市で開かれた日米共同声明に反対する県民集会宣言では「日米両政府による沖縄支配」とい い、同日の「辺野古合意」を認めない緊急名護市民集会のアピールは「『辺野古合意』は『沖縄差別』そのもの である」、「沖縄の米軍基地が、…平和の維持のために不可欠であるというのであれば、基地の負担は日本国民 が等しく引き受けるべきものである」と謳っている。
                    このように「県外移設」と沖縄差別が同時に意識されるところに今回の大きな特徴(=意義)がある。199 6年、大田昌秀知事(当時)も「構造的沖縄差別」と表現していたが今日のような拡がりはなかった。その後の 辺野古現地での取り組みと、鳩山の辺野古回帰によって一挙にそれは広がり深まった。「最低でも県外」発言に よってではない、回帰によってである。
 野村浩也・広島修道大学教授は、5月15日に開かれた「琉球弧の自己決定権 脱植民地をめぐって」(於: 那覇)で「去年から普通に『県外移設』が言われ、反応が変わった。『県外移設』は自己決定権とかかわる言葉 であり、沖縄人がその権利を行使し始めたことを示すもの」、「差別ということを沖縄人がきちんと認識するよ うになったことが、今年からの大きな変化」と述べ、むぬかちゃー=ライターの知念ウシは「『県外移設』とい うことをヤマトンチューにきちんと言い、あなたたちの基地を自分たちのところに持って帰りなさいという権利 を行使する」と応えている。野村は「『抑止力』という言葉が大好きな日本人は、基地負担を沖縄人に押しつけ 『死んでくれ』と言っているようなもの。普天間問題が大きな焦点になっているにもかかわらず『基地受け入れ 運動』をしない日本人。この状態が異常であり差別だと思う」(5月30日付『沖縄タイムス』)と結んでいる。  後藤啓文・朝日新聞那覇総局長も「この13年、沖縄をみてきたなかで、今ほど『差別』という言葉を突きつ けられることはない」(5月29日付『朝日新聞』)と書いている。
 例えば上原美智子(60歳)は、7月21日付『沖縄タイムス』投書欄「わたしの主張 あなたの意見」にこ のように書くのだ。
 「1968〜69年ごろは既に、基地の固定化どころか機能強化された復帰になることは、明らかになってい ました。(中略)
 そんな時『復帰しても地獄、復帰しなくても地獄』という言葉に、基地を沖縄の宿命のように感じて、わたし は立ち往生してしまったのです。でも、『基地は県外へ』という言葉と出合い、沖縄と日本の関係を問い直す中 から気付きました。押しつけられた基地を返すことによって、つまり全国民で負担することによって解決するの です。
 復帰についても、憲法を求めたのに安保を押しつけられたんだ、と総括できました。こんな当たり前のことに たどり着くのに長い時間がかかりましたが、現在のわたしに、復帰の時のようなひりひりとした焦燥感はありま せん」。
 それゆえに、我々は沖縄と日本の関係性のとらえなおしをなさねばならない。知念ウシが8月24日付『朝日 新聞』に「日本こそ沖縄から自立して」と題して、「大事なことは、沖縄人の尊厳が認められること。日本と平 等な関係になること … 互いに尊重する関係になりたいのです」と主張していることに対して、ヤマトンチュ は応答せねばならないのだ。


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