☆西浜さんのプロフィール☆
1944年生。1989年12月受洗。
2005年3月琉球大学大学院修士課程修了。
2009年3月大阪市立大学大学院博士課程単位取得退学。
現在、大阪市大人権問題研究センター会員ならびに共生社会研究会所属。
日本キリスト教団大阪教区沖縄交流・連帯委員会委員長


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第92 号(2011年7月)

◆ 目次 ◆

1.6月19日(日)、講演会「ヤマトゥはこうして基地を沖縄に押し付けた」を開く。 東京より、講師に明田川 融さんを招いて。24教会・伝道所から53名が参集。

2.6月17日(金)、大江・岩波沖縄戦裁判勝利報告集会が開かれる。 祝賀会でも、ともに勝利を祝う。


1.6月19日(日)、講演会「ヤマトゥはこうして基地を沖縄に押し付けた」を開く。
東京より、講師に明田川 融さんを招いて。24教会・伝道所から53名が参集。

 ぼくが委員長を務める大阪教区沖縄交流・連帯委員会は、昨年より6月23日の直近の日曜日に「『慰霊の日』に思いを馳せ、沖縄と つらなる集い」を持つことを決め、今年は第2回目として、6月19日(日)に東梅田教会で講演会「ヤマトゥはこうして基地を沖縄に 押し付けた」を開催しました。これにはカトリックの教会も含めて24教会・伝道所から53名の参加がありました。集まった教会・伝 道所の数も参加人数も今までにない規模となりました。
 講師には東京より明田川 融さんをお招きしました。明田川さんは、現在法政大学等で非常勤講師の任にあり、数多くの著書の中で、 『沖縄基地問題の歴史』(みすず書房)が沖縄協会の2008年度沖縄研究奨励賞を受賞しました。


主催者挨拶をする筆者

 当日のレジメは、
はじめに
T 沖縄基地問題にかかわる国家的体質の原型
 1.「皇土」防衛の「前縁」
 2.アイスバーグ作戦
 3.沖縄を「捨てる」
U 占領下の沖縄要塞化構想
 1.最重要基地化
 2.「平和」憲法を担保する沖縄
 3.芦田メモと天皇メッセージ
V 日米安保体制の成立と沖縄
 1.沖縄にたいする排他的戦略的支配
 2.吉田外務省の沖縄構想
 3.潜在主権方式
W 海兵隊と核のシマの形成
 1.海兵隊移駐と日本本土の反基地運動
 2.台湾危機、核配備、反核運動
 3.不作為の作為
X 60年安保改定と沖縄
 1.防衛区域からの除外
 2.事前協議制の導入と沖縄
 3.安保改定が沖縄にもたらしたもの
Y 「返還」交渉と基地の存置
 1.「抑止力」の維持を求める日本政府
 2.核をめぐる公約、違約、密約
 3.基地の使用条件に変更なし
おわりに
 というものです。
 この日は時間の制約上、W、X、Yを中心に話されました。以下はその概略です。


毎年、「『慰霊の日』に思いを馳せ、沖縄とつらなる集い」を開催する経緯を説明

 前提として決定的に重要なことは、@1952年4月28日に発効した対日講和条約(第3条)とA旧日米安保条約の締結、この二つ である。
 沖縄の処遇が規定されている講和条約第3条は次の通り。
「(第一文章)日本国は、北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩(そうふがん)の南の南方諸島(小笠原 群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合州国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国 際連合に対する合州国のいかなる提案にも同意する。
(第二文章)このような提案が行われ且つ可決されるまで、合州国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法、 及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。」
 (第一文章)は、この地域を「合州国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合州国のいかなる 提案」にも、潜在的な主権者である「日本国」は「同意する」ことを定める。しかも(第二文章)では−実はこちらの方が重要なのだが −、「このような提案が行われ且つ可決されるまで」の間も「合州国は、…これらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法、及び司 法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有する」と規定されている。要するに、第3条は、信託統治に関する国連の可決があろうと なかろうと、アメリカが沖縄に対して排他的に施政権を行使し続けることを可能にするという巧妙なものである。
 次に、旧日米安保条約を見る。アメリカは日本に米軍基地を配備する権利を獲得していたが、日本防衛義務は負わなかった。日本には 基地提供義務はある。だから片務的なものだ。この片務的なものを是正するというのが60年安保改定の一番大きな目的だった。
(以上 プロローグ)


会場風景。ビデオも上映した。

 以上のことを前提として話を進めていく。1953年6月、ソ連などが反対するだろうと考えて、アイゼンハワー大統領は信託統治提 案を国連におこなう(すなわち、第一文章)ことを止め、行政、立法、及び司法上の権力を行使する権利を有する(すなわち、第二文章 )途を選択した。だから1945年から1972年5月まで沖縄が置かれていた国際法上の立場は、27年間のアメリカによる軍事占領 である。信託統治だとする見解もあるが、そうならなかったのだから、それは適当ではない。
 もう一つ。アイゼンハワー大統領は任期初期のうちに、国防支出削減の必要性から北東アジアにおける兵力配置の変更をおこなうこと にした。中心は陸上兵力の削減で、当時、陸軍は20個師団あり韓国に7個師団、日本に1個師団あった。海兵隊は3個師団を持ってお り、韓国に1個師団、日本・本土に1個師団を配備していた。この兵力配置の変更は1954年7月26日、ウイルソン国防長官の決定 によって、韓国の海兵隊1個師団はそのままで、日本・本土の1個師団(第3海兵師団)を沖縄に移駐させることになった。7月28日 に正式決定されたので、今日の沖縄の海兵隊を考える時、この日が起点となる。
 この時期、日本・本土では1952〜3年、石川県内灘闘争、1953年、長野県浅間山演習場反対闘争、1954年、北富士演習反 対闘争、1955年、群馬県妙義山接収反対闘争、1954〜6年、砂川闘争というように、相次いで反基地闘争が戦われていた。
 1955年8月、重光外相は訪米し、片務的な安保条約を相互防衛型に変えたいと提起する。そうした経緯もあって、1957年6月 のアイゼンハワーと岸の共同声明で、陸上兵力の撤退も含め日本本土からアメリカ軍を大幅に削減させることとなった。1950年代、 アメリカの兵力配置は最終的に、韓国には陸軍が2個師団で海兵隊はいなくなる。日本・本土には陸軍はいなくなり補給部隊だけとなっ た。沖縄には第3海兵師団と陸軍1個連隊となった。韓国の陸軍2個師団は韓国防衛と朝鮮半島の有事に備えた軍隊で、そこに貼り付い ていて動けないので、沖縄の第3海兵師団だけがアジアを自由に動ける機動打撃部隊となった。このようにして、1950年代半ばから 終わりにかけて、沖縄は“海兵隊のシマ”として形成されたのである。
(以上 Wの1.海兵隊移駐と日本本土の反基地運動)  “海兵隊のシマ”とともに、もう一つ重要なことは沖縄は“核のシマ”だということ。こちらも同じ時期に形成された。1954年8 月に第1次台湾海峡危機が起こり、アメリカは最悪の場合には中国に核兵器を使用する考えだったので、その基地として1954年12 月に沖縄に核が配備された。
 思い起こしてほしいのは、1954年という年は、その3月にビキニ事件が起こり、それをきっかけに原水爆反対の数千万の署名が本 土で集められたことだ。ついでながら、この時に対抗措置(カウンター・アクション)として<原子力の平和利用>が盛んに言われたこ とを忘れてはならない。
(以上 Wの2.台湾危機、核配備、反核運動)
 このような情況をアメリカはどのように認識したか?1958年に統合参謀本部は「予見できる将来、米国が日本(本土)に核兵器を 導入できるようになることはあり得そうにないので、中距離弾道ミサイル基地としての沖縄の重要性は増大している」との見解を示した 。要するに本土では無理なものを沖縄に押し付けるということだ。
 今の形の沖縄の基地(問題)は、原則として日米合作で形成されてきたが、ある時期から日本の側が形成する比重が、不作為を含め大 きくなっていった。
(以上 Wの3.不作為の作為)


講師の明田川 融さん

 60年安保改定の核心には沖縄があった。なぜそう言えるか?旧安保条約に対する日本側の批判・不満は、アメリカは日本防衛義務を 負っていないのに、日本で基地を使用する権利を有している片務的なものだという点だった。
 安保改定に当たって岸首相は、防衛区域に沖縄と小笠原を含めることを希望した。「潜在主権のある地域は、その国の防衛権の範囲内 に属しておる」との見解からである。それに対し統合参謀本部は「講和条約第3条の島々は、合州国が行政、立法、および司法権を保持 する限り、日本の責任区域に含めるべきではない」と主張し、1958年末までには、日米両政府間で防衛区域は「日本の施政権下にあ る領土および区域」との合意が形成され、沖縄は防衛区域から除外されることになった。アメリカの極東戦略、ひいては世界戦略遂行の ための在日米軍基地使用という、旧安保条約の根幹は安保改定においても再確認されたわけである。
 (以上 Xの1.防衛区域からの除外)
 しかし、安保改定によって本土基地の使用が単純に再確保されたのではなかった。事前協議制が導入されたのである。その後どれだけ この制度に実効性があったかどうかは別として…。これにより本土基地の使用には核兵器の扱い、本土基地からの出撃行動などについて、 それまで存在しなかった制約が課せられる可能性が出てきた。防衛区域から沖縄が除外されたこととも相まって、事前協議制の導入はア メリカにとってますます“基地沖縄”が頼みの綱となっていくことを意味した。
 (以上 Xの2.事前協議制の導入と沖縄)
 双務性をどう出すかという問題と事前協議制の重なるところが、まさに沖縄だった。
 安保改定交渉の過程で沖縄の地位に関する討議はおこなわれなかった、とわざわざ協定で確認することにした。それほどアメリカは、 安保改定交渉の過程で沖縄返還要求が高まることを心配していたというわけである。「沖縄で問題が起こらない限り、日本は沖縄返還を 求めない」という合意(=密約)が岸首相とマッカーサー大使との間で交わされていた。このように、安保改定交渉の過程で沖縄は取り 上げられなかったのである。
 (以上 Xの3.安保改定が沖縄にもたらしたもの)
 今年2011年の2月に公表された日本の外交文書によって、多くのことが分かってきた。1967年は、沖縄を帰すという意思をア メリカが示した年として重要である。まず1967年4月、ライシャワーは沖縄にある軍事施設をすべてグアムに移転することは理論的 には可能であると発言した。ジョンソン大使は核兵器を撤去せよと言われれば撤去する。それによって抑止力は減殺されるだろうと発言 している。このようにアメリカが抑止力を引き揚げるかも知れないゾ、知れないゾと言っているのに対して、日本側はどのような考えを 持っていたか?域外出撃行動の自由を認めたり、核の持ち込みを認めてまでも、沖縄に米軍基地を引き止めようとしていたのである。
 公開された外交文書に対して、宮里政玄・対外問題研究会代表は「日本政府がいかに米軍基地を沖縄に置いておきたいと思っていたか ということだ」とコメントし、佐藤 学・沖縄国際大教授は「ライシャワー氏の発言で明らかになったことは、沖縄に米軍基地を置くこと を要求したのは米国ではなく日本側であったということだ。米国は在沖米軍基地すべての返還すら提案していた。沖縄の米軍基地を地政 学的や抑止力で必要だとする論理と完全に矛盾している」と指摘している。
(以上 Yの1.「抑止力」の維持を求める日本政府)


24教会・伝道所より53名が参集

 1967年11月の佐藤・ジョンソン共同声明で、「両国政府に満足いく返還の時期を両三年内に合意する」と決まった。これに基づ いて持たれたのが1969年11月の佐藤・ニクソン会談となる。この会談で、次の4つをアメリカは決めようと臨んだ。
 (一)1972年の返還に合意する。(二)通常兵器による軍事基地の使用が、特に朝鮮、台湾、ベトナムに関連して最大限自由であ る。「最大限自由である」とは事前協議を必要としないということである。(三)沖縄に核兵器を保有する。それが無理な場合でも大き な有事に際しては、貯蔵および通過の権利は最低限保持する。(四)日本も沖縄に対して防衛義務を負う等のコミットメントを追求する。
 (二)の事前協議が必要ないという点について日本政府はどう応じたか?内容についての異論はなかった。ただし、事前協議という建 前を維持するために次のような姑息な手を使った。「朝鮮半島の安全が日本の安全にとって『緊要』であること、同様に台湾の安全が日 本の安全にとって『極めて重要』であること、さらにベトナム・東南アジアの安全に日本は関心を持っている」と共同声明で謳うから、 それらを防衛するアメリカの軍事行動にNOと言えるかということになる。で、そのコミットメントは、佐藤首相による「太平洋新時代 の幕開け」と題する講演−事前協議でもなく、共同声明でもなく−で(アメリカに対して)表明された。こういう建前でアメリカの域外 出撃行動を認めたのである。
 次に、核に対してはどうだったか?共同声明で「総理大臣は核兵器に対する日本国民の特殊な感情と日本政府の政策(=非核三原則の こと)について説明した。これに対し、大統領は深い理解を示したが(実は示すだけで)、事前協議制度に関する米国政府の立場を害す ることなく、沖縄の返還を実施する」となった。これは核抜き本土並みとの日本政府の公約に違反している。違約である。その上、若泉 敬が、交渉の最終段階で核兵器に関する秘密合意議事録が作成されたと書き遺している密約も存在する。
(以上 Yの2.核をめぐる公約、違約、密約)
 かくして、1972年5月15日、沖縄の施政権は日本に返還された。返還後残った87の米軍基地の個々の使用条件を定めた「5・ 15メモ」がある。「5・15メモ」では飛行ルート、飛行時間、飛行高度などについての取り決めがない、白紙委任の状態で、大半の 基地の使用期間は「無期限」としている。すなわち、米軍はいつそれらから撤退してもよく、また、それらをいつまで使用していてもよ いという合意である。
(以上 Yの3.基地の使用条件に変更なし)
 未だになおリアルな問題として存続している沖縄の基地問題は、返還後の日本政府の対応にも問題があるが、返還時の返還の仕方にも 相当問題があって、今日に引き継がれているのだと言える。
 概ね、明田川さんはこのように語られました。実証的・学術的な講演で、参加者は、沖縄の基地問題について詳しく学ぶ機会を得ると ころとなりました。


2.6月17日(金)、大江・岩波沖縄戦裁判勝利報告集会が開かれる。 祝賀会でも、ともに勝利を祝う。

 2005年8月5日に裁判を提訴され、2008年3月28日の第一審(大阪地裁)判決、同年10月31日の第二審(大阪高裁)判 決を経て、今年4月21日、最高裁決定により5年8ヶ月におよんだ大江・岩波沖縄戦裁判は、大江・岩波側の完全勝利が確定しました。
 大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会は、6月17日(金)にエルおおさかにおいて「裁判勝利報告集会」を開催。70名を越える参加者 はともに勝利の意義を確認し合いました。集会には東京より3名の弁護団全員と岩波書店の岡本 厚さんが駆けつけられました。


主催者挨拶をする岩高牧師

 集会は、代表世話人の岩高 澄牧師より主催者挨拶を受けたのち、岡本 厚さんが登壇し、次のように話されました。


岩波書店の岡本 厚さん

 大阪というアウェーの地で闘う裁判で最初は不安だったが、大阪でいち早く支援連絡会を結成していただき心強かった。
 出版社にとって重要だったのは、表現の自由についての<高度な公共性と公益性を図る目的で出版された書籍に記された事実が、新し い資料で事実の真実性が揺らいでも、直ちに出版の継続が違法になると解することは相当ではない>との高裁判決だった。これが最高裁 でも踏襲され確定した。
 この裁判は名誉棄損の訴えで、形式的には私人間の裁判だった。ところが原告側が狙ったのは集団自決での軍命を否定することによっ て、旧軍の名誉を回復して、軍命がたとえなくても住民は愛国の情によって自ら命を断ったのだと、いわゆる殉国美談の復活であった。 これはアジア・太平洋戦争を経て、二度と戦争をしないとの反省と決意を込めて作られた戦後の歴史観、軍隊観を自虐だとしてひっくり 返そうとした人たちの作戦であった。裁判が始まるかなり前から彼らのホームページが立ちあがって、私たちの元に届く前から訴状がそ こにアップされたということからもそれは明らかだ。入念な準備をし闘いを仕掛けてきたのだと言える。
 こうした人たちのやり方はいつも共通している。小さな出来事だとか事実を否定することによって、全体を否定するというやり方だ。 今回の裁判も、ある一つの島、ある一人の隊長が「自決せよ!」と命じたか命じないか、いわば沖縄戦全体の中では部分的な出来事を否 定することによって、住民は軍の足手まといにならないように自ら美しい心で死んでいったのだと主張したかったのだ。
 結局、歴史をどちらの方から見るのかということになると思う。国家の方から見るのか、命じた方から見るのか、逆に民衆の側から見 るのか、命じられた方から見るのか。それによって歴史の見方、社会の見方は180度違って来ると思う。あえて言えば、これは過去の ことではないのだ、現在のことであり将来のことである。それを見据えた上で彼らは裁判を仕掛けてきたのだ。戦後を否定し、非戦の憲 法を否定し、軍という存在を国民の中に回復させようという考えだった。


70名を越える参加があった。(永石幸司氏撮影)

 原告側はこの考えを国民全体に押し付けようとした。それが2007年3月の高校教科書検定だった。安倍政権の時だったが、裁判が 提訴されたということだけを理由にして教科書が書き換えられた。教科書会社の人が「文科省の役人からは、主語が軍であってはならな いという固い意思を感じた」と、後ほど証言している。この段階で、この裁判は私人間の争いではなくなった。公的なものを公的な場で 争うこととなったと考えている。ここで沖縄では直ちに抗議集会が持たれ、県議会では2回、41あるすべての市町村議会で意見書が採 択された。9月には11万人という復帰後最大の県民大会が開かれた。沖縄の巨大な怒りは政権を揺るがしたと思う。原告たちをもたじ ろがせたと思う。保守・革新という枠を問わず、沖縄の人たちが心から大切にしているもの、共通の記憶、これに乱暴に手を突っ込んで きた。侮辱したということだ。県民大会で沖縄の高校生が“おじぃ、おばぁがウソを言っているというのか”と叫んだ。原告らは、“命 こそ宝”“軍隊は住民を守らない”という戦争観、歴史観をひっくり返そうとした。まさに虎の尾を踏んでしまった。原告らは「沖縄の 人はウソを言っている」と主張する。軍命があったと言ったのは作り話だ。援護法によっておカネがほしいから“軍命があった”とウソ を言った、と。
 原告らは高裁判決で「虚言」とまで断定された証人を担ぎ出して、自分たちの主張を通そうとした。宮平秀幸氏である。ところが判決 は、彼らこそまことに歴史研究の名に値しない、虚構の歴史観であることを明らかにした。冤罪など裁判にも多くの問題があるが、結着 が着くということ、白黒が付けられるという点で裁判というのはいいなぁとも思った。虚言だと地裁、高裁判決ははっきりと言った。私 は地裁、高裁の裁判長の怒りすら感じた。
 沖縄の人たちが本当に怒って立ち上がった。体験者たちの新しい証言も出てきた。判決では、その証言は迫真性がある、真実性がある と認められた。勝利判決の大きな力になった。つまり真実を語った沖縄の人たちが勝ったということだ。
 裁判には勝ったけれども、なお課題はたくさん残されている。教科書検定の問題がある。今、民主党政権は文部行政に対して何一つ積 極的なことはできないだろうと思う。文部官僚はこのまま頬かぶりして過ごしてしまいたいと思っているのかも知れない。
 この裁判の中で思ったことは、大江健三郎さんという作家が40年前の言葉の一つ一つについてこういう意味で使ったと、あるいはこ ういう意味で自分はこの言葉を作ったと、証言の中でも陳述書でも述べられた。誠実な言葉を紡ぎ出していった人だなぁと改めて敬意を 深めた。このような日本人でないところの日本人になることはできないだろうか、と40年前に大江健三郎さんは問いかけた。そして今 もその問は残念ながら有効である。普天間の問題をみても構造は変わっていない。一方、彼ら原告の人たちが言ってきた言葉は、1年も しない内に忘れられてしまうのではないだろうか。岩波書店は、このような言葉を大切にして今後も出版活動を続けていきたい。
 このように岡本さんは語られました。


近藤卓史弁護士

 つづいて、近藤卓史弁護士がレジメ
1.訴えの内容
2.主な争点
3.裁判所の判断
4.訴訟の意義
に沿って、裁判の報告を行いました。近藤弁護士は「大阪地裁判決に『自決命令の伝達経路が判然としないため、自決命令それ自体まで 認定することには躊躇する』との文章がある。判決文に“躊躇する”という言葉が使われるのは珍しいと思う。地裁は限りなく『黒に近 い灰色』と評価してくれたのだと言える。2審大阪高裁判決では、『座間味島及び渡嘉敷島の集団自決については、“軍官民共生共死の 一体化”の大方針の下で日本軍がこれに深く関わっていたことは否定できず、これを総体としての日本軍の強制ないし命令と評価する見 解もあり得る』と踏み込んだ判断を示した。更に『“決して自決するでない”と命じたとの梅澤の主張は到底採用できない。宮平秀幸の 供述は明らかに虚言である。これを無批判に採用し評価する意見書等も含めて到底採用できない』とした。裁判所が“虚言である”と、 こういう言い方をするのは珍しい」と述べ、最後に「私は弁護士になって29年目だが、今まで携わってきた事件の中で一番大きなもの だったと思う。絶対負けてはいけない事件だと考えた。そのことと負けない、ということとは多少異なるわけで、勝利することができて 弁護士としても大変だったけれど、感謝したい」とまとめられた。


秋山 淳弁護士

 二番手として秋山 淳弁護士が登壇し、「私は2005年10月に弁護士になって6年目。この裁判が提訴され第1回目の期日が入る までの間に弁護士になった。この事件が初めて手掛けたもの。今後も弁護士を続けていくことになると思うが、最後まで記憶に残る大き な裁判だったと思う」と語りました。


秋山幹男弁護士

 弁護団の最後に秋山幹男弁護士は、裁判調査のため慶良間列島に行った時、貴重な証言を島民からもらったことをエピソードも交えて 報告しました。
 また、「大江・岩波沖縄戦裁判を支援し沖縄の真実を広める首都圏の会」より寺川事務局長も駆けつけてくださいました。


祝賀会で司会を担当する筆者

 こうして勝利報告集会は終了し、会場を変えて勝利祝賀会に移りました。これには40名の方々が参加しました。ぼくは司会を担当し ました。支援連絡会結成当時から世話人であった服部良一・衆議院議員も駆けつけてくれました。


牛島貞満さん

 祝賀会では新しい出会いがありました。実は、支援連絡会は今年6月10日(金)に第6回総会を開催することを決め、牛島 満中将 のお孫さんで、東京で小学校教諭として平和教育を進めておられる牛島貞満さんを記念講演の講師にお招きする予定にしていました。牛 島さんは、6月10日(金)は都合が悪いということで、6月17日(金)に開催する準備をしていました。ところが、4月21日(木 )最高裁決定となりました。そこで、牛島さんには申し訳ないが講師をお断りし、勝利報告集会に変更することになったのです。その牛 島さんが勝利報告集会と祝賀会に出席してくださいました。身銭を切っての東京からの参加でした。うれしい限りでした。


全員で勝利記念の集合写真(永石幸司氏撮影)

 祝賀会では参加者全員がそれぞれ思いを一言ずつ出し合い、勝利の美酒に酔ったのでした。
 なお、支援連絡会は9月を目途に『ニュースレター』の合本を発行する予定です。

 

 

 

 

 

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