☆西浜さんのプロフィール☆
1944年生。1989年12月受洗。
2005年3月琉球大学大学院修士課程修了。
2009年3月大阪市立大学大学院博士課程単位取得退学。
現在、大阪市大大学院共生社会研究会所属。日本平和学会、日本解放社会学会各会員。
日本キリスト教団大阪教区沖縄交流・連帯委員会委員長


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第104 号(2015年2月)

 この『沖縄通信』は2003年5月から連載を始めました。ぼくが2003年4月より琉球大学大学院に行き沖縄に居住することになったので、西大和教会の高見敏雄牧師から「せっかく沖縄に住むのだから、沖縄からの通信を教会のホームページに掲載すれば」と言われたのがきっかけです。  2006年1月にヤマトゥに戻り、2006年4月より大阪市立大学大学院博士課程に進んでからも連載を継続しました。それまでは“沖縄からの通信”でしたが、ヤマトゥに戻ってからは“沖縄についての通信”とその性格は変わりましたが。しかし、2011年3月に東日本大震災が起こってから、被災者支援のボランティアで仙台と石巻に行くことが多くなりました。からだは一つなので『沖縄通信』の連載が途切れがちになり、昨年2014年は3号しか発行できませんでした。  この沖縄の歴史的転換点を読者とともに思索すべく、今年2015年はがんばって連載を継続していきたいと思っています。

2014年の1年間を通して、沖縄で何が起こったのか。

1. 選挙に現れた沖縄の民意

 沖縄における反基地の戦いは1945年の敗戦後一貫して取り組まれてきましたが、現在につながる運動は1995年9月、米兵に よる少女レイプ事件以降です。そしてもっと直近で言えば2013年12月、仲井真・前知事による辺野古埋め立て承認からです。 このことを受けて2014年1年間を通して、沖縄で何が起こってきたのかをしっかりと認識することがとても重要だと思います。  ヤマトゥと異なり、2014年の沖縄は選挙イヤーの1年でした。
2014年1月 名護市長選を皮切りに
3月 石垣市長選
4月 沖縄市長選
9月 名護市議選を始め各自治体の議員選
10月 豊見城市長選
11月 知事選(合わせて県議補選。那覇市はそれに那覇市長選、那覇市議補選と4つの投票がおこなわれた)。そしてダメ押 し的に
12月 衆議院選
 と続きました。
 何のための解散・総選挙かと訝られた衆議院選挙でしたが、メディアの予想(誘導)通り自公勢力の圧勝で幕を閉じました。 この結果、今後4年以内に安倍政権は憲法の改悪に向かう可能性が高いでしょう。一方、沖縄はヤマトゥと真逆の結果でした。 4つある小選挙区で自民党は全敗しました。


街には「平成の琉球処分」のポスターが貼られた。

 1区:赤嶺政賢(共産党)、2区:照屋寛徳(社民党)、3区:玉城デニー(生活の党)、4区:仲里利信(無所属)の4氏は、 党派は違え、新知事誕生の選挙母体である「ひやみかち うまんちゅの会」(ひやみかちは「がんばる」うまんちゅは「みん な」の意味。メディアは「建白書」勢力と呼ぶ)の統一候補として戦いました。彼岸の力関係を考慮せず全選挙区に候補を擁 立する共産党も2区、3区、4区に立候補を見送りました。沖縄の民衆の運動の力が従来の候補者の立て方を許さなかったと言え るでしょう。公約を破り辺野古容認に寝返った自民党(候補者)を打ち破るために野党候補者を一本化した沖縄の先進的な取り 組みは素晴らしいもので、私たちもこれに学ばねばなりません。社民党も生活の党も国政では政党要件をクリア出来るかどうか という弱小政党となっていますが、沖縄では健闘しています。沖縄での政党支持率は社民党は自民党についで第2位です。


2014年6月13日、関西・沖縄戦を考える会は、仲里利信講演会「私の沖縄戦体験と新たな島ぐるみ 闘争へ」を開いた。

 西銘恒三郎の対抗馬として4区から無所属で立候補した仲里利信さんこそ、今回の選挙を象徴する人物です。仲里さんはか つて沖縄県議会議長を務めた自民党の重鎮で、西銘恒三郎議員の後援会会長でしたが、2013年11月、沖縄県選出・出身の自民 党議員5人が公約を破り辺野古容認に転換したことを許さず、後援会会長を辞任しました。その後2014年1月の名護市長選では 辺野古新基地に反対する現職・稲嶺 進さんを独自に一人で応援しました。
 2014年6月、ぼくが世話人を務める「関西・沖縄戦を考える会」(大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会の後身組織)は第3回総 会に仲里利信さんを記念講演に招きましたが、そこで仲里さんは次のように話されました。
 「私は、自民党衆議院議員・西銘恒三郎の後援会会長を2年半引き受けていました。彼とは1日200軒も名刺をもって回った こともありました。行く先々で基地のことで質問があるたびに“基地は県外・ 国外です”と言ってきました。おかげさまで(2012年12月の)選挙は圧勝させていただきました。…
 (2013年1月)西銘議員は“(ヤマトゥの)どこも(基地を)引き受けてくれるところがなかったので沖縄が引き受けざる を得ない”と言うようになり、辺野古推進に変質したのです。この件以来、多くの皆さんから私に対する怒りの苦情電話が毎 日かかるようになって参りました。皆さんが異口同音におっしゃるには、“後援会長のあんたが辺野古を認めたから彼もそう やっているじゃないのか”というのです。“違う、私には何の相談もなく彼が一人でやってしまったんだ”と必死で対応しな ければならない日々が続きました。…
 私は西銘に対して言いました。「あんたと私の間には普天間問題に関して食い違いが生じている。また、安倍首相が実施し た『4月28日主権回復式典』についても、あなたは喜んで行ったのではなかったか。あなたが議員を辞めるか、私が後援会長 を辞めるかどちらかしかない。」「あなたは降りないだろうから、私が後援会長を辞めるよ」と言い、2014年5月末に後援会会 長を辞めました。以後、苦情の電話は1本も来なくなりました」(「関西・沖縄戦を考える会」会報第10号−2014年8月−より) と。
 選挙期間中もその後も西銘恒三郎は仲里さんから逃げ回っていました。選挙公示後『沖縄タイムス』が企画した両候補の討 論会を欠席し、文書回答を寄こしただけ。当選した全議員を招いての座談会にも、挨拶回りで多忙を理由にただ一人欠席とい うありさまでした。
 ぼくは、辺野古新基地反対の世論は2014年11月の知事選前で7割、仲井真・前知事が駆け込みで工法変更を承認した12月の 時点で8割、沖縄防衛局が工事を再開した今年1月で9割になっていると推測します。それは知事選と衆議院選で示された基地 反対候補の得票率に現れているからです。普天間基地のある宜野湾市と辺野古新基地建設が強行されている名護市でそれを見 てみましょう。

 名護市

 

基地反対候補

基地容認候補

投票総数

市長選

稲嶺 進
19,839
(55.5%)

末松文信
15,684
(43.9%)

35,733

知事選

翁長雄志
17,060
(53.6%)

仲井真弘多
12,274
(38.6%)

31,803

県議補選

具志堅 徹
15,374
(50.5%)

末松文信
14,281
(46.9%)

30,471

衆議院選

玉城デニー
13,976
(57.1%)

比嘉奈津美
10,097
(41.3%)

24,473

宜野湾市

 

基地反対候補

基地容認候補

投票総数

知事選

翁長雄志
21,995
(48.0%)

仲井真弘多
19,066
(41.6%)

45,794

衆議院選

照屋寛徳
20,919
(57.3%)

宮崎政久
14,734
(40.4%)

36,489

(注:無効票があるので得票率の合計は100%にならない)

 宜野湾市は知事選48.0%⇒衆議院選57.3%、名護市は知事選53.6%⇒衆議院選57.1%と、基地反対の民意が軒並み広が り、深まっています。


2013年11月25日、石破処分官の前で、ひれ伏す4+1の自民党国会議員たち

 ところが、敗れた1区:国場幸之助(自民党)、下地幹郎(維新)、2区:宮崎政久(自民党)、3区:比嘉奈津美(自民 党)、4区:西銘恒三郎(自民党)の全員が、摩訶不思議にも九州ブロックの比例で復活当選したのです。
 写真は右から比嘉奈津美、宮崎政久、国場幸之助、島尻安伊子、西銘恒三郎の4(衆議院議員)+1(参議院議員)です。右3 人はうなだれていますが、左の島尻安伊子と西銘恒三郎の二人は当然という顔をしています。
 沖縄で敗れた彼らは、ヤマトゥに存する九州の比例票と党本部に救われたのです。しかし沖縄は断じて九州ではありませ ん。比例ブロック制を採用するなら単独で沖縄ブロックを設けるべきです。そうすれば彼らは一人残らず落選していたでし ょう。それ故、彼らはますます党本部に頭が上がらなくなり、沖縄の犠牲の上に成立するヤマトゥ中央政府の子飼いの途を 歩んで行くでしょう。彼らに対する当選証書が沖縄ではなく、東京で手渡されたのもそれを象徴しているかのようです。
 西銘恒三郎は、知事在任中の1985年、朝日新聞の取材で「沖縄の心とは?」と問われ、「ヤマトンチュになりたくても、 なり切れない心」と答えた沖縄保守政界の重鎮・西銘順治の三男ですが、これほどヤマトゥに取り込まれた息子を見て、父 ・順治はさぞ墓場から嘆いていることでしょう。

2. 「沖縄『建白書』を実現し未来を拓く島ぐるみ会議」が結成された。

 2014年7月27日、「沖縄『建白書』を実現し未来を拓く島ぐるみ会議(略称:島ぐるみ会議)」が結成されました。定員 1,206席の宜野湾市民会館大ホールに2,075人が集まりました。結成総会のサブタイトルには“辺野古強行を止めさせよう、 沖縄の心をひとつに”とあります。
 今まで10万人規模の県民大会を何度も開いてきたが、それが終わるとそれで解散というこれまでの限界を超えるために個 人加盟の恒常的な組織をつくろうと学者、経営者、弁護士、市民活動家、ジャーナリストなど106人が発起人となって結成 されたもので、大学院でぼくの指導教官であった比屋根照夫さん(政治思想史)もその一人です。結成にあたって琉球大学 の島袋 純教授(政治学)がその中心的な役割を果たしました。島ぐるみ会議は“オール沖縄”を体現する組織で、この結 成は沖縄の戦後史においても画期的な出来事です。


2014年9月20日、Stop!辺野古新基地建設 大阪アクションのデモ。指揮する筆者

 島ぐるみ会議は結成総会において、次のような結成アピールを発しました。
 「沖縄の米国基地は、米軍政下において沖縄の人々の人権を侵害し人道的な配慮を無視して建設されたものです。…いま なお国土面積の0.6%の沖縄に、米軍専用施設の74%が集中する実態は、社会的正義にもとる軍事植民地状態の継続です。 沖縄の人々が、人として生きることすら拒まれる基本的権利の侵害であり、経済的、社会的及び文化的発展の自由を否定す る構造的差別です。
 私たちには、私たちの土地、海、空を守り活かす権利があります。このような権利は…人類が長年の努力から勝ち得てき た普遍的な権利です。国連の委員会では、沖縄のことについて沖縄の人々が決める権利があるとし、日本政府に対して、基 地を集中させる沖縄への差別と権利侵害を解消していくよう求めています。
 …県民総所得約4兆円のうち米軍基地関連収入は約5%に過ぎず、…基地の返還措置は沖縄経済全体をけん引する発展の拠 点となっています。…米軍基地の返還が経済的発展の自由と自立と平和につながることを沖縄の人々は気づいています。
 基地に支配される沖縄の未来を、私たちは拒絶します。そのような未来を子どもたちに残してはなりません。…2013年沖 縄『建白書』の実現を求め、辺野古強行を止めさせ、未来を私たちのものとするために、沖縄の心をひとつにし、島ぐるみ の再結集を、全沖縄県民に呼びかけます」と。


島ぐるみ会議辺野古バスのポスター

 その後、島ぐるみ会議はバスをチャーターして辺野古行きを実施しており、現在は那覇市、沖縄市、普天間基地を抱える 宜野湾市、うるま市、辺野古がある名護市から運行されています。

3. 更に注目すべきは「琉球の島々文化連絡会」の設立です。

 昨年10月には「琉球の島々文化連絡会」が設立されました。島ぐるみ会議もそうですが、「琉球の島々文化連絡会」の設 立を報じたヤマトゥのメディアは皆無でした。
 高良鉄美、豊見山和行、友知政樹さんら10名の研究者、アーティストの呼びかけで、賛同人には新川 明、石垣金星、比 屋根照夫さんら71名が名を連ねています。
 設立趣意書は次のように言います。
 「いま政治的局面では、植民地差別を温存する同化政策によって絶え間なく分断されてきた琉球・沖縄の現実を乗り越 えようと、新しい動きが模索されています。私たちも、米軍普天間飛行場の辺野古強行移設を、琉球・沖縄の歴史・文化・ 自然の固有性を否定し破壊するものであると認識しています。戦後69年間継続する軍事植民地状態から脱して琉球・沖縄の 精神的自由を回復するにおいて、辺野古強行移設とは重要な文化問題でもあります。(中略)
 私たちの島々は、豊かな自然に育まれた知性と感性をもとに、固有の文化を営む歴史を歩んできました。この誇り高い島 々に対して、近代国家の権力者たちは政治的暴力や植民地差別を強いてきましたが、島々はいまなおそれらに屈することは ありません。この不屈の力の源泉は、島々の文化的アイデンティティにあると言えます。時代がどのように移り変わろうと も、次の世代のために、この泉をからすことなく守り伝えなければならないでしょう。
 私たちは、島々の文化的発展の自由を自らの手で再構築する重要性に着目します。(中略)
 この連絡会は、文化に関わる人々が、それぞれの領域で琉球・沖縄アイデンティティの泉を確認し、島々の多様性を認め 合いながら、ゆるやかにしなやかにつながることを呼びかけます」と。


2014年1月11日、在特会の介入を利用して大阪行動の街宣活動に府警は機動隊を導入した。

 2014年10月19日の設立会で、「琉球・沖縄『文化力』」と題して基調講演した高良鉄美琉球大教授(憲法)は「危機的状 況にあるうちなーぐちをはじめとする文化的収奪に加え、沖縄は統治者の政策が優先されて本来の文化が押さえ付けられる 文化的占領の状況にある。辺野古はその典型的な例だ」と指摘しました。また呼びかけ人の一人である豊見山和行琉球大教 授(琉球史)は「後世に何を残すかを考えた時、民意が無視され続ける辺野古の状況を刻んだ石碑を建ててはどうか」と提 案。同じく考古学者の安里 進さん(県立博物館・美術館館長)は「祖先から受け継いだ琉球・沖縄人というアイデンティテ ィが今の民意の根幹となり、力の源泉になっている」と強調しました。
 この文化連絡会の意義は、かつて沖縄(本)島中心主義であった傾向を脱し、沖縄にある島々はそれぞれ固有の文化を営 む歴史を歩んできたとし、近代国家の権力者たちが政治的暴力や植民地差別を強いてきたと規定していること。辺野古強行 移設を軍事植民地状態から脱して、琉球・沖縄の精神的自由を回復することにおいて重要な文化問題だと自己認識している ことなどです。
 「琉球・沖縄文化プロジェクト<保全・回復・創造・継承>を推進する」この文化連絡会の今後を大いに注目したいと思 います。

4.辺野古新基地建設を許すな!行ける人は辺野古へ。行けない人は自分の居場所でできる行動を。

 今、沖縄・辺野古の海上では、抗議するカヌー隊に対し海上保安庁が暴力的な排除をおこない、カヌー隊員に骨折やケガ などの被害が出ています。陸上のキャンプ・シュワブ前では、沖縄県警が非暴力で座り込む人たちを襲い、救急車で病院に 運ばれる人も出ました。このままでは「不測の事態」が起きます。
 今は反対派の人たちだけが抗議行動をしているのではありません。沖縄の多くの市民・民衆が立ち上がっているのです。 次の二つの投書を見てください。


2014年6月21日、第11回沖縄研修旅行で辺野古を訪れた。

 「沖縄に宣戦か 海保の巡視船 高木 泰(51歳 北谷町 サービス業)」     『沖縄タイムス』2015年1月27日付
 民意無視の埋め立て工事が再開されたと聞き久しぶりに辺野古へ行ってきました。するとどうでしょう、沖合に海保の巡 視船がグルリと停泊しているではないですか。その数、目視だけでも9隻…。
 巡視船の舳先には機銃も備え付けてあると聞きました。色こそ白いけれども、舳先をこちらに向けて取り囲む姿は、まさ に沖縄戦の映像そのものです。政府による沖縄に対する宣戦布告と感じたのは、私だけではないでしょう。
 小笠原や尖閣で人手が足りない海保を全国動員して国の威信を見せつけたつもりなのでしょう。しかしたった20艇のカヌ ーにこんなばかげたことをするのを見ると、やっぱりわれわれが正しかったのだ、正義はわれにありと思えます。(後略)  

「皆参加しよう 基地阻止行動 横田永明(78歳 沖縄市)」     『沖縄タイムス』2015年1月28日付
 何度か辺野古へは行ったが、じかに山城博治さんのお話を聞いて、阻止行動が大変だということが分かりました。(中略)  あまりにも酷なゲート前阻止行動の厳しさと闘いながらの生活。彼らだけの問題ではなく、われわれ県民が自分たち一人 一人の問題として一日でも良い、顔を見せて彼らを励まし、勇気づけていただきたい。(中略)
 われわれができないことを体を張って行動している彼らを見ると書かずにはいられなくなった。辺野古は日米両政府の言 いなりに新基地を造らせてよいのか。ウチナーンチュの意地で一丸となって阻止するしかありません。金では買えないウチ ナーンチュ魂で阻止するべきです。参加が唯一の協力です。「わが身つねって人の痛さ知る」。参加して実態を知ってほし い。


2014年5月25日、大阪教区沖縄交流・連帯委員会は、知念優幸講演会「ウチナーから見たヤマト ゥ」を開いた。

 ぼくは習性で、新聞などに投稿された人物はどのような経歴の方だろうとネットで検索します。高木さん、横田さんには とても失礼な書き方になりますが、お二人とも全くヒットしません。高木さんも横田さんも反戦運動の闘士でもなければFB を駆使される方でもないごく普通の市民だとお見受けしました。
 『沖縄タイムス』の読者欄(購読していないので分からないが多分『琉球新報』も同様でしよう)にはこうした投稿が毎 日掲載されています。
 このように辺野古新基地反対の運動は、一般的な反戦・反基地闘争の枠を超えて、今や自己決定権を求める営み、ヤマト ゥ(中央政府)に対する異議申し立てのうねりとなっています。このことを私たちヤマトンチュは理解する必要があるので す。
 『琉球新報』は、「2014年回顧 新たな時代の幕が開いた。犠牲拒む意思を示した年」と題した社説を大晦日に掲載しま した。
 「沖縄は明らかに新たな舞台へ移った。ことしを漢字で表すなら「幕」の字が真っ先に思い浮かぶ。…米軍基地の強要は 沖縄への構造的差別であり、それを沖縄が一体で跳ね返すという意思が『オール沖縄』の言葉に込められている。沖縄はも はや犠牲を甘受しないという宣言にも等しい。その意味で、単に県庁のトップが交代したというにとどまらない歴史的意義 がそこにある。新たな時代の「幕開け」と言っていい。…  (選挙での)意思表示は、沖縄にとり死活的な事柄は、他の誰でもなく沖縄自らが決める、という自己決定権回復の宣言 といえよう。これは単なる現状変更の要求ではない。琉球王国時代は中国交易の利益を収奪され、太平洋戦争では本土決戦 までの時間稼ぎの捨て石となり、サンフランシスコ講和条約締結時には日本独立の引き換え条件とされた。そんな「質草」 扱いの史実を踏まえた意思表示だ。だからこれは、不可逆的な、後戻りできない要求なのである」と。

 翁長雄志新知事の誕生は、全く新しい沖縄の一ページの始まりです。“オール沖縄”の鬨の声で、今、ヤマトゥとヤマト ンチュが問われています。「あなたは私たちウチナーンチュの味方なのか、あるいはヤマトゥとともにこれからも生きてい くのか」と。

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