☆西浜さんのプロフィール☆
1944年生。1989年12月受洗。
2005年3月琉球大学大学院修士課程修了。
2009年3月大阪市立大学大学院博士課程単位取得退学。
現在、大阪市大大学院共生社会研究会所属。日本平和学会、日本解放社会学会各会員。
日本キリスト教団大阪教区沖縄交流・連帯委員会書記


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第107 号(2015年7月)

 昨年2014年のちょうど今頃、大阪教区沖縄交流・連帯委員会は第11回沖縄研修旅行を実施しました。そして第1日目6月21日の 夜に沖縄大学客員教授・新城俊昭さんの講演会を宜野湾セミナーハウスで持ちました。
 ところで、講師を依頼するに当たって、ぼくは新城さんに次のような手紙を送りました。
 「『沖縄差別の歴史』と題した講演をお願いします。参加者は事前に学習もしていますので、最近の出来事を時系列にお話し いただくことには重点を置かずに、@1609年 島津侵略 A1879年 琉球処分 B1945年 沖縄戦 C1952年  サンフランシスコ条約による沖縄切り捨て、とずっと続いている沖縄差別の歴史について講演いただきたく思います。なにゆえ に沖縄にこれだけの基地が今もなお集中しているのか、ヤマトゥの人間が未だに無関心を装うことができるのか、というような 点を1609年まで遡ってお話しいただきたいと存じます」と。
 当日、新城さんは冒頭、与えられたテーマは壮大で、大学の講義では15コマくらいを使って話す内容だと断られた上で、次の ようなお話をされました。あれから1年が経過していますが、今でも色あせておらず、かつ現在の課題でもあるので、ぼくの注釈 も加えて、以下レポートします。

沖縄はどのようにして日本になったのか

 今日は思い切り焦点を絞って、沖縄の根源的な問題である「沖縄はどのようにして日本になったのか」について話すと、与え られたテーマの大部分が総括されていくのかナァと思い、この点に絞ってお話します。


沖縄はどのようにして日本になったのか

1.琉球藩の設置
 1868年 江戸幕府が滅亡し、天皇を中心とした明治国家が誕生した時、琉球はどのような時代であったのかといえば、清朝か ら冊封使を迎え、最後の国王・尚泰の即位式がおこなわれていた。明治政府は琉球をどのように扱うかで政府内で意見が分かれ たが、最終的に琉球は日本に組み込んだ方が良いとの結論になった。清朝を宗主国とする琉球王国を解体し、名実ともに日本領 土に位置付けるということである。そうするためには清朝と琉球双方の了解を取り付ける必要があった。
 そこで1871年 廃藩置県が実施されると、琉球をひとまず鹿児島県の管轄下においた。琉球が日本の領土であるという国内措 置を整えたわけである。1872年 王府は明治維新に伴う「王政一新」を祝う維新慶賀使を派遣せよとの朝命(天皇の命令)を受 けた。ところが、明治政府は上京した使節に対し「尚泰を琉球藩王に命じて、華族とする」との詔書を手渡した。すでに廃藩置 県が実施されている時に琉球藩にするという。政府の狙いは、これまで薩摩の支配下にあり、天皇とは無縁だった琉球を、天皇 との君臣関係へと新たに設定し直すことだった。それに対し、王府の認識は天皇から藩「王」と直接任命されたことで、日清両 属体制を新政府が認めた、冊封を受けたと解釈した。実はこれが琉球併合への大きな布石となる。
 しかし、それでも危機感を感じていた王府側は確約がほしいと要求し、1874年 副島外務卿から「国体政体永久に変わらず、 清国交通もこれまで通り」との「確約書」をもらった。それと引き換えに、琉球が1854年にアメリカと、1855年にフランスと、 1859年にオランダとそれぞれ結んだ修好条約書の提出を求められた。これは琉球が一つの国家であったとの証しであるからだ。 琉球側は渋っていたが「確約書」を書いてくれたからと、原本を提出した。これはすなわち外交権を剥奪することを意味してい た。


沖縄人はどこから来たのか

(筆者注釈)
1854年 琉米修好条約(全文)
一、今後、合衆国人民が琉球に来る時は、常に大いなる好意と友好をもって遇すること。米人が必要とする物品は、役人であ れ住民であれ琉球が供給できるものであれば、米人に販売すること。また、琉球官憲は住民に対して何らの禁止的な規制を設 けないこと。さらに、琉米双方で購買したいと望む品物は、何であれ、適正価格で取引すること。
一、合衆国の船舶が琉球のいかなる港に寄る際には、いつでも薪、水を適正価格で供給すること。ただし、その船がその他の 物品を欲する場合には、那覇でのみ購入することができること。
一、合衆国の船が、大琉球島または琉球王国政府の管轄下にある島々において難破した時は、その他の官憲は人員を派遣して 生命財産の救助を手伝わせ、合衆国船が来て救助された者全員を連れ去るまで、難破船から陸上に引き上げることができた物 を保管すること。そして、これらふびんな人々の救助に要した費用は、同人らが属する国家が支弁すること。
一、合衆国船舶の乗組員が琉球に上陸する時は何時でも、妨害を受けず、また役人をつかわして尾行させたり、または乗組員 を監視させたりせず、自由に遊行させること。ただし彼らが暴力的に民家に押し入ったり、婦女にたわむれたり、人民に強制 的に物を売らせたり、その他類似の不法行為を犯した際には、地方官憲の手で逮捕すること。ただし虐待してはならず、彼ら が所属する船の船長に報告し、彼に処罰させること。
一、泊村に合衆国市民の埋葬地があるが、同地にある彼らの墳墓を破損しないこと。
一、琉球国政府は熟練した水先案内人を任命し、琉球島の沖合に現れる船舶を見張りさせること。もしその船が那覇へ向かっ て来るのを認めたら、案内人はその船を安全な停泊地に導くため良い船艇でもって暗礁の外まで出迎えること。この労役に対 して、その船長は水先案内人に5ドルを支払い、また港から暗礁の外に出る時も同様にすること。
一、船舶が那覇に停泊する時はいつでも、地方官憲は薪1千斤につき銅銭3600文でその船に供給すること。また水千斤につき 銅銭600文でこれを供給すること。

(筆者注釈)
 2014年4月、琉球新報は外務省に対し、琉球国が1850年代に米・仏・蘭それぞれと結んだ三条約について、
@ 条約はなぜ、現在、外務省の管轄下にあるのか?
A 明治政府は1872年の太政官布告で三条約を外務省所管とすることや、正本提出を琉球藩に命じたが、その理由や法的根拠 は?
B 琉球藩が1874年に三条約の正本を外務省に提出したが、その後、条約の効力の有無や内容の順守などはどうなったか?  米仏蘭各国への説明、反応は?
 などを文書で質問した。
 それに対し、外務省は「当時の経緯が必ずしも明らかではないこともあり、お尋ねについて確定的なことを述べることは 困難です」と回答した。
(『琉球新報』2014年7月11日付。なお、この日7月11日は琉米修好条約締結160年の日に当たる)。
 この外務省の回答は、琉球国が日本とは異なる一国家であったことを認めたくない、不当であいまいなものとなっている。
 また、剥奪された国王印・三司官印はいまだに行方が分かっていない。


普天間基地に横たわるオスプレイ

2.琉球船の台湾遭難事件
 明治政府にとってのもう一つの問題は中国(清)をどう説得するかということになる。そんなおり、日本にとってこれを 解決するきっかけとなる格好の事件が起こった。
 1871年 那覇に年貢を運んだあと帰路についた宮古船が台風で遭難し、台湾に漂着した。そこで乗組員66人のうち54人が、 地元住民に殺害される事件が起こった。台湾漂着琉球人殺害事件と呼ばれる。3人は途中で溺死、残り12人は中国人に救助さ れ、従来の慣行に従い、福州の琉球館を経由して那覇に帰還、事件は一件落着していた。ところが明治政府はこの事件を利 用して、琉球の日本領有と台湾への進出をくわだてた。台湾生蕃(先住民族を見下した名称)による日本国の琉球人殺害事件 について清に責任を問いただした。しかし、清は、琉球が日本であることを認めない。台湾は蕃地で、化外の民であるとし て取り合わない。
 そこで、明治政府は無主地先占論(帰属国のない土地は先に占有した国のもの)をたてに、台湾出兵を企図したが、諸外国 の反対で中止を決定した。また、王府も1872年 「出兵しないでほしい」と政府に強く要請した。中国と事を構え、琉中関係 が悪化するのを恐れたからである。しかし1874年 陸軍中将・西郷従道(西郷隆盛の弟)らの独断で3,600名余が台湾に出兵 した。これが近代日本の最初の海外出兵である。清から台湾は清国の領土であり、日本の行為は日清修好条規(1871年締結、 1873年批准)違反であるとの抗議が来る。一方、日本の主張は「公法上ニ於いて政権及ハサル地ハ版図(領土)ト認メスト云 ヘリ」というものだった。
 事態を重く見た駐清イギリス公使のウェードが「日本は台湾が中国の領土であることを認め、清国は日本の出兵が正当であ ることを認める」との調停案を出し、清国が50万両の賠償金を支払うことで和議を成立させた。条文には「台湾の生蕃が日本 国属民等を殺害したので、日本国政府はこの罪を咎めてかれらを征伐した」と書かれていた。ここで言う日本国属民とは備中 小田県人(現在の岡山県西部、広島県東部)のことで、ここの漁民が台湾に漂流し、略奪に遭ったことも出兵理由に挙げてい たが殺害されたわけではなかった。この調停案のどこにも琉球人の文言はない。すなわち日本側は、琉球人が日本人とする根 拠を示せなかったので、「等」に琉球人を含めたのである。これは日本側の解釈であり、中国側にはそのような認識はなかっ た。日本側も国際的に「異論」が提起されかねないことを懸念していた。


講演する新城俊昭さん

3.「廃琉置県」の開始
 明治政府は琉球処分の方針を固めると、1875年 琉球藩の高官を上京させ、中国の琉球に対する先の条文を理由に、日本政 府の方針を伝えた。すなわち、琉球の王国制度を解体し、日本国に属する沖縄県を設置することであった。
 さらに、政府は松田道之を処分官として琉球に派遣し、
第一に、清国との冊封・朝貢関係を廃止し、明治元号を使用すること。
第二に、新制度や学問を研究させるため、若手官吏を派遣すること。
第三に、日本の一般刑法を施行するなど、日本の政治制度に改めること。
第四に、鎮台分営(軍事施設)を設置すること、
 を命じた。
 首里王府は第四の「鎮台分営(軍事施設)を設置すること」に、特に強く反発した。「琉球は兵を備えず、礼儀と話し合い で外国船に対応し、平和を維持してきた。兵営を設置すれば、かえって外国から武力で強要される恐れがあるだけでなく、琉 球の人心も不安に陥り、清の信義も失う」と。また、1874年に副島外務卿から「国体政体永久に変わらず、清国交通もこれま で通り」との「確約書」ももらっている、「日清は父母の国」であり、琉球を、母から父との断絶を迫られた子に例えて、従 来の日清両属的な状態を保持するよう嘆願を繰り返したが、松田の強硬姿勢は変わらなかった。やがて王府内の官僚にも賛成 派(開化党)が現れ始め、反対派(頑固党)と意見をたたかわすまでになった。松田は二度の渡琉で王府を説得したが、琉球 の対応はかたくなで埒があかなかった。その間、琉球ではさかんに清国に使者を送って救援を求めていた。彼らを救国亡命人 という。琉球側には中国は琉球を守ってくれるという自信があった。


公道で仮免運転をしているのだ。

4.明治政府による強権的な「廃琉置県」
 明治政府は説得による琉球処分が困難であることを知り、武力を背景とした処分案を決定した。
 1879年3月 政府の強硬な処分案を受けた松田は、軍隊と警官を率いて三たび来島し、首里城内で、琉球藩を廃し沖縄県を設 置する廃藩置県を通達した。「廃琉置県」=琉球併合である。これにともない、藩王・尚泰は華族として東京に居住を命じら れ、琉球の土地・人民およびそれに関するすべての書類を政府に引き渡すことになった。こうして琉球は強権的に日本の一県 に位置付けられた。

(筆者注釈)
首里城明け渡し
 1879年3月29日朝、琉球の三司官は士族、平民を問わず首里内の男たちを呼び集め、首里城内の器物、衣服、書画、書籍な ど歴代の王が収集した貴重品を含む物品を、中城御殿などに運ばせた。
 晩までかかったこの運び出し作業に当たっては、城門を出る際は検問の警官らが荷物の中身を一つひとつ調べた。荷物の包 みを開ける動きが少しでも遅いと、怒鳴り散らし、棒や剣を荷物に振り下ろした。そのため、多くの装飾品や貴重品が壊され た。
 夜8時。尚泰王はかごに乗り、従者数十人を伴い首里城を出た。中城御殿に向かう道中は、ちょうちんを掲げた士族百人余が 連なった。人々は涙を流し、中には号泣する人もいた。 
  (『沖縄の自己決定権』)


勝連城跡で集合写真

 こうして第二尚氏は19代410年で滅び、察度王統から500年余も続いた琉球王国は終わりをつげることになった。しかし、こ れでもって琉球の帰属問題は解決したのではなかった。王府内に反対運動は根強く、中国も日本政府のとった行動を容認して いたわけではなかったので、国際的な問題として琉球の所属問題がクローズアップされることになった。

(筆者注釈)
察度(1321〜1396)
 中山王。在位46年(1350〜95)。父は浦添間切謝名村の奥間大親、母は天女と伝承される。妃は勝連按司の娘で、世子は 武寧という。伝によると、察度の田圃には黄金が満ち、夫婦はこれを収拾して蔵し、金宮という楼閣を建造し、餓者には食 を与え、寒者には衣を与えた。また牧港に来航した日本商船から、満載した鉄塊をことごとく買い入れ、耕者には鉄を与え て農器を造らせた。これらのことによって人心を得て浦添按司に推され、1350年に英祖王統最後の王・西威の世子を廃して 中山王に推された。
 1372年、明に初めて進貢した。宮古・八重山が服属したのもこのころである。察度王統は2代(察度、武寧)56年にして、 1406年 尚 巴志に滅ぼされた。
  (『沖縄大百科事典』)

5.宮古・八重山の分島と増約案
 清国は琉球の帰属問題の調停を、世界旅行の途上中国に立ち寄った、アメリカの前大統領・グラントに依頼した。要請を 受けたグラントは、日本で伊藤博文ら政府高官と会談を重ね、日清交渉の了解を取り付けた。1880年3月 予備交渉として中 国に使者を送り、琉球の帰属問題に対する日本案を提示した。
 日本側の提案は、
一.沖縄諸島以北を日本領土とする。
二.宮古・八重山諸島を中国領土とする。
三.上記のことを認めるかわり、1871年に結ばれた日清修好条規に、日本商人が中国内部で欧米諸国並みの商業活動ができ るよう条文を追加(増約)する、
 というものだった。
 それに対し、中国側はグラント案を装って琉球三分割案を提示してきた。
一.奄美諸島以北を日本領土とする。
二.沖縄諸島を独立させ、「琉球王国」を復活させる。
三.宮古・八重山諸島を中国領土とする、
 という内容だった。
 しかし、日本側の執拗な要求に対し、やむを得ず中国側が日本案を飲み、1880年10月交渉は妥結し、10日後に調印、3ヶ 月以内に批准することを約束した。1881年2月 両国の代表が石垣島で落ち合い、宮古・八重山の土地・人民を清国に引き 渡すことになった。しかし、幸地朝常ら救国亡命人(従来「脱清人」と呼ばれてきた)による李 鴻章への「日本への帰属 反対」の請願が再三にわたって届けられたこと、中国にロシアとの国境紛争に解決のめどがついたこと、林 世功の自決に よる抗議などにより、棚上げとなった。

(筆者注釈)
幸地朝常(1843〜1891)
 尚家の一族である幸地朝常は、琉球最後の王・尚泰と義弟の関係にある有力者(18歳で尚育王の長女と結婚)だった。 王府の命を受け1876年に清へ密出国し、琉球存亡の危機を訴えた。沖縄の地に戻ることなく亡命琉球人のリーダーとして 救国運動に奔走、中国で死去した。その後、ハワイに移住した子孫によって位牌もハワイに渡ったとみられる。
 2001年に比屋根照夫琉球大教授(当時。現・名誉教授、ぼくの大学院時代の指導教官)を代表とする共同研究グループ が、マウイ臨済宗妙心寺開教院に保管されていた幸地家の位牌を確認。元・マウイ県人会長の与那原良永(ロイ)さんが 幸地の子孫から譲り受け、死後に同寺院に預けられていたという。
 昨年は琉球史研究の仲村 顕さん(県立芸術大学付属研究所共同研究員)が調査で同寺院を訪れたところ、山口良三住職 から位牌の返還を依頼された。
 幸地朝常と祖父がいとこの関係にある渡久山朝一さん(64)=浦添市=は「日本に支配された沖縄には帰らないという 強い意志で、幸地は中国で亡くなった。この10年来、歴史や文化、祖先への思いなど、沖縄人が復帰によって失ったもの を取り戻そうという機運が高まっている。位牌の帰還は、そうした社会状況に対しても意味を持つ」と語った。   (『琉球新報』2013年6月19日付)


幸地朝常の位牌 里帰り

 唐名は向 徳宏。1876年 浦添朝昭の命をうけ、琉球救国の国事に従事するため林 世功、蔡 大鼎らを従え運天港から 脱清。以後、福建・天津・北京と中国各地を奔走。ついに清国で客死。特に福建省琉球館を根城に清国政府の動向を把握、 在留脱清人たちにさまざまな戦略を指示、琉球との連絡に努めた。幸地らの動きは明治政府も重視しており、治安当局は その行方の探索に力をそそいでいる。1884年には長男・朝端も父の後を追い脱清、父子そろっての脱清の事例となった。18 87年 幸地らが清国政府に提出した<嘆願書>には、琉球処分による<琉球国ノ惨遭国亡ヒ家破ル>の状況が述べられ、 <琉球国ノ家々戸々惨然トシテ禍ニ遇>うさまが哀切の文章でつづられている。
  (『沖縄大百科事典』)

(筆者注釈)
林 世功(1841〜1880)
 1865年 官生科に登第、詩文をよくし、1868年 北京の国子監に留学。以後、順調に出世階段をのぼり、1875年 国学 大師匠、同年9月 世子(王の後継ぎ)・尚典の講師となる。1876年 幸地朝常らとともに脱清。1879年 福建で琉球処 分断行・国王父子上京の急報に接し、同年10月 琉球問題を直訴すべく北京にのぼった。途上、天津で、琉球を二分して 日清が分割所有するとの分島増約案が提議され日清間で合意をみた、との重大な事実を幸地からはじめて知らされ、自決 をとげた。享年38歳。
  (『沖縄大百科事典』)


救国亡命者たち

 その後、国際情勢の変化とともに日本が朝鮮に進出してくると、今度は朝鮮をめぐって日本と清国が対立し、ついに日 清戦争(1894〜1895年)を引き起こした。この戦争で日本が勝利をおさめると、琉球の帰属問題も自然解決のかたちで収 拾され、琉球は完全に日本領土となった。
 さて、問題点は何か?
1.日清交渉の場で「分島・改約」を提案し、かつその実現に最も熱心だったのは日本であった。「廃琉置県」からまだ 約1年しかたたないのに「琉球はわが所属」とする「置県処分」の前提を自ら覆し、中国市場からの利益と引き換えに琉 球の一部である宮古・八重山を中国に引き渡す案を提起したのである。調印され批准されて発効していたならば、宮古・ 八重山諸島の土地・人民は日本の中国内地での通商権と引き換えに、清国へ売り渡されていたであろう。分島問題は、近 代日本の国家エゴイズムの露骨な表白であった。
2.近代国家の形成をビジョンとして描けず、日清両国に依存して王国体制の維持をはかろうとした琉球の為政者にも問 題があった。なぜ琉球の国民は立ち上がらなかったのか? 結局、首里王府の役人たちは自分たちの生活しか考えきれな かった。当時の琉球の農村というのは本当に悲惨な状況であった。近代国家として琉球をどうするのかというビジョンを 彼らはまったく持っていなかった。今まで通り日本と中国に依存して王国を維持するというのが彼らの考えであった。こ れでは琉球の国民の立場もない。琉球処分を受け入れざるを得ない状況だった。
 これは実は現在の沖縄にも言えることである。私たちが将来の沖縄をどうしようとしているのか? しっかりとビジョ ンを描き切れているのか? 沖縄はようやく去年(2013年)「21世紀沖縄ビジョン」を打ち出した。これも一つのビジョ ンとなろう。

 こうして1872年の琉球藩設置から、1879年の沖縄県設置を経て、1880年の分島・増約(改約)問題の発生とその終焉を もって終わる日本政府の琉球に対する一連の政策を「琉球併合(琉球処分)」という。

(筆者注釈)
尖閣列島はわが国固有の領土?
 日本政府は中国に対して「尖閣列島は、歴史上わが国固有の領土である」と今、声高に叫んでいるが、この「分島・改 約」条約が調印・批准されておれば宮古・八重山は中国領となっていたのだから、八重山諸島に位置する尖閣列島をわが 国固有の領土と叫ぶのは、歴史的事実を顧みないチャンチャラおかしな理屈である。

(筆者注釈)
21世紀沖縄ビジョン
 21世紀沖縄ビジョンは、県民の参画と協働のもと、将来(概ね2030年)のあるべき沖縄の姿を描き、その実現に向けた 取り組みの方向性と、県民や行政の役割などを明らかにする基本構想。沖縄県として初めて策定した長期構想で、沖縄の 将来像の実現を図る県民一体となった取り組みや、これからの県政運営の基本的な指針となるもの。
 2008年11月から約1年をかけて実施したアンケート(回収2,751通)や高校生の作文コンクール(509作品)等を通じて 様々な声が寄せられた。
将来像1 沖縄らしい自然と歴史、伝統、文化を大切にする島
将来像2 心豊かで、安全・安心に暮らせる島
将来像3 希望と活力にあふれる豊かな島
将来像4 世界に開かれた交流と共生の島
将来像5 多様な能力を発揮し、未来を拓く島
固有課題1 大規模な基地返還とそれに伴う県土の再編
固有課題2 離島の新たな展開
固有課題3 海洋島しょう圏 沖縄を結ぶ交通ネットワークの構築
固有課題4 沖縄における地域主権と道州制のあり方
 が掲げられている。
  (沖縄県ホームページより)

 廃琉置県後の沖縄(沖縄県設置10年後の姿)について、琉球にやって来た大和の人の記録にはこのように記述されて いる。
 「内地人は殿様ニテ土人ハ下僕タリ内地人ハ横柄ニシテ土人ハ謙虚ナリ…内地人ハ強ク土人ハ弱ク内地人ハ富ミ土人 ハ貧シ畢竟是レ優勝劣敗ノ結果ニシテ如何トモスベカラサル…凡ソ亡国ノ民ホドツマラヌモノハナシ…」
  (『琉球見聞雑記』)
 1906年の『琉球新報』「琉球史の研究と伊波氏」と題した「論説」には、次のようにある。
 「嘗て学校の教科書中より沖縄県史を取り去りにして県民を死牛、木馬の後裔たらしめんとしている為政者の愚挙殆 ど相手にならぬと吾人がさきに縷述したるところなり」
 これは現在にも通じる。今の沖縄の子どもたちは沖縄の歴史を知らない。だから、私は一所懸命に歴史を教えている わけです。
 すなわち、琉球史の封印は沖縄統治の主要な眼目であった。これが明治政府の沖縄統治であり、琉球史の殲滅を狙っ たものと言えよう。

 新城さんは残りの時間を戦後の米軍統治と沖縄返還協定の密約について話されましたが、これ以上長くなってはと考 え、これは省略しました。

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