☆西浜さんのプロフィール☆
1944年生。1989年12月受洗。
2005年3月琉球大学大学院修士課程修了。
2009年3月大阪市立大学大学院博士課程単位取得退学。
現在、大阪市大大学院共生社会研究会所属。日本平和学会、日本解放社会学会各会員。
日本キリスト教団大阪教区沖縄交流・連帯委員会書記


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第108 号(2015年8月)

 『戦後70年、戦後ゼロ年、戦前ゼロ年』と題したこの論考を3回に分けて掲載します。今回はその1です。


大阪アクション1年の歩み・2014年8月19日 近畿中部防衛局前抗議行動

 2015年は「戦後70年」です。沖縄では沖縄戦後の70年であり、ヤマトゥにおいてはあまり意識せずに使う「復興」や 「繁栄」という言葉では描けない現実がそこにはあります。1995年の戦後50年は半世紀という節目であり、2005年の戦 後60年は人間でいう元の干支に戻る還暦という節目です。それに対し、戦後70年とはいかなる意味において節目なのか 。一方で、戦争体験者による証言が戦後80年にはほぼ皆無となるだろうという時間的制約と、他方、安倍首相がいかな る「戦後70年談話」を発表するのかが、国内のみならず諸外国、とりわけ大日本帝国からの被害を受けたアジアを始め とした国々から注目が寄せられているからでしょう。
 「戦後ゼロ年」とは何を意味しているのか。目取真 俊が『沖縄「戦後」ゼロ年』(2005年、日本放送出版協会)の中 で、「今も、沖縄島の二〇パーセントという広大な面積を占拠している米軍基地を見るとき、沖縄にとって戦争は、あ るいは占領は終わったのだろうか、と思わずにおられません」。「沖縄にとって、戦争が終わった後という意味での『 戦後』は本当にあったのか、と考えずにおられません」と語る現実が沖縄にあります。この著書は2005年に発刊されて いるから沖縄戦後60年にあたりますが、それから10年が過ぎてもこの構造には基本的に何らの変化ももたらしていませ ん。
 また「戦前ゼロ年」とは何か。例えば1937年の日中戦争を例に取れば、そののちに、「あの日中戦争の何年前に起こ った出来事である」というような時に使う用語ですから、通常、戦前ゼロ年という言い方はしないでしょう。しかし、 不測の事態から日本が一旦戦時を迎えた時には、まず初めに相手国から攻撃されるのは沖縄にある米軍基地です。だか ら沖縄はいつも戦前ゼロ年という状況下にあるといえるのです。それ故に沖縄は、戦後ゼロ年と戦前ゼロ年が連続して いるのであり、今も沖縄にはヤマトゥで言うところの「戦後」は実在せず、常に「戦前」が実在しているのです。  この論考では、沖縄戦後70年が迫って来る沖縄において、自己決定権の確立を目指していかなる営為が積み重ねられ ているのかを「島ぐるみ会議」と「琉球の島々文化連絡会」の分析を通して見ていき、沖縄の自己決定権について考察 します。


大阪アクション1年の歩み・2014年9月20日 集会&デモ

1.島ぐるみ会議がめざすものは何か。
1)「建白書」に至るまで
 2010年1月の名護市長選挙において、辺野古新基地建設に反対する稲嶺 進候補が現職を破り当選しました。そこに至 る一つの要因には、「最低でも県外」を掲げて2009年9月に政権交代を果たした民主党の存在がありました。結局、2010 年5月、民主党政権は辺野古に回帰しましたが、沖縄では新基地を容認する候補者の当選は最早おぼつかない状況を迎 えていました。
 そこで、沖縄の保守勢力は抜本的な政策転換を迫られ、2010年11月の知事選挙において、自民党が推薦する仲井真知 事は選挙公約に県外移設を掲げて再選をはたしました。
 2012年に入るとオスプレイの普天間配備が明らかになりました。それに反対するため自民党も含めたすべての政党、 経済界(共同代表に照屋義実県商工会連合会会長が加わった)からなる県民大会実行委員会が形成され、9月9日、10万 1千人(八重山・宮古の地区大会を合わせ10万3千人)という「復帰」後最大規模の大会が開催されました。それにもか かわらずその22日後の10月1日にオスプレイ12機が普天間基地に強行配備されました(その後12機が追加配備され現在2 4機)。その2ヶ月後にはまた政権が自民党・公明党に変わりますが、この時は民主党の野田佳彦首相で、彼は「配備は アメリカ政府の方針で、日本がどうしろこうしろという話しではない」と語りました。


大阪アクション1年の歩み・2014年10月5日
  「今、辺野古から 今、関西から」全員でカチャーシーを踊る。

 この県民大会について、『琉球新報』は9月10日付「社説」で次のように述べています。
 「それにしても、『差別』や『犠牲』を強要されているという認識が、これほど繰り返された大会はかつてなかっ た。」「首相という国家トップの発言の、何と軽いことか。住民の命を守る責任も、国の主権も放棄するこの政府に もはや当事者能力はない。沖縄が主体的に解決したい。」「差別は『足して二で割る』手法では解決できない。『差 別が半分だから許す』という人はいないからだ。ひとたび差別的扱いを自覚すれば、それを解消するまで引き下がれ ない。その意味で県民の認識は分水嶺を越えているのだ。/こうした認識は必然的に、本来あるべき状態の模索に行 き着く。犠牲を強要される身分を脱し、尊厳ある取り扱いを求める。県民大会はその表れにほかならない。」「近現 代史に連綿と続く差別と犠牲の連鎖を断とう。大会の成功を、そのための出発点にしたい。/ここで大切なのは、県 民が結束を維持することではないか。植民地統治の要諦は『分断統治(divide and rule)』という。植民地の住民が 仲間割れしていれば、宗主国はさも善意の第三者であるかのように装って君臨できる。米国にも日本政府にも、その ような顔をさせないことが肝要だ」と。


大阪アクション1年の歩み・2015年2月12日
  第五管区海上保安本部への申し入れ行動

 沖縄が公然と「差別」を自覚したのは、「学べば学ぶほど、抑止力は重要」と言って、鳩山首相が2010年5月辺野 古に回帰した時からであると筆者は分析していますが、この社説では沖縄を植民地、日本(アメリカ)を宗主国と明 確に位置付けて論理を展開していることが重要です。
 さて、この県民大会実行委員会が次に沖縄総意の取り組みとして提起したのが「建白書」でした。安倍晋三総理大 臣宛の2013年1月28日付「建白書」は、県民大会実行委員会共同代表(沖縄県議会議長 喜納昌春、沖縄県市長会会 長 翁長雄志、沖縄県商工会連合会会長 照屋義実、連合沖縄会長 仲村信正、沖縄県婦人連合会会長 平良 菊の5 名)、41あるすべての市町村長、市町村議会議長、県議会議長、県議会全会派代表等の直筆の署名で提出されました (仲井真知事だけが署名しなかった)。「建白書」の要求項目は@オスプレイの配備撤回、A米軍普天間基地の閉鎖 ・撤去、B同基地の県内移設断念です。「建白書」は、これ以上の形態は考えられない、沖縄の民意の総体が体現さ れた、沖縄戦後史に特筆されるものでした。
 「建白書」提出前日の1月27日におこなわれた銀座パレードに対し、「売国奴!」「日本から出て行け!」「中国の 回し者!」との罵声が歩道に登場した右翼勢力から浴びせられました。沖縄から数限りなく取り組まれてきた要請上 京団に対し、東京都民(日本国民=ヤマトンチュ)は冷ややかな視線を投げ掛けることはあっても、こうした罵声を 浴びせたことはかつてありませんでした。初めてのことでした。後日、罵声を浴びせかけられた保守系首長が「それ なら、日本から出て行こうかなぁ」と思ったとのエピソードが伝えられました。


大阪アクション1年の歩み・2015年3月17日 大成建設前抗議集会

2)団体連合方式から個人参加方式へ
 ところが、この県民大会実行委員会は東京要請行動をもって解散となりました。過去の県民大会でもその都度作 られた実行委員会は、東京への要請を行ったのち解散してきました。そこで、この「建白書」の意思を引き継ぎ、 責務を果たすための枠組みの維持が必要となりました。
 2013年後半になると、自民党本部からの猛烈な切り崩しに対し「オール沖縄の再結集を!」との主張が地元2紙を 始め沖縄のマスメディアで報道されました。ところが11月25日、県選出の自民党5国会議員が石破幹事長のおこなう 記者会見の横でうなだれ「普天間の危険性を除去するために辺野古移設を含むあらゆる可能性を排除しない」との 詭弁を弄して選挙公約を破り「辺野古容認」に寝返りました。同月27日には自民党沖縄県連が辺野古容認に転換し ました。沖縄では1879年の琉球併合時の松田道之処分官に似せて、石破幹事長を「現代の処分官」と呼び、「平成 の琉球処分」との言説が拡がりました。そして、年末12月27日、官公庁御用納めの日、仲井真知事による埋め立て 承認へと至ります。
 この段階に至って、「オール沖縄」と表現されてきた政治勢力は事実上崩壊しました。この頃より、地元2紙を始 め沖縄のマスメディアは「オール沖縄」に変わって「建白書勢力」という用語を使うようになりました。それ故、団 体連合方式での組織の維持は事実上困難になりました。公約転換により参加が困難となった団体・組織を除外した形 での団体連合方式の再構築も考えられましたが、この場合は「建白書」を歴史的な沖縄の総意として、その実現を図 るための再結集が不可能となります。そこで、それが可能となるような再結集の仕方を考えなければならない、とし て編み出されたのが、個人参加方式による「建白書」の要求実現運動です。これなら、自民党県連が組織として「建 白書」を公式に撤回していないのであるから、自民党議員、党員らが個人として個人参加型の運動に参加することを 拒む論理は出て来ないはずです。
 こうして生み出されたのが個人参加方式による「沖縄『建白書』を実現し未来を拓く島ぐるみ会議」でした。


大阪アクション1年の歩み・2015年4月28日 「屈辱の日」集会&デモ

3)島ぐるみ会議結成趣意文の内容
 かくして、2014年7月27日、宜野湾市民会館大ホール(定員1,206席)に2,500名が参加して「沖縄『建白書』を実 現し未来を拓く島ぐるみ会議」(以下、「島ぐるみ会議」と略す)結成大会が開かれました。会場に入れなかった 参加者のために、ロビーではテレビ中継がおこなわれました。発起人は106名に上ります。
 「結成趣意文」は以下の通りです。
 2013年1月28日、沖縄は極めて重要な歴史的意義をもつ「建白書」を日本政府に提出しました。オスプレイ配備撤 回と米軍普天間基地の閉鎖及び県内移設断念を求めて沖縄の41市町村すべての首長、議会議長、県議会議長らが署 名し、沖縄の総意として、安倍晋三内閣総理大臣に直接要請するという歴史的行動を興しました。
 そして去る1月19日、米軍普天間基地の辺野古移設の可否を最大の争点とした名護市長選挙において、「移設ノー 」を、名護市民は明確に示しました。にもかかわらず、日本政府は辺野古への建設強硬を明らかにしています。こ のことは名護市民の民意と尊厳を踏みにじり、社会正義と民主主義の基本をも否定するものです。
 沖縄の米軍基地は、米軍政下において沖縄の人々の人権を侵害し人道的な配慮を無視して建設されたものです。 私たちは1950年代、基本的権利を守るため島ぐるみで米軍支配に対して闘いを始めました。今なお国土面積の0.6% の沖縄に、米軍専用施設の74%が集中する実態は、社会的正義にもとる軍事植民地状態の継続です。沖縄の人々が 、人として生きることすら拒まれる基本的権利の侵害であり、経済的、社会的及び文化的発展の自由を否定する構 造的差別です。
 私たちには、私たちの土地、海、空を守る権利があります。このような権利は、地球上のすべての人々が共有す るものであり、人類が長年の努力から勝ち得てきた普遍的な権利です。国連の委員会では、沖縄のことについて沖 縄の人々が決める権利があるとし、日本政府に対して、基地を集中させる沖縄への差別と権利侵害を解消していく よう求めています。
 沖縄経済と米軍基地の関係について、県民総所得約4兆円のうち、米軍基地関連収入は約5%に過ぎず、基地の返 還跡地は、沖縄経済全体を牽引する発展の拠点となっています。たとえば、那覇新都心地区では、雇用者数が103倍、 直接的経済効果は69倍と、返還後は著しく増加しています。小禄金城地区や北谷町北前地区等においても同様に発 展しています。米軍基地の返還が、経済的発展の自由と自立と平和につながることを、沖縄の人々は気付いています。  基地に左右され続ける沖縄の未来を、私たちは拒絶します。そのような未来を子どもたちに残してはなりません。 私たちには、子どもたちに希望のある沖縄の未来を引き継いでいく責務があり、沖縄らしい優しい社会を自らの手 で自由につくっていく権利があります。2013年沖縄「建白書」の実現を求め、沖縄の未来を私たちのものとするた めに、オール沖縄の島ぐるみの再結集を、呼びかけます。
 以上です。


大阪アクション1年の歩み・2015年5月17日 集会&デモ

 ところで、この「結成趣意文」は「2013年1月28日」から始まる第1段落、「そして去る1月19日」から始まる第2 段落、「沖縄の米軍基地は」から始まる第3段落、「私たちには、私たちの土地」から始まる第4段落、「沖縄経済 と米軍基地の関係について」から始まる第5段落、「基地に左右され続ける」から始まる第6段落という計6つのセン テンスから成り立っています。


大阪アクション1年の歩み・2015年6月23日
「慰霊の日」大阪駅前キャンドル行動

 ここで、その一つ一つの段落は何を主張しているのかを見ていきます。
 「2013年1月28日」から始まる第1段落では、建白書の歴史的意義を説いています。
 「そして去る1月19日」から始まる第2段落では、地元自治体(名護市)の住民の意思が示されたのに、それを無 視する政府は民主主義に背いていると指摘しています。
 「沖縄の米軍基地は」から始まる第3段落では、沖縄の人々の基本的人権と自己決定権が差別によって侵害され ていること、現在も闘われている基地反対の運動は1950年代の島ぐるみ闘争からの継続であるとし、日米両政府 が作り出している構造的な差別との闘いであると宣言します。
 「私たちには、私たちの土地」から始まる第4段落ですが、筆者は『“県外・国外移設”に示される沖縄の思想 と自己決定権』(『共生社会研究 第6号』2011年)で、国連の人種差別撤廃委員会が2010年3月、日本政府に「最 終見解」(勧告)を提出したことを紹介しました。すなわち、
 「委員会は、沖縄の独自性について当然払うべき認識に関する締約国(=日本)の態度を遺憾に思うとともに、 沖縄の人々が被っている根強い差別に懸念を表明する。沖縄における不均衡な軍事基地の集中が住民の経済的、社 会的、文化的権利の享受を妨げているとする、人種主義・人種差別に関する特別報告者の分析をさらに繰り返し強 調する。委員会は締約国に対し、沖縄の人びとが被っている差別を監視し、彼らの権利を推進し、適切な保護措置 ・保護政策を確立することを目的に、沖縄の人びととの代表と幅広い協議を行うよう奨励する」と。
 第4段落では、このように国連の日本政府への勧告からも明らかなように、日本政府が沖縄の人々の人権と自己決 定権を侵害しており、沖縄はその獲得を求めると述べています。
 「沖縄経済と米軍基地の関係について」から始まる第5段落ですが、上記の国連人種差別撤廃委員会の「最終見解 」(勧告)が「沖縄における不均衡な軍事基地の集中が住民の経済的、社会的、文化的権利の享受を妨げている」 と述べているうちの「経済的権利の享受を妨げている」に該当しています。基地に依存しない経済発展をなしてい くことは、沖縄の人々が持っている自己決定権の一つです。
 「基地に左右され続ける」から始まる第6段落では、沖縄の社会を自分たちで作り出していく自己決定権の権利 を沖縄は持っていることの宣言です。
 経済的、社会的、文化的発展の自由を自ら追求していく権利及び政治的地位の自由な決定を自己決定権により実 現していく宣言です。


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