☆西浜さんのプロフィール☆
1944年生。1989年12月受洗。
2005年3月琉球大学大学院修士課程修了。
2009年3月大阪市立大学大学院博士課程単位取得退学。
現在、大阪市大人権問題研究センター会員ならびに共生社会研究会所属。
日本キリスト教団大阪教区沖縄交流・連帯委員会書記


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第111 号(2016年1月)

講演会「沖縄平和運動センター議長・山城博治が訴える! オール沖縄会議とともに、辺野古新基地建設阻止!」を開く。

 Stop!辺野古新基地建設!大阪アクションは、2015年12月18日(金)に沖縄平和運動センター議長の山城博治さん をお招きし、エルおおさかで講演会「オール沖縄会議とともに、辺野古新基地建設阻止!」を開きました。大阪教区沖縄交流 ・連帯委員会も呼びかけ団体の一つになっている市民グループが主催する集会なので、どのくらいの参加があるのか詳しくは 掴めず135名の会場を取りました。資料は150部用意しました。ところが、当日は220名を超える参加があり、消防法 の関係から急遽、隣りの部屋も借りることにし、そこではモニターで山城さんの話を聞いていただくことになりました。
 以下は、山城博治さんの講演要録です。


○戦線に復帰しました。
 会場凄い、一杯、熱気もムンムンですネ。みなさん!戦線に復帰しました。ご紹介いただきました山城博治です(鳴り止ま ぬ拍手)。お呼びいただきまして、本当にありがとうございます(拍手)。


「ちゅら海 ちゅら島 感謝 快気 山城博治 2015.8.26」タオルが送られて来た。

 4月24日(金)に入院し8月26日(水)まで約4ヶ月治療をしました。とりあえず元気になったことをまずご報告し ます(拍手)。ありがとうございました(拍手)。10月4日(日)から現場に復帰し、警視庁機動隊がやって来た11月 4日(水)からは、心配でたまらないのでそれまでと同じような行動を続けるようになりました。今は朝6時からゲート前 に立っております。沖縄市に住んでいるので朝4時起き、4時半出勤、6時前には現地に着くという毎日を過ごしています。
 ご案内のように辺野古は人数が増えてゲート前に座り込むと工事が止まるのです。今、毎週水曜日、仲間たちが500名 から1,000名が集まって工事を止めています。残念ながらその翌日の木曜日には、満を持した機動隊がまた総がかりで 襲いかかってきます。実に昨日のことですネ、木曜日。300名ほどの機動隊がやって来て、座り込んでいる150名ほど の仲間たちを次々排除して、いつものように仮設のオリに閉じ込めて、工事車両がどんどん入っている。しかし水曜日には 止めることができているので、私たちの今の希望は週1回のこの行動を週2回、出来たら3回に拡げようと訴えているとこ ろです。
(筆者注:オール沖縄会議は12月29日(火)に開いた初の幹事会で、毎週水曜に実施している総行動を木曜も実施する ことを決めた。)
 先週の12月5日(土)、また私は身柄を拘束されてしまって“もしかしたら18日(金)は大阪に行けないのかナァ。 19日(土)、多田謡子反権力人権賞の受賞式にも行けないのかナァ”と思っていましたが、幸い一晩で出てこれました。 (筆者注:多田謡子反権力人権賞は、29歳で死亡した多田謡子を記念して、多田の遺産をもとに1989年に創設された。 毎年、自由と人権を擁護するために活動しているとされる個人または団体に贈られ、2015年は山城博治さんほか2名が 受賞した。)

○帽子と手拭いのスタイルになったわけ
 この日の講演会のチラシの写真が、トレードマークの帽子と縞模様の手拭いスタイルのものだったので、ここで山城さん は同じ帽子と手拭いを着用した。拍手が鳴り止まなかった。


トレードマークの帽子と縞模様の手拭い

 12月14日(月)に持たれたオール沖縄会議の結成大会でも現場のスタイルでやらせてほしいと頼んでこの帽子と手拭 いで挨拶をしました。昨年2014年夏に座り込みを始めた時に、あまりの灼熱に唇が全部ただれて、2ヶ月ほど水をラッ パ飲みできない、食事もできないのでパンをちぎってのどに放り込んでいた。最初はマスクをしていた。サングラスをして いた。でもこれは不気味(笑)。それでサングラスをとりました、マスクもとりました。唇がただれるので髭を生やしまし た。髭の伸び具合が遅くて唇まで被らない。そこでタオルを被った。短いのではダメなので長いのを使った。これだとマイ クも使える。そうしていると段々イメージが出来てしまって、違う帽子を被ると「あの帽子はどこにいったか?」、違う模 様のタオルを使うと「あの縞模様のタオルはどこにいったか?」と言われるのです(笑)。
 でもこのスタイルも効用があるかなぁと思います。東京から来た警視庁が手を出せない。「あの縞模様のタオルの男には 手を出すな」となっている。最初11月4日(水)に警視庁が来た時に、マイクを持って突っ立っていた私とすれ違いざま、 いきなり東京の機動隊員に「どけ!」と言われて、どつかれたのです。私は抗がん剤治療のために胸にポートを埋め込んで います。そこを力任せにどつかれた。潰されるとまた切開して埋め込まねばならない。それで沖縄の機動隊の責任者に抗議 したわけです。「いくら警視庁が山城を知らないと言っても、病み上がりで胸にポートが入っているのに、それを力任せに やるとは許せん!再入院したらお前たちの責任だぞ」と言ったら、それからは段々少なくなってきました(笑)。手を出し ません。このタオルと帽子のせいだと思います。そういうことなら重宝しようと思います。もう帽子も穴があいている。実 は抗がん剤の治療で頭がツルツルになって、帽子はたくさん持っているのですが、ほかの帽子は被れないので、この帽子を 大事にしていきます。

○翁長知事とともに
 この日は講演の前に「速報 辺野古のたたかい 2015年8月〜11月」を上映した。
 今、翁長知事の映像がありました。しかし見事ですネ。言葉に熱がある、うそがないからですネ。本物の思いから発する 言葉というのは、“そうだ、そうだ”と共感を持たれる。人々を売って自分の腹を肥やす人間が俗に言う今までの政治家だ った。ところが翁長さんを見て、政治家でこういう人がいるのだと初めて感じた。自分の言葉を持っている。有権者に依拠 している。向かって来るであろう様々な障害を乗り越えて自分の政治信念を貫こうとする政治家が出て来た、野党ならいざ 知らず。権力を行使する人、そういう発言をする人というのは、私たちも長年現場で運動してきたが、初めてじゃあないか と思う。あの人の言葉にはウソがない。今、私たちは立派な知事を抱いて、我々自身も決意を固めて“引けない闘い”じゃ なくて、“進む闘い”を進めていく(拍手)。そういう立ち位置にいる。


立ち見も出た超満席の会場

 翁長さんと会って思った。言葉を磨かなければならない、言葉に命を吹き込む、言葉を持って人々を感動せしめよという 時の話というのはどこから来るのだろう?それは詭弁でもない、ウソでもない、方便でもない。その人の揺るがない信念と 理想、それにかける情熱と熱意、一緒にがんばろうやというかけ値のない訴えがあるから言葉に命が吹き込まれて共感する のだと思う。今、我々はそういう知事を持った。戦後史初めて権力に迎合しないで、ウチナーンチュひとり一人のために生 きようとする政治家が出て来た。
 そうすると名護市長も元気が出た、議員たちも元気が出た、現場も尚更元気が出た、闘える、今なら闘える、よし、今闘 おう、今闘わないでいつ闘うのだ。今、勝たなければずーっと勝てない。
 戦後70年、日米両政府にやりたい放題やられてきたけれど、いつも悔し涙ばかり流してきたけれど、今闘わなければ勝 ち目はないハズだ。一度でいいから勝ってみたい。たとえ勝てないとしても、精一杯闘った、今の世代は翁長さんとともに 身体の限りをつくして頑張り抜いたということが歴史に残る。そのためにみんな生きよう、そのために声を上げよう。ゲー ト前に集まっているみなさんはそんな想いだと思う。そんな想いでゲート前は動いています。素晴らしい空間です、不思議 な空間です。

○感動と感激の辺野古ゲート前
 だから、現場に立っていて毎日が感動だし感激です。生きていて良かったと思いますヨ、みなさん(拍手)。現場に戻り たい、現場に帰りたいという一心で治療をしてきましたが、こういう人たちと出会えて、戻れて良かった。闘えるなら最高 だ。ここで命落ちるものなら落としてみろ。ここで命果てるなら果ててみようじゃあないか。しかし最後まで闘いに立つ! そんな思いがします(拍手)。
 私たちは辺野古総合大学だと言っていますが、ゲート前は面白い。歌もあるし漫談もあるし講話もあるし、様々です。そ の後ろにあるのは希望でしょう。ゲート前は全部手探りで運動を始めました。変わらない信念があったのは、辺野古の闘い は全国の支援なしでは闘えないということ。時々、真面目な方が「沖縄のことを思うと中々沖縄に来れなかった。初めて沖 縄に来ました。辺野古に来るのに躊躇しました」と言われる。しかし私たちが言っているのは「みなさんのように良識的で 理解のある方が躊躇したら、一体誰がゲート前に来てくれるのですか?みなさんのように理解ある人が来なければ、ここは ガラですヨ。そういう遠慮は要りません。もし十分知らない方なら、ゲート前に来て話してください。ゲート前で語り合っ てください。ゲート前で座り込んで学んでください。そして自らのものにした暁には、それを持ち帰って広めてください。 それが交流で連帯じゃないですか」と言い続けてきました。そういう意味では、今全国から来られるようになって本当に嬉 しく思います。みなさん、辺野古に行くのに遠慮は要りません。


熱弁をふるう山城さん

○苦しいものは苦しいと言おう
 似たような話がたくさんありますが、この間、涙なしには聞けない話がありました。肋骨を折られた70代の女性が「 肋骨を折られたと言いたかったが、これを言えば県民が引いて驚いて現場に来なくなるのではないか」と思って黙ってい ましたという話が漏れ伝わってきたんです。
 私たちは一人一人でつながろうと言っています。集まって来た人は組織でもなく、みんな個人個人で来ているハズです。 その人が自分の痛みを自分で囲っておれば心が折れてしまう。マイクを握っている私の心が折れてしまう。なぜそこまで無 理をするのですか?無理をしたらならんでしょ、大衆運動の中では。痛いものは痛いと言う。苦しいものは苦しいと言う。 悲しいものは悲しいと言う。そして手をつながり合って進むから大衆運動なのでしょう。それを一人で囲っていたら運動に ならない。だからみなさん、どうぞ遠慮なく痛いものは痛いと言い、苦しいものは苦しいと言ってください。そういう形で 今運動を進めています。

○逮捕者が出たら、みんなで取り戻す
 もう一つ、いつも言っているのは、逮捕者が出た場合に仲間を取り返すための力というのは大変なものです。運動の半分 以上はエネルギーが割かれます。しかし事と場合によっては余計な仕事だみたいに考えてしまう傾向も無きにしもあらずじ ゃあないですか?ところが、私が思うに捕まったら自己責任だとか、自分でやれとか、弁護士付けるからがんばってネとい う話だったら、怖くて大衆運動の現場に来れないですよネ。現場に立てないと思います。拘束者が出たりすれば、みんなで 取り返す、全エネルギーを傾けてでも取り返しに行く、その信頼があるから仲間は安心する、来れるわけです(拍手)。
 運動の大事さは柔軟で意見を聞きながらも、なおかつ全体として統一意思を作る、確固たる意志を持ち続ける、ここです。 ここに辺野古の運動の原点を作ろうという想いでいます。

○辺野古の雰囲気が変わった
 昨年2014年7月に始めた時には様子が分からないので、激しく機動隊とぶつかり、トラックの前に座り込んでいまし た。そして夏休みになって、子ども連れのお母さんも来るようになった。あるいはおじいちゃん、おばあちゃんに手をつな がれて小さな子どもが来るようになった、その時です。今のままの運動をしておれば運動が持たない。運動は徐々にではあ るけれど拡がりをみせている。そうであれば、現場の運動のあり方も少しずつ変えていかねばならないと思うのも当然です。
 そこで運動を激化する方向から少しずつ引いて、親子でも高齢者でも参加できるようにしなければならないと思って、そ こからですネ、唄を歌ったり、カチャーシーをしたり、様々な替え歌を歌ったり、みんなで手を取って辺野古ラインダンス を踊ってみたりするようになり、少しずつ辺野古の雰囲気ができたというのが実状だと思います。


トレードマークで語る。

○オール沖縄会議が結成された。
 ここに来る直前の12月14日(月)に「辺野古新基地を造らせないオール沖縄会議」が立ち上がりました。凄かった です(拍手)。会場に1,300名、2階席まで一杯になるくらい来てくれました。これは実は辺野古の座り込み現場か ら提案した課題でした。昔あった復帰協と同じような全県を網羅するような大衆団体を作って、辺野古現地の闘いを支援 し、翁長知事を支える、そういう陣型を作りませんかという提起をさせてもらいました。
(筆者注:復帰協の正式名称は沖縄県祖国復帰協議会。1952年4月28日の対日講和条約発効で沖縄が日本から切り 離された日を期し、1960年4月28日に結成。1961年から毎年、祖国復帰県民総決起大会を開催、辺戸岬沖の海 上集会を開くなど復帰運動の推進母体となった。1977年5月15日解散)
 新里米吉県会議員が準備委員会の委員長になられて、事を進めてわずか2ヶ月で立ちあげることができた。結成大会の その日に、現職の自治労委員長が事務局長に就任することを決断してくれました(拍手)。自治労沖縄県本部の決意があ ったからオール沖縄会議が発足しました。
 辺野古の闘いは今や基地問題の一点、ワン・イッシュを超えてあらゆる領域に広がっていることはみなさん、ご存知の 通りです。民主主義の根幹、人々のいのちとくらしの根幹に関わる課題になっています。何故か?民意に反して、それを 封殺して政治を行っていくことは近代民主主義政治にあってはならないことです。国の悪事は絶対許さない!(拍手)

○東京警視庁は沖縄から出て行け!
 機動隊が暴走し続けています。11月4日(水)から東京警視庁から150名体制で来ました。隣りにあるカルチャリ ゾートホテルに投宿しています。最低でも1万円の部屋に泊まっています。高いところは2万とか3万とかするホテルで す。そこに150名ですから1万円として一晩で150万円、30日で4,500万円、10ヶ月かけると4億5,00 0万円。これだけを使って今、私たちに襲いかかってきています。あり得ないことです。そんなカネがあるならフクシマ へ、被災地に回せ!(拍手)たらふく飯食って、夜はホテルの敷地のイルミネーションの世界で“素敵だナァ〜、いつか 母ちゃんと来てみたいナァ”と思っているのか?そんな馬鹿な話はない。
 だから私たちの憤りは激しいわけです。そこからやって来て、毎朝、毎朝私たちを絞め殺すゾ!という東京警視庁もい るわけです。それでホテルの前で抗議のコールをしている。「東京警視庁帰れ!暴力集団帰れ!沖縄県民を圧殺に来たの だったら許さない!東京にさっさと戻れ!」と続けています。そうすると東京の連中も少し静まってきた。それでどうな ったかと言えば、警視庁の中から「何で東京だけがエライ目に遭うのだ」と(笑)。そこで北海道から鹿児島まで交替で やろうかとなった(笑)。恐ろしいでしょう。選抜チームと言うのだそうです(笑)。全国から来るのであったら、みな さんも全国から駈け参ぜねばなりませんネ(拍手)。全国の機動隊選抜チームを全国の選抜座り込み隊で跳ね返してやろ うではないか!(拍手)こういうことが近々始まるでしょう。
 安倍は何としても抑え込みにかかっている。もしかすれば、今の300名体制の機動隊が500名体制になるかも知れ ません。凄まじいです。300名の機動隊が戦闘服でズラズラ〜と走ったり、上がったり下がったりすると戦争が始まっ たのかと思います、毎朝ネ。
 最近よく感じます。軍隊というのは外に向かう暴力装置です。機動隊は内に向かう暴力装置です。外に向かう軍隊、内 に向かう軍隊と考えれば分かり易い。人民を圧殺する機関としては変わらないわけです。国家権力というのは、そういう 意味では最終的には暴力です。軍隊という暴力、警察という暴力、海上保安庁という暴力、この暴力が今沖縄に総力で襲 いかかってきている。このことをまざまざと感じることができます。みなさん!権力の姿を現場で見ませんか!(拍手)

○沖縄のお年寄りは…。
 沖縄のお年寄りたちの話をします。この世代は我々と違って本物の戦争を体験してきた世代です。沖縄の70代、80代 の人たちが現場で座り込むのは、機動隊が300名来たり、新しい2,000m級の滑走路や軍桟橋が出来て云々という時 に、70年前の戦争の記憶が蘇るのです。これは理屈じゃないです。またあの時代に逆戻りするのかという恐怖があの世代 を押しているのだと思います。ここに繋がっていかなければなりません。


2015年11月22日、奈良での集会でご夫妻と。

○アメリカからも連帯の動き
 12月11日(金)には、アメリカから「平和を求める元軍人の会(ベテランズ・フォー・ピース)」のメンバー11 人が辺野古の座り込みに参加しました。凄かったです。彼らはベトナム戦争やイラク戦争に行った体験から、アメリカの 武力攻撃に反対し、「新たな戦争につながる基地は造らせない」と声を上げました。24時間、毎時間、退役者が自ら命 を断っていると言っていました。病気で死ぬより自ら命を断っている退役軍人の方が多い。それくらい疲弊している。戦 争に行けば、国が言っていたことが全部ウソだったということが分かる。正義の戦いなんてウソだ。人々を殺して、これ が正義なんだとはあり得ない。そう言って、みんな本国に帰って苦しんでいるそうです。
 そういうみなさんが全米で組織をして「辺野古に基地は要らない。新しいアメリカの海外基地は要らない」という決議 を挙げた。「みなさんと連帯する」と言う話をしてくれた(拍手)。

○非暴力直接行動
 着実に広がります。世論は拡がります。訴えは拡がる。そらそうでしょう、拡がらなきゃウソですヨ。我々もなまじっ か座っているわけじゃないんだ。命を張って身体を張って、日本の世論、世界の世論に訴えようと思ってがんばっている。 それが今少しずつ花開いてきている。そういう感じがします。そうであれば更に声を挙げなければならない。更に運動を 広げなければならない。
 運動は非暴力です。しかし非暴力と無抵抗は違います。私たちの非暴力は直接行動で座り込みをして、身体を張って止 める!そういう闘いに希望を見い出そうと思っています。だから機動隊の圧力にもさらされますが、そんなのに負けてい られない。
 闘いは今!(拍手)現場はここ!(拍手)闘いの現場はゲート前、声を上げるのもゲート前、そして全国に発信するの はここから、世界に発信するのはここから、辺野古から現場から。闘いに勝利を!人民の未来に勝利を!こういう闘いを またこれから作っていくでしょう。
 みなさん!がんばりましょう!(鳴り止まぬ拍手)

○「沖縄の未来は沖縄が拓く」を全員で合唱する。


「沖縄の未来は沖縄が拓く」を合唱する。

 私がこの唄を作ったのは、高江のことも忘れていないということ。与那国に自衛隊基地が出来ます。宮古島にミサイル 基地が出来ます。離島で闘っている仲間を決して忘れないという意味で4番目の歌詞を入れました。
 みなさん、一緒に歌いましょう!


山城さんの隣りで歌う筆者

沖縄の未来(みち)は沖縄が拓く
作曲:不詳 作詞:山城博治

沖縄の未来(みち)は沖縄が拓く
戦世(いくさゆ)を拒(こば)み、平和に生きるため
今こそ立ち上がろう 今こそ奮い立とう
辺野古の海を守り抜くために
圧政迫るが、立ち止まりはしない
今こそ立ち上がろう 今こそ奮い立とう
高江の森を守り抜くために
力を合わせて、スクラム固めよう
今こそ立ち上がろう 今こそ奮い立とう
島々の暮らしを守り抜くために
思いを巡らせて、心を通わそう
今こそ立ち上がろう 今こそ奮い立とう


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