☆西浜さんのプロフィール☆
1989年12月受洗。
2005年3月琉球大学大学院修士課程修了。
2009年3月大阪市立大学大学院博士課程単位取得退学。
現在、Stop!辺野古新基地建設!大阪アクション共同代表、日本平和学会、日本解放社会学会各会員。
日本キリスト教団大阪教区沖縄交流・連帯委員会書記


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第115 号(2016年5月)

地元2紙は、5・15「社説」で何を主張してきたのか。(その1)

 1972年5月15日、27年間米軍政下にあった沖縄の施政権が日本に移った。当時、日本側からは“沖縄返還” と言われ、沖縄側からは“本土復帰”と呼ばれていた。
 なぜその日が1月1日や4月1日という区切りのいい日にならずに、5月15日という日に決まったのかと言えば、 日本の会計年度が4月1日から始まり、アメリカは10月1日から始まるので、ちょうどその真ん中の7月1日とし ていたが、ポスト佐藤の後継者として親米派の福田選出に有利になるとして5月15日になったのだとの説があ る。また、2011年12月に開示された外交文書で、実際は日本側の求めた4月1日に対し、アメリカ側が核兵器の 撤去が間に合わないことを理由に拒否し、5月15日に延びたとの説もある(『琉球・沖縄史』375ページ)。い ずれにせよ5月15日は沖縄にとって何らゆかりのある特別な日ではなく、沖縄の人々(ウチナーンチュ)をない がしろにした、日米両政府による妥協の産物だったことがここからも明らかである。
 沖縄では「復帰」という言葉にカギカッコを付けずに表示することに、抵抗感を持つ人が多くいる。そもそ も「復帰」という言葉は「もとの場所・地位・状態などに戻ること」(『広辞苑』)という意味だから、本来 独立した王国であった琉球を大日本帝国が1879年に武力を背景に併合(琉球処分)し、1945年の敗戦までの数 十年間、支配下に置いただけの地域を、1972年に日米両国の都合でその施政権を移動させたに過ぎないのだか ら、言葉の正しい意味での「復帰」というものではない。
 さて、この論考では1972年に沖縄の施政権が日本に移ってから今年2016年までの44年間、地元2紙(『琉球 新報』と『沖縄タイムス』。以下、前者を『新報』、後者を『タイムス』と略す)が5月15日付「社説」で何 を主張してきたのかを分析する。中央の大手紙と異なり、地元紙は購読者とより距離が近く、読者の行動、思 潮が紙面に反映され、地元紙の主張が読者に強く影響を及ぼし、オピニオンリーダーの役割を果たすという相 関関係にあるところから、施政権移管後の沖縄の政治思想の変遷・深化を考えるに当たって、一つの有効な手 掛かりになると考えるからである。
 ここでは44年間の時代区分を、第T期:1972年から1982年までの移管後11年間、第U期:1983年から米兵に よる少女レイプ事件が発生した1995年までの13年間、第V期:1996年から2007年までの12年間、第W期:2008 年から今年2016年までの9年間とする。それに従って4回にわたって連載する。
 なお、論文の引用は抜粋であり、段落は無視して引用している。

T 第V期の政治・社会状況

 まず第1回は、1996年から2007年までの第V期を取り上げる。1995年9月、3人の米兵が女子小学生をレイプ する凶悪事件が発生した。それに抗議する広範な民衆決起が起こり、大田知事が代理署名を拒否。同年10月に は「米軍人による少女暴行事件を糾弾し日米地位協定の見直しを要求する沖縄県民総決起大会」が開かれ8万5, 000人が参加した。翌1996年4月、普天間基地の返還が橋本・モンデール会談で発表されたが、それは県内移設 を条件とするものだった。それに対し名護市民は1997年12月に海上基地建設の是非を求める住民投票を実施、 52.86%が反対したにもかかわらず、比嘉名護市長は基地受け入れを表明し市長を辞任した。
 1998年2月、名護市長選で岸本建男が、同年11月、知事選で稲嶺恵一が当選。ともに条件付き基地容認派であ り、県民世論が経済振興策との絡みで分裂し、沖縄の基地問題は閉塞状況を迎えることとなった。そうした中、 2004年8月、CH53型ヘリが沖縄国際大学に墜落した。
 一方、2007年3月、文科省がいわゆる「集団自決」で日本軍による強制の記述を修正・削除した教科書検定結 果を公表したことにより、現在の“オール沖縄”の原型とも呼べる大きな民衆運動が起こる、その直前までを 分析する。
 

U 第V期の「社説」

1.1996年5月15日
 1995年9月の少女レイプ事件後最初の「社説」である。「未来へ向かった復帰記念日」と題した『タイムス』 は、この1年間に、米軍基地問題を軸に沖縄は激しく変化したところから、かつてない5・15だと言うが、事態 は思わぬ方向に歩を進めている。基地のたらい回しだったとする。その中で、脱基地で県民主体の未来を築き たいと具体的に考え出したことはかつてなく、これまでになく市民が主体的に社会にかかわり自治・自立の機 運が高まっていると分析する。そして、軍事拠点から平和交流の拠点への転換。県民はとてつもない大きな課 題に取り組んでいる。道は険しく楽観はできないと、まとめている。
 一方、「転機つかみ展望開け」と題した『新報』は、戦後五十年もの間、微動だにしなかった米軍基地が、 昨年九月の少女乱暴事件を契機に打開への大きなうねりとなったとし、これから計画的に次々と基地が返還さ れていく初年度でなければならないと記す。その後の経過を見ると何と楽観的な見方であろうということが分 かる。それは、県は基地返還アクションプログラムを策定、…あと二十年近くも基地と共存しなければならな いのか、…やむを得ないことだろう、として述べていることからも見てとれる。

2.1997年5月15日
 『タイムス』、『新報』両紙とも、この日より改正米軍用地特措法に基づく暫定使用に入ったことを取り上 げている。
 「本土でない日本の沖縄だ」と題した『タイムス』は、「核抜き本土並み」をうたった返還は、県民を差別 し、欺くものでしかなかったと断言し、格差感を縮めるには基地の整理・縮小以外にないと主張する。米軍の 影響力を肯定した本土側は、基地の本土移設を否定しており、「独立論」や「反復帰論」も台頭してきたと述 べる。
 「平和共生/基地より人権優先を/「沖縄の責務」決意新たに」と題した『新報』は、最大の障壁は、主権 国であるはずの日本政府が、米軍統治時代と同じように沖縄基地の安定的な提供と事実上の自由使用を米側に 保障することを、最優先していることだとする。そして、県民世論も基地の移設問題をめぐり経済振興策との 絡みで分裂する兆候がみられる。沖縄自身、もう一度、基地問題でつまずく恐れがある。楽観的なことより、 むしろ悲観的な材料が増えていると、1年前の楽観的な分析と異なり、悲観的な論調が基調となった。

3.1998年5月15日
 「閉塞状況下の復帰26周年」と題した『タイムス』は、基地問題も経済振興も行き詰まっている…。今のま までは、普天間飛行場の返還はもちろん米軍基地の整理・縮小の展望は開けない…。基地の整理・縮小も県経 済の自立化に向けた振興策も、海上ヘリ基地問題でつまずいてしまい、支えとなる打開策が見つからない…。 政府の県に対する姿勢が急変したのは、海上基地建設計画に対する大田昌秀知事の反対表明への不満が根にな っている…。現実的な対応とは何だろう。海上基地を認め、振興策を引き出すことだろうか。…これでは、基 地の整理・縮小が進むとは思えないと、閉塞状況に危機感を募らせる論調となっている。
 「二十六年前のきょう、「沖縄県」が誕生した。」と題した『新報』は、1年前に県民世論が経済振興策との 絡みで分裂する兆候がみられると述べたが、この年も同じ論旨で訴える。それは『タイムス』とも共通するも のである。すなわち、一九九五年の少女乱暴事件以降、…海上基地建設はじめ「沖縄問題」が一挙に噴出した 。いろいろな形で「沖縄」がこれほど関心を持って語られたのは復帰後はじめてだろう。しかし、「普天間基 地」は、返還はおろか、県民的にも新たな政治的な対立を生み、解決の糸口すら見えない、とする。
 1年前、『タイムス』が「独立論」の台頭に注目したが、『新報』も、本土への基地の分散論の声はいまだに 聞えてこない。国民の理解どころか、国民論議にもなっていない。基地の県内移設を認めるか否かは、県民に とっては「新たな基地建設」を「容認できるかどうか」という歴史的苦痛を伴うものだが、本土はそのことす ら理解できないでいるようにみえる。痛みと負担は分かち合わない。そのことに県民はいらだちを覚える。こ うした不信が独立論のブームになっているとし、琉球王国へのノスタルジア視すると見誤る、と主張する。

4.1999年5月15日
 「県民の主体性が問われる」と題した『タイムス』は、昨年暮れの県政の交代で様相は一変した。政府と県 の関係は改善され、政府は稲嶺恵一県政を全面的に支援する態勢である。最大の理由は、稲嶺知事が、…県内 移設を容認する姿勢を取ったことにあると分析し、県政が交代して以降、自治体の基地に対する姿勢も変わっ た。振興策を条件に移設を受け入れる自治体が出てきた。誘致活動を展開する勢力も台頭している。これまで の二十七年間になかった現象である。昨年の今ごろに比べ、著しい状況の変化と言える。日米特別行動委員会 (SACO)合意は、県内での整理・統合・縮小を内容としている。「本土並み返還」はいつまでも達成されない 恐れがある。県内基地の県外への移設は政府の予測にない…。今年は、県内外の状況が大きく変わる中で5・15 を迎えた。県民の主体的選択が迫られるときだ…と、県民の主体性を問うている。
 「安保優先で問題先送り」と題した『新報』(5月14日付)は、復帰してから二十七年になる。戦後の米軍統 治時代と同じ年月だ。基地問題をはじめ、基本的な問題は現在に持ち越された。安保優先と、その場しのぎの 対応が沖縄問題の解決を遅らせている。沖縄での米軍基地建設が日本の経済大国の礎となり、防衛問題を沖縄 が過重に担うことで日本経済は成長していった。私たち県民は、復帰の原点を見詰め直し、自主、主体性の確 立、経済の自立に向けて決意を新たにしたい、と『タイムス』と同じく、主体性の確立を訴えている。

5.2000年5月15日
 「復帰28周年/方向が見えない沖縄社会」と題した『タイムス』は、外的要因に依存し、自らの技術力や生 産力が弱く、伝統文化も失いつつある沖縄は、いかに所得が増えようとも貧困化している…。一人当たり県民 所得の全国との格差は、一九九〇年代に入って逆に開きつつあり、ついに七〇%を切った。沖縄は今、政治の 面でも経済の分野でも、大きな曲がり角にある。その認識は広く共有されている。だが、進むべき方向性につ いては、共通認識がない。大きな曲がり角に立っているにもかかわらず、進むべき方向についてのコンセンサ スが成立していない。「経済」と「基地」と「沖縄アイデンティティー」が絡み合って、激しくきしんでいる …、と述べる。
 「基地のない平和な島、経済の自立」と題した『新報』は、普天間飛行場の移設問題に象徴されるように、 政府は県内におけるたらい回しという解決策しか提示できず、しかも基地機能は一段と強化されようとしてお り、県民の苦悩は深まるばかりである。政府が沖縄の地に立脚するのではなく、日米安保の視点で沖縄を見る 限り、政府に対する不信感は募るばかりである、と述べる。
 1998年ごろから、問われているのは主体性であるとの主張が出てきたが、この年もそのことを強調する論調 が『タイムス』にも『新報』にも共通している。
 そうした中、沖縄アイデンティティーの用語が初めて登場した。

6.2001年5月15日
 「復帰29年/歴史体験どう生かすか」と題した『タイムス』は、沖縄の住民にとって、…五月十五日の「復 帰の日」は、それを祝う日というよりもむしろ、復帰の内実を問い直す日として位置付けられてきたと記した 上で、「復帰の日」があまり重要視されず、意識の上でも希薄になっていったのは、九二年の復帰二十周年記 念行事を終えたあたりから、ではないだろうかと分析する。そして、 世代交代が急速に進み、…「ヤマト( 日本)−ウチナー(沖縄)」という対抗図式で物事を考える習慣は薄れてきたとも述べる。最後に、復帰後、 沖縄社会は急激に変ぼうしつつあるが、次の時代をどう構想するか、肝心の社会像はまだ、見えない。不透明 感を助長しているのは、…基地問題で県民世論が完全に二分されているからだと、結論付けている。
 「沖縄のパワー再構築を/社会全体に閉そく感が漂う/復帰29年」と題した『新報』は、県内にも閉そく感 が漂っている。沖縄社会から県民自ら現状を変えていこというパワーが感じられなくなっている。「普天間飛 行場の返還計画」は、政府による北部地域に集中した沖縄振興策も絡み、県民世論を分裂させ、沖縄独自のパ ワーを失わせた。日米両政府のパワーがいまのところ沖縄のそれを上回っている。不幸な事件直後と違い、沖 縄から外部へ発するメッセージがあいまいになり、弱くなっていることは確かだ。現在の閉そく感を打破する には、パワーの結集が不可欠だ。しかし、県民が現状を変えていくという意志と一致した行動がなければ、… 成立しないと、述べる。
 1998年に閉塞状況下にあると述べ、この年には『新報』も閉そく感が漂うと記している。『タイムス』も『 新報』も現状に対する危機感を強く表明している。

7.2002年5月15日
 「復帰30年/得たもの失われたもの」と題した『タイムス』は、復帰後、沖縄社会は、猛烈な勢いで「本土 化・都市化・均質化」の波に洗われたとし、それに抗するように、現場の人たちが悪戦苦闘を重ね、地域づく りや文化運動に積極的に取り組んでいるのは、復帰三十年の明るい現実であることを紹介している。しかし、 長引く不況の影響もあって「自治自立」の気風が後退し、「寄らば大樹」「長いものには巻かれろ」「物食ゆ しど我御主」的な発想が広がっている…。政府が…「基地を受け入れるなら振興策」「拒否すれば兵糧攻めの 制裁措置」という手法を取っている…。その結果、沖縄社会のひずみが固定化し、基地移設をめぐって深刻な 亀裂が生じてしまった。沖縄社会の中で「受益者」と「受苦者」の区別が鮮明になりつつある…と、述べて、 矛盾に満ちた現実に目をつぶるな…と結んでいる。
 「自助・自立の気概をさらに/望んだ姿から程遠い現状/本土復帰30年」と題した『新報』は、日本国憲法 の下で平和な暮らしを確保したいというのが復帰運動の原点であった。あれから三十年、沖縄の姿は果たして 県民が望んだ通りのものになっただろうか。残念ながら、そうはなっていない、と述べる。
 まず、米軍基地の問題だが、整理縮小されたとは全く言い難い。…それはほかでもない。日本政府が米国に 対し、整理縮小を求めないからだ。政府は…自助・自立に欠かせない「自己決定権」は与えず、根っこのとこ ろは完全にコントロールしている…。本年度から新たな振興計画がスタートする。ここで求められるのは、自 助・自立の気概をもって、臨むことだ。…こうした努力を積み重ねていくことで、米軍基地の問題でも再度、 日米政府を突き動かすことができると、している。
 このように、『タイムス』は、復帰30年を迎えて「本土化・都市化・均質化」が急速に進み、「自治自立」 の気風が後退していると言い、同じ趣旨を『新報』は自助・自立の気概を持てと言う。矛盾に満ちた現実に目 をつぶらず(『タイムス』)、再度、日米政府を突き動かそうと(『新報』)、必死に呼びかける。
 そして、否定的な意味合いで表記されているが、初めて「自己決定権」が『新報』に登場した。

8.2003年5月15日
 「復帰31年と有事体制/憲法か安保か、問い今も」と題した『タイムス』は、くしくも沖縄が本土へ復帰し て三十一年目の日にあたるきょう、有事関連法案は、衆院本会議を通過する、ということから論を始める。九 六年四月の橋本首相とクリントン大統領による日米安保共同宣言で有事の共同研究は始まった。 日米同盟の 進展から見えるのは、有事関連法案が、専守防衛の範囲を超え、自衛隊と米軍の共同行動の拡大へ道を開く懸 念である。沖縄返還に際し、「憲法復帰か、安保体制への復帰か」が問われ(た)。いま、日本全体が大きな 曲がり角に立っている。沖縄はこの流れに無関係ではない。三十一年前の問いの重要性はむしろ強まっている と、警戒心を持つように諭している。
 「復帰の宿題を片付けよう/基地、失業、そして自立へ/本土復帰31年」と題した『新報』は、復帰後も変 わらぬ米軍基地問題の抜本的解決には、国土の0.6%にすぎない沖縄県に75%が集中する在日米軍専用施設の 削減と、事件・事故を多発する在沖米海兵隊の削減・撤退しかない…。批判されるべきは…米軍駐留の必要性、 地位協定問題の本格論議を恐れて回避し、米軍基地問題を「沖縄振興問題」に摺り替え続ける政府の姿勢であ ろう。いま県民には、米軍基地の政治的・経済的呪縛を断ち切る勇気と、基地・財政依存を超え発展できる沖 縄の将来ビジョンを描くしたたかな構想力、そしてその実行力が求められている、とする。
 このように、『タイムス』と『新報』では随分色合いの異なった社説となっている。『タイムス』は有事関 連法案の沖縄にとっての危険性を全面に展開しているのに対して、『新報』は米海兵隊の削減・撤退の主張は おこなってはいるものの、比重は将来ビジョンを描くしたたかな構想力とその実行力を県民に求めるものとな っている。

9.2004年5月15日
 「主権国家・日本の現状問う/軍事、米国依存から脱却を/本土復帰32年」と題した『新報』は、復帰から 三十二年。今も沖縄には米軍専用施設の75%が集中し、過重な基地負担、年間百件を超える米軍犯罪、レイプ や殺人が繰り返される。だが、米軍司令官は部下の犯罪を抑止する力すらなく、爆音被害も基地の環境汚染も 放置され、地位協定の改定で問題の抜本解決を求めても、耳を貸さない日米両政府、と言う。これはまさしく、 2016年今日の状況と瓜二つである。沖縄は何も変わっていないことを示している。
 そして、さらに次のように記載する。得たものは基本的人権、自治権の確立、財産権、国政参加権、そして 生命の安全。突き詰めると、それは「日本国憲法」に収れんされる。復帰で…失ったのは豊かな自然。弱まっ たのは自主独立の気概、護憲力、平和を希求する力、メッセージの発信力。そして発言力。突き詰めると「沖 縄の心」に収れんされる。「まだ得ていないもの」もある。核抜き本土並み返還、法の下の平等、脱基地経済、 自立経済だ。基地の過重負担や、事実上沖縄だけに適用される米軍用地特措も「法の下の平等」に反している。 沖縄が戻りたかった日本は、有事法制を整え、自衛隊を軍隊に育て、海外に派兵、憲法を形がい化させるよう な国ではなかった、と。
 「復帰32年の課題/平和と自治を目指して」と題した『タイムス』は、自衛隊は…宮古、八重山への…部隊 配置を検討しているという。「国境の島」を防人とする国の論理を感じ取らざるを得ない。そこに本土防衛の 「捨て石」とされた沖縄戦の記憶が結びつく。日米同盟の重視は、憲法の改正論議と重なる。九条改正で自衛 隊を軍隊と位置づけ、自衛権や集団的自衛権の行使まで容認の方向にある。復帰前後、英知を傾け作成された 「復帰措置に関する建議書」(@自治の確立A反戦平和B基本的人権の確立C県民本位の経済開発)はいまな お輝きを失ってはいない。「新生沖縄県」の具体化は、私たちに課せられた責務となった、として、集団的自 衛権の行使容認に警笛を鳴らし、平和と自治の確立を説く。

10.2005年5月15日
 「戦後60年/5・15 基地と住民/道義をもって矛盾を突く」と題した『タイムス』は、普天間の危険性は、 昨年八月のCH53型ヘリ墜落を例にするまでもなく、両政府も認め、返還合意をした。名護市民投票や世論調査 で明らかになったのは、県民の県内移設への強い批判であった。住民の理解を得ることのできないプランは、 地元での亀裂を含め混迷を招くだけだ。三月、…大野功統防衛庁長官は、米海兵隊が沖縄に駐留する意味を問 われ、「歴史的にあそこ(沖縄)にいるからだ」と答えた。安全保障上の理由ではないらしい。しかも歴史的 にも不透明である。在沖米軍の中心をなす第三海兵師団は五三年、山梨、岐阜両県に移駐した。沖縄への移駐 は五六年で新たな基地拡張を伴った。だが当時の在沖総領事は、陸軍省や海兵隊上層部さえ反対している、と 沖縄移駐を批判した秘密書簡をワシントンへ打電している。
 このように、海兵隊が沖縄に駐留する意味はないことを初めて主張した、歴史的な社説が掲載された。
 「本土復帰33年/「自立」の気概を今こそ/基地に翻弄されない沖縄に」と題した『新報』は、「沖縄の負 担軽減」は車の両輪の一方ではなく、「抑止力の維持」に付随する添え物にすぎないのではないのか、との主 張は2002年の「社説」とほとんど変わらない。

11.2006年5月15日
 「本土復帰34年/愚直に声を上げ続けたい」と題した『タイムス』は、「 5・15平和行進」の東コースは今 回初めて辺野古からスタートした。「愚直なまでに声を上げる。基地はいらないと訴えていく」ことの重要性 はこれまで以上に増している。基地問題は県民すべての問題だということをあらためて自覚する必要があろう。 沖縄の基地はサンフランシスコ講和条約によって生まれた「負の遺産」だ。シュワブ沿岸部への「普天間」代 替施設建設もその一つで、戦後初めて県民の意思で基地を造るかどうかが問われている、と辺野古新基地建設 を意識する記事を書いた。
 「本土復帰34年/「人間の尊厳」取り戻そう/脱・基地で真に豊かな沖縄を」と題した『新報』は、そもそ も外交・国防を国の専管事項と決めつけることにも異論がある。沖縄戦から戦後の米軍統治へと続く「国策」 で、沖縄がいかに苦難の道を歩んだか。国の専管で片付けられてはたまらない。県益あっての国益であり、関 係自治体の意向を無視して外交も、国防もないだろうと、外交・国防は国の専管事項ではないと主張した。

12.2007年5月15日
 「復帰35年・基地/穏やかな暮らしなお遠く」と題した『タイムス』は、教科書検定で、二〇〇八年度から 使用される高校の歴史教科書の記述から沖縄戦における住民らの「集団自決」に対する日本軍の関与が削除さ れた。日本軍の強制という意味合いを消し去り、日本軍による「加害性」を教科書から排除しようとの意図だ。 憲法改正手続きを定める国民投票法が十四日、…成立したと、その後大きな運動となる教科書検定について言 及している。
 「復帰から35年/まだ遠い「自立の確立」/対米従属からの脱却が先」と題した『新報』は、十四日には憲 法改正の手続きを定める国民投票法が…成立…。 その憲法は今年で施行六十年…沖縄に憲法が適用されてか らまだ三十五年と、『タイムス』と共に、国民投票法の成立を書いている。
 

V 第V期の小括

 1995年9月に発生したレイプ事件に抗議する大衆的な運動が起こったが、1998年2月、名護市長選で岸本建男 が、同年11月、知事選で稲嶺恵一が当選したことも大きく影響して、「普天間基地」は、返還はおろか県民的 にも新たな政治的な対立を生み、解決の糸口すら見えないと、1998年に『タイムス』は主張し、2001年には『 新報』が「普天間飛行場の返還計画」は、政府による北部地域に集中した沖縄振興策も絡み、県民世論を分裂 させ、沖縄独自のパワーを失わせたと言い、『タイムス』は基地問題で県民世論が完全に二分されていると分 析する。このように、基地移設をめぐって深刻な亀裂が生じる(2002年、『タイムス』)事態となったのであ る。
 日本政府は口が開けば、“抑止力の維持”と“沖縄の負担軽減”とオウムのように繰り返す。“沖縄の負担 軽減”とは、沖縄の基地負担の軽減のことだろうとヤマトゥに住む人々は考えがちだが、実はそうではなくて 、「『負担軽減』とは、基地を提供していることへの補償という意味」(『沖縄の自己決定権』176ページ)な のである。このように定義付けると上記の主張の理解が進むであろう。
 そうした状況を打破するために、1999年に『新報』は自主、主体性の確立を説き、『タイムス』は県民の主 体性が問われると主張し、2002年に『新報』は自助・自立の気概を持てと、『タイムス』は「自治自立」の気 風をと、沖縄民衆に強く主体性の確立を呼びかけている。それは何よりも基地の県内移設を認めるか否かは、 県民にとっては「新たな基地建設」を「容認できるかどうか」という歴史的苦痛を伴うものであり(1998年、 『新報』)、戦後初めて県民の意思で基地を造るかどうかが問われている(2006年、『タイムス』)からであ る。
 この第V期で、注目すべき諸点を列挙すれば、第一に、1997年に『タイムス』が「独立論」や「反復帰論」 の台頭を、翌年1998年には『新報』も不信が独立論のブームになっているとし、琉球王国へのノスタルジア視 すると見誤ると述べていること。第二に、2000年に『タイムス』が沖縄アイデンティティーを、2002年に『新 報』が自己決定権を初めて使用していること。しかしまだこの期ではその内容展開には至っていない。第三に 、2005年になって『タイムス』が、海兵隊が沖縄に駐留する意味はないと初めて主張したことである。
 こうした時代基調の中で、2007年になり、「集団自決」で日本軍による強制の記述を修正・削除した教科書 検定結果に反対する大きな民衆運動を招来することになる。この民衆運動はその後の島ぐるみ、オール沖縄に 発展する契機となったのである。


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