☆西浜さんのプロフィール☆
1989年12月受洗。
2005年3月琉球大学大学院修士課程修了。
2009年3月大阪市立大学大学院博士課程単位取得退学。
現在、Stop!辺野古新基地建設!大阪アクション共同代表、日本平和学会、日本解放社会学会各会員。
日本キリスト教団大阪教区沖縄交流・連帯委員会書記


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第116 号(2016年6月)

地元2紙は、5・15「社説」で何を主張してきたのか。(その2)

 この論考『地元2紙は、5・15「社説」で何を主張してきたのか。』は、1972年から2016年までの44年間の時代区分を、 第T期:1972年から1982年までの施政権移管後11年間、第U期:1983年から米兵による少女レイプ事件が発生した1995 年までの13年間、第V期:1996年から2007年までの12年間、第W期:2008年から今年2016年までの9年間とする。それ に従って4回にわたって連載する。今回は(その2)で、1972年から1982年までの第T期を扱う。

T 第T期の政治・社会状況
 (その2)は、1972年から1982年までの第T期を取り扱う。この激動の10年を、1981年の『タイムス』は次のよう に素描する。私たちの日常生活が円の物価体系にとけ込み、自由に使いこなすまでに二カ年はかかった。もう一つ 世替わりの不安と苦悩にさらされたのが、「ナナサンマル」とよばれる交通区分の変更だ。そのほか、歴史的な試 練として狂乱物価から深刻な経済不況、倒産・失業など、目まぐるしい社会情勢の変転にほんろうされた。米軍基 地への不安感は六七%の高率に達している。激しさを加える軍事演習、基地強化と平和な民生安定とは両立し難い と。
 以下にこの激動の10年を見ていく。

U 第T期の「社説」」
1.1972年5月15日
 この日、『タイムス』はこの年と翌年1973年、そして施政権移管から10年が経過した1982年の3回、「社説」と しては珍しくリードを記した。「現在の歴史の時点で…」と題した『タイムス』は、リードで「日本への復帰は、 沖縄の地位の正常化を意味するかもしれないが、現実には異常な政治状況のなかにおかれることになろう。それを 現在の歴史としてどうとらえるか。そこにわれわれの選択の問題がある」と記した。その上で、「直面する問題の 一つに自衛隊がある。…憲法と安保体制の対立という驚異の政治状況は、他に類例がない…。形の上では復帰によ って地位の正常化ではあるとしても、現実は新しい出発点において、異常の政治状況という重大な岐路に、われわ れが立っている。/現段階の共通の課題としては、やはり現在の憲法の原点への理解を深め、実践していくことで はないのか」と主張している。ここに尋常ならざる事態の到来を予言していることを読み取る必要がある。
 一方、「新生沖縄県民の誓い/全国民と平和、自治の確立へ」と題した『新報』は、「県民の願望だった復帰は 実現したがその内容は、県民が望んだものとは、ほど遠い」と述べ、「沖縄の米軍基地が、特に沖縄本島で、島の 主要地域を広範囲に占有し続けているため」「沖縄県の開発に重大な支障を与えている」ので「米軍基地を撤去、 または大幅に縮小しな」ければならないと言う。他方で、「沖縄県民の責務」は、「異民族支配の中で手さぐりで 体得した平和、自治、福祉の尊さを、…国民世論および国の政治に反映させる」ことだとその矜持を語っている。

2.1973年5月15日
 前年1972年に続いて、この年も『タイムス』は「社説」にリードを冠した。「押しつけられた状況…」と題した 「社説」のリードで「中央支配の強化、物価高や環境破壊の危機、それに基地依存という状況は、住民が希求し選 択したものではない。その意味で沖縄は、やはり岐路に立たされている」と述べる。
 現在の日本の政治状況は「憲法実践の勢力と安保貫徹の勢力との激しい対立関係であり、結果的には、ジワジワ と、ときには強引に、安保が貫徹されつつある」と説き、「それに伴って中央権力による支配が強化される」とす る。これが「復帰後一年、実際にそのことを体験し、見てきた」状況だと言う。「異常な政治、経済の状況が、ど っと沖縄に押しよせてき」、「利潤追求の資本によって、いま、沖縄は食い荒らされようとしている」と。移管後 1年の状況がこれだというのだ。これ以上の危機感の表明があろうか?
 1975年に開かれようとする海洋博についても、「資本参加によって大規模の観光開発も進められ」と、すでにこ の時点から警鐘を鳴らしている。「北部地区の至るところで土地不動産、観光資本によって農地、臨海緑地、海岸 線が買い占められ、山は削られ、ブルドーザーが緑をはぎとり、周辺緑地は赤土をかぶり、川や海に流されてサン ゴ礁やプランクトンを死滅させる−それが現状」だとする。
 基地に関しては、「復帰後、諸悪の根源といわれる軍事基地は存在しつづけ」、「自衛隊という名の軍隊が強行 配備され、特別国体には政治的に介入もした」とし、「現在の沖縄のどこに『平和・人権・民主主義』の憲法があ るのか疑わしい状況になりつつある」と言う。
 繰り返すが、施政権移管後1年にして、すでにこの状況である。
「軍事優先の返還交渉」と題した『新報』は、「復帰一年、…世論調査によると、最も切実な問題として物価高に よる生活不安と並んで基地問題があげられている」と言う。『タイムス』も『新報』も取り上げている「物価高に よる生活不安」は、この後も沖縄の民衆生活に大きくのしかかってくることになる。そして、「復帰後も米軍人に よる犯罪は、いっこうに減らない」とし、「依然として基地が沖縄の開発の一大障害である」と述べる。
 何を称して「軍事優先の返還交渉」と述べているのかと言えば、「日米安保協議委員会…初会合で双方が合意し た『沖縄を含め米軍事基地の役割りなどを洗い直す』という方針…軍事的な側面からの再検討ということで、あく までも軍事優先の考え方である」ことを指している。

3.1974年5月15日
 米軍基地問題は当然のことだが、前年に引き続き、海洋博と物価高が大きなテーマとして登場している。
 「復帰二年に思うこと/精いっぱい生きられる沖縄へ」と題した、『タイムス』は、「海洋博を絶対的なもの として位置づけ、それこそ猛烈過ぎるほどのスピードで、工事が進められている。そこには環境の事前評価など というものは、ほとんどない」、「沖縄そのものが破壊され、沖縄喪失が憂慮されるようになっている」、「現 時点で何らの対策もなく、急速な変化に適応できずに方向感覚を喪失し、押しつけられたスピードにたじろぎ続 けるか−そこが沖縄が当面している重大な岐路ということになる」と主張する。海洋博は沖縄そのものを破壊す るものだと述べている。
 「沖縄の物価対策強化を」と題した『新報』は、「復帰二周年・琉球新報社世論調査」で、『復帰前のほうが よかった』と感じている人々が増え続けている」と。それは「復帰後の異常物価高が、いかにきびしいものであ るかを示している」からである。基地に関して「復帰後もほとんどの基地は残されただけでなく、逆に機能の強 化さえ行われてきた。…米軍基地の現状を否定する県民が七〇%と依然高い」と言う。
 1973年7月16日、沖縄のジャーナリストや研究者、文化関係者が超党派で組織した「沖縄の文化と自然を守る十 人委員会」(豊平良顕座長)は、各自治体や各企業に、自然環境や文化財保護、乱開発の未然防止を求める異例 の『要望書』を発表した。そこには「巨大資本による土地の買いあさりと乱開発が行われ、復帰後の沖縄に猛進 撃している。放置すれば沖縄の壊滅が懸念される」と述べられている(『沖縄の「岐路」』110ページ)。

4.1975年5月15日
 「復帰三年を迎えて−集中的に噴出し続ける矛盾」と題した『タイムス』は、「この三年間で、期待感は全く 消えて、不安だけが増大し、怒りさえ覚える、きょうこのごろになっている」と言う。そして「経済振興の起爆 剤としての海洋博関連工事」によって「県土は荒廃し」、「破壊の起爆剤としての感じさえ与えている」と。さ らに「ポスト海洋博への、不安」が「現れてきている」として「本土資本の急激な進出、土地買いあさり、乱開 発、物価高」に「失業問題」を上げている。沖縄海洋博は1975年7月20日から1976年1月18日までの開催だから、 この時点ではまだ開幕さえしていないにもかかわらず、こうした事態が招来しているのである。海洋博は最悪の イベントだとの論調である。
 一方、「大衆運動」は、「本土への系列化を急いだ」結果、「革新のヒビ割れは否定しようもない」、「運動 の組織はタテ割りで変動に対応できず、共闘強化の方向を見失う。これが復帰三年後の沖縄の現実」だと述べる。
 そして、「安保、地位協定」の存在が「平和主義の憲法は背後に大きく後退し、違憲の疑いのあるものが前面 に出てきている」「その第一」だと主張している。「安保も復帰で適用された」として、「伊江村での米兵によ るそ撃事件」を例に上げている。「無抵抗の住民に、信号弾を発射することも米軍の『公務』ということになっ てしまう」と。「沖縄の将来は決して明るいものとしては映らない」と結論づける。このように、『タイムス』 の論調は年を経るほど絶望的な色彩を帯びて来ているのである。
 ここで取り上げられている「伊江村での米兵によるそ撃事件」とは、1974年7月10日、伊江村に住む20歳の青年 が米軍射爆演習場で草刈りをしていた際に、米兵2人の軍車両に追いかけられ、逃げる青年の背後、至近距離から 信号弾を発射して、全治3週間のけがを負わせた事件をいう。米軍の演習は午前7時から午後6時まで行われるが、 この日は午後5時半ごろ、訓練終了を知らせる旗が振られたため、父親とその友人の3人で演習場に入った。演習が ない時は住民の立ち入りが黙認されており、牛の飼料とするための草刈りなどが行われていた。米軍筋の情報とし て、容疑者はもう1人の米兵から「基地内に民間人が立ち入らないようにするため、あの少年を撃て。君が撃たな ければ僕が撃つ」と言われていきり立ち、腰に下げた信号灯爆弾用のヘルガンで青年を狙い撃ちにしたという。 米兵による発砲事件に抗議して15日、村民大会を開催。25日には県議会が「米兵による日本青年そ撃事件に関す る抗議決議」を全会一致で可決。決議文の中で「沖縄の諸悪の根源が米軍基地」と初めて断定した。米軍は日米 地位協定を盾に、公判までの日本側への身柄引き渡しを拒否した(『琉球新報』1974年7月11日付)事件をいう。  ところで、仲間たちから弱虫と蔑まれる米兵・ジョージが、自分は弱虫でないことを証明するために、薬莢拾 いの沖縄人のじいさんに狙いを定め、引き金を引くという作品『ジョージが射殺した猪』を描いた又吉栄喜は、 この事件をモチーフにしたことは容易に想像できよう。
 「平和で豊かな沖縄県?」と題した『新報』も同様に、「三年も経過した今日、この沖縄県民の期待がはずれ 続けているのは残念である」とし、「県民の期待が裏切られたなかでも最も切実なのは、物価高による生活不安 と基地問題がある」と述べている。「現在の暮らし向きに不満を表明している者が四四・五%に達して」おり、 「物価上昇率は全国平均を大きく上回った」という。「基地の問題も、…県民にとって我慢のできない限界にき ている。大規模な米軍基地は地域開発の大きな障害となっている」とし、「伊江島の米兵発砲事件」にも「政府 は、この裁判権さえ、みずから放棄してしまった」と言及している。そして、「沖縄基地の撤去、縮小を含めて、 日米安保条約の再検討を求めたい」と主張している。

5.1976年5月15日
 「復帰五年目を迎えて/克服されぬ矛盾と生活不安」と題した『タイムス』は、「完全失業者二万九千人、失 業率七%、求職倍率は空前の一〇・五倍−これが復帰五年目の沖縄の現実である」とする。「沖縄の現状は、… 米軍占領二十七年間のひずみであり、そこから噴出してくる矛盾であるが、それが復帰後四年、ますますひどく なっている」として、「広大な土地が軍用地として取りあげられた…その基地が、復帰後において、大量の失業 者放出の場に変容した…」とも。そして、「復帰後の三大事業、とくに海洋博はそれだけでも激変だった。その 振動はまだ続いている」と、海洋博後の振動を述べる。前年1975年に続いて、絶望感は深まっている。
 「復帰満四年迎えた沖縄」と題した『新報』も『タイムス』同様、海洋博に言及して、「最近の沖縄県の状況 は特に海洋博終了後、急激な不況のなかで、企業の倒産が相つぎ、全国平均の三倍にのぼる失業率、就職難とい う最悪の様相が続いている」と、海洋博がもたらした沖縄への悪影響を問題視している。
 そして、「土地所有権に関して」は、「五年の公用地暫定使用法を基地確保新法で再延長しようとする政府の 姿勢は、米軍施政下の軍事優先、民生あと回しと五十歩百歩である」として、政府の姿勢は米軍政下とさほど変 わらないと政府を糾弾している。
 写真家の石川真生は「海洋博は沖縄に豊かなものをもたらす行事ではなく、沖縄の豊かさを奪っていく催し」 だと書いている。1974年に4.0%だった完全失業率は、1975年に5.3%に跳ね上がり、海洋博後の1976年には戦後 最悪の6.3%にまでなった。海洋博を見込んで本土企業による土地の買い占めが起こったが、投機的なものであ り、日常の生産活動や雇用を生み出すものではなかった。大きな工事は本土のゼネコンが受注し、県内企業はそ の下請け、孫請けという構造は、沖縄の経済的自立を阻害する要因とも見られているが、その構造は海洋博に端 を発し、深く根を張っている(『沖縄の「岐路」』118〜9ページ)と分析している。

6.1977年5月15日
 施政権移管5年という一つの節目を迎えて、『タイムス』も『新報』も5年間の総括を掲載している。すなわち、 「復帰五年という時点/あらゆる疎外に直面して…」と題した『タイムス』は、「この五年間…、沖縄の主体性 は貫徹されず、資本と政治権力に振り回されてきた」とし、「中央主導の系列化を自らも促進し、復帰に結集さ れた諸力の拡散過程でもあった」と総括する。そして、ここでも海洋博をテーマに、「復帰後の資本の沖縄進出 は、実にすさまじいものがあった。それはまさに加速度的なスピードであった。その象徴的なものが海洋博であ った。…沖縄の自然・環境を急速に破壊したのは歴然たるものがあろう」という。
 「復帰五年の反省と決意」と題した、『新報』は5年を振り返り、「『平和な沖縄県』は実現したか。否であ る」、「『豊かな県民生活』はめどがついたか。否である」、「沖縄の現状は、ポスト海洋博の景気冷え込みに よる倒産、失業が深刻で、振興計画の目標達成は困難視されるに至っている」と総括する。
 米軍基地に関しては、「復帰後返還されたのは、わずか七%。しかも『沖縄の振興開発をすすめる見地から』 ではなく、米軍が不要となった個所のこま切れ返還である」、「政府は県民の立場からの『基地撤去の推進』や 『基地の整理縮小』どころか、公用地法の期限切れに伴う不法占拠を行ってまで基地の確保に努めている」とす る。

7.1978年5月15日
 「復帰満六年の状況/県民に今求められているのは何か」と題した『新報』は、「最近公表された五・一五 メモに」よると「在沖米軍基地は“本土並み”ではなく、特殊な状態を固定化したままであ」るとし、「あら ためて復帰とは何だったのかを問い直さなければいけない状況下にある」とする。両紙の「社説」で、1978年 に始めて「復帰とは何だったのか」との問いが発せられることとなった。そして、「政府に何より求めなけれ ばならないのは、基地の温存策をこの際きっぱりと捨てることである」と主張する。

8.1979年5月15日
 平良幸市知事の病気辞任にともなって、1978年12月、西銘順治が当選し保守県政が誕生した。これに関して 、「復帰八年目、揺れる沖縄」と題した『タイムス』は、「県内の政治潮流は、わずか七年間でずい分変わっ てきた。政党の本土系列化が進み、保守県政が誕生した」と書く。そして、「安保是認、演習肯定、自衛官募 集事務など、県政はいま、大きな歯車の音をきしませながら右へ旋回しつつある」と述べる。一方、「大衆運 動のあり方」は「最近、本土系列化とセクト主義が表面化して、あらゆる面で統一した行動がとりにくい状況 が出ている。…このまま分裂作用に終始するか、現在その曲がり角にさしかかっている」と危機感を表出させ ている。
 「新しいスタートの日に/祖国復帰八年目を迎えて」と題した『新報』は、「県民の生活は相変わらず厳し く、こんごの見通しも容易ではない」とし、「本土復帰が実現して七年、いま沖縄の現状は惨たんたるもので ある」と、『新報』もまた絶望的とも言える危機感を表している。
 軍事的には「沖縄の産業振興を阻害している最大のものの一つは、県内における強大な軍事基地の存在であ る」とし、「とくに最近、米軍と自衛隊による軍事演習が激化している」と述べる。そして、「県民がそれぞ れの立場で“自立への努力”を誓うべきである」と結論づける。

9.1980年5月15日
 「平和への道、なお遠し」と題した『タイムス』は、「米軍基地が今日でもなお全国五三%の比重を占め、 軍事演習の日常化と、安保体制、自衛隊増強の動きが活発になっている」と述べた上で、「戦争体験と永いあ いだの軍事支配から、県民が実感として得たのが『反戦平和』の思考である」とし、「基地の重圧は、いや応 なしに県民生活にのしかかっている」と言う。さらに、「現にある戦争への脅威と差別の網の目をしっかりと 見つめなおし、平和への道を正しく歩む」のだと決意し、「沖縄がたどった苦難の道に『本土の国民は本当の 意味の反戦平和の実践を学ぶべきだ』」とヤマトゥに問いかける。
 ここで、『タイムス』が述べている「全国五三%の比重」について、沖縄と本土(ヤマトゥ)の在日米軍基 地の変遷の経過を見ておこう。(面積:ヘクタール)

 

全国

沖縄

比率

本土(ヤマトゥ)

比率

1945年

148,200

18,200

12.3%

130,000

87,7%

1966年

59,900

29,900

49,9%

30,000

50,1%

1972年

47,430

35,300

58,7%

19.580

41,3%

2015年

30,623

22,623

73,9%

8,000

26,1%

 ここから明らかなように、1966年にほぼ1対1となり、その後沖縄への集中が著しい。面積比が0.6対99.4の ところに、基地面積比が1対1となれば、すでに異常な不平等が生じていることになる。
 「復帰満8年の軌跡」と題した『新報』は、同じく基地の問題に関して「復帰後は基地のコマ切れ返還はみ られたものの、基地機能そのものは強化こそされ、全く縮小されていない」とし、「安保に基づく米軍の演 習は激化の一途をたどっている。…本土並み返還は、復帰八年後の沖縄基地を見る限り虚構だった」と断言 する。

10.1981年5月15日
 「復帰十年に入る政治課題」と題した『タイムス』は、「私たちの日常生活が円の物価体系にとけ込み、 自由に使いこなすまでに二カ年はかかった」と述懐する。「もう一つ世替わりの不安と苦悩にさらされたの が、『ナナサンマル』とよばれる交通区分の変更だ」と。「そのほか、歴史的な試練として狂乱物価から深 刻な経済不況、倒産・失業など、目まぐるしい社会情勢の変転にほんろうされた」。「米軍基地への不安感 は六七%の高率に達している。激しさを加える軍事演習、基地強化と平和な民生安定とは両立し難いわけで、 そこから段階的縮小(四七%)即時撤去(三〇%)といった強硬姿勢が生まれている」と、施政権移管10年 目に入ろうとする時、沖縄はどれだけヤマトゥにほんろうされてきたかを語るのである。
 ここで言及している『ナナサンマル』とは、クルマの対面交通が右側通行から左側通行に、1978年7月30日 を期して変更されたことを言う。これは沖縄の歴史的、文化的独自性を否定し、日本「復帰」を民衆の生活 レベルにおいて徹底させようとする一大プロジェクトであった。この交通変更に対する総投資額は約400億円 になったが、建設業や自動車業界などに「730特需」があった以外、その大半は本土に逆流したと言われる。 ここでもまた「本土資本の急激な進出」(1975年の『タイムス』「社説」)に沖縄はさらされたわけである。

11.1982年5月15日
 この日、『タイムス』は1972年と1973年に続いて、「社説」としては珍しくリードを記した。「復帰十年 を迎えて/今なお続く基地の重圧」と題した『タイムス』は、リードで「きょう、私たちは復帰満十年を迎 えた。思えば、ドルから円へ、海洋博、ナナサンマル…と、世替わりという言葉を実感した激動の日々であ った。そして今なお、世替わりの余震はつづいている」と記した。決して満足のいく10年ではなかったのだ。
 「復帰の公約であった『核ぬき本土なみ』は、いまでも多くの県民の切実な願いであると思う」が、「沖 婦連の調査では、撤去や縮小をふくめて基地反対が八五・九%の高率…NHKの調査では、…自衛隊基地と県 民生活との関係では七一%が『役立っていない』と答えている」と言う。そして、「日米同盟の軍事面が沖 縄で強化されつつある。『核ぬき本土なみ』は反故同然とされ、基地の整理縮小は遅々として進展しない。 基地が県民生活を脅かす『反憲法的状況』は変わらない」とする。その上で「『復帰とは何であったか』と いう問いかけが行われ『復帰とその後の沖縄施策は、日米安保体制下の基地維持管理政策ではなかったのか』 という厳しい見方もされる」と述べる。
 「沖縄の状況を本土の人たちによく知ってもらいたいと願う」との希望を述べることは、ヤマトゥは“理 解していない、しようとしていない”との同意語である。1978年に「復帰とは何だったのか」との問いが初 めて『新報』に登場したが、この年、『タイムス』も「復帰とは何であったか」と問うている。
 その点、「復帰10年と県民世論―積極的意義生かした県づくりを―」と題した『新報』は冷静な論調に終 始している。すなわち、「われわれは選択の道を誤らなかった。…復帰しなかった場合の問題の大きさや永 続性、解決の困難性を考えると、施政権が返還されたことで少なくとも展望は開けたのである」と。さらに、 「性急な『本土並み』は避け、沖縄独自の自立経済を目指すことを二次振計に希望する人が、七六%を占め た」という。しかし、「そのような県づくりの阻害要因となっているのが基地である」とし、「基地の返還 促進派が復帰五年目の調査で五六%だったのが十年目では七八%に増えた」とも述べる。
 この年より『タイムス』『新報』ともに発行年表示を先に西暦とし、元号をかっこ()内に表示するよう になった。思えば27年間、米軍政は沖縄を日本から切り離すために西暦表示を強要したのであろう。それに 対し本土復帰運動の原動力は祖国=日本の元号使用を望んだのだと考えられ、この元号は天皇暦であるとの 認識がないか、あったとしても少なかったのではなかろうか。「日の丸」旗を掲げて本土復帰運動のデモ行 進をおこなったことに相通じる事象だといえよう。西暦表示は、天皇(制)によって沖縄戦に突入し、天皇 (制)によって沖縄が切り捨てられた歴史を認識することになったといえるのではないか。
 「社説」ではないが、「復帰10年特集」で『タイムス』は次のような主張を
掲載した。
 「お帰りなさい。沖縄のみなさん」
 とそういわれて十年たった。/
 憲法に守られた「日本国」に帰るということ。−/
 「平和」の文字がまぶしかった。戦争の放棄をうたった第九条は誇らしげだった。
 だが、十年を経て、基地は生き続け、自衛隊という新たな軍隊は常駐し政府による“土地強奪”は強行さ れた。沖縄経済の起爆剤といわれた海洋博は地価の高騰と倒産と失業者をうみ“自爆剤”と酷評された。/
 混乱と錯そうのなかで迎えた復帰十年。沖縄の苦悩は今なお続いている。
 以上のように述べている。
 

V 第T期の小括

 27年間に及ぶ米軍支配が終了し、沖縄の施政権が1972年5月15日午前零時を期して日本に移管された。 いわゆるアメリカ世から大和世への世替わりの大激動期への突入であり、それはとりもなおさず沖縄にと っての新たな苦難の始まりであった。
 この10年にわたる激動をどのように表現すれば足りるのだろうか?“「本土」(ヤマトゥ)に喘ぐ沖縄 民衆(ウチナーンチュ)”とでも呼べば事足りるのか。沖縄の苦悩は、米軍基地、海洋博による環境破壊 、物価高による生活不安、「ナナサンマル」による交通区分の変更という、その全生活領域を襲ったので ある。
 米軍基地は、沖縄県の開発に重大な支障を与えている(1972年『新報』)、基地が沖縄の開発の一大障 害である(1973年『新報』)からして、本土並み返還は、復帰八年後の沖縄基地を見る限り虚構だった( 1980年『新報』)、復帰とその後の沖縄施策は、日米安保体制下の基地維持管理政策(1982年『タイムス 』)であったとの認識に至るのは理の当然だ。それにもかかわらず政府の姿勢は、米軍施政下の軍事優先 、民生あと回しと五十歩百歩であ(1976年『新報』)り、復帰後返還されたのは、わずか七%で、米軍が 不要となった個所のこま切れ返還である(1977年『新報』)から、県議会も沖縄の諸悪の根源は米軍基地 である(1975年『タイムス』)と断定する。
 また、海洋博による環境破壊と「本土」資本の進出は凄まじいものだった。  利潤追求の資本によって、いま、沖縄は食い荒らされようとしている。土地不動産、観光資本によって 農地、臨海緑地、海岸線が買い占められ、山は削られ、ブルドーザーが緑をはぎとり、周辺緑地は赤土を かぶり、川や海に流されてサンゴ礁やプランクトンを死滅させる(1973年『タイムス』)と。海洋博を絶 対的なものとして位置づけ、猛烈過ぎるほどのスピードで、工事が進められている。環境の事前評価など というものは、ほとんどない。沖縄そのものが破壊され、沖縄喪失が憂慮される。これが沖縄が当面して いる重大な岐路(1974年『タイムス』)だ。いざ、海洋博が終了した後は、急激な不況のなかで、企業の 倒産が相つぎ、全国平均の三倍にのぼる失業率、就職難という最悪の様相が続いている(1976年『タイム ス』)というものだった。
 このような状況を、押しつけられた状況…(1973年『タイムス』)、集中的に噴出し続ける矛盾。不安 だけが増大し、怒りさえ覚える。将来は決して明るいものとしては映らない(1975年『タイムス』)、沖 縄県民の期待がはずれ続けている(1975年『新報』)、沖縄の主体性は貫徹されず、資本と政治権力に振 り回されてきた(1977年『タイムス』)、いま沖縄の現状は惨たんたるものである(1979年『タイムス』 )と表現している。かくなる激情の言葉をヤマトゥの「社説」で我々は見ることはないのではなかろうか 。
 一方、大衆運動も本土への系列化を急いだ結果、運動の組織はタテ割りで変動に対応できず、共闘強化 の方向を見失(1975年『タイムス』)い、本土系列化とセクト主義が表面化して、あらゆる面で統一した 行動がとりにく」(1979年『タイムス』)い状況になり、県内の政治潮流は、わずか七年間でずい分変わ り、保守県政が誕生した(1979年『タイムス』)のである。そして、安保是認、演習肯定、自衛官募集事 務など、県政はいま、大きな歯車の音をきしませながら右へ旋回しつつある(1979年『タイムス』)と。
 こうした時代認識から、『新報』は1978年に、『タイムス』は1982年に“復帰とは何だったのか”、“ 復帰とは何であったのか”と問いなおすこととなる。しかし、このような状況下にもかかわらず、異民族 支配の中で手さぐりで体得した平和、自治、福祉の尊さを、…国民世論および国の政治に反映させる(197 2年『新報』)」、沖縄がたどった苦難の道に「本土の国民は本当の意味の反戦平和の実践を学ぶべきだ」 とヤマトゥに問いかける(1980年『タイムス』)のだと、その矜持は失ってはいない。
 我々は、次代につながる展望を“自立への努力”を誓う(1979年『新報』)」に見い出すことができよ う。
 
 
 

71年目の6月23日「慰霊の日」、大阪駅前で、 元・米海兵隊員に殺害された女性を追悼するキャンドル行動をおこなう。

 大阪教区沖縄交流・連帯委員会も呼びかけ団体の一つである「Stop!辺野古新基地建設!大阪アクショ ン」は、6月23日にJR大阪駅前でキャンドル行動をおこないました。緊急の呼びかけにもかかわらず60名 を超す参加がありました。
   「信頼する社会に裏切られる沖縄」と題した、その日のチラシをぼくが書いたので、以下に掲載します。


チラシを配布する

 沖縄でまた、かけがえのない一人の女性の命が、元・米海兵隊員によって奪われました。4月28日に行 方不明となったうるま市在住の20歳の女性を遺体遺棄したとして、5月19日、沖縄県警はシンザト・ケネ ス・フランクリン容疑者(32)を逮捕、6月9日に殺人と強姦致死の両容疑で再逮捕しました。これは197 2年「復帰」後、最も凶悪な事件です。
   4月28日とは、1952年サンフランシスコ講和条約によって、日本(ヤマトゥ)が沖縄を切り捨て、米軍 政下に差し出した日です。これには1947年9月の「25年ないし50年、あるいはそれ以上、アメリカが沖縄 を軍事支配することを望む」との昭和天皇のメーセージが大きな引き金となっていることを忘れてはなり ません。こともあろうにこの日4月28日、容疑者はウォーキング中の彼女を襲ったのです。「暴行目的で 背後から近づき、殺意を持って棒で殴り、草むらに連れ込んだ上、首を絞めて刃物で刺す」(『沖縄タイ ムス』6月10日付)という行為は、まさしく海兵隊員が日々繰り返している訓練内容です。元海兵隊員の 容疑者は基地の内で受けていた訓練通りの行為を基地の外で実行したのです。
 いま、沖縄は深いかなしみと怒りの中にあります。「綱紀粛正と再発防止」を何回も何十回も何百回も 聞いてきたが、何らの効果もありません。それは6月5日、米海軍二等兵曹が飲酒運転で男女2人に重軽傷 を負わせ、逮捕されたことを見ても明らかです。事件・事故の防止にはもはや「米軍基地の撤去しかない 」との世論が今、沖縄中に湧き起こっています。一人ひとりの人間の安全を守れずして、何が安全保障な のでしょうか?

あなたに届いていますか、「第二の加害者は本土だ」との訴えが!


大阪アクションの横断幕

 6月19日、那覇市奥武山(おうのやま)公園で6万5千人が参加して「元海兵隊員による残虐な蛮行を 糾弾!被害者を追悼し海兵隊の撤退を求める県民大会」が開かれました。女性が殺害、遺体遺棄された ことに抗議するために持たれたものです。大会では「海兵隊は撤退を」「怒りは限界を超えた」とのボ ードが目立ちました。
 この大会で、翁長知事は「県民の先頭に立って、日米地位協定の抜本的な見直し、海兵隊の撤退・削 減を含む基地の整理・縮小、新辺野古基地建設阻止に取り組んでいく」と述べ、「グスーヨー、マケテ ーナイビランドー ワッターウチナーンチュヌ、クワッウマガ、マムティイチャビラ、チバラナヤーサ イ(みなさん、負けてはならない。私たちウチナーンチュは子や孫を守るため、がんばろう)」と決意 を表明しました。
 また、21歳の大学生は「同じ世代の女性の命が奪われる。もしかしたら、私だったかもしれない。私 の友人だったかもしれない。信頼している社会に裏切られる。何かわからないものが私をつぶそうとし ている感覚は、絶対に忘れません。日本本土にお住まいのみなさん。今回の事件の『第二の加害者』は 、あなたたちです。しっかり、沖縄に向き合っていただけませんか。いつまで私たち沖縄県民は、ばか にされるのでしょうか」と訴えました。

沖縄の悲しみを、痛みを、怒りを自覚し、辺野古新基地阻止の行動を


みんなで集合写真

 6月19日の県民大会を報じた6月20日付『沖縄タイムス』は、「哀悼のあとに/理不尽な現実変えよう 」と題した「社説」に「『これを最後に』との思いが強くにじみでた大会は、県民の心の奥底で大き な変化が起きていることを印象づけた。静かに、しかし確実に沖縄社会の内部で地殻変動が起きている 」と記しています。
 「本土」に住む日本人の私たち(ヤマトンチュ)は、沖縄の人びと(ウチナーンチュ)の“心の奥底 の大きな変化”を受けとめ、“沖縄社会の内部で地殻変動が起きている”ことを知る必要があります。 そうでなければ「本土」と沖縄の間に横たわる壁を壊すことはできません。ボードに「ヤマトンチュの 無関心に怒りは限界を超えた」と書かせる前に、変わらなければならないのは、ほかでもない「本土」 に住む私たち自身です。辺野古新基地撤回、海兵隊撤退の「本土」での世論を高めましょう。


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