☆西浜さんのプロフィール☆
1989年12月受洗。
2005年3月琉球大学大学院修士課程修了。
2009年3月大阪市立大学大学院博士課程単位取得退学。
現在、Stop!辺野古新基地建設!大阪アクション共同代表、日本平和学会、日本解放社会学会各会員。
日本キリスト教団大阪教区沖縄交流・連帯委員会委員長


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第128 号(2017年11月)

『幻の屋良「建議書」は、どこまで実現を見たか』(その1)は『沖縄通信』第125号(2017年7月号)に掲載し、 それからかなり時間が経過したので、今号では加筆、訂正した(その1)も併せて記しました。このシリーズは次 回で終了する予定です。

幻の屋良「建議書」は、どこまで実現を見たか(その2)


1. 『建議書』の提出?へ
 1971年11月17日、衆議院沖縄返還協定特別委員会は「返還協定」(「琉球諸島に関する日本国とアメリカ合衆国 との間の協定」)を強行採決した。この日、琉球政府・屋良朝苗行政主席は日本政府に提出する『復帰措置に関す る建議書』(以下、『建議書』と略す)を携えて上京したが、「羽田空港に降り立ったとき、自分が機中にいるあ いだに衆院の特別委員会で返還協定が強行採決されていたとの報道でむかえられた」(森宣雄『沖縄戦後民衆史』 179ページ)。このことを知った屋良は「失望と混乱の状態で私は逃げるようにホテルの部屋に閉じこもり、ひとり あきれ狂った(ママ)」(『同上』179〜80ページ)という。それ故、今日までこの『建議書』は<幻の『建議書』> とか、<沖縄の告発>あるいは<歴史の証言>(『沖縄大百科事典 下』379ページ)などと呼ばれてきた。 遡って、沖縄の施政権はこの年(1971年)にはまだ日本に移管されていない。にもかかわらず1970年5月7日に日本 の国会は「沖縄住民の国政参加特別措置法」を成立させ、これを受けて沖縄の立法院は同年7月17日、「特別措置法 」に基づく「国政参加選挙法案」を全会一致で可決した。
 沖縄の代表を日本の国会に出すことを認めよという「国政参加」要求は、1961年以来琉球立法院で毎年繰り返し全 会一致で決議され、沖縄住民にも支持されてきた。この沖縄の要求に対して日本政府は「憲法上疑義がある」と否 定的態度を取り続けてきた。ところが、72年沖縄「返還」合意にともない、沖縄の国政参加問題は日本政府の積極 的なイニシアチブによって推進されるところとなった。これは佐藤・ニクソン路線による「72年沖縄返還」のあり 方に対し沖縄現地で激しい反対があるが故に、返還協定の締結とその国会承認に沖縄の代表も参画している場で決 定したとの既成事実化を図ろうとする目論見からだった。
 こうして同年11月15日に戦後初の国会議員選挙が実施された。その結果、衆議院には瀬長亀次郎(人民党)がトッ プ当選し、全軍労委員長の上原康助(社会党)、安里積千代(社大党)、西銘順治(自民党)、建設業界の国場幸 昌(自民党)がつづいた。参議院には喜屋武真栄(革新統一)がトップ当選し、石油業界の稲嶺一郎(自民党)が つづいた。一方、日米両政府の返還合意は日米安保条約廃棄、米軍基地と核兵器の撤去を要求する沖縄住民の要求 を逆手に取ったものだとして、沖縄の自律的な選択の意志を明確に打ち出すために国政参加拒否闘争も起こった。
 施政権の移管前に日本政府が国会議員選挙を実施した意図は、沖縄の代表も参加した国会が承認したものだとのお 墨付きを得るためであり、「かれらは沖縄住民の同意をよそおう飾り物にすぎなかった」(森『前出』180ページ )。この強行採決は「沖縄選出の自民党議員にも秘密にして進められた『だまし打ち』」(『同上』179ページ)だ った。ウチナーンチュだという理由で、彼らは自らが所属する党からも排除されたのだ。他方、野党側の「瀬長亀 次郎や安里積千代らの総括質問がおこなわれるまえに委員会は強行採決した」(『同上』180ページ)。
 このように、当時も今も国会に占める沖縄の議席は常に絶対的少数(1970年当時、沖縄選挙区の衆議院議員5人は衆 院全議員491人のうち約1%にすぎない。沖縄の人口が日本全体の1%程度であることからすれば、この定数配分には 「正当性」があるといえるのだが)であり、多数決をもって是とする現在の議会制民主主義政治においては、沖縄の 主張は反映されることは常にないと理論的にはいえるのである。
 実は、沖縄国会と呼ばれたこの国会の開会冒頭、1971年10月19日、「沖縄返還協定批准阻止!72年返還粉砕!」と の檄文を携え、沖縄青年同盟行動隊の3名が衆議院本会議場で爆竹を鳴らすという国会史上、特異な「事件」が起こ っている。
 「全ての在日沖縄人は団結して決起せよ!」との見出しの檄文を衆議院本会議場でまいた沖青同行動隊3名の主張は 次のようなものだった。
 

 
 われらが沖縄は、今、大きな歴史の転換点にたたされている。/一昨年秋の日米共同声明を基調とした72年沖縄 返還=統合の過程は、帝国主義日米の帝国主義としての動向を規定し表現する政治過程である。就中沖縄における 日米共同声明路線の展開は、沖縄の日本への絶滅的同化を不可避的に伴う社会的全面再編として進行している。( 中略)/われわれは問いたい!議会制民主主義の名のもとに日本が沖縄の命運を決定することができるのかと。/ 沖縄の歴史は、つねにそうであったように薩摩の武力的併合以来、よそ者=侵略者達が刻みこんだ苛借ない搾取と 収奪の軌跡であった。三度にわたる『世替り』は、そのたびごとに沖縄を分離したり併合したりした。(中略)/ われわれは、はっきりと断言する。/日本が沖縄を裁くことはできないのだと。/72年沖縄の返還は(中略)沖縄 においては戦後期に固有に形成されてきた沖縄社会諸形態の帝国主義的解体と再編であり、また沖縄戦後史を体現 してきた復帰運動の主体と、その論理の歴史的破産をもたらした。(中略)/もはや、とうすいの時代は終った。 あれ程までに復帰運動の生成から発展の過程において熱狂の眼差でもって語られた『祖国日本』が、帝国主義然と したその真姿をあらわにするとき、復帰運動は自らを沖縄戦後史の墓標として発現しようとしている。(中略)/ コザの大衆の荒々しい蜂起、そして、それにつづく一連の沖縄現地での大衆的実力闘争の展開は、沖縄が、強いら れた『苦が世』の負の歴史から真なる解放を闘いとるための『終りなき闘い』の開始をつげるものである。(中略 )/沖縄返還協定批准を阻止せよ!/72年返還を粉砕せよ!日本−沖縄解放の歴史の分岐がここに問われている。
   

 とし、最後にふたたび「全ての沖縄人は団結して決起せよ!」と結んでいる。
 檄文は、議会制民主主義の名のもとに日本が沖縄の命運を決定することができるのかと問い、日本が沖縄を裁く ことはできないのだと主張している(注:沖縄青年同盟国会爆竹闘争については、筆者の未公刊論文『72年「併合 」前後における在日沖縄青年の「叛(はん)」と「恨(ハン)」』を参照のこと)。
 こうした経過をたどって「返還協定」が発効し、1972年5月15日に沖縄の本土(ヤマトゥ)「復帰」がなされたが 、幻の『建議書』と呼ばれてきた『復帰措置に関する建議書』はどこまで実現を見たのか?これを検証することが この論考の目的である。その分析を通して、日本(ヤマトゥ)政府の沖縄に対する施策を見ることが出来ると考え るからである。

2. 『建議書』の「一、はじめに」について
 さて、132ページの大分な『建議書』は、「一、はじめに 二、基本的要求 三、具体的要求」の三部構成から成 り立っている。
 「一、はじめに」で、「顧みますと沖縄はその長い歴史の上でさまざまの運命を辿ってきました。戦前の平和の島 沖縄は、その地理的へき地性とそれに加うるに沖縄に対する国民的な正しい理解の欠如等が重なり、終始政治的にも 経済的にも恵まれない不利不運な下での生活を余儀なくされてきました」と、沖縄の位置を自己規定する。そして、 「復帰という歴史の一大転換期にあたって、このような地位(「従来の沖縄は余にも国家権力や基地権力の犠牲とな り手段となって利用され過ぎ」たという地位)からも沖縄は脱却していかなければなりません。したがって…そのよ うな次元から沖縄問題をとらえて、返還協定や関連諸法案を慎重に検討していただくよう要請する」、「政府ならび に国会はこの沖縄県民の最終的な建議に謙虚に耳を傾けて…」とした上で、「県民が復帰を願った心情には、結局は 国の平和憲法の下で基本的人権の保障を願望していたからに外な」く、「従来通りの基地の島としてではなく、基地 のない平和の島としての復帰を強く望んでおります」との基本的な立場を明らかにする。
 具体的には次のように述べる。
 

 
 ☆返還協定について
 このたびの返還協定は基地を固定化するものであり、県民の意志が十分に取り入れられていないとして、大半の県 民は協定に不満を表明しております。基地反対の世論(は)…おそらく八〇%以上の高率となります。(『建議書』 4ページ)
 ☆自衛隊の沖縄配備について
 絶対多数が反対を表明しております。…去る大戦において悲惨な目にあった県民は、世界の絶対平和を希求し、戦 争につながる一切のものを否定しております。…しかるに、沖縄の復帰は基地の現状を堅持し、さらに、自衛隊の配 備が前提となっている…。これは県民意志と大きくくい違い、国益の名においてしわ寄せされる沖縄基地の実態であ ります。…沖縄基地の態様や自衛隊の配備については慎重再考の要があります。(『同上』4〜6ページ)
 ☆核抜き本土並み返還について
 未知の核兵器が現存するとすれば、…復帰時点までに撤去され得るでありましょうか。…実際撤去されるとして、 その事実はいかにして検証するか依然として不明のまま問題は残ります。… 基地の整理縮小かあるいはその今後の 態様の展望がはっきり示されない限りは本土並と言っても説得力をもち得るものではありません。(『同上』6〜7ペ ージ)
 ☆安保と沖縄基地について
 世論では安保が沖縄の安全にとって役立つと言うより、危険だとする評価が圧倒的に高い…。…安保は沖縄基地を 「要石」として必要とするということであります。反対している基地を必要とする安保には必然的に反対せざるを得 ない…。(『同上』7〜8ページ)
 ☆公用地の強制収用五ヶ年間の期間について
 県民の立場からは承服できるものではありません。沖縄だけに本土と異なる特別立法をして、県民の意志に反して 五ヶ年という長期にわたる土地の収用を強行する姿勢は、県民にとっては酷な措置であります。再考を促すものであ ります。(『同上』8ページ)
 ☆復帰後のくらしについて
 苦しくなるのではないかとの不安を訴えている者が世論では大半を占めております。…生活不安の解消のためには 基地経済から脱却し、…新生沖縄を築きあげていかねばなりません。(『同上』8〜9ページ)
 ☆新生沖縄の像を描く
 県民の福祉を最優先に考える基本原則に立って、(1)地方自治権の確立、(2)反戦平和の理念をつらぬく、(3) 基本的人権の確立、(4)県民本位の経済開発等を骨組とする新生沖縄の像を描いております。(『同上』9〜10ペー ジ)
 

 
 琉球政府が沖縄の人びと(ウチナーンチュ)の総意として日本(ヤマトゥ)政府に『建議書』という形で求めた要 望は、その後まったく実現を見ていないといえるのではなかろうか。
 次に、各項目にわたってその詳細を見ていく。

3. 『建議書』の「二、基本的要求」について
 「二、基本的要求」は、
(一)返還協定について
(二)沖縄基地と自衛隊配備問題について
(三)沖縄開発と開発三法案について
(四)裁判の効力について
(五)厚生、労働問題について
(六)教育・文化について
(七)税制、財政、金融について
 の7項目から成る。

@(一)返還協定について
 まず、「二、基本的要求」の「(一)返還協定について」から見ていこう。
 

 
   県民が最終的に到達した復帰のあり方は、平和憲法の下で日本国民としての諸権利を完全に回復することので きる「即時無条件かつ全面的返還」であります。(『同上』13ページ)
 
 

 と述べ、現在県民の間には次の諸点について強い疑惑、不安、不満が抱かれているとして5点を列挙する。
 

 
 その第一は、一九六九年十一月の日米共同声明と沖縄返還協定によって、日本が極東における米国側の戦略体制下 に組み入れられるのではないかという懸念…。(『同上』14ページ)
 第二の疑惑不安は、「核」の問題…
 核の撤去の時期及びその確認方法はまだ明示されておりません。さらに 重要なことは、核の有事持ち込みがあり 得るのではないか…。(『同上』16ページ)
 

 
 この疑惑不安は事実であることが明らかになった。佐藤栄作首相の密約を務めた若泉敬が1994年に発表した著書『 他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』で「佐藤・ニクソン会談後の共同声明の背後に、有事の場合は沖縄への核持ち込みを 日本が事実上認めるという秘密協定に署名した」と証言し、若泉の証言を裏付けるその合意議事録の現物が2009年12 月に佐藤邸で発見された(新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』67〜68ページ)。
 

 
 第三は、沖縄基地の態様について…>
 政府は将来、国際情勢の変化に応じて米軍基地の整理を要求する旨述べ ていますが、積極的に整理縮小しようと いう意欲やそのための具体的計画はまだ提示されておりません。(『建議書』17〜18ページ)
 第四は、資産買取りの問題…。
 その対象とされているものは、琉球電力公社、琉球水道公社、琉球開発金融公社…などかなり広範囲に及んでおり ます。…これらの資産は、日本政府がわざわざ米国政府から買取らなくても、本来沖縄県民に属するもの…であった …。(『同上』20〜21ページ)
 第五は、対米請求権処理の問題…。
 返還協定では、ごく一部を除き、この請求権は放棄され、県民がこうむった損害の賠償、犯された人権の回復には 考慮が払われておりません。…今回の国会においては、沖縄県民の請求権処理に関する特別立法を制定していただく よう要請する…。(『同上』21〜22ページ)
 

 
 この特別立法に関して、「三、具体的要求」の(一)「『沖縄の復帰に伴う沖縄県民の対米請求権処理の特別措置 等に関する法律』(仮称)」の制定要請」の項目で次のように述べている。
 

 
 本土政府は…いわゆる沖縄返還協定第四条第一項(注:「日本国は、この協定の効力発生の日前に琉球諸島及び大 東諸島におけるアメリカ合衆国の軍隊もしくは当局の存在、職務遂行もしくは行動またはこれらの諸島に影響を及ぼ したアメリカ合衆国の軍隊もしくは当局の存在、職務遂行もしくは行動から生じたアメリカ合衆国及びその国民並び にこれらの諸島の現地当局に対する日本国及びその国民すべての請求権を放棄する」)で請求権を放棄(した。しか し、)…救済措置について、今国会に提案された沖縄関係法律案の中には、法律的措置を講ずる規定はありません。 …(そこで、この法律)の制定を強く要請する…。(『同上』81〜82ページ)
 

 
とし、その目的を
 

 
 この法律は、対日平和条約の発効前及び同条約の発効後、施政権の返還までの間、アメリカ合衆国の施政権下にお いて、日本国民の蒙ったすべての損害について、国の責任において補償するための必要な特別措置を講ずること。( 『同上』83ページ)
 

 
 としている。
 しかし、日本政府はこうした沖縄の要求を受け入れることはなかった。土地被害について日本政府が採った解決策 は1981年6月、沖縄県に「社団法人・沖縄県対米請求権事業協会」を設立させ、協会の基本財産造成を目的として、総額12 0億円を交付し問題解決を図った。協会の目的は、日本政府からの特別支出金を基金として基地被害者への援助事業や 文化高揚及び地域振興を図るための事業を行い、もって県民福祉の向上に寄与することとなっている。その後、2017 年4月に「公益社団法人 沖縄県地域振興協会」に名称を変更した。
 また、漁業被害に関しては講和条約前と後を含め、649億2,572万円と水質汚濁による請求事案2億1,292万円の計651 億3,864万円だったが、個々の損害の実態が確認できないことを理由に却下し、特別支出金(見舞金)30億円で幕引き した。
 基金を拠出するのみで、政府として謝罪した上で責任を全うするということをしない、こうした手法は従軍慰安婦 問題においても見られたものである。
 対米請求権処理については、「沖縄の復帰に伴う防衛庁関係法律の適用の特別措置等に関する法律」に記述されてい る。これは「二、基本的要求」の「(二)沖縄基地と自衛隊配備問題について」の2.の項目で触れられているので、 そこへと論を進める。

A(二)沖縄基地と自衛隊配備問題について
 「(二)沖縄基地と自衛隊配備問題について」の「2.沖縄の復帰に伴う防衛庁関係法律の適用の特別措置に関する 法律」の項目において、問題点を4点にわたって述べている。
 

 
(1)現在の米軍基地維持と自衛隊の配備と自衛隊の配備を前提とする那覇防衛施設局の設置には…賛成するわけには いきません。(『同上』33ページ)
 

 
 こうした沖縄の意思は葬り去られ、1972年5月15日、施政権が日本に移管された当日、那覇防衛施設局が設置され、 同年10月に自衛隊の沖縄配備がおこなわれた。
 

 
(2)講和前損害の補償もれに対する見舞金の支給を定めた第三条(注: 「国は、沖縄において、昭和二十年八月十 六日から昭和二十七年四月二十八日までの間に、アメリカ合衆国の軍隊又はその要員の行為により人身に係る損害を受 けた沖縄の住民又はその遺族のうち、琉球人の講和前補償請求の支払について(千九百六十七年高等弁務官布令第六十 号)に基づく支払を受けなかつた者又はその遺族に対し、その支払を受けなかつた事情を調査のうえ、必要があると認 めるときは、同布令に基づいて行なわれた支払の例に準じ、見舞金を支給することができる。」)について…。 請求権問題は復帰に伴う沖縄側の最重要な要請の一つであり…多岐にわたる請求項目のなかから、その一部にすぎない 講和前の補償もれだけ、それも物的損害を除外して、人身損害だけについて規定することは到底容認でき  ない…。 これを「見舞金の交付」として規定していますが、琉球政府は、憲法上の国民の権利としての要請をしているので…、 到底是認できるものではありません。…もっとも重要な問題は、これが防衛庁関係法との関連で定められている点であ ります。…単独の特別立法によって措置すべきものだ…。(『同上』34〜35ページ)
 

 
 日本政府は、琉球政府の特別立法をとの要請を無視し、防衛庁関係法で処理し、対象としたのは人身被害だけであり 、物的損害は除外した。
 

 
(3)略
(4)憲法違反といわれる自衛隊法をはじめとする防衛庁関係法律が沖縄への適用に関するかぎり、国会審議にもかけら れることなく政令で定める…このような措置を容認することはできません。(『同上』37ページ)
 

 
 ここで、遡って、「二、基本的要求」の「(二)沖縄基地と自衛隊配備問題について」の「1.沖縄における公用地等 の暫定使用に関する法律(注:公用地法と呼ばれた)案の問題点」の項目を見る。
 

 
 この法案には、基地をなくするとか、あるいは縮小していくという方向 を…見い出すことができません。…軍事基 地の維持、強化を図ることを目的とするこの法案には基本的には反対せざるを得ません。
 この法案は、…新たに自衛隊の配備を予定し、これを可能ならしめようとすることが目的となっています。(『同上 』27〜28ページ)
 

 
 現行法体系との関係において、この法案は重大な問題を内包しているとして、次の3点を挙げている。
 

 
 この法案の本質的問題点は、米軍基地の存続と自衛隊の配備である…、
 第一点は、暫定使用という名のもとに五年もの長期にわたって、…土地等の強制使用を認めていること…。財産権の 保障を規定している憲法第二十九条に違反する…。
 講和発効の際の本土の米軍基地に関するこの暫定使用期間は六ヶ月であり、…沖縄の土地等については、五年の長期 にわたり、…一方的に強制使用することは、沖縄県民に対して差別を強いるものであり、法の下の平等を規定した憲法 第十四条に違反する…。
 強制的に自衛隊の配備のために土地等を使用しようとするのが、この法案の意図だ…。そして五年間の暫定使用を既 得権とし、これを足場にして、さらに長期間にわたる強制使用、収用等を意図しているのではないか…。
 第二点は、この法案は施行と同時に米軍や自衛隊等に使用権を生じしめ、所有者に対しては、単に遅滞なく使用する 土地の区域等の通知をしさえすればよいとしている手続き面の問題…。
 強制使用の対象物の特定も明確になされず、単に「土地の区域」という漠然とした事項の通知しか義務づけられてい ません。
 第三点は、使用者の原状回復義務に関する原状とは、いつの状態をさすのか不明確な点
 この法案の態度は、かっての米軍のやり方と何ら異なるところはないと いわれてもいたしかたないでありましょう。
 …琉球政府としては、この法案の制定に反対し、本土政府の再考を要請す る…。(『同上』28〜32ページ)
 

 
 以上のような琉球政府の要請を一顧だにせず、公用地法は1971年12月31日に成立し、1972年5月15日、施政権が日本 に移管された日から施行された。
 「五年間の暫定使用を既得権とし、これを足場にして、さらに長期間にわたる強制使用、収用等を意図しているので は」との琉球政府の危惧は、指摘の通り、その後の歴史が証明するところとなった。
 公用地法が切れる1977年5月、次に日本政府が用意したのは、地籍明確化法(沖縄県の区域内における位置境界不明 地域内の各筆に位置境界の明確化等に関する特別措置法)である。各筆の地籍が不明確では強制使用の法手続きもでき ないから、地籍明確化法は基地確保(新)法などとも呼ばれた。この法律の附則で、公用地法の期限をさらに5年延長 した。法成立が5月18日だったので、「4日間の空白」が発生した(注:公用地法による土地の継続使用は1977年5月14 日で期限が切れ、法が成立する5月18日までの4日間は不法占拠状態となった。そこで反戦地主は土地を取り戻すために 、基地のゲートまで行ったが入ることが出来なかった)。
 1982年5月14日に地籍明確化法の附則で延長された公用地法の期限が切れた。次に政府は、軍用地として使用する土 地の賃貸契約を拒否する土地所有者(いわゆる反戦地主)の土地を、1952年5月15日に制定された米軍用地特措法(「 日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国 軍隊の地位に関する協定の実施に伴う土地等の使用等に関する特別措置法」)によって強制使用することにした。21年 ぶりにこの法律を沖縄に適用することにより、更に1982年5月15日から1987年5月14日まで、5年間基地を使用し続けた。
 米軍用地特措法は、立川基地の拡張問題(砂川闘争)の頃には何度か発動されたが、60年代になると、米軍用地の強 制使用が必要なくなり、冬眠状態にあった。その米軍用地特措法が、82年、沖縄で再び目を覚ましたのである。(新崎 『前出』77ページ)
 米軍用地特措法では、土地収用法と同じ手続きで強制収用をおこなうことになっており、各県に設置された収用委員 会の公開審理を経て、土地収用(強制収用)が「公共の利益」に合致しているとの判断が必要である。この公開審理を 反戦地主、一坪反戦地主(注:反戦地主は、国からの種々のいやがらせ、重課税、減額処分、近親者への圧力などで精 神的にも経済的にもおいつめられ「復帰」当時の3,000名から1982年には140名に激減した。そこで、反戦地主の土地の 一部を細分化して一人1万円拠出して譲り受け、負担を分散しながら強制使用に対し裁判や公開審理でともに闘おうと一 坪反戦地主会が1982年12月に結成された。森『前出』219ページ)らは大衆的な傍聴闘争として取り組んだ。
 その後、日本政府は1987年、1992年と米軍用地特措法に基づく使用裁決により、その使用権原を取得してきた。
 1995年に大田昌秀知事が代理署名を拒否したことにより、1996年3月末に使用期限が切れて不法占拠となった楚辺通信 所の土地が現れた。地主の知花昌一らは即時返還を要求した。そこで、政府は引き続き使用を続けるために1997年、改正 案を提出した。この内容は、地主が契約期間満了後の更新を拒否した場合でも、収用委員会の審理中は補償をおこなうこ とで暫定使用を引き続き可能とするもので、さらに収用委員会が使用を却下しても防衛施設局長が審査請求をおこなう間 は引き続き使用を可能にした。しかも、附則で使用期限が切れた土地についても、さかのぼって改正案を適用し、土地の 明け渡しをせずに済むようにした。また、新たに土地を使用するための規定を設け、収用委員会が却下裁決を出した場合 、首相の権限で使用できるようにした(第二十四条)。この法案はほとんど実質審議のないまま衆参両院を通過した。衆 議院の9割、参議院の8割が賛成し、成立をみた。
 これでもまだ沖縄の闘いが不気味だったのだろうか、日本政府は1999年7月、米軍用地特措法を再改定し、市町村長、 知事に委任していた強制使用手続きの代理署名、公告縦覧手続きを総理大臣が処理する事務とした。こうして土地を永久 に借りておくことができるようにしたのである。つけ足せば2013年11月、最高裁は米軍用地特措法の改正は合憲との判決 を下した。
 ところで、筆者は嘉手納基地に土地を所有する一坪反戦地主である。琉球大学大学院で研究するため沖縄に在住してい た2005年4月27日、沖縄市民会館で開かれた収用委員会の公開審理に利害関係人として出席した。この時期は米軍用地特措 法が再改定され、収用委員会の公開審理も有名無実と化し、内実を伴うものとはなっていなかった。800人ほどを収容でき るホールに反戦地主等関係者60名くらいの出席で、会場は閑散としていた。沖縄防衛施設局側からは40名ほどが来ていた。
 この日、意見陳述に立ったのは新垣善春さん(1930〜2014)だった。県議や社民党沖縄県連委員長を歴任されてきた方 である。新垣さんは沖縄戦での体験、収容所での生活などを陳述し、途中から、「私は沖縄の文化を守るためにも、言葉 は文化と言われております。この文化を失わないためにも、うちなーぐちで意見を開陳申し上げて、収用委員会のみなさ んのご理解を得たいと思います」と前置きして話した。筆者はその10%も理解できなかったが、語られる単語、単語を繋 ぎ合わせて聞いていた。そして涙がこみあげてきたことは今でも記憶に新しい。
 語られたその一部を紹介しよう。
 

 
  日本の天皇制守いる為に、国土守いる為に、うちなーが犠牲になてぃいちゃびたん
⇒日本の天皇制を守るために、国土を守るために、沖縄が犠牲になってしまった。(中略)
 戦が負けてぃ、連合軍ぬんかい占領さってぃ、うぬ占領状態終わらす為なかい、日本ぬ独立と引き替えにうちなーぬ施 政権をアメリカんかい売り渡ちぃいちゃしが、日本政府やいびーたん
⇒戦争に負けて、連合軍に占領され、その占領状態を終わらせるために、日本の独立と引き替えに、沖縄の施政権をアメ リカに売り渡したのが、日本政府であった。(中略)
 うぬ、講和条約結だるばすに、まじゅん日米安保条約でぃし結どーるふーじやいびーしが、日米安保条約でぃしぇー、 うちなーぬ県民や、たーん関わてーうーいびらん。県民ぬんかい、一言ぬ相談ぬんねーびらんたん
⇒この講和条約を結んだ際には、一緒に日米安保条約というものを結んでい るようだが、沖縄県民は誰一人としてかか わってはいない。県民には一言の相談もなかった。(中略)
 県民の土地取り上ぎんでぃ言ちょーいびーしが、うぬ安保条約に関わてーうらん以上や、県民が納得ないるはじぇーあ いびらん
⇒県民の土地を取り上げると言っているが、この安保条約に関わっていない 以上、県民が納得するはずがない。(中略)  沖縄戦から、さらに講和から、あるいは日本復帰かいかきてぃ、次から次、うちなーびけーじんかい犠牲びけーじ押し ーちきてぃちゃしが、日本政府やいびーんさい
⇒沖縄戦からさらに講和へと、あるいは日本復帰にかけて、次から次へと 沖縄だけに犠牲を押し付けてきたのが日本政 府であった。(中略)
 うぬよーな状況ぬ中うとーうてぃ、くぬ、うちなーうとーてぃ県民の土地取り上ぎてぃ、戦道具持ち込でぃ、戦ぬ準備 すんたみぬ土地ぬ収用すんでぃしや、違ってうらんがやーんでぃち、かんし考えとーいびーん
⇒このような状況の中で、この沖縄において県民の土地を取り上げ、戦争の 武器を持ち込み、戦争の準備をするために 土地を収用していることは、これは間違っているんじゃないだろうかと、このように考えております。(後略)
 

 
 この意見陳述に対して、答弁に立つ沖縄防衛施設局は“米軍用地特措法”と略して言えば良いところを、その都度“日 本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊 の地位に関する協定の実施に伴う土地等の使用等に関する特別措置法”と発言する。筆者はこの対応に呆然とし、場所も わきまえずに大阪弁で「一回言うたら、何回も長たらしく言わんでも分かるワ。省略して言え!」と野次を発していた。
 

 
 以上見て来たように、『建議書』で警笛を発した琉球政府の危惧は、今日に至るも継続しているのである。
                    (続く)

 

 

 

 

 

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